ライブやります・・・・・題名決めてません。

28日13時よりライブやります。

題目を決めないで、みなでコミュニケーションしたいと思います。

題目は決めまてませんが、とっかかりとして、なにかリクエストがあれば、教えてください。

https://youtu.be/23GEtTzLNRU

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この記事へのコメント

宮啓
2020年03月27日 20:59
 楽しみにしています。。

 
カムイ
2020年03月28日 07:22
道中の工夫って思ってるよりかなり大切だと感じます。

地球人
2020年03月28日 11:31
カムイさん、禅思想は詳しくないのでお聞きしますが・・・

白隠禅師の「道中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」とは、坐禅より作務の工夫がはるかに優れている、との意味ですか?
カムイ
2020年03月28日 11:41
自分で試してみたらわかるよ
カムイ
2020年03月28日 11:45
道中の工夫のやり方だけ説明するね

なるべく今してる動作を意識しながゆっくりと丁寧にするといいよ。
地球人
2020年03月28日 12:02
>なるべく今してる動作を意識しながゆっくりと丁寧にするといいよ。


坐禅より作務の方が遥かに無心ということですか?

坐禅は無心に成り難いのであれば、坐禅の方が難度高いと思います。

カムイ
2020年03月28日 12:09
道中の工夫とは、坐禅の感覚を日常にも落とし込む感じ。
すると24時間坐禅になる。
地球人
2020年03月28日 12:17
>道中の工夫とは、坐禅の感覚を日常にも落とし込む感じ。
すると24時間坐禅になる。

なるほど・・・優劣ではなくて時間の話か。

でも、坐禅と作務は修行の質が違うでしょう。
地球人
2020年03月28日 12:26
長時間やれる作務が坐禅より楽です。
カムイ
2020年03月28日 12:29
参禅でちょっと舞い上がる出来事がありまして、それを見た老師は食事中でしたので「ご飯が溶けてなくなるまでずっと噛んでなさい」と言われました。
言われた通りご飯を飲み込まず溶けるまで噛んでました。
溶けてなくなったんで老師に報告して、なにこれ?っておもってたんですが、しばらくして、あ!老師に坐禅させられてるって事に気づきました。
地球人
2020年03月28日 12:39
廊下の雑巾掛けをゆっくりスローもションでやれ、と言われたらしんどい。

坐禅はじっと座ることが目的ではなくて妄想することも大事なのです。
カムイ
2020年03月28日 12:47
坐禅中に気持ちよくなり起きてるのか寝てるのかって事がよくあるんだけど、これは三昧に入ってるんでなく妄想を追っかけてる事が多いですね。
そうならない為に数数えたり、ムー!ってやったり、息に意識をおいたりするんだろね。
地球人
2020年03月28日 12:49
思念、想念が浮かばなければ、その時は坐禅を止めていいのです。
カムイ
2020年03月28日 12:51
なんで地球人さんは面白いように逆の事やってるように見受けられます。
カムイ
2020年03月28日 13:00
あとね道中の工夫=作務ではないです。
例えば今コーヒー飲んでるのであれば
ゆっくりコーヒーカップに手を伸ばし
一瞬の隙もなく口に持っていく。
そして一口飲んだら、またゆっくりと丁寧に机の上にコーヒーカップを戻す。
これが道中の工夫です。
カムイ
2020年03月28日 13:05
なにもゆっくり動かすだけが道中の工夫ではありません。
普段歩く時も歩いてる事に意識を持ち、真っ直ぐ前を向いてスタスタ歩くのも道中の工夫です。
地球人
2020年03月28日 13:06
眠くなる時は思念想念が浮かばない時が多いですが、あるいは疲れている時です。

坐禅に集中する為に数息観をするのなら、その通りです。

地球人
2020年03月28日 13:09
動作に集中する。了解です。
カムイ
2020年03月28日 13:17
クリシュナムルティは「集中するな注意せよ」みたいなこと言ってますよね。
注意ってわかりにくい表現ですね。

今の動作に絶えず意識を置き油断しない。

これがクリュナムルティの「注意」もしくは「刻々体験ですね。
地球人
2020年03月28日 13:18
思考を観ることも座禅の目的としてるので、数息観は弊害になるのです。笑
2020年03月28日 13:22
>クリシュナムルティは「集中するな注意せよ」みたいなこと言ってますよね。
注意ってわかりにくい表現ですね。

なるほど、その通りです。集中すれば観えない。
カムイ
2020年03月28日 13:23
思考を切る事が坐禅です。
あのー
わざと逆の事言ってウケを狙ってます?
地球人
2020年03月28日 13:26
>思考を切る事が坐禅です。
あのー
わざと逆の事言ってウケを狙ってます?

止観坐禅があるじゃないですか。
カムイ
2020年03月28日 13:31
たらたらと書いてると他の人たちに迷惑なんでこの辺にしときますね。
地球人
2020年03月28日 13:36
思念想念、思考の原因が何であるか? わからないと煩悩は消滅しないと考えます。
 
カムイ
2020年03月28日 13:48
今から離れて過去未来に飛び回ってるこころが煩悩です。
こいつを一心に持っていく。
するとおさまります。
地球人
2020年03月28日 13:58
自己の根源が解れば煩悩は完全消滅しますが・・・

現世においてカムイさんの回答は正解です。
カムイ
2020年03月28日 14:08
今を自覚すると、過去未来のスイッチが切れます。
本当に今だけになります。
しかし、この感覚は薄れて行きます。
そしてこれは悟りではないようです。
まだまだ先があるようです。
Village beside a mountain stream
2020年03月28日 23:33
前回のライブもでしたが、今回のライブも所用があって参加できませんでした。明日、じっくり、ゆっくり、二つのライブを拝見して学びたいと思います。

 勿論、畢竟は己の覚悟、菩提心(?)が全てなのでしょうけど。

頭燃という言葉を先日知りました。私の頭が、というより私全体がメラメラと燃えているのに、燃えていないと思っている。この瞬間も、燃えている。しかるに自覚がない。頭で、言葉で燃えていると知っていても、実際に燃えていると切実に思っていないから心からまずいと思っていない。詰り、本気になっていない。どこか他人事だ。「こういう態度は、本当はまずい、徹底的にまずい」と以前渡辺さんは仰っていましたが、この渡辺さんの言葉を心身で理解したいという思いです。

究極のところは、他力(如来を私が獲得するのではなく、如来が私に顕(あらわ)になる。一切合切全ては如来(神)の絶対的な徹底的な働き。)なのでしょうけど、こちらの自力というか、解決してやるんだという思いというか、解決するのは他人でなく私であって、解決しないとまずいんだという思いが今の私には一番必要なんだと、これが渡辺さんの講義の一番の教えのような気がします。

「問題解決は困難であり、苦しい道のりかもしれないが、根本的に原理的に解決可能である。人々が楽だと思っている道の方が実は苦しみそのものであり、苦しみだと思われている道が実は本当の楽(らく)、楽しみ、喜びへ通じている。」この言葉は悩める我々が一番欲している言葉ではないでしょうか。少なくとも私はこの言葉が何よりも一番欲しかったです。
この「問題解決は原理的に可能である」という所が肝です。私は渡辺さんの講義を動画で拝見するようになる前から上のような言葉を見聞きしていましたが、そのような言葉に懐疑的でした。惹かれてはいましたが、懐疑的でした。
しかし、この懐疑的な状態は本当に苦しく、絶望的な状態です。
ある日、突如としてすっぽりと世界から意味が抜け、自分をはじめ全てが虚しくなり、絶対的なものを知りたいのだが、知ることができず、そもそもそのような絶対的な何かは宗教家が拵えた少しばかり出来の良い偶像に過ぎないとしか思えず、それ故宗教にも入れず、哲学者のインテリ向けの偶像(多くの哲学者は「死」と「幸福」が扱えないのです。)にも飽き足らない時、絶対的な何かは原理的に無いのだと思い込み悩むことは、最大のとは言えませんがまあまあの不幸ではないでしょうか。

この懐疑が渡辺さんの講義を聴くうちに少しづつ解けてきたように思います。それは、渡辺さんの言葉が、他のそれっぽいことを言う人とは異なり単なる言葉ではなく、渡辺さんという一人の人間の実体験を伴った全人格的な嘘偽りない言葉だからでしょう。説得力があるのです。説得力が在るとしか言いようのない説得力です。私は渡辺さんを盲信しているわけでは全くないのですが、批判すべきところが全く分からないくらい説得力があります。この説得力こそあらゆる生煮えの知的懐疑を打ち破るのだと思います。仏陀はおそらくとんでもない説得力でもって衆生に語りかけたのではないかと想像されます。その説得力こそ人々をして出家せしめたのだと思われます。キリストもとてつもない異常な説得力があったのだと思います。(私はスピノザにもそれを感じます、彼は難しい記述の仕方で書いていて、私も正直、彼を理解してはいないのですが、その文章には途轍もない説得力があります。頭だけで書いたとは思われません。)

美味しい果実を食った人が居て、その人が、まだそれを食っていない人に「君の生家の近くに昔から実っている思い入れのある果実だからといってそちらの酸っぱい苦い果実ばかり貪り食っていないで君のまだ味わったことのない、このまことに美味なる果実を食ったらどうだ。それは私の庭にたくさん実っているのだが、実は君には見えていないだけで君の家の庭にも沢山あるのだよ。まことに自然は恵み深い。慈悲深い。君にはなぜその果実が見えないのか。それは、君がその果実を見ようとしていないからだ。ほら、そこに君の目の前に豊かに実っているではないか。何?見えないだって?君のすぐ目の前に在るではないか。なぁに、泣くことはないだろう。よく、目を凝らして、見てみなさい。見えない?だが安心なさい。君はひどく目が濁っているだけなのだ。その自覚はないか?やっぱりそうだろう。君は果実を見ないながらも今その果実を求めている。君はそれが存在することを知っている。己の眼が濁りきっているのにも気づいている。しかし、その己の直観に自信が持てなかったのだろう。まだうら若き君よ、自信を持ちなさい。己に頼らず、この私にも頼らず自然を頼みなさい。その果実が見えるようにと。祈ってばかりで怠けてはいけない。うら若き君よ、日々精進なさい。もう一度言うが、私に頼ってはならないよ。私は君ではないし、君は私ではない。私は君に果実が在ることを示すことができるのみだ。君は私の言葉を信じないこともできる。実際は信じても信じなくてもどちらでもよいのだ。私に頼るぐらいなら己自らを頼みなさい。長々と君に話したが、言いたいことは簡単なことなのだ。この果実はまことに美味い。君も食ってみなさい、せっかく生まれたのだから。その美味なる果実は決して君のもとから無くなることはない。この果実を食えば君はもう、その食い慣れた酸っぱく苦い果実には口を付けられまい。」と言う、このような譬喩が成り立つでしょう。
地球人
2020年03月29日 00:43
自我が終焉すれば苦は消滅します。

それ以上、何を求める必要があるのか?

地球人
2020年03月29日 09:55
動画再生はできないのですね。

残念です。
2020年03月29日 11:50


>Village beside a mountain streamさん
>
> 前回のライブもでしたが、今回のライブも所用があって参加できませんでした。明日、じっくり、ゆっくり、二つのライブを拝見して学びたいと思います。
>
>  勿論、畢竟は己の覚悟、菩提心(?)が全てなのでしょうけど。
>
>頭燃という言葉を先日知りました。私の頭が、というより私全体がメラメラと燃えているのに、燃えていないと思っている。この瞬間も、燃えている。しかるに自覚がない。頭で、言葉で燃えていると知っていても、実際に燃えていると切実に思っていないから心からまずいと思っていない。詰り、本気になっていない。どこか他人事だ。「こういう態度は、本当はまずい、徹底的にまずい」と以前渡辺さんは仰っていましたが、この渡辺さんの言葉を心身で理解したいという思いです。
>
>究極のところは、他力(如来を私が獲得するのではなく、如来が私に顕(あらわ)になる。一切合切全ては如来(神)の絶対的な徹底的な働き。)なのでしょうけど、こちらの自力というか、解決してやるんだという思いというか、解決するのは他人でなく私であって、解決しないとまずいんだという思いが今の私には一番必要なんだと、これが渡辺さんの講義の一番の教えのような気がします。
>
>「問題解決は困難であり、苦しい道のりかもしれないが、根本的に原理的に解決可能である。人々が楽だと思っている道の方が実は苦しみそのものであり、苦しみだと思われている道が実は本当の楽(らく)、楽しみ、喜びへ通じている。」この言葉は悩める我々が一番欲している言葉ではないでしょうか。少なくとも私はこの言葉が何よりも一番欲しかったです。
> この「問題解決は原理的に可能である」という所が肝です。私は渡辺さんの講義を動画で拝見するようになる前から上のような言葉を見聞きしていましたが、そのような言葉に懐疑的でした。惹かれてはいましたが、懐疑的でした。
>しかし、この懐疑的な状態は本当に苦しく、絶望的な状態です。
> ある日、突如としてすっぽりと世界から意味が抜け、自分をはじめ全てが虚しくなり、絶対的なものを知りたいのだが、知ることができず、そもそもそのような絶対的な何かは宗教家が拵えた少しばかり出来の良い偶像に過ぎないとしか思えず、それ故宗教にも入れず、哲学者のインテリ向けの偶像(多くの哲学者は「死」と「幸福」が扱えないのです。)にも飽き足らない時、絶対的な何かは原理的に無いのだと思い込み悩むことは、最大のとは言えませんがまあまあの不幸ではないでしょうか。
>
>この懐疑が渡辺さんの講義を聴くうちに少しづつ解けてきたように思います。それは、渡辺さんの言葉が、他のそれっぽいことを言う人とは異なり単なる言葉ではなく、渡辺さんという一人の人間の実体験を伴った全人格的な嘘偽りない言葉だからでしょう。説得力があるのです。説得力が在るとしか言いようのない説得力です。私は渡辺さんを盲信しているわけでは全くないのですが、批判すべきところが全く分からないくらい説得力があります。この説得力こそあらゆる生煮えの知的懐疑を打ち破るのだと思います。仏陀はおそらくとんでもない説得力でもって衆生に語りかけたのではないかと想像されます。その説得力こそ人々をして出家せしめたのだと思われます。キリストもとてつもない異常な説得力があったのだと思います。(私はスピノザにもそれを感じます、彼は難しい記述の仕方で書いていて、私も正直、彼を理解してはいないのですが、その文章には途轍もない説得力があります。頭だけで書いたとは思われません。)
>
>美味しい果実を食った人が居て、その人が、まだそれを食っていない人に「君の生家の近くに昔から実っている思い入れのある果実だからといってそちらの酸っぱい苦い果実ばかり貪り食っていないで君のまだ味わったことのない、このまことに美味なる果実を食ったらどうだ。それは私の庭にたくさん実っているのだが、実は君には見えていないだけで君の家の庭にも沢山あるのだよ。まことに自然は恵み深い。慈悲深い。君にはなぜその果実が見えないのか。それは、君がその果実を見ようとしていないからだ。ほら、そこに君の目の前に豊かに実っているではないか。何?見えないだって?君のすぐ目の前に在るではないか。なぁに、泣くことはないだろう。よく、目を凝らして、見てみなさい。見えない?だが安心なさい。君はひどく目が濁っているだけなのだ。その自覚はないか?やっぱりそうだろう。君は果実を見ないながらも今その果実を求めている。君はそれが存在することを知っている。己の眼が濁りきっているのにも気づいている。しかし、その己の直観に自信が持てなかったのだろう。まだうら若き君よ、自信を持ちなさい。己に頼らず、この私にも頼らず自然を頼みなさい。その果実が見えるようにと。祈ってばかりで怠けてはいけない。うら若き君よ、日々精進なさい。もう一度言うが、私に頼ってはならないよ。私は君ではないし、君は私ではない。私は君に果実が在ることを示すことができるのみだ。君は私の言葉を信じないこともできる。実際は信じても信じなくてもどちらでもよいのだ。私に頼るぐらいなら己自らを頼みなさい。長々と君に話したが、言いたいことは簡単なことなのだ。この果実はまことに美味い。君も食ってみなさい、せっかく生まれたのだから。その美味なる果実は決して君のもとから無くなることはない。この果実を食えば君はもう、その食い慣れた酸っぱく苦い果実には口を付けられまい。」と言う、このような譬喩が成り立つでしょう。
>

The path to heaven lies through heaven, and all the way to heaven is heaven.

天国に至るプロセス自体が天国そのものだ、ということでしょうが・・・・

手間もかかるし、骨も折れますが、どうもほかに道はないようです
地球人
2020年03月29日 13:57
聖書でアダムとイヴが悪魔に唆されて林檎の木の実を食べてエデンの園を追放された話がありました。
Village beside a mountain stream
2020年03月29日 15:47
愚 さん

>The path to heaven lies through heaven, and all the way to heaven is heaven.

>天国に至るプロセス自体が天国そのものだ、ということでしょうが・・・・

>手間もかかるし、骨も折れますが、どうもほかに道はないようです

はい。以前は他にも道はあるはずだ、と思っていましたが、愚さんの講義を拝聴していると他に道が無いことが分かってきました。

解決が原理的につかないならば、絶望して最終的に自殺してしまうかもしれませんが、解決がつくならば、死ぬ必要はない。これは救いです。
歴史を通してこれまでたくさんの人が死んでしまったのではないかと考えるのですが、この一点が納得できれば、思いとどまることができます。(死んでしまった人は縁で死すべく死んでしまったのかもしれませんが、そうであったらなんとも酷いことだと思ってしまいます。私は運良く(縁良く?)生きています。)
言葉は誤解されることも多いし、実際よく分かっていない人が変なことを言いますから、本当に分かっている人は賢明に口を閉ざしているかもしれませんが、たとえ誤解されようとも愚さんのように我々凡夫に訴えてくれることは有難いことです。
傲慢な態度かもしれませんが、多くの宗教家の言説は説得力がありません。言葉は言葉としてありますが、言葉を支える実体験がないからでしょう。これでは、悩める者が宗教それ自体を軽蔑してしまいます。宗教家の多くは良い人なのでしょうが、それ以上でも以下でもないということがあり過ぎるのではないか、と以前から疑問です。悩みが分かってもらえないのです。

しかし、他人のことは一先ずどうでもよい、というのが救いを求める者の本来あるべき態度なのでしょう。多くの宗教家に対するこれまで自分がなしてきた批判も自己逃避であり、自己満足だったのだと反省しています。
Village beside a mountain stream
2020年03月29日 15:49
>聖書でアダムとイヴが悪魔に唆されて林檎の木の実を食べてエデンの園を追放された話がありました。

「創世記」にありましたね。以前読みましたが、神学者の解釈が色々あって困るので、楽園追放をどう捉えればよいのか正直よく分かりません。聖書の解釈は難しすぎます。私は一般的な物語のように単純に読むことにしました。キリスト者からすれば不敬極まりない態度かもしれませんが…。私の場合はそのように『聖書』を読まないと、読み進められませんでした。「新約聖書」もまた然りです。

今回の私が拵えた譬喩話は聖書となんの関係もありません。果実にすると、印象がなぜかどことなく欧風になり、それ故『聖書』に結びついてしまいますが。

美味なる果実とは、本来の無我の気づきの隠喩であり、所謂、悟り、見性の隠喩です。渡辺さんが我々に確かに存在すると示す“それ”の隠喩です。

酸っぱく苦い果実とは、私が寝ても覚めても貪り食っている無明に基づく貪瞋痴の隠喩です。

自然とは如来、神の隠喩です。もっと言えば、如来、神の様態〔mode〕です。


併し、文章の素人が作った譬喩話ですので、よく出来た喩えではありません。ご海容下さい。(こういう喩え話を作るのが好きなので、書き出してみました。ノートにこういった創作喩え話を書き付けるのが、私の趣味の一つなのです。)
地球人
2020年03月29日 18:03
Village beside a mountain streamさん

キリスト教の聖書は全然、詳しくないです。

創世記のエデンの園の話は、アダムとイヴが神がリンゴを食べるなと言った戒めに従わず悪魔(欲望)に唆されて食べてしまったのでエデンの園を追放されてしまった。だとおもいます。

>美味なる果実とは、本来の無我の気づきの隠喩であり、所謂、悟り、見性の隠喩です。渡辺さんが我々に確かに存在すると示す“それ”の隠喩です。
>酸っぱく苦い果実とは、私が寝ても覚めても貪り食っている無明に基づく貪瞋痴の隠喩です。

解りました。 

>自然とは如来、神の隠喩です。もっと言えば、如来、神の様態〔mode〕です。

キリスト教は神が自然を創造し、仏教は仏が自然であるの違いがありますね。



Village beside a mountain stream
2020年03月29日 21:52
地球人さん

>キリスト教の聖書は全然、詳しくないです。

>創世記のエデンの園の話は、アダムとイヴが神がリンゴを食べるなと言った戒めに従わず悪魔(欲望)に唆されて食べてしまったのでエデンの園を追放されてしまった。だとおもいます。

悪魔(欲望)。なるほど。やはり聖書は象徴的に読むべきなのでしょうね。悪魔とは人間に在る、無意識レベルまで支配する根本的欲望なのかなと考えたこともあるのですが、やっぱりよく分かりません。併し、「悪魔」はキリスト教にとって、昔の人の迷信では済まない重要性があることは分かるので理解したいとは思っています。地球人さんの仰るように欲望、それもとんでもなく根深いどす黒い欲望なんだろうとは考えているのですが。私は『聖書』の象徴的解釈が苦手です。なんだか、もやもやするのです。昔、深い意味を読み取ろうとして読んでいたとき、あんまりにもモヤモヤしてすっきりしないので投げ出してしまいました。物語のように読んでみれば、非常に楽でびっくりしました。勿論、邪道の読み方でしょうけど。仏教はキリスト教と比べると概念的且つ論理的なので、個人的には好きです。


>キリスト教は神が自然を創造し、仏教は仏が自然であるの違いがありますね。

これに関しても、世の中にはとんでもないほどの量の議論がありますね。
私はキリスト教の全自然の創造主という考えが、頭では理解できるのですが、身体が理解しません。キリスト教徒は(もちろん例外もありますが)自然を神の被造物と考え、神を超自然的な自然とは独立した創造主と考えているように見受けられますが、全くどういうことなのか、私が日本人だからなのか、本当に分かりません。
西洋思想の異端児スピノザの神なら身体が拒否しないのですが。西洋の神に関する議論は本当に分かりません。しっくりきません。

仏教の自然観の方がしっくりきます。しかし、これは単なる文化的な理由だけだろうか、と考えたりします。
多分、根本的には愚さんの仰るように同じなにかを指しているのだと思われますが、しかしそこに深い溝もあることも事実なので、困っています。
とにかく、自然概念は大変難しいですね。個人的には愚さんのシンプルかつ具体的な講義が好きです。
長々一方的に書いてすみません。
snow
2020年04月11日 13:51
>カムイ さん
2020年04月10日 13:43
自我は自由意志ですか?自由意志ではないですか?


自我つまり「私」という個別性が存在するという、通常思われている考え方を取るなら「自由意志はある」となります。
通常の社会生活はこちらによって成り立っていますよね。

しかし。よく考えて見たり観察してみたりすると、「私」という不変の実体というのは「私」と言われているものの中のどこにも見当たらないし、自分の意志だとされるものもすべて何かしら他からの影響、関係性で成立しているというのがわかります。

自由意志はない、ということについては、私が言っているだけではなく、愚さんもおっしゃっていることです。

一応、こちらをお借りしてコメントしましたがスルーしていただいても構いませんよ。