ライブやります・・・・本日19時・・・・坐禅の構造・目的・効用、坐禅と死・安楽(悩みの終わり)の関係

本日24日、19時よりライブやります
よろしければ、参加してください。

https://youtu.be/Zxz-EBBx5HY

なぜ、坐禅なんか、楽しくもない、無意味なことを、わざわざやっているのか、ということについて話したいと思います。

坐禅すると、脳でどんなことが起きていると推測されるかとか、その他、みなさまの疑問とかを話したいと思います。

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この記事へのコメント

宮啓
2020年03月24日 21:32
 「安定はこちら側にある」という言葉が印象に残りました。

 個別的なものから一般的なものへ移行すると、すなわち空っぽになれば、こちら側に「安定」があるのですね。。
地球人
2020年03月25日 04:19
手を使わないで結跏趺坐を組んだところがすごい。

この動画を観れば坐禅の全容が理解できます。素晴らしい。
地球人
2020年03月25日 06:44
見てる私はいない。これは理解できない。

相対してる私(感覚認識器官)がいなければ物体を認識することはできない。

鏡に映ってるのは私自身である。
地球人
2020年03月25日 07:05
他己を観るとは自己を観ると言ったほうが分かり易い。
地球人
2020年03月25日 07:16
人は全知全能の神ではないのだから客観ではなく主観です。
地球人
2020年03月25日 07:22
だから、わたしはいないではなくて、わたししか存在してない。
地球人
2020年03月25日 07:55
自我は身の危険から守る防衛本能から生じたそうです。

野生動物の本能でしょう。
通行人
2020年03月25日 20:50
>だから、わたしはいないではなくて、わたししか存在してない。

 独我論 ^^
地球人
2020年03月25日 21:06
そうだったよね。
地球人
2020年03月25日 21:08
愚さんは独我論だった。
2020年03月25日 21:57


>通行人さん
>
>>だから、わたしはいないではなくて、わたししか存在してない。
>
> 独我論 ^^

構造的には簡単です。

まず、どうしても知りえないもの、触ることのできないものがあります・・・・それを、神、如来、真如、真空、仏、基底とか、なんと呼んでもいいのですが、見ることも聴くこともできません。

その表裏一体として、ひとつの現象世界があります。宇宙、森羅万象、なんと呼んでもいいですが、ひとつのものです。これを、わたし、と呼んだり、如来と呼んだり、仏と呼んだりします。
通行人
2020年03月25日 22:12
>>通行人さん
>>
>>>だから、わたしはいないではなくて、わたししか存在してない。
>
>> 独我論 ^^

>構造的には簡単です。

>まず、どうしても知りえないもの、触ることのできないものがあります・・・・それを、神、如来、真如、真空、仏、基底とか、なんと呼んでもいいのですが、見ることも聴くこともできません。

>その表裏一体として、ひとつの現象世界があります。宇宙、森羅万象、なんと呼んでもいいですが、ひとつのものです。これを、わたし、と呼んだり、如来と呼んだり、仏と呼んだりします。


現象世界の実体は認識できない・・とのことですか?
地球人
2020年03月25日 22:30
>現象世界の実体は認識できない・・とのことですか?

正に空の現象世界。
2020年03月25日 22:51


>通行人さん
>
>>>通行人さん
>>>
>>>>だから、わたしはいないではなくて、わたししか存在してない。
>>
>>> 独我論 ^^
>
>>構造的には簡単です。
>
>>まず、どうしても知りえないもの、触ることのできないものがあります・・・・それを、神、如来、真如、真空、仏、基底とか、なんと呼んでもいいのですが、見ることも聴くこともできません。
>
>>その表裏一体として、ひとつの現象世界があります。宇宙、森羅万象、なんと呼んでもいいですが、ひとつのものです。これを、わたし、と呼んだり、如来と呼んだり、仏と呼んだりします。
>
>
>現象世界の実体は認識できない・・とのことですか?

そうです。これを理解するのが難しいんです・・・・
カムイ
2020年03月26日 01:07
永遠の今があるだけ・・・永遠の今は愛で満ち溢れている・・・愛と対立するものはない・・・今と対立するものもない・・・善悪を超えたところに愛がある
2020年03月26日 08:28
人生たのしいです。

葛藤なく生きれてます。

地球人
2020年03月26日 11:29
愚さんは覚者である。覚者とは知識の理解ではなく実体の理解である。

先日の動画を知識で理解した人はいるだろうが、真に理解した人は多くはないと思う。自我に執着してる限り真の理解は難しい。

わたしにしても坐禅で何故、心身が軽くなるのか分からなかった。自我(唯一無二の自身)の不在に気づかなった。自我、自身の不在は心神喪失になるからです。過去も私が分からない、家族が分からない、記憶を喪失しても心神喪失にはならない。物の認識はできるからです。鏡に映ってるのは私自身である事は分かるからです。

テーブルの上にリンゴがある。コップがある。茶わんがある。親、夫、妻、子がいある。太陽がある。月がある。・・・・全てが自己自身である。この認識が真の自我、つまり真我でしょう。動画で、愚さんが自身を映し、周囲を映した場面です。

キリスト教の信者でもなく詳しくもないが・・・聖書に、「わたしはある。あるというものだ。」神の言葉があります。身体を持たないが意識、精神はある。 同じ意味かな? 笑











cheaptrick
2020年03月26日 12:16
>愚さん

紐があれば必ず両端ができる。しかし「紐」は実体だが、「端」は言葉だけのもので実在しない。

我々は「見ていること」という紐の、一方の「端」を「私」と呼び、もう一方の「端」を「客観的世界」と呼ぶ。

しかし、実体として存在するのは「見ていること」という「紐」だけであって、「私」や「客観的世界」という「端」は、言葉だけのものであって実在しない。

こういうことでしょうか?
通行人
2020年03月26日 12:35
でも、愚さんはスマホで自身、周囲を映して「私はいない・・」私の不在を語ったが、それは私自身を含め、物体として相対視してるから言えるのは?
と同時に、自身と他の周囲を区別分別してるはずです。それができなければ認知症ですからね。

人は肉体、身体を自我、私自身だと思ってるかな? 女は化粧や整形する。男も女もボディビルで体型を変える。人は肉体の老化現象で顔が変形しても自殺したりしない。受け入れている。










2020年03月26日 12:35
軽安覚支^_^
通行人
2020年03月26日 12:47
そして、自分自身の頭脳が死滅すれば「私の自我意識」は消滅することを人は皆、知っている。

ですから、自我の問題は解消しないと考えます。

通行人
2020年03月26日 13:06
>軽安覚支^_^

そうね、あさんのお歳になれば自然に受け入れますね。

自他分別も曖昧になって自我も曖昧なるかもしれない。^^

地球人
2020年03月26日 13:29
やれやれ・・・ やっぱり、凡夫には悟れない。笑
通行人
2020年03月26日 13:38
それは、以下です!


>>現象世界の実体は認識できない・・とのことですか?

>そうです。これを理解するのが難しいんです・・・・
地球人
2020年03月26日 13:43
それって、実体が分からないってことだろう。

実体が解れば自我が解消する。
地球人
2020年03月26日 13:53
>そして、自分自身の頭脳が死滅すれば「私の自我意識」は消滅することを人は皆、知っている。

>ですから、自我の問題は解消しないと考えます。

解消してるじゃないか・・・頭脳が消滅すれば自我が消滅する。その自我は皆、同じだ。
地球人
2020年03月26日 13:55
自我意識が適当だな。
地球人
2020年03月26日 14:04
頭脳が死滅するが適当だな。
2020年03月26日 19:32
感覚・・^^

刹那生滅の繰り返し・・^^

色即是空、空即是色 ^^

うん?
2020年03月26日 19:35
思い出した寝る時間だ^^

寝る^^
2020年03月27日 00:16


>地球人さん
>
>愚さんは覚者である。覚者とは知識の理解ではなく実体の理解である。
>
>先日の動画を知識で理解した人はいるだろうが、真に理解した人は多くはないと思う。自我に執着してる限り真の理解は難しい。
>
>わたしにしても坐禅で何故、心身が軽くなるのか分からなかった。自我(唯一無二の自身)の不在に気づかなった。自我、自身の不在は心神喪失になるからです。過去も私が分からない、家族が分からない、記憶を喪失しても心神喪失にはならない。物の認識はできるからです。鏡に映ってるのは私自身である事は分かるからです。
>
>テーブルの上にリンゴがある。コップがある。茶わんがある。親、夫、妻、子がいある。太陽がある。月がある。・・・・全てが自己自身である。この認識が真の自我、つまり真我でしょう。動画で、愚さんが自身を映し、周囲を映した場面です。
>
>キリスト教の信者でもなく詳しくもないが・・・聖書に、「わたしはある。あるというものだ。」神の言葉があります。身体を持たないが意識、精神はある。 同じ意味かな? 笑
>
意識、精神が身体と独立している、とわかればいいわけです
2020年03月27日 00:19


>cheaptrickさん
>
>>愚さん
>
>紐があれば必ず両端ができる。しかし「紐」は実体だが、「端」は言葉だけのもので実在しない。
>
>我々は「見ていること」という紐の、一方の「端」を「私」と呼び、もう一方の「端」を「客観的世界」と呼ぶ。
>
>しかし、実体として存在するのは「見ていること」という「紐」だけであって、「私」や「客観的世界」という「端」は、言葉だけのものであって実在しない。
>
>こういうことでしょうか?

単純なことを言っているだけです。風景はありますが、それを見ているものはない、見えているということしかない、といっているだけです。
2020年03月27日 06:50
目の前に客体だけがある。

意識を客体だけが占めてる。


そのとき悲しみや苦しみはない。

見るものと見られるものの二元性はない。


こくこくと変化する現実をただ生きてるのみ。
みゅう
2020年03月27日 07:40
 このあたり、理解と腑に落ちるの違いが鮮明に現れていると思うのですが、どうでしょう。
 理解は(自分の)世界の仕組みにとりいれることであり、腑に落ちるのは感覚です。
どちらも、普遍でも不変でもない有限なものだけれど大切、、
、、、このように理解して、それが腑に落ちています。
  
  私のいまの限界です
マイヤーマイヤー
2020年03月27日 10:18
どうもです、毎日しみPの動画を見てましたが、もしかしてかれもライブに来てるかもですね。

ブログでKB会を結構取り上げてます。

http://www.ne.jp/asahi/zenn/honn/
2020年03月27日 11:52
> このあたり、理解と腑に落ちるの違いが鮮明に現れていると思うのですが、どうでしょう。
 理解は(自分の)世界の仕組みにとりいれることであり、腑に落ちるのは感覚です。
どちらも、普遍でも不変でもない有限なものだけれど大切、、
、、、このように理解して、それが腑に落ちています。
  
>  私のいまの限界です

自我の不在に気づかないと限界を越えられないのです。

地球人
2020年03月27日 12:16
愚さんが動画で、スマホで自己を写し、周囲を取り込んで写した場面でです。

仏教で言えば自他不二です。

地球人
2020年03月27日 12:30
其処で反論はあります。

「スマホの画面で自己と周囲の人を区別してるのでは?」

それは物体として自身の顔を画面で見て記憶してるからです。

テーブルの上で、りんご、みかん、バナナを区別するのと同じです。

人に備わった知能であって自我ではない。
通行人
2020年03月27日 12:46
では、自我を持たない顔認証ができるAI(人工知能)が覚者なのか?^^
地球人
2020年03月27日 13:06
AIは自我が無いから悟りはない。
そして、痛覚、感情、心が無いから生き物、人の心が解らないので、人を救うことはできない。
2020年03月27日 14:24


>マイヤーマイヤーさん
>
>どうもです、毎日しみPの動画を見てましたが、もしかしてかれもライブに来てるかもですね。
>
>ブログでKB会を結構取り上げてます。
>
>http://www.ne.jp/asahi/zenn/honn/

どなたか知りませんが、観てもらってうれしいです
地球人
2020年03月27日 14:41
愚さん

>意識、精神が身体と独立している、とわかればいいわけです

>単純なことを言っているだけです。風景はありますが、それを見ているものはない、見えているということしかない、といっているだけです。


身体も風景も同じだ客体だと考えますが・・・

上と下のコメントが違うのは何故ですか?

上は意識があって、下は意識がない? 


通行人
2020年03月27日 15:49
人体と風景を単に分けるとしたら、人間の客観かも^^
2020年03月27日 17:04


>地球人さん
>
>愚さん
>
>>意識、精神が身体と独立している、とわかればいいわけです
>
>>単純なことを言っているだけです。風景はありますが、それを見ているものはない、見えているということしかない、といっているだけです。
>
>
>身体も風景も同じだ客体だと考えますが・・・
>
>上と下のコメントが違うのは何故ですか?
>
>上は意識があって、下は意識がない? 
>
上は、二元性から始めています。最初、意識は体の中にあるように感じます。

そこで、意識は身体と別であるとわかると、意識はなんにでもなれます・・・・いわば、意識が身体から離れた感じです。

そのとき、例えば、意識は、PCが意識を持っているように感じます・・・・わたしの意識がPCにあるという感じです・・・・

そのとき、わたしがPCを見ているのではなく、PCがわたしを見ているような感じがします。

このとき、見る者と見られる物のギャップが消えます。

この状態を、見えているということしかない、と表現することもできます。

言葉で表すと、上のようになりますが、実際はすごく単純です。

いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。
地球人
2020年03月27日 17:32
>いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。

なるほど、下は自我を忘れて見ている時ですね。
2020年03月27日 18:15


>地球人さん
>
>>いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。
>
>なるほど、下は自我を忘れて見ている時ですね。

違う。忘れているのではありません。もともと、ないんです。ないところから、自我をつくりあげているんです。
地球人
2020年03月27日 18:24
>>>いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。
>
>>なるほど、下は自我を忘れて見ている時ですね。

>違う。忘れているのではありません。もともと、ないんです。ないところから、自我をつくりあげているんです。

ないところから自我をつくりあげてしまうは原因はわかりますか?




2020年03月27日 18:49


>地球人さん
>
>>>>いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。
>>
>>>なるほど、下は自我を忘れて見ている時ですね。
>
>>違う。忘れているのではありません。もともと、ないんです。ないところから、自我をつくりあげているんです。
>
>ないところから自我をつくりあげてしまうは原因はわかりますか?
>
要点は、原因を探ることではなく、その事実に気が付くことです
地球人
2020年03月27日 18:59
>>>>>いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。
>>>
>>>>なるほど、下は自我を忘れて見ている時ですね。
>>
>>>違う。忘れているのではありません。もともと、ないんです。ないところから、自我をつくりあげているんです。
>>
>>ないところから自我をつくりあげてしまうは原因はわかりますか?
>>

>要点は、原因を探ることではなく、その事実に気が付くことです

質問ばかりして恐縮ですが・・

なるほど・・ 自我に気づくとどうなるのですか?
通行人
2020年03月27日 19:10
>なるほど・・ 自我に気づくとどうなるのですか?

たぶん、自我の終焉だろう^^
2020年03月27日 19:17


>地球人さん
>
>>>>>>いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。
>>>>
>>>>>なるほど、下は自我を忘れて見ている時ですね。
>>>
>>>>違う。忘れているのではありません。もともと、ないんです。ないところから、自我をつくりあげているんです。
>>>
>>>ないところから自我をつくりあげてしまうは原因はわかりますか?
>>>
>
>>要点は、原因を探ることではなく、その事実に気が付くことです
>
>質問ばかりして恐縮ですが・・
>
>なるほど・・ 自我に気づくとどうなるのですか?

わたしに聞く必要はありません。ご自分でおわかりになるはずです・・・・・
地球人
2020年03月27日 19:28
>>なるほど・・ 自我に気づくとどうなるのですか?

>わたしに聞く必要はありません。ご自分でおわかりになるはずです・・・・・


解りました。 ありがとうございました。
2020年03月27日 21:10
今まで“自分”だと思っていた自我は実在せず、むしろ、自我を虚妄だと「自覚する主体」

未知なるもの・・・・・^^
2020年03月27日 21:17
うわっ・・^^

無位の真人や・・・^^
2020年03月27日 21:32
>いま、あなたはPCを見ているだけですが、あなたがあって、見ているわけではなく、まず、PCを見て、それから、見ているあなたを作り上げているんだ、という単純な事実を言っているだけです。


西田幾多郎という哲学者の代表的論著『善の研究』の序文に、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という難しい一文が見える。われわれは誰でも、「自分」が花を見たり、月を眺めたり、鳥の声を聞いたり、あるいは雪を冷たいと感じたりしていると思っている。しかし西田はそうではない、と言うのである。
 西田に言わせれば、「個人」が花を見たり月を眺めたりするのではない。むしろ逆で、花や月を見て美しいなあと経験することによって自己が形成されるのだと言う。今朝は寒くて外へ出るのは嫌だなあと思ったとき、寒いと感じる個人(自分)ができ上がる。そのように、自分という個人は、一瞬、一瞬、違った内容の個人として生き続けている。決して個人というような確固不動な実体はない。個人は「存在」ではなくて「生成」、つまりいつも進行形なのである。


うん?^^
2020年03月27日 21:34
おなじや・・^^
地球人
2020年03月27日 21:59
西田幾太郎か・・・

あさん、よく見つけるね。笑
地球人
2020年03月27日 22:04
「自我の終焉」はクリシュナムルティ。
2020年03月27日 22:11
西田ちゃんとか・・愚さんとか・・^^

どんだけレベル高いやねん^^

ついていくのがやっとや・・^^
2020年03月27日 22:14
うん?^^

ちょっとゴマをすった感がある^^
地球人
2020年03月27日 22:15
それは知識の理解だけではなくて自ら体験だからです。
地球人
2020年03月27日 22:33
坐禅で我執に囚われている修行者の肩を警策でバンバン叩くのは自我抜きでしょう。
2020年03月28日 07:41
第三篇「善」の最後の段落にて西田は次のように語る。

 終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とは唯一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る、我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実に此処に尽きて居る。(I, p. 167)

 かくして、『善の研究』における善の研究はしめくくられる。


真の自己・・未知なるもの^^
2020年03月28日 07:51
「即ち真の自己を知るというに尽きて居る・・^^」

残念^^

真の自己を知ることはできないと・・ライブで言ってた感がする^

2020年03月28日 07:53
目は目を見ることができないと・^^
地球人
2020年03月28日 10:00
第三篇「善」の最後の段落にて西田は次のように語る。

> 終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とは唯一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る、我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実に此処に尽きて居る。(I, p. 167)

> かくして、『善の研究』における善の研究はしめくくられる。

「即ち真の自己を知るというに尽きて居る・・^^」

>残念^^

>真の自己を知ることはできないと・・ライブで言ってた感がする^


検索上手だね。西田はそんなこと言ってるのか。

愚さんの言ってることが正しいだろう。





2020年03月28日 10:07


>あさん
>
>第三篇「善」の最後の段落にて西田は次のように語る。
>
>  終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とは唯一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る、我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実に此処に尽きて居る。(I, p. 167)
>
> かくして、『善の研究』における善の研究はしめくくられる。
>
>
>真の自己・・未知なるもの^^

かれは、真の自己を知って、それは、どのように具体的に表現していますか・・・・大きいのか、小さいのか?、赤いのか、青いのか?匂いはあるのか?
地球人
2020年03月28日 10:13
あさん、

西田が残念とのことでしょう。^^
2020年03月28日 10:33
宇宙の本体であると言っていますが^_^

どうして知り得たかは調べないと分からないです^_^

調べる気はないですけど^_^

今から温泉瞑想に入ります^_^
地球人
2020年03月28日 10:54
だから、宇宙の本体が分からない、てことです。^^
地球人
2020年03月28日 11:01
真の自己も解らない。

解ったら教えてください。^^
地球人
2020年03月28日 11:06
わたしの現在の回答すれば・・・真の自己とは空っぽ!です。
2020年03月28日 13:17
「実地上真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るということにつきている。われわれの真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。
 しかして真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。しかしてこの力を得るのはわれわれのこの偽我を殺しつくして一たびこの世の欲より死してのち蘇るのである。かくのごとくにしてはじめて真に主客合一の境にいたることができる。これが宗教道徳美術の極意である」


ちょっと追加^^
地球人
2020年03月28日 14:17
>「実地上真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るということにつきている。われわれの真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。
 しかして真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。しかしてこの力を得るのはわれわれのこの偽我を殺しつくして一たびこの世の欲より死してのち蘇るのである。かくのごとくにしてはじめて真に主客合一の境にいたることができる。これが宗教道徳美術の極意である」

あさん、方策です。
2020年03月28日 17:09
善の研究 解説動画1-1
https://www.youtube.com/watch?v=jfE8gO0Conc

今日のライブで愚さんの言っていることとダブルんだが^^

禅の共通点があるからかな^^

あきらきにレベルが高い^^

ついていくのがやっとだ^^

う~~ん^^

またまたゴマをすった感がある^^
2020年03月29日 08:56
純粋経験^_^

無分別、現量のことやな^_^

うん?

鈴木大拙ちゃんと友達だと^_^

なるへそ^_^
2020年03月29日 12:33
西田幾多郎

東京帝国大学哲学科で学んでいた頃には、

西田は鎌倉円覚寺の今北洪川老師(1816~1892)に入門参禅していた

親友鈴木大拙とともにしばしば鎌倉の円覚寺を訪ね参禅していた。

明治36年京都大徳寺山内の孤蓬庵の広州老師に参禅していた

西田は8月3日「趙州無字」の公案(無門関第一則)を透過した。

この時に西田の積年の努力は実を結んだのである。

西田の哲学的処女作「善の研究」は、こうした坐禅修行の結果生まれた

と言えるだろう。


なんかどっかのだれかと似てる感がする^^
2020年03月29日 14:05
この西田哲学の基礎となる「純粋経験」の概念には、いくつかの特徴があります。

主体と客体とが一体化し現在意識「我」が消えること
対象に注意を向ける時間的な継続は瞬間的でも断続的でも持続的でも純粋経験は成立する
意識が統一されていて雑念が入らない状態であること
2020年03月29日 14:13
物體現象といひ精神現象といふも純粹經驗の上に於ては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に屬すべきものである。我々の思惟意志の根柢に於ける統一力と宇宙現象の根柢に於ける統一力とは直に同一である。例へば我々の論理、數學の法則は直に宇宙現象が之に由りて成立しうる原則である。(I. 68p)

我々の直接經驗の事實上に於て如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んで居る。卽ち無限なる實在の統一力が潜んで居る、我々は此力を有するが故に學問に於て宇宙の眞理を探ることができ、藝術に於て實在の眞意を現はすことができる、我々は自己の心底に於て宇宙を構成する實在の根本を知ることができる、卽ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神其者を證明するのである。(I. 98-99p.)
2020年03月29日 14:14
神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。實在の本質が人格的の者でありとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は信の直覺に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずといふ者は、最も能く神を知り居る者である。(I.200p)
2020年03月29日 14:23
「純粋経験」とは、あるがままの直接経験の事実、すべての始発点になる根源的知識です。

例えば私が静かな湖畔で本を読んでいたとします。
ふいに「バシャッ」と何かが水に落ちる音がします。
その瞬間、わたしは「ん!?」とそちらを見やります。
(この「ん!?」という状況が純粋経験の段階です)
ここから、「ああ、舞い降りた鳥が下手な着水をしたのか」となります。
(この具体的な事物の分別ができている状況が通常の意識です)

ここでは、まず最初に「ん!?」という全的な状況を把握している統一的な直観的知識があって、そこから「鳥」「着水音」「波紋」という客体的事物と、それを見る「私」という主観が事後的に発生します。
主-客未分の純粋な経験や直接知から、主-客の分かれた意識的な経験や、抽象化や言語を介した間接的な知識が分化発展してくるわけです。

例えば私が命綱なしで断崖絶壁を上っていたとします。
落ちたら死ぬという極限的な集中状態で、私は我を忘れ必死で登ります。
上りおえた時、私は反省的にその行為を思い出し、震え上がります。

考える余裕すらない極限的なこの集中状態が純粋経験の瞬間です。
しかし、意識的には考えていないにもかかわらず、私の今までの過去において培った物理的経験の知識を総動員して、最善の岩を瞬間的に選びながら上っているわけです。
自我意識のまだない赤子が母の乳房と合一しているような、主観-客観が一体化した根源的な知識のあり方です。
上り終えて、意識によって「私」「崖」「奈落の底」という、主観と客観が分化した事物が生じたとき、その事物の関係性に怯え震えるのです。
2020年03月29日 14:26
その瞬間、わたしは「ん!?」とそちらを見やります。
(この「ん!?」という状況が純粋経験の段階です)


よく・・「うん?」を多用していたが・・・^^

純粋経験か関係していたか・・^^

やはりな・・・^^

2020年03月29日 14:36
純粋経験の自己発展として、意識経験があるわけです。
ソシュールの項を読んでいただければ、事物というものが全体から分節(分化)発展することにより生まれることがよく分かると思います。

しかし、純粋経験は、言語を媒介とした分節的な知識ではとらえられないため、意識に上ることがありません。
これにより、知識はその出自(「純粋経験」)を忘却することになります。
純粋経験においては、差別や対立を内に含みつつ、統一されている状態です。
その統一性が忘却されるということは、分化、分節、分別された個々の事物や知識がバラバラになり、差別と対立のみが残る世界となってしまいます。

キーを打つ私の五本の指(父・母・兄・姉・赤ちゃん)は、それぞれ別々の個性と用途を持ちながらも、統一的に働いて、流麗に難しい動きをやってのけます。
この統一的な五本の指がその統一性を失って、差別的に対立し個々バラバラに動き出したら、仕事になりません。
人間に生ずるすべての問題は、この純粋経験の統一的な真の実在を忘却することによって生じるものなのです。





西田にとって「善」とは、その各々個人の自己実現です。
自己実現といっても、アメリカの心理学派のような個人の利益追求をさしているのではなく、あくまで純粋経験の実在の統一力に合致した「真の自己」を実現するということです。
前の例の五本の指がバラバラに利益を追求し対立しあうのでなく、各指がその根源である手という統一的実在を土台にしつつ自己発展し、自らの面目躍如とした個性をみがくことによって、世界と合一する状態です。
自己を実現すればするほど、他者との対立は少なくなり統一へと導かれる、「対立すなわち統一」の世界です。
この純粋経験における実在の無限の統一力を忘却し、ただ闇雲に自己を追及すれば、それは利己的対立の万人闘争の世界となり、逆に統一力のみを追及すれば、個性を失った全体主義的な死の世界になります。

この自己と純粋経験における真の実在(世界・宇宙)が合一し、人格的統一「真の自己」が実現されたとき、「善」が生ずるのです。


なるへそ・・^^
2020年03月29日 14:46
分別

仏教では、この分別がくせ者であり、仏道の障りとされる。「虚妄分別」(邪まな世界を作り出す分別)という言い方に代表されるように、この分別によって、私たちに苦悩が生まれるというのが、仏教の考え方である。仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。仏教では「煩悩は分別によって生まれ、分別は戯論(言葉によって固執の世界を虚構すること)によって生まれる」と説かれる。私たちの世界は言葉によって虚構され、その虚構によって自己と自己の所有に対する固執が生じ、勝れた他と比較して劣等感を抱いたり、劣った他と比較して優越感を抱いたりする。その分別によって煩悩(苦悩)が生まれる。
 人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩する。そうした分別の本質が明らかになるとき、分別は分別のままにそれに固執しない智慧の世界が開かれる、それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。それは分別のない世界ではなく、分別の本質を知見し、分別が障りとならなくなる世界である。


純粋経験と無分別^^

西田幾多郎ちゃんと親友鈴木大拙ちゃん^^

2人で話が盛り上がっただろうな・・^^

西「純粋経験が実在や・・・」

鈴「無分別の分別や・・^^」

じゃぁ・・鎌倉で参禅して確かめようや^^

とこうなる^^
2020年03月29日 14:54
「純粋経験」

人間に生ずるすべての問題は、この純粋経験の統一的な真の実在を忘却することによって生じるものなのです。

「分別」

人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩する。


おなじかな・・^^

似たり寄ったりやな・・^^
2020年03月29日 15:22
ライブで言ってた「頭の中をからっぽにする」は・・^^

絶対無の中に自己を置くということとおなじような感がする^^
2020年03月29日 15:26
「主客未分」の状態に自己を置く^^

できるかな・・^^

できるかな・・^^


「主客未分」とは、主体と客体が別れていない状態、融合している状態ということです。西田さんは「善の研究」で、そのことを「純粋経験」と表現していまして、主・客に別れる前に、未分化の「純粋経験」があるのだと言ったわけですね。
2020年03月29日 17:36
西田幾多郎という哲学者の代表的論著『善の研究』の序文に、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という難しい一文が見える。

この1文で2日使ってしまった^^

終わり^^
2020年03月29日 18:27
結局・・^^

純粋経験とは三昧か・・^^

となる^^
2020年03月29日 18:30
どうかんがえても時間の無駄だった感がする^^
2020年03月29日 18:32


>あさん
>
>西田幾多郎という哲学者の代表的論著『善の研究』の序文に、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という難しい一文が見える。
>
>この1文で2日使ってしまった^^
>
>終わり^^

「わたし」が先に在って、(パソコンを)見ているのではない、(パソコンを)見ていることがあって、そのあと、だれが見てるのかな、と頭をひねると、「わたし」が在るのである。

西田幾多郎というひとは、簡単なことを、難しい表現をしたり、あたらしい言葉を作ったりすることに、非常に才能があるかたのように思います。
2020年03月29日 18:34
同感です^^
みゅう
2020年03月30日 07:06
あ さん

いつも、あさんの投稿には「ん!?」とさせられます。感謝しています。

>「純粋経験」とは、あるがままの直接経験の事実、すべての始発点になる根源的知識です。
 例えば私が静かな湖畔で本を読んでいたとします。
ふいに「バシャッ」と何かが水に落ちる音がします。
その瞬間、わたしは「ん!?」とそちらを見やります。
(この「ん!?」という状況が純粋経験の段階です)
ここから、「ああ、舞い降りた鳥が下手な着水をしたのか」となります。
(この具体的な事物の分別ができている状況が通常の意識です)


 純粋経験を経験すべく風呂を沸かします。ゆったりとした気分で湯面をたたきます。何度か練習すると「バシャッ」から始まる意識を経験できます。というか、そんな風に感じます。その「バシャッ」を何度かやってみていると「バ」と「シャッ」は別の意識の経験であると実感できます。この辺が限界で湯から上がります。

 「バ」と「シャッ」から「バシャッ」に至る過程は個人的な加工の過程ではないかと。確かに「バシャッ」は「手が湯面をたたく音」よりは純粋といえるけれど、”より”のない”純粋”には値しないと思うのですが、、、

 あさんのご意見を。

 (「ロボットとは何か」 石黒浩 お薦めです)

 
 
2020年03月30日 07:23
「バシャッ」直接知覚^_^

それから思考が入り私とお湯の分別が始まる^_^

虚妄の世界に突入や^_^
2020年03月30日 07:25
刹那生滅の世界やな^_^
2020年03月30日 07:42
インドの伝統としては、仏教に限らずインド哲学全般として、認識の根拠、ないし認識の 方法には、まず第一には直接知覚できることです。その次に推論、つまり論理学の研究や論理学的な思 考法が来る。そして第三に聖典や信頼できる人の言葉が来る。そういうように、認識の根拠を幾つ数え るかは、いろいろな考え方がありますけれども、ともあれ、インドにおいては、一般に直接知覚が一番 大事である、ということが大原則であります。これが案外、多くの研究者には分かっていないのではな いか。
この直接知覚とは


なんか言ってる^_^
2020年03月30日 08:20
1.陳那 (1)ign聖a 480−540頃)の直接知覚に基づ く認識論 ,

陳那の 認識論は刹那滅を前提に し直接知覚 ( $a,現量,直接知)を軸 に して,凡そ直接知覚され実感されるもの (こと)だけが, 真に存在してい るとい う 考え方 (存在論)に立つ


なんか純粋経験と実存ににてないか^_^
2020年03月30日 12:58
「三界は虚妄にして但だ是れ心の作なり」^_^
2020年03月30日 12:59
凡そ直接知覚され実感されるもの (こと)だけが, 真に存在してい る^_^

三界虚妄やな^_^
2020年03月30日 16:46
「心境一如」

 心境一如とは、主観と客観の区別のない状態。禅の教えである一方、茶禅一味の教えの中にも三昧の境地としてあり、ひいては芸術にも結びつく。
2020年03月30日 17:16
ところがこの公案での問いは「どうすれば主客の分離対立を超え、

真実の世界に通じることができるでしょうか?」である。
2020年03月30日 18:45
【①認識手段】

 認識手段については、仏教とバラモン哲学、およびそれ以外の思想(六師外道等)でかなり異なるところがあります。(なお認識の源は漢訳で「量」と表記)



 ・仏法(陳那):直接知覚(現量、pratyaksa)、推理・推論(比量、anumana)の2つのみ

 ・バラモンの勝論派:直接知覚、推理推論の2つ(陳那と同じ)

 ・バラモンの正理派:直接知覚、推理推論、類推(類比、比定)、証言の4つ

 ・六師外道の順世派(唯物論):直接知覚のみ
2020年03月30日 18:47
・六師外道の順世派(唯物論):直接知覚のみ^^
2020年03月30日 18:53
【比量】



 では次に、「比量」について考えたいと思います。「比量」は思惟による概念、判断、推理のことです。「比量」の認識対象は「共相(ぐうそう)」であり、いわゆる「普遍」にも通じる概念でしょう。「比量」においては、「現量」によって知覚されたものを、「名」「種」「性質」「作用」「実体」の五種の要素に結び付けて、言語によって表示します。



例えば、「現量」のところで例示した犬ポチで言えば、「名」はポチであるし、「種」は犬、「性質」は茶色、「作用」は犬小屋で寝ている・・・ということになるでしょう。「犬一般」(概念としての犬)は現実の世界では実在しないし、「茶色一般」も実在しません。現実の世界で実在するのは、思惟から離れ直接知覚された「それ」(自相=個別相)だけです。



 頭の中で概念化、言語化した共相をいくら積み上げてみても、直接知覚された「それ」=自相そのものを、正しく認識、表示することはできません。「それ」ではなく「そのようなもの」として近づいていくしかないのでしょう。



 「比量」によって概念化、言語化したものが、あたかも実在していると思い込んでしまうところに、妄念が生ずる原因があるのでしょう。

2020年03月30日 18:56
う~~ん^^

う~~~~~~~~ん^^

う~~~~~~~~~~~~~ん^^

寝る^^
2020年03月31日 07:13
直接知覚され実感されるもの (こと)だけが真実だ^_^
みゅう
2020年03月31日 07:14
あ さん

コメントありがとうございます。陳那さん、ついて行けません。天才ですな。私はおサルらしくサル頭で考えてみました。

 感覚器官は外界の状況に反応してそれを構成する細胞の電気的な2状態の系列として中枢のほうに送ります。一つ一つの細胞が発信するのは差し詰め、点字の文で、一つの感覚器官から発信されるのは点字の文章。文が「バ」で文章が「バシャッ」。なんか違うけど、察してください。

 そしてこの「ん!?」という純粋経験の段階はここで初めて生まれます。この段階の状況がまた感知されて書評みたいな点字の文章が山のようにつくられそれらに何かが「ん!?」となって、、、

 「純粋経験の統一的な真の実在」って、、

  がんばれ、私のサル知恵

愚さんには内緒にしときましょう。
 
2020年03月31日 07:15
みんな虚妄の世界でもがいているからな^_^

確かに^_^
2020年03月31日 07:17
みゅうさんもレベルが高くて^_^

ついていくのがやっとだ^_^
2020年03月31日 07:21
直接知覚以外は虚妄ということで捨てていくしかないな^_^

2020年03月31日 07:25
廓然無聖やな^_^
2020年03月31日 12:45
直接知覚のみ真実^_^

うーん^_^

即今に引きずり込まれる^_^

いい言葉や^_^
2020年03月31日 18:55
クリシュナムルティと禅
https://www.nicovideo.jp/watch/sm25075645

直接知覚検索してたら・・^^

こんなの突然出てきた^^

うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
2020年03月31日 19:02
・・ということで^^

寝る^^
2020年03月31日 19:42
刹那滅する存在は直接知覚によって把握される・・・^^

ぐーぐー^^
みゅう
2020年04月01日 07:23
あ さん

つづき

「純粋経験の統一的な真の実在」

 経験自体が実在に対して純粋なものでないみたいなのに、それから統一的に導かれるのが真の実在って、、、納得できないな。サルには。

 そこで、サルは実の字を捨てて自分の認識の仕組みを眺めてみました。

「犬一般」も「ポチ」もそれぞれあるものとして経験され互いに連想される。すくなくともウサギのレベル位でもそうなっていそうである。

 どうでしょう。
2020年04月01日 07:48
よく分からん^_^

と言うのが本音^_^
みゅう
2020年04月03日 07:37
あ さん

つづき

「バ」に集中すると「バシャッ」がなくても「ん!?」が現れます。反対に「バシャッ」から「バ」を”考え出す”のもありのようです。どっちでもよい、けれど、このどっちでもよいという見方は結構有益だし、日常生活では自分なりの規則で「ん!?」とせざるをえないのかなと。

 まとまらない文章ですが、あさんなら許してくれる、、、はず。

 散歩修行つづけます。
2020年04月03日 10:13
愚さんのライブを聞いていろいろ盗まないとだめやな^_^

今日ライブあるかな^_^
2020年04月03日 10:35


>あさん
>
>愚さんのライブを聞いていろいろ盗まないとだめやな^_^
>
>今日ライブあるかな^_^

話題がないんです・・・・・拈華微笑とか、もらいましたが、理屈はこねられますが、単純すぎて・・・・・
2020年04月03日 12:19
うわっ^_^

どうもすみません^_^

また都合のいい時にライブお願いします^_^