死の恐怖

以下、ご質問を受けましたので、YOUTUBEのコメントに書いたものです。


何回も聴いていますが、聞く度に新しい気付きがあります。ところでブログにコメントできるか懲りずにテストみましたが、やはり海外IPからはエラーがでました。
なので、私からの質問とかは面倒くなりますが、このYouTubeだけです。


今、アメリカは遅れてコロナウィルス騒ぎになりました。
そこで、『恐怖の構造』について知りたくなりました。


コロナウィルスの背景には死の恐怖があり、
恐怖の構造が分かれば、それに気負けできずに真正面に向かえるかなと思えてきました。


トイレットペーパー無しで生きなければならない可能性が上がったのも怖くなりましたし、食料品も買えなくなるかもしれないと思うと、超然していられないと思います。
仕事もできなく、学校にもいけなくなっているのに、
禅で心を落ち着かせと言ったら石投げられるそうですし。


『不安の構造』これも知っておく必要があるかなと思ってますので、
どうぞご指導お願いします。




Krishnamurti Bohm
Krishnamurti Bohm
1 秒前
死の恐怖

死の恐怖、というのは、この前YOUTUBEにアップしたばかりですが、別の観点から見てみたいと思います。これを理解すれば、不安とか他の問題へのアプローチもわかると思います。

禅のスタイルだと、死の恐怖は、まず、死ぬものを探せ、そうすれば、見つからないだろう、だから、死ぬ自分はいない、死の恐怖はないんだ、という感じになるわけです。それはその通りなんですが、仮に、浅い悟り、見性をしたところで、そうはうまく行きません。
坐禅して、そんなことやってるうちに死んでしまいます。

問題は火急です。いま、死の問題に対処しなければなりません。
まず、わたしたちは、死の恐怖という問題に対して、否定的にアプローチします。つまり、初めに、死の恐怖があり、それから逃れようとします。そして、逃れる手段を探すわけです。

つまり、死の恐怖のある状態が今です。そして、死の恐怖のない未来の状態を想像して、そこへ向かおうとします。そして、そこへ向かっている間、恐怖はあります。未来はいつまでも来ません。恐怖は終わることがありません。

そこで、この取り組みを一時取りやめて、死の恐怖を調べます。恐怖は対象を持ちます。つまり、知っているものしか恐れられません。知らないものを恐れることはできません。死は経験したことのないものです。ですから、死を恐れることはできないのです。これは要点です。

わたしたちは、死そのものではなく、死という言葉によって引き起こされるイメージを恐れているわけです。自分が社会からいなくなること、身体が冷たくなること、ひとりぼっちになること、そういったイメージを恐れているわけです。

わたしは、このイメージを作り、そして、わたしは、そのイメージを恐れ、わたしは、その恐れから逃れようとしています。これが構造です。

どうぞ、わたしのストーリーを受け入れることなく、ご自分で検証してみてください。

つまり、全体は、「わたし」の一人芝居なんです。

じゃあ、一人芝居を止めればいいんだ、一人芝居をやめようとします。このように結論を急いではいけません。ここで、少し時間を置きます。構造を、かみしめるように、ゆっくりと理解します。この構造を理解すれば、構造自体が壊れます。努力がいりません。要するに、なにもしないんです。

もし、それほどうまく行かないなら、死の恐怖とそこから逃れることは、右手が左手を引っ張っているようなものだと理解すればいいです。

このとき、恐怖があろうがなかろうが、そこから逃れようとしようがしまいが、どうでもいいことだとわかります。別のいいかたをすれば、死の恐怖があってもかまわないんです。

これを実践的にしたのが、先日のYOUTUBEの内容です。恐怖そのものになっていけ、ということです・・・・・・そうだ、この構造もあらためて、YOUTUBEにアップしますか・・・

くれぐれもお願いするのは、静かに、ゆっくりと、この恐怖の構造を、ご自分でひとつひとつ確かめてください。その理解が恐怖から解放してくれます。

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この記事へのコメント

勘太郎
2020年03月17日 19:41
理解が恐怖から解放してくれるとは、
思考そのものが無くなるのとは違うのですか?
死ぬ夢を見て、脂汗を流しなら、孤独感・恐怖で飛び起きた経験があります。
「何が怖いの?」と自分に尋ねると、何が怖い?の質問から、無思考状態にワープしてしまう。
ワープの後の私は灯りの下でキーボードを打っています。
そんな感じがします。
2020年03月17日 20:00


>勘太郎さん
>
>理解が恐怖から解放してくれるとは、
>思考そのものが無くなるのとは違うのですか?
>死ぬ夢を見て、脂汗を流しなら、孤独感・恐怖で飛び起きた経験があります。
>「何が怖いの?」と自分に尋ねると、何が怖い?の質問から、無思考状態にワープしてしまう。
>ワープの後の私は灯りの下でキーボードを打っています。
>そんな感じがします。

それでうまくいっているなら、それでいいんじゃないですかね・・・・
地球人
2020年03月17日 20:08
死の恐怖とは自己が無になる恐怖でしょう。

若い頃、死を想像して有りました。




地球人
2020年03月18日 00:14
脳死、心肺停止すれば、死の恐怖も消えます。
地球人
2020年03月18日 00:26
他我の死を体験することはできるが自我の死は体験できない。

当然だけれども。
通行人
2020年03月18日 00:33
死とは永遠に気を失う。^^;
通行人
2020年03月18日 18:16
前世の記憶を持つ子供の動画はすごいね。^^;



地球人
2020年03月18日 23:42
死後の世界については、私の叔父さんが子供頃の逸話があって、病気で生死を彷徨ってる時に幻覚?見て・・・川岸の淵に立っていると、対岸で故人の祖母が「此方に来るな」と止める手を振ってる仕草をしていたので留まったら、意識が戻った。 所謂、生死の境の三途の川の出来事です。

死後の世界の動画の話と符号するので吃驚した。
Village beside a mountain stream
2020年03月19日 01:46
考えてみれば、睡眠は非常に不思議な現象ですね。起きた後に、こんなに時間が経っていたのかと驚きます。起きてからの過去の振り返りになりますが、睡眠中、特に夢を見ない深い眠りの時は、何も無いともいうこともできないほど何も無かったように考えられます。振り返れば、〈私〉(即ち自我)も無かったし、時間もなかったし、世界もなかった。暗闇でもなく、真っ白でもなく、無でもなく、ただ無かったとしか言いようがありません。しかし、何も無かったとは。深い眠りの最中もこの身体は活動していたはずなのに。深い睡眠中は意識が休眠しており、世界が在るのが気づかなかっただけだ、という解釈が一般的なのでしょうが…。この身体が完全に活動を停止し、死体となったとき、そのなにも無いとも言えない、無とも言えないその状態(?)になる(?)というイメージがあります。

以下、私Villageの死に対する独白です。
ある人が生きている時、その人は死んでいない。ある人が死んでいる時、その人は生きていない。死は経験できない。何故なら、人は生きている時しか経験をしないから。死は生きていないという状態であり、それ故、人は死を経験し得ない。経験し得る死は死ではない。人が経験しうるのは死の恐怖である。恐怖は生きている時の経験である。我々が知り得るのは死ではなく、死の恐怖である。我々が死んでしまったときは、恐怖すらないのである。というのも、恐怖するためにはその人は生きていなければならないが、その人は死んでいるので恐怖することができないから。それ故、我々がなすべきは死を味わい尽くして死の恐怖と向き合うことである。味わい尽くしたくない者はそうしなくともよい。併し、味わい尽くした方がどちらかと言えばよい。というのも、結局最終的に味わうことになるからだ。その時のための練習だと思えばよい。死を恐れようが恐れまいが結局、人は死ぬ。死の恐怖は紛らわせることができるかもしれないが、死は紛らわせない。紛らわすもなにもこちらではどうしようもない。ただ、はっきりしているのはこの身体は必ず滅びるということである。この身体が活動をやめてしまったら、どうなるか。知りようがない。何故ならその時、知る者がいないのだから。結論を言えば、死はどうすることもできない。死なない人間とは生まれてもない人間である。併し、生まれてもない人間とはこの世に存在する人間ではなく概念として考えられる人間である。もし、あなたが生まれたのであれば、死なねばならない。なぜなら、生まれたのだから。死ぬとはどいうことか。分からない。生まれるとはどういうことか。分からない。何が生まれて何が死ぬのか。この身体が。たしかにそうだ。この身体が死んだとき、すなわち死体になったとき、何が無くなるのか。なにも無くならない。死体がある。横たわっている。〈私〉は無くなったのか。無くなると一般には考えられている。しかし、そもそも生きている時〈私〉は在ったのだろうか。ここが、問題だ。〈私〉はVillageであるが、〈私〉はこの身体だろうか。この身体なしにはVillageは無かったが……。ここが突破できない。理屈では超えられそうにない…。皆さんが仰るように、禅定の実践あるのみか。それが正しいように思われる。