自我への執着

YOUTUBEに以下の問いがありました。

何故に自我に執着するのか?その理由は私たちが自我の不在お既に知っているからではないでしょうか。❓教えてください。宜しくお願いいたします。



Krishnamurti Bohm
神、仏、真我、真の自己、アートマン、基底、聖なるもの・・・名前はなんでもいいですが、これがわたしたちの根底にあります。これは、どうしても思考ではとらえられません。無理なんです。未知のものです。

ところが、この未知のものを、わたしたちは思考でとらえようとします。そして、思考でとらえられると思い込みます。一方、自己がある、という感覚があります。そこででっちあげたのが、偽物の自己です。自我です。

わたしたちが知ることができるのは、この自我だけです。だから、これしか知らないんです。
そこで、自我に執着します。自我を自分だと錯覚したわけです。

構造的には簡単なのですが、実際に見破るのは大変です。というのは、思考がどうしても、真の自己をとらえようとしてしまうからです。それは不可能だとどうしても認めないんです。

分かりにくいところがあれば、どうぞ質問してください・・・・・

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この記事へのコメント

Village beside a mountain stream
2020年03月19日 02:41
>これは、どうしても思考ではとらえられません。無理なんです。未知のものです。
>ところが、この未知のものを、わたしたちは思考でとらえようとします。そして、思考でとらえられると思い込みます。
>構造的には簡単なのですが、実際に見破るのは大変です。というのは、思考がどうしても、真の自己をとらえようとしてしまうからです。それは不可能だとどうしても認めないんです。

なるほど。なるほど。なるほど。
思考で捉えようとし、捉えられると思い込んでいますね、この私Villageは。
この思い上がりというか、傲慢さというか、無知というか、無明というか、そういったところからくる思考方法になっています。以前から渡辺さんの動画を見ているのにそう思い込んでしまうのです。
やはり、神等で呼ばれる未知のものを本当の意味では知らないから、つまり、自我以上のものを知らないからこんなことになってしまうのではないか、と考えます。

勝手に、思考で捉えるしかないんだ、と思い込んでいるのです。
頑張ってはいるのですが、見当違いの頑張りなのでしょう。
 私を含めて迷える人は思考以上のものを知らないから、思考で捉えるしかない、と思い込むのではないでしょうか。これしか、頼るものがないと思い込んでしまうのです。


 あと、私の場合は、哲学者の「思考で捉えねばならぬ」という態度に影響されたのがあると思います。思考を一番大切にする人は思考以上のものを持ち出す人間を不誠実なる神秘者だと思っている節があります。
 ものを考える人間はこういった哲学者の態度に想像以上に物凄い影響を受けているような気がします。特に、若いときにこういう影響を受けると、考えを変えるのは結構大変ではないか、と思ったりもします。

 勿論、スピノザ等の偉大な哲学者は未知なるものは、知りえない絶対的な存在であると言っております。が併し、大部分の哲学者は思考で捉えることのできないものはあたかも存在しないかのように考える傾向があるように思います。
 彼らは、思考崇拝者であり、言語崇拝者であり、数学崇拝者なのでしょう。

 私は渡辺さんの仰っていることが、究極正しいことなのだ、と勝手に納得しておりますが、もし上のような哲学者に問い詰められたらどうしようか、とも考えています。「お前の言う未知なるものとはなんだ。説明できないのか。お前は信じたいから信じているのだ。奴隷道徳だ。俺たち優秀な思索者に対して未知なるもの、神を持ち出して自己満足にふけっている弱者よ、思考を放棄するのか。不勉強な奴め。何とか言ってみろ。」とでも言われると、未知なるものを見ていない(本当は常に見ているのでしょうが、このように表現させてください)私はひっそり隠れて、時が過ぎるのを待つしかありません。

 
 古代の偉大なる時代はいざ知らず、現代は思考絶対主義だという印象を勝手に持っているのですが、それは自我を前面に押し出すことを良しとする現代社会と深い関係が在るのでしょう(昔は昔で問題があったのだとは思いますが)。
地球人
2020年03月19日 13:23
>わたしたちが知ることができるのは、この自我だけです。だから、これしか知らないんです。
そこで、自我に執着します。自我を自分だと錯覚したわけです。

単に物理現象を認識する知覚認識は自我の思考ではないでしょう。



2020年03月19日 17:35


>Village beside a mountain streamさん
>
>>これは、どうしても思考ではとらえられません。無理なんです。未知のものです。
>>ところが、この未知のものを、わたしたちは思考でとらえようとします。そして、思考でとらえられると思い込みます。
>>構造的には簡単なのですが、実際に見破るのは大変です。というのは、思考がどうしても、真の自己をとらえようとしてしまうからです。それは不可能だとどうしても認めないんです。
>
>なるほど。なるほど。なるほど。
>思考で捉えようとし、捉えられると思い込んでいますね、この私Villageは。
>この思い上がりというか、傲慢さというか、無知というか、無明というか、そういったところからくる思考方法になっています。以前から渡辺さんの動画を見ているのにそう思い込んでしまうのです。
>やはり、神等で呼ばれる未知のものを本当の意味では知らないから、つまり、自我以上のものを知らないからこんなことになってしまうのではないか、と考えます。
>
>勝手に、思考で捉えるしかないんだ、と思い込んでいるのです。
>頑張ってはいるのですが、見当違いの頑張りなのでしょう。
> 私を含めて迷える人は思考以上のものを知らないから、思考で捉えるしかない、と思い込むのではないでしょうか。これしか、頼るものがないと思い込んでしまうのです。
>
>
> あと、私の場合は、哲学者の「思考で捉えねばならぬ」という態度に影響されたのがあると思います。思考を一番大切にする人は思考以上のものを持ち出す人間を不誠実なる神秘者だと思っている節があります。
> ものを考える人間はこういった哲学者の態度に想像以上に物凄い影響を受けているような気がします。特に、若いときにこういう影響を受けると、考えを変えるのは結構大変ではないか、と思ったりもします。
>
> 勿論、スピノザ等の偉大な哲学者は未知なるものは、知りえない絶対的な存在であると言っております。が併し、大部分の哲学者は思考で捉えることのできないものはあたかも存在しないかのように考える傾向があるように思います。
> 彼らは、思考崇拝者であり、言語崇拝者であり、数学崇拝者なのでしょう。
>
> 私は渡辺さんの仰っていることが、究極正しいことなのだ、と勝手に納得しておりますが、もし上のような哲学者に問い詰められたらどうしようか、とも考えています。「お前の言う未知なるものとはなんだ。説明できないのか。お前は信じたいから信じているのだ。奴隷道徳だ。俺たち優秀な思索者に対して未知なるもの、神を持ち出して自己満足にふけっている弱者よ、思考を放棄するのか。不勉強な奴め。何とか言ってみろ。」とでも言われると、未知なるものを見ていない(本当は常に見ているのでしょうが、このように表現させてください)私はひっそり隠れて、時が過ぎるのを待つしかありません。
>
簡単な原理です。わたしはわたしを知ることはできません。目が目をみれないのと同じです。ですから、わたしが未知のものです。
しかし、知ることはできなくても、未知のもので「ある」こと、はできます。

このときには、刻々の体験だけがあります。このとき、脳にはなんのストレスもありません。そこに至福があります。

これは獲得すべきものではありません。精神が自らに仕掛けたトリックを見破ったときに訪れる静けさがあるとき、自ずから存在しているものです。

早い話が、自我の虚構を見破ったときに、訪れる幸福です。刻々の幸福です。
cheaptrick
2020年03月20日 13:31
>愚さん

>簡単な原理です。わたしはわたしを知ることはできません。目が目をみれないのと同じです。ですから、わたしが未知のものです。
しかし、知ることはできなくても、未知のもので「ある」こと、はできます。

このときには、刻々の体験だけがあります。このとき、脳にはなんのストレスもありません。そこに至福があります。

これは獲得すべきものではありません。精神が自らに仕掛けたトリックを見破ったときに訪れる静けさがあるとき、自ずから存在しているものです。

早い話が、自我の虚構を見破ったときに、訪れる幸福です。刻々の幸福です。


これがまさに、あらゆる霊的な教えの真髄ですね。アドヴァイタを読みあさった結果も、要はこれだけでした。
地球人
2020年03月20日 14:25
自我があるから喜怒哀楽の人生は面白いし楽しい。笑
2020年03月20日 23:19


>cheaptrickさん
>
>>愚さん
>
>>簡単な原理です。わたしはわたしを知ることはできません。目が目をみれないのと同じです。ですから、わたしが未知のものです。
>しかし、知ることはできなくても、未知のもので「ある」こと、はできます。
>
>このときには、刻々の体験だけがあります。このとき、脳にはなんのストレスもありません。そこに至福があります。
>
>これは獲得すべきものではありません。精神が自らに仕掛けたトリックを見破ったときに訪れる静けさがあるとき、自ずから存在しているものです。
>
>早い話が、自我の虚構を見破ったときに、訪れる幸福です。刻々の幸福です。
>
>
>これがまさに、あらゆる霊的な教えの真髄ですね。アドヴァイタを読みあさった結果も、要はこれだけでした。

自分が、何者でもなかった、NOBODYだった、ということで終わりなんですね・・・・
地球人
2020年03月21日 12:28
愚さんのブログにレスしてるのは自己同一性の地球人こと私なのですが・・・

他の人は違うのですか?
地球人
2020年03月21日 12:40
自己同一性の自我がなければ、此処にレスすることは不可能です。或いはレスしないこともできません。

地球人
2020年03月21日 23:17
自我は全てに対して相対して存在する唯一無二であるから執着するのです。