逃避・・・・死、孤独

>愚 さん
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>>The path to heaven lies through heaven, and all the way to heaven is heaven.
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>>天国に至るプロセス自体が天国そのものだ、ということでしょうが・・・・
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>>手間もかかるし、骨も折れますが、どうもほかに道はないようです
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>はい。以前は他にも道はあるはずだ、と思っていましたが、愚さんの講義を拝聴していると他に道が無いことが分かってきました。
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>解決が原理的につかないならば、絶望して最終的に自殺してしまうかもしれませんが、解決がつくならば、死ぬ必要はない。これは救いです。
>歴史を通してこれまでたくさんの人が死んでしまったのではないかと考えるのですが、この一点が納得できれば、思いとどまることができます。(死んでしまった人は縁で死すべく死んでしまったのかもしれませんが、そうであったらなんとも酷いことだと思ってしまいます。私は運良く(縁良く?)生きています。)
>言葉は誤解されることも多いし、実際よく分かっていない人が変なことを言いますから、本当に分かっている人は賢明に口を閉ざしているかもしれませんが、たとえ誤解されようとも愚さんのように我々凡夫に訴えてくれることは有難いことです。
>傲慢な態度かもしれませんが、多くの宗教家の言説は説得力がありません。言葉は言葉としてありますが、言葉を支える実体験がないからでしょう。これでは、悩める者が宗教それ自体を軽蔑してしまいます。宗教家の多くは良い人なのでしょうが、それ以上でも以下でもないということがあり過ぎるのではないか、と以前から疑問です。悩みが分かってもらえないのです。
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>しかし、他人のことは一先ずどうでもよい、というのが救いを求める者の本来あるべき態度なのでしょう。多くの宗教家に対するこれまで自分がなしてきた批判も自己逃避であり、自己満足だったのだと反省しています。

こういうことでいいと思うのですが、ひとは、二重の逃避をします。

名誉、見栄、善良であるという自己イメージ、財産、プライド、ああだこうだを、自分の周りに作ります。そして、自分はそういう人間であると自己暗示をかけます。

それらは、あるがままの自己からの逃避です。あるがままの自己とは、敵対的で、自己中心的で、怒りっぽく、貪欲で、社会的には悪と思われているものです。

そして、このあるがままの自己の背後には、不安定があります。安定したいんです。孤独、死、未来の不定、という不安定から、安定を求めます。

この安定は絶対に得られません。人は遅かれ早かれ死ぬからです。孤独です。この欲求不満から、安定を求め、もがきます。エゴイズムです。自己中心性です。

死、孤独からの必死の逃避です。これが二つ目の逃避です。

死、孤独、これが本質です。これがわたしたちの正体です。自我の精髄です。

そこで、この死、孤独というものに入っていきます。入っていくといっても特別なことではありません。自分の孤独を、その感覚を、ひとりぼっちで、なにもかも頼りにならない・・・死の感覚を、味わっていくわけです。

これはやってみればわかりますが、最初はとまどうかもしれませんが、味わってみれば、それほど怖いものではありません。ある種の肉体的感覚があるだけです。その感覚になり切っていきます。

死を知ることはできませんが、死になることはできます。
死を知ることができないので、それを恐れ、逃避してきたわけです。この逃避を止めます。

すると、奇跡的な?逆転が起きます。安定があります。

なんてことはない、そもそもが安定していたんです。死や孤独は安定なんです。

死や孤独は、無前提に約束されているものですから、なにものもこの安定を壊せません。

このメカニズムの全体を、善悪を交えず、機械的に理解し、そのあるがまま、日常の自我のあるがままを見ていき、実感し、そして、超えていけばいいわけです。

これは、宗教的とか言うより、むしろ、科学的なものだと思います。必要なのは、あるべき自己になるというより、自己の現状を見て、理解していくことだと思います。

そのために、逃避を止めればいいんです。止めるために、坐禅とか利用すればいいと思います。

これがアプローチのひとつだと思います。

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