空っぽの精神

わたしたちの問題は、空っぽの精神が、楽ちんで、楽しくて、朗らかで、明晰だということに気が付かないということだろう。

だから、仏教だ、キリスト教だ、哲学だ、ああだこうだの理論や、だれそれがこういってる、ああいってる、ということで、頭をいっぱいにしてしまう。

これらが、無用とはいわないが、ほとんど、誤用してしまっている。これはわたし自身を振り返ってみれば、明らかなことだ。遠回りしてしまった・・・・・

だから、まず初めに、空っぽの精神、空っぽのこころが、重要であり、目標だということを理解するべきである。

あらゆる知識、くりかえすが、「あらゆる」知識は無用であるばかりか、ほとんどの場合、有害である。

知識を得て理解することに努力するのではなく、知識を捨てるために悪戦苦闘すべきだ。

あらゆる知識を捨てたところからスタートすればいいわけ。そうすれば、理屈なく、すべったころんだ、たまにいいこともある、日常があるだけになる。それを見ることから始めればいいわけ・・・・

例えば、ひとの言葉や態度に傷つけられ、ひとを傷つけ、おそらくはちっぽけな望みを持ち、ささいなことに腹を立てている日常・・・・ここがスタートラインとなる。

この日常が、精神を浄化してくれて、空っぽにしてくれる。いらだち、腹立ち、悲しみ、そういったものを利用して、精神を空っぽにしていけばいいわけ。

あらゆる腹立ち、いらだち、そういったものを、自分の責任として、受け入れていく。じっとその感情に耐え、その感情を味わう。まさに、そのことが、浄化することになる。こころの傷を思い出したら、同じように、その感覚を味わう。それだけのこと・・・・なんの難解さもない。

準備も知識もなにもいらない。

空っぽの世界には、広大なものがある。そこへの扉は、この日常生活にあります。

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