ライブふたつやります

みなさま

お世話になります。

ライブふたつやります・・・

よろしければ、ご参加ください

1)5月6日19時より・・・リクエスト、禅語等
https://youtu.be/kp0M-U33m24

2)5月7日19時より・・・TRUTH AND ACTUALITY(2)
https://youtu.be/wGt5-S891As

1)以下のご質問です。

①且緩々②関坐聴松風③時時勤払拭④脚下照顧
⑤明珠在掌⑥随所作主⑦立処皆真⑧也太奇⑨知足
⑩禅という言葉の意味


その他の日頃の疑問
⑪一人で坐禅している時、足が痛くなったら姿勢を崩していいのか
⑫雑念を払う方法
⑬足が痛くなって切れそうになって、足がダメになる恐怖が襲う時、どうすればいいのか
⑭どうやって座りの中心を立てられるのか
⑮坐禅党でつばを飲み込みたいが、そうすると聞こえてしまいそうだから、飲み込めない、つばで息が窒息しそうになったらどうすればいいのか


2)TRUTH AND ACTUALITY(2)真理と実際の事

二回目ですが、初めてでも大丈夫です。

こちらのPDFを印刷しておくと、便利ですchaptere1・・・・15ページまで(全部印刷すると大変なことになります)

https://www.holybooks.com/wp-content/uploads/Truth-and-Actuality-by-J-Krishanmurti.pdf


7ページから
K: We want to find out the distinction between truth and reality.
We said anything that thought thinks about, whether unreasonably
or reasonably, is a reality. It may be distorted or reasoned clearly, it
is still a reality. That reality, I say, has nothing to do with truth.
Dr B: Yes, but we have to say besides, that in some way reality
involves more than mere thought. There is also the question of
actuality. Is the thing actual? Is its existence an actual fact?
According to the dictionary, the fact means what is actually done,
what actually happens, what is actually perceived.
K: Yes, we must understand what we mean by the fact.
Dr B: The fact is the action that is actually taking place.
Suppose, for example, that you are walking on a dark road and that
you think you see something. It may be real, it may not be real.
One moment you feel that it's real and the next moment that it's not
real. But then you suddenly touch it and it resists your movement.
From this action it's immediately clear that there is a real thing
which you have contacted. But if there is no such contact you say
that it's not real, that it was perhaps an illusion, or at least
something mistakenly taken as real.
K: But, of course, that thing is still a reality that thought thinks
about. And reality has nothing to do with truth.
Dr B: But now, let us go further with the discussion of "the
thing". You see, the root of the English word "thing" is
fundamentally the same as the German "bedingen", to condition, to
Downloaded from https://www.holybooks.com
set the conditions or determine. And indeed we must agree that a
thing is necessarily conditioned.
K: It is conditioned. Let's accept that.
Dr B: This is a key point. Any form of reality is conditioned.
Thus, an illusion is still a form of reality which is conditioned. For
example, the man's blood may have a different constitution because
he's not in a balanced state. He is distorting, he may be too excited,
and that could be why he is caught in illusion. So every thing is
determined by conditions and it also conditions every other thing.
K: Yes, quite.
Dr B: All things are interrelated in the way of mutual
conditioning which we call influence. In physics that's very clear,
the planets all influence each other, the atoms influence each other,
and I wanted to suggest that maybe we could regard thought and
consciousness as part of this whole chain of influence.
K: Quite right.
Dr B: So that every thing can influence consciousness and it in
turn can work back and influence the shapes of things, as we make
objects. And you could then say that this is all reality, that thought
is therefore also real.
K: Thought is real.
Dr B: And there is one part of reality influencing another part of
reality.
K: Also, one part of illusion influences another part of illusion.
Dr B: Yes, but now we have to be careful because we can say
there is that reality which is not made by man, by mankind. But
that's still limited. The cosmos, for example, as seen by us is
influenced by our own experience and therefore limited.
Downloaded from https://www.holybooks.com
K: Quite.
Dr B: Any thing that we see, we see through our own
experience, our own background. So that reality cannot possibly be
totally independent of man.
K: No.
Dr B: It may be relatively independent. The tree is a reality that
is relatively independent but it's our consciousness that abstracts
the tree.
K: Are you saying that man's reality is the product of influence
and conditioning?
Dr B: Yes, mutual interaction and reaction.
K: And all his illusions are also his product.
Dr B: Yes, they are all mixed together.
K: And what is the relationship of a sane, rational, healthy,
whole man, to reality and to truth?
Dr B: Yes, we must consider that, but first may we look at this
question of truth. I think the derivation of words is often very
useful. The word "true" in Latin, which is "verus", means "that
which is". The same as the English "was" and "were", or German
"wahr". Now in English the root meaning of the word "true" is
honest and faithful; you see, we can often say that a line is true, or
a machine is true. There was a story I once read about a thread that
ran so true; it was using the image of a spinning-wheel with the
thread running straight

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この記事へのコメント

カムイ
2020年05月05日 20:59
愚さん
坐禅の事なんですが、わたしは坐ってしばらくすると、普段の眠る前の様な感覚を三昧と思ってました。
これって雑念眺めて追いかけて気持ちよくなってるだけですよね。

本当の坐禅とは意識をはっきりし続けてなければならない。
わたしは半眼ではなくほぼ全開に開けてます。それで勝手に半眼なる感じ。
あと、眠る前のような雑念を追っかける症状が出たならば、あえて身体を動かします。

愚さんはどんな感じで坐禅されてますか?
2020年05月05日 21:59


>カムイさん
>
>愚さん
>坐禅の事なんですが、わたしは坐ってしばらくすると、普段の眠る前の様な感覚を三昧と思ってました。
>これって雑念眺めて追いかけて気持ちよくなってるだけですよね。
>
>本当の坐禅とは意識をはっきりし続けてなければならない。
>わたしは半眼ではなくほぼ全開に開けてます。それで勝手に半眼なる感じ。
>あと、眠る前のような雑念を追っかける症状が出たならば、あえて身体を動かします。
>
>愚さんはどんな感じで坐禅されてますか?

わたしのスタイルはあまり参考にならないと思います。一般的にも推奨されないと思います。

わたしの場合は、とにかく無字が原型です。からだじゅうで、ムー!とやっていきます。思考が浮かべばムーです。

そうすると、身体の気の流れがとどこおっているところを感じたりします。そうすると、そこに意識を持っていき、ムーと、突破していきます。

そのうち意識が空っぽになったりするのを感じたりしますが、それを目的としてはいません。

目的では、ないのですが、とにかく、頭の中を空っぽにすることを志向します。

空っぽな精神は、あらゆるものを含みこみ、とても快適です。
カムイ
2020年05月05日 22:18
愚さん
ありがとうございました。
坐るにも、人それぞれ独自で工夫してるかもしれませんね。
カムイ
2020年05月05日 22:22
とにかく、わたしの座右の銘はガムシャラにしました。
カムイ
2020年05月05日 22:29
そう言えば、愚さんの坐禅中の身体のチェックは
最近流行りのマインドフルネスでは普通にモニタリングとして行われてますね。
2020年05月06日 05:08


>愚さん
>
>
>>カムイさん
>>
>>愚さん
>>坐禅の事なんですが、わたしは坐ってしばらくすると、普段の眠る前の様な感覚を三昧と思ってました。
>>これって雑念眺めて追いかけて気持ちよくなってるだけですよね。
>>
>>本当の坐禅とは意識をはっきりし続けてなければならない。
>>わたしは半眼ではなくほぼ全開に開けてます。それで勝手に半眼なる感じ。
>>あと、眠る前のような雑念を追っかける症状が出たならば、あえて身体を動かします。
>>
>>愚さんはどんな感じで坐禅されてますか?
>
>わたしのスタイルはあまり参考にならないと思います。一般的にも推奨されないと思います。
>
>わたしの場合は、とにかく無字が原型です。からだじゅうで、ムー!とやっていきます。思考が浮かべばムーです。
>
>そうすると、身体の気の流れがとどこおっているところを感じたりします。そうすると、そこに意識を持っていき、ムーと、突破していきます。
>
>そのうち意識が空っぽになったりするのを感じたりしますが、それを目的としてはいません。
>
>目的では、ないのですが、とにかく、頭の中を空っぽにすることを志向します。
>
>空っぽな精神は、あらゆるものを含みこみ、とても快適です。
>
付け加えといた方がいいですが・・・

その快適なところで、また、ムー!ってやっていきます。
ですから、なんてことはない、一番最初に無字の公案をやっているときと、同じなんです。
2020年05月06日 05:09


>カムイさん
>
>そう言えば、愚さんの坐禅中の身体のチェックは
>最近流行りのマインドフルネスでは普通にモニタリングとして行われてますね。
>
そうなんですか・・・わたしは自分のやってることは気功に近いんだろうとは感じてはいましたが・・・・
カムイ
2020年05月06日 07:21
愚さん
その快適なところで、また、ムー!ってやっていきます。
ですから、なんてことはない、一番最初に無字の公案をやっているときと、同じなんです。


なんか残ったらダメなんでしょうね。
マインドフルネスは色んな分野をかなり研究して取り入れていると感じます。
少し軽い感じなので、マインドフルネスから禅などに入る人も増えるかもしれません。

今日の坐禅会はそんなに暑くないのに、額に汗が出てきました。
いい感じに追い込めました。
宮啓
2020年05月06日 09:51
 『真理の種子』、楽しみにしています。

 よろしくお願いします。。
 
カムイ
2020年05月06日 13:11
愚さん
やっと愛がわかったよ。
自分の事なんてどうでもいい、相手の事だけになる。
それは相手の言いなりになるんでなく、時には戦わなくては行けない。
地球人
2020年05月06日 14:37
何故、坐禅をするのか? 悟りを求めるのか?

苦しいから・・・不快だから、

だが、この感覚は果たして恒久的に消滅するのだろうか?

痛覚と快感は五感に生じます。
生存してる限り滅することはない。

坐禅を何故、するのか? 快感だからですが、一度で済まないのは生きていれば五感が働き、痛覚と快感が生じるからです。

痛覚も快感も生じないは有りえない。










カムイ
2020年05月06日 17:36
愚さん
ちょっと個人的に相談したい事がありまして、直接メール送りました。
気がついたら見てください。
カムイ
2020年05月06日 21:00
本当、自分の事なんでどうでもいい。
相手が楽しそうだったらなんか自分も楽しくなる。
相手が悲しそうだったら自分も悲しくなる。
鈴木正路
2020年05月06日 21:42
以前発注したウエッブカメラとマイクが未着なので環境が整ったらウェッブ坐禅会参加させていただきます。

宜しく。

三拝
2020年05月06日 21:52


>鈴木正路さん
>
>以前発注したウエッブカメラとマイクが未着なので環境が整ったらウェッブ坐禅会参加させていただきます。
>
>宜しく。
>
>三拝

お会いできるのを楽しみにしてます
地球人
2020年05月06日 23:09
>本当、自分の事なんでどうでもいい。
相手が楽しそうだったらなんか自分も楽しくなる。
相手が悲しそうだったら自分も悲しくなる。

では、ジョークの一つでも言って、わたしを楽しませてください。



鈴木正路
2020年05月07日 01:26
座禅を強めようと考えてリます、機会が有りました蝋初の経験シェアして下さい。
カムイ
2020年05月07日 03:25
鈴木さん

坐禅の事なんですが、わたしは坐ってしばらくすると、普段の眠る前の様な感覚を三昧と思ってました。
これって雑念眺めて追いかけて気持ちよくなってるだけですよね。

本当の坐禅とは意識をはっきりし続けてなければならない。
わたしは半眼ではなくほぼ全開に開けてます。それで勝手に半眼なる感じ。
あと、眠る前のような雑念を追っかける症状が出たならば、あえて身体を動かします。

ちょっと前に愚さん宛にこれを書き込んだんですが、わたしはこんな感じです。


カムイ
2020年05月07日 04:37
鈴木さん

あと、道中の工夫ですが、坐禅してる時は頭空っぽの方向なのに、坐禅してない時は色即是空とはなんぞ?なんて考えてる自分がおかしい、普段も坐禅している時同様に頭空っぽにしなくては行けないと最近気づきました。
坐禅してない時のほうがはるかに長いんでここを工夫すると結構差が出ると思います。
カムイ
2020年05月07日 04:47
地球人さん

なんだかんだ言って自分が可愛いだろ。
あんたも修行者ならば、自分の事なんかどうでよよくなれ。
カムイ
2020年05月07日 11:21
坐禅を続けてたらいつか悟れるだろうではなく、今悟ると言う気持ちで坐禅すると追い込めますね。
地球人
2020年05月07日 12:33
カムイさん、

>なんだかんだ言って自分が可愛いだろ。
あんたも修行者ならば、自分の事なんかどうでよよくなれ。

自己愛は当然あります。
カムイさんは無いの?
自己の事がどうでもよくなる為に修行してるの?

自己に嘘を憑いてはいけない。 まじ、大丈夫?


地球人
2020年05月07日 13:03
続き・・・

300kmの距離をバイクで老僧のもとに駆けつける情熱が何ですか? 笑
地球人
2020年05月07日 13:21
<誤字訂正>

・・・・情熱は何ですか?
カムイ
2020年05月07日 14:46
Zoomって初めて知ったんですが、本来は別々の場所から会議やミーティングに使うのかな。
坐禅会なんでみんな喋らないし、しかも消音になるし、でもみんな真剣って言う。
なんか面白いですね。
地球人
2020年05月07日 15:17
〇仏陀の言葉より、※全部、仏陀の言葉かは定かではないが、その主旨の意味は言ったのだろう。

「心のなかでどの方向に探し求めてきても、自分よりさらに愛しいものをどこにも見いださなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それゆえに、自己を愛する人は、他人を害してはならない」と。

「愚かで智慧のない人は自己に対して仇敵のごとくふるまう。」

「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、自分ではない他人のために自分のつとめを捨て去ってはならぬ。」

「自己を護る人は他の自己をも護る。それゆえに自己を護れかし。しからば、かれは常に損ぜられることなく、賢者である。」





宮啓
2020年05月07日 21:12
 ライブ、ありがとうございました。

 ひとりで読むよりも、理解が深まり、ありがたく思っています。

 人は、様々な方面から条件付けられているようですが・・・。

 その合力は釣り合って、合力0ということかもしれませんね。

 宇宙の全エネルギー(全相互作用)の総計は、0ジュールかもしれませんね。宇宙が始まる前の質量0のときのように。。
地球人
2020年05月07日 21:58
ちょっと見ただけで、後で見ますが・・・愚さんは現実がリアルではないのですかね。魔境に踏み込んでしまったのか? 自己の実体を失うと精神衛生上、どうなんですかね。
カムイ
2020年05月07日 22:31
なんか、こういの読むとイラっとしてまた、しよーもない縁作ってしまうんだよね。
スルーしているみんなは本当偉い!
地球人
2020年05月07日 22:56
縁作ではなく、カムイさんの自己責任です。

カムイさんは悟れない。笑
カムイ
2020年05月07日 23:06
ゴウさんて方がおられまして、
悟りだ真理だとなんだかんだ言っても、最後は個人の人間性だ
みたいな事言われてたらしいです。
ゴウさんも人間関係に苦労してきたんだなと想像します。
カムイ
2020年05月08日 00:09
愚さん
風景を見ている自分の感覚を自覚しても、自覚してない時とまったく変わらなくなったんだけど、これはいい感じになってるんですか?
2020年05月08日 04:40


>カムイさん
>
>愚さん
>風景を見ている自分の感覚を自覚しても、自覚してない時とまったく変わらなくなったんだけど、これはいい感じになってるんですか?
>
それはそうだと思いますが、あまり、自分の状態をチェックしてもしょうがありません。つい、自分の状態がうまくいってるか、いってないか、知りたくなるんですが・・・それはわたしも同じですが・・・・これは意味がないんです。

自分の状態をチェックしたいと思うこと自体が、自分の不完全さを現わしているからです。つまり、比較検討しようとする自我の現れです。

ですから、すべきことは、チェックしてああだこうだ、一喜一憂することがあれば、自分は、まだまだだと気付いて、その状況を突破すべく、邁進していくことだと思います。

カムイ
2020年05月08日 05:29
愚さん
わかりました、とにかくどんな時でもなりふり構わずガムシャラに行きます。
2020年05月08日 08:05


>カムイさん
>
>https://www.facebook.com/groups/541763773205580/?ref=share
>
>FacebookでZOOM朝坐禅の参加者のコミュニティの場所を作成しました。

ありがとうございます

FBはしばらく使ってないので・・・先日、写真を張り替えましたが・・・
ちょっと勉強しますね・・・・

>良かったら使って下さい。
カムイ
2020年05月08日 08:19
わたしもFacebookはアプリ入れてた程度でなんもわかってませんが、グループは作りした。
愚さんがここに参加しないと、おそらく誰も参加しないのでよろしくお願いします。
Bananafish
2020年05月08日 08:32
カムイさん

すみません、私も似たようなグループを先ほど作ったばかりです。
ここでお知らせしてからにすれば良かった ...

こちらの方にはすでに何人かご参加いただいているので、
もしよろしければ下記のページで統一しませんか?

https://www.facebook.com/groups/592875101324086/
カムイ
2020年05月08日 08:37
わかりました。
ではそちらに参加させていただきます。
わたしの方は削除しておきますね。
カムイ
2020年05月08日 08:39
柳緑花紅ってのがFacebookの名前です。
よろしくお願いします。
swinganova
2020年05月08日 08:41
カムイさん

ありがとうございます。
よろしくお願いします!
2020年05月08日 10:15
承認お願いします。
swinganova
2020年05月08日 10:44
ohiraさん

承認しました!
たまこ
2020年05月08日 11:04
バーチャルリアリティ(仮想現実)で
人が感動した場合は、それはその人に
とってはリアルに影響を与える経験、
実在とも言えないこともないのでしょうか

地球人
2020年05月08日 11:43
動画、観ました。

言葉は条件付けです。
人間は条件付けの言葉で誕生しました。

キリスト教徒ではありませんが、聖書では「神は言であった。」「神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て。良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけれた。夕となり、また朝となった。 第一日である。」
2020年05月08日 11:47


>たまこさん
>
>バーチャルリアリティ(仮想現実)で
>人が感動した場合は、それはその人に
>とってはリアルに影響を与える経験、
>実在とも言えないこともないのでしょうか
>

TRUTH AND ACTUALITYの関連ですね・・・それは、かれらの定義によれば、実在アクチャリティでしょう。

早い話が、感覚や感情そういったものすべては、幻想も含めて、リアリティです。幻想は事実ファクトにはいれないようですが、実在アクチャリティにはいれていくようです。


>
2020年05月08日 11:49


>カムイさん
>
>愚さん
>わかりました、とにかくどんな時でもなりふり構わずガムシャラに行きます。

要するに、自分の様子をながめて、いいだとか、悪いだとかいうのは、分別だということで、自我の性質だということです。
地球人
2020年05月08日 12:00
分別の言葉がなくなると、野獣に戻るのでは? 笑
カムイ
2020年05月08日 12:22
愚さん

わたしが言いたかった事は、風景を見ている自分を自覚しても、自覚しない時と全く変わらないのはどうゆう事かって事です。

これなんぞ!をこのまま続けたらいいのか、もうこれで効果はないのかって所です。
地球人
2020年05月08日 12:54
風景を見ていました。
・・と、ガシャンと音がしました。

自動車と自転車が衝突したようです。

人が血を流していました。 母でした。

>わたしが言いたかった事は、風景を見ている自分を自覚しても、自覚しない時と全く変わらないのはどうゆう事かって事です。
カムイ
2020年05月08日 13:20
あのな、今の俺の風景はインスタントラーメンだ。
地球人
2020年05月08日 13:33
愚さんは答えないだろうから、代わりに応えてあげたのよ。笑
鈴木正路
2020年05月08日 17:26
カムイさん助言ありがとうm(_ _)m
鈴木正路
2020年05月08日 17:32
コピペです。

妄想する私は眠りとともに消滅し、起きると現れる有身見の私です。
有身見とは、身体と心を本来の自己と同一視した勘違いの私、自我の錯覚です。
主体の意識が認識の対象となることはあり得ません。
身体と心を本来の自己と同一視すると身体と心を持った独立した「個人の私」が存在するという勘違いが起こります。
名前を付けられて、身体と心を持った私と私以外の世界に分離していると誰でも自然に錯覚します。
無我とは身心は認識可能な対象なので、有身見の「私」は認識主体の本来の自己・意識ではない、「我では無い」ということです。
眠ると消滅してしまう私ではなく、何も認識のない熟睡中も存在して生きている「私・本来の自己」の正体、自己意識はどこから生じてくるのか、その源泉・故郷を知ることが必要なことです。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。」(道元禅師 正法眼蔵)
身心脱落・脱落身心、「自己=有身見の私」が消えて本来の自己が現われます。
熟睡中は沈黙・無心・サマディーの至福ですが、眠っていて自覚がないので、覚醒がおきません。
仏陀とは身体は寝ていても自覚のある眠っていない夢も見ない「目覚めた方」です。
私達は起きている時は意識が外に向かっていて、意識が意識の中に留まることがありません。
対象のない気づきも、存在の自覚もない、24時間寝ている有身見の私の夢です。

天上天下唯我独尊。覚者なら「私は誰よりも尊い」などとエゴ丸出しの宣言などできません。
独立した個は存在しない、自他の分離のない、自他の区別は思考が作った錯覚で、我のみという最初の覚りの獅子吼です。
存在の自覚、意識は誰も否定できません。存在するのに証拠はいりません。

科学の観察は分別知です。誰でも普通に毎日観察しています。
観察は、対象と主体の二元性が必要な有身見の分別知です。二元性は有身見「エゴ」の特徴です。
覚者の智慧は思考・概念のない沈黙・無心・サマディーの無分別智です。
対象の無常や変化を観察するのではなく、妄想、思考、想念が湧き起こってくる源、主体をつきとめることが必要です。
対象を観察分析しても、一般常識の理解を超えることはありません。
主体の「私・本来の自己」の正体を知ることは永久にできません。
脳科学、医学、心理学などは世間の常識ですが、私の身心を前提とした有身見そのものです。
森でサマディーを作る修行をする出家修行者にとって、有身見が修行の障害となるので、沙門果経等の経典で医術は邪な術として、修行者が離れるように注意しています。
道徳は「私の身心」の行為に関することなので、一般世間の常識、マナー、規律です。
仏陀の智慧ではありません。
世間の教えと出世間の覚者の真理の区別は、有身見の私を前提としているかどうかで区別します。

カースト差別制度・女性差別制度のあるスリランカ仏教(分別説部)シャム派はパーリ経典を絶対基準に有身見(差別する私、観察する私、分別判断する私、理解する私等)が善悪の分別判断をする分別知の教えです。
世間の一般常識と同じ分別知の教えなので、特に修行しなくても一般常識だけで誰でも本を読んだだけですぐに理解できます。
覚者の無分別智の真理を、分別知で理解することは不可能です。

ヴィパッサナーの「あるがままに見る」とは思考や概念の無い無心・沈黙・サマディーの無分別智の結果「あるがまま」です。
覚者の真理の見方、全体と調和した生き方であって、修行法ではありません。
パーリ経典にはヴィパッサナーという言葉はありません。
私達の「あるがまま」は、意図的な思考・想念で一杯の修行目標・目的で「あるがままにする」です。

現象・思考・妄想は因果法則に従って生じて滅するので、私が変えることはできません。
私が条件を勝手に変えられる選択が存在するなら、因果法則の適用から外れているもの、条件が存在することになります。
現象は「あるがまま」でしかなく、真理ですから人は人生経験から限界を知っていますが、有身見があるので認めることは痛みを伴うため非常に困難なことなので、つけこまれます。
現象は私には変えられないから、あるがまま、高次の力(神、仏陀、阿弥陀仏、妙法蓮華経等)に明け渡すよう多くの宗教が教えています。(バクティ・ヨーガ)
長い歴史の中で自分の思うように物事・現象を変えられると教えるまともな宗教などありません。
そんな美味しい話しが本当にあるなら、なぜ今まで人々に広まっていないのでしょうか。
心の底では変えられないと自身の人生経験から知っています。
変えられるなら、現象も思考も感情も好きなように変えれば良いので、何も問題ありません。
私が現象を変えられると思っている限り、変えたいという欲望・執着が無くなることはあり得ないので、ブッダの涅槃・解脱もあり得ません。
覚者は「執着しない」のではなくて、有身見の勘違いがないので執着する私の不在、「執着できない」ということです。
現象・思考・妄想を私が変えられると教えるなら、ブッダの解脱・涅槃の完全否定です。
原因も条件も無数に存在し、すべてが相互に関連しているので原因と条件を区別・分離することなどできません。
酸素や水や太陽等がないなら、妄想する人も存在すらできません。
原因と条件は分離できない「因果一如」、独立した個は存在しないが真理です。
「因果一如の門開け」白隠禅師坐禅和讃。
「どんな出来事も単独では起こっていない」「すべてが緊密に結びついています。」エックハルト・トール

「自由意思は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意思は存続するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意思を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意思や運命は誰にとって問題となるのか?それを見いだし、その中に留まりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。」(ラマナ・マハルシとの対話 第二巻)
 
タイ森林派の阿羅漢と言われたアーチャン・チャーは、「手放す生き方」の中で「千の質問も、たくさんの瞑想法の知識も、自分を決して真理へと導かないということを知るようになる。」「ダルマは限定的な世俗の科学による理解を超えた智慧です。」「表面的な経典の学習は重要ではありません。正しい智慧を授けてくれるものではないのです。」「自分自身の内面に向き合わないのなら、現実を知ることはありません。」と話しています。

タイ森林派の阿羅漢と言われたアーチャン・チャーが手放す生き方の中でブッダは二種類の修行「智慧を通じた解脱」と「サマタを通じた解脱」について説いたと話しています。
テーラワーダー仏教の戒律と修行方法は、サマタを通じてサマディーを作るためのものです。一般社会の中では、戒律も守れませんので強力な集中力が必要なサマディを作るのは難しいでしょう。
また、サマタの道ではクンダリニーが覚醒するので、クンダリニー症候群が生じることがあるので、適切な指導と注意が必要です。
物事をありのままにしておく「智慧を通じた道」では、戒律は落ち着くためのもので、修行の道の助けにはなりますが、戒律の意味と目的は違います。
サマディーを作るために厳格に戒律を守り、現象の絶対否定(無常・苦・無我)の「サマタの道」と、智慧の道である絶対肯定の「物事をありのままにしておくこと」は修行方法や戒律が相反するので、混ぜると混乱します。
正しい修行方法や戒律を巡って混乱していますが、戒律や修行法が相反する違いを理解していないことが一因です。

パーリ経典は「私はこのように聞きました」と書いてある名前の書いてない誰かの聞き書きで、元は口伝による言い伝えです。
パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語なのに、どうしてパーリ語がお釈迦様の話した言語だと断言できるのでしょうか?
スリランカ仏教(分別説部)のスマナサーラ氏はお釈迦様の教えを一字一句違わずに伝えていると断言していますが、2500年も前にお釈迦様が本当に一字一句そのように話したという証拠などありませんし、忘れるから覚えやすいように編さんされています。
本来語ることができない直接体験のみの「真理」をどうして、一字一句違わず伝えていると言えるのでしょうか?
仏陀が説いたと、私が聞いたと書いてあるだけで、後世に編さんや追加が何度もある訳ですから、修行者ならすべてを鵜呑みにするのは大変危険です。
追加変更がないなら、散逸しないなら、忘れないなら、そもそも編さんし直す必要などありません。
証拠もないのに、仏陀の誕生と成道と涅槃を同じ日にしてしまうようないい加減な人たちに、たとえ「真理そのもの」ではないブッダの言葉でも2500年前の言い伝えの口伝が元の教えを一字一句違わず伝えられると本当に思いますか。
スリランカ仏教(分別説部)シャム派のカースト差別制度や女性差別制度がお釈迦様の教えそのままですか。
カムイ
2020年05月08日 17:32
鈴木さん

わたしも色々模索しながらやってます。
大切な事はまずやってみる。
自分で確かめる。
あわなかったら取り入れない、いい感じでしたら採用とか。
2020年05月08日 17:58


>鈴木正路さん
>
>コピペです。
>
>妄想する私は眠りとともに消滅し、起きると現れる有身見の私です。
>有身見とは、身体と心を本来の自己と同一視した勘違いの私、自我の錯覚です。
>主体の意識が認識の対象となることはあり得ません。
>身体と心を本来の自己と同一視すると身体と心を持った独立した「個人の私」が存在するという勘違いが起こります。
>名前を付けられて、身体と心を持った私と私以外の世界に分離していると誰でも自然に錯覚します。
>無我とは身心は認識可能な対象なので、有身見の「私」は認識主体の本来の自己・意識ではない、「我では無い」ということです。
>眠ると消滅してしまう私ではなく、何も認識のない熟睡中も存在して生きている「私・本来の自己」の正体、自己意識はどこから生じてくるのか、その源泉・故郷を知ることが必要なことです。
>「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。」(道元禅師 正法眼蔵)
>身心脱落・脱落身心、「自己=有身見の私」が消えて本来の自己が現われます。
>熟睡中は沈黙・無心・サマディーの至福ですが、眠っていて自覚がないので、覚醒がおきません。
>仏陀とは身体は寝ていても自覚のある眠っていない夢も見ない「目覚めた方」です。
>私達は起きている時は意識が外に向かっていて、意識が意識の中に留まることがありません。
>対象のない気づきも、存在の自覚もない、24時間寝ている有身見の私の夢です。
>
>天上天下唯我独尊。覚者なら「私は誰よりも尊い」などとエゴ丸出しの宣言などできません。
>独立した個は存在しない、自他の分離のない、自他の区別は思考が作った錯覚で、我のみという最初の覚りの獅子吼です。
>存在の自覚、意識は誰も否定できません。存在するのに証拠はいりません。
>
>科学の観察は分別知です。誰でも普通に毎日観察しています。
>観察は、対象と主体の二元性が必要な有身見の分別知です。二元性は有身見「エゴ」の特徴です。
>覚者の智慧は思考・概念のない沈黙・無心・サマディーの無分別智です。
>対象の無常や変化を観察するのではなく、妄想、思考、想念が湧き起こってくる源、主体をつきとめることが必要です。
>対象を観察分析しても、一般常識の理解を超えることはありません。
>主体の「私・本来の自己」の正体を知ることは永久にできません。
>脳科学、医学、心理学などは世間の常識ですが、私の身心を前提とした有身見そのものです。
>森でサマディーを作る修行をする出家修行者にとって、有身見が修行の障害となるので、沙門果経等の経典で医術は邪な術として、修行者が離れるように注意しています。
>道徳は「私の身心」の行為に関することなので、一般世間の常識、マナー、規律です。
>仏陀の智慧ではありません。
>世間の教えと出世間の覚者の真理の区別は、有身見の私を前提としているかどうかで区別します。
>
>カースト差別制度・女性差別制度のあるスリランカ仏教(分別説部)シャム派はパーリ経典を絶対基準に有身見(差別する私、観察する私、分別判断する私、理解する私等)が善悪の分別判断をする分別知の教えです。
>世間の一般常識と同じ分別知の教えなので、特に修行しなくても一般常識だけで誰でも本を読んだだけですぐに理解できます。
>覚者の無分別智の真理を、分別知で理解することは不可能です。
>
>ヴィパッサナーの「あるがままに見る」とは思考や概念の無い無心・沈黙・サマディーの無分別智の結果「あるがまま」です。
>覚者の真理の見方、全体と調和した生き方であって、修行法ではありません。
>パーリ経典にはヴィパッサナーという言葉はありません。
>私達の「あるがまま」は、意図的な思考・想念で一杯の修行目標・目的で「あるがままにする」です。
>
>現象・思考・妄想は因果法則に従って生じて滅するので、私が変えることはできません。
>私が条件を勝手に変えられる選択が存在するなら、因果法則の適用から外れているもの、条件が存在することになります。
>現象は「あるがまま」でしかなく、真理ですから人は人生経験から限界を知っていますが、有身見があるので認めることは痛みを伴うため非常に困難なことなので、つけこまれます。
>現象は私には変えられないから、あるがまま、高次の力(神、仏陀、阿弥陀仏、妙法蓮華経等)に明け渡すよう多くの宗教が教えています。(バクティ・ヨーガ)
>長い歴史の中で自分の思うように物事・現象を変えられると教えるまともな宗教などありません。
>そんな美味しい話しが本当にあるなら、なぜ今まで人々に広まっていないのでしょうか。
>心の底では変えられないと自身の人生経験から知っています。
>変えられるなら、現象も思考も感情も好きなように変えれば良いので、何も問題ありません。
>私が現象を変えられると思っている限り、変えたいという欲望・執着が無くなることはあり得ないので、ブッダの涅槃・解脱もあり得ません。
>覚者は「執着しない」のではなくて、有身見の勘違いがないので執着する私の不在、「執着できない」ということです。
>現象・思考・妄想を私が変えられると教えるなら、ブッダの解脱・涅槃の完全否定です。
>原因も条件も無数に存在し、すべてが相互に関連しているので原因と条件を区別・分離することなどできません。
>酸素や水や太陽等がないなら、妄想する人も存在すらできません。
>原因と条件は分離できない「因果一如」、独立した個は存在しないが真理です。
>「因果一如の門開け」白隠禅師坐禅和讃。
>「どんな出来事も単独では起こっていない」「すべてが緊密に結びついています。」エックハルト・トール
>
>「自由意思は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意思は存続するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意思を正しい道に導くように助言しているのです。
>自由意思や運命は誰にとって問題となるのか?それを見いだし、その中に留まりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。」(ラマナ・マハルシとの対話 第二巻)
> 
>タイ森林派の阿羅漢と言われたアーチャン・チャーは、「手放す生き方」の中で「千の質問も、たくさんの瞑想法の知識も、自分を決して真理へと導かないということを知るようになる。」「ダルマは限定的な世俗の科学による理解を超えた智慧です。」「表面的な経典の学習は重要ではありません。正しい智慧を授けてくれるものではないのです。」「自分自身の内面に向き合わないのなら、現実を知ることはありません。」と話しています。
>
>タイ森林派の阿羅漢と言われたアーチャン・チャーが手放す生き方の中でブッダは二種類の修行「智慧を通じた解脱」と「サマタを通じた解脱」について説いたと話しています。
>テーラワーダー仏教の戒律と修行方法は、サマタを通じてサマディーを作るためのものです。一般社会の中では、戒律も守れませんので強力な集中力が必要なサマディを作るのは難しいでしょう。
>また、サマタの道ではクンダリニーが覚醒するので、クンダリニー症候群が生じることがあるので、適切な指導と注意が必要です。
>物事をありのままにしておく「智慧を通じた道」では、戒律は落ち着くためのもので、修行の道の助けにはなりますが、戒律の意味と目的は違います。
>サマディーを作るために厳格に戒律を守り、現象の絶対否定(無常・苦・無我)の「サマタの道」と、智慧の道である絶対肯定の「物事をありのままにしておくこと」は修行方法や戒律が相反するので、混ぜると混乱します。
>正しい修行方法や戒律を巡って混乱していますが、戒律や修行法が相反する違いを理解していないことが一因です。
>
>パーリ経典は「私はこのように聞きました」と書いてある名前の書いてない誰かの聞き書きで、元は口伝による言い伝えです。
>パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語なのに、どうしてパーリ語がお釈迦様の話した言語だと断言できるのでしょうか?
>スリランカ仏教(分別説部)のスマナサーラ氏はお釈迦様の教えを一字一句違わずに伝えていると断言していますが、2500年も前にお釈迦様が本当に一字一句そのように話したという証拠などありませんし、忘れるから覚えやすいように編さんされています。
>本来語ることができない直接体験のみの「真理」をどうして、一字一句違わず伝えていると言えるのでしょうか?
>仏陀が説いたと、私が聞いたと書いてあるだけで、後世に編さんや追加が何度もある訳ですから、修行者ならすべてを鵜呑みにするのは大変危険です。
>追加変更がないなら、散逸しないなら、忘れないなら、そもそも編さんし直す必要などありません。
>証拠もないのに、仏陀の誕生と成道と涅槃を同じ日にしてしまうようないい加減な人たちに、たとえ「真理そのもの」ではないブッダの言葉でも2500年前の言い伝えの口伝が元の教えを一字一句違わず伝えられると本当に思いますか。
>スリランカ仏教(分別説部)シャム派のカースト差別制度や女性差別制度がお釈迦様の教えそのままですか。
>

長い文章ですが、要点は、
「主体の意識が認識の対象となることはあり得ません。」
ですね。
地球人
2020年05月08日 18:59
仏陀の悟りである四諦八正道は倫理、道徳であって条件付けの分別智です。

五感に依る人間の認識は条件付けの経験値であるから自由意志はない。
地球人
2020年05月08日 19:14
自我とは住所、氏名、生年月日の条件付けです。
地球人
2020年05月08日 20:16
自我は憲法によって基本的人権の条件付けです。
2020年05月10日 17:55
今日も、親が施設にぶち込む相談してた。背筋が凍った。
地球人
2020年05月10日 21:02
因果を絶つことができるのが坐禅です。