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この記事へのコメント

Village beside a mountain stream
2020年02月11日 19:57
ありがとうございます。全く新しい質問をするというのではなくYouTubeの動画『精神、こころの構造、補足』のコメント欄でした質問の続きという形になりますので、確認のためYouTubeのコメント欄の流れをここにコピーしておきます。

Village beside a mountain stream
いつも動画を見させていただいております。素晴らしい講話をありがとうございます。
KB会の動画を見始めてからまだ半年も経たないのですが、本当に面白いので、お気に入りの講義は何回も見ています。最初にKB会の動画を見た時は喜びで何とも言えない気持ちになりました。世の中には一生をかけても読みきれないほどの厖大な書物があり、色々な事を言う人間がこれまた沢山居ますが、本物(私の直観的判断なのですが)は本物でないものと比べて圧倒的に数が少ない、とどうも私には思われてなりませんので、このKB会の動画を見て本物だと分かった時は唯唯(ただただ)嬉しかったです。本を通じて本物(私の単なる直観的判断であります)と出会うことは屢々あるのですが、この世の中で直に出会うことは滅多にありません。こうしてYouTubeに動画を上げてくださらなかったら、渡辺さんを、そして渡辺さんが仰っている事を知ることは恐らく無かっでしょう。それ故、渡辺さんとKB会の皆さんには心から感謝申し上げます。
遠慮無く幾つか質問をさせていただきます。
(1)渡辺さんが仰っていることはスピノザの言っている事と大変似ている、詰まる所同じ事を言っているのだろう、と私は思っているのですが、私のこの大雑把な理解は正しいでしょうか。渡辺さんの話を聞いてスピノザを読むと以前よりスピノザを理解出来るようになりました。結局、スピノザも世界の真のあり方を見て、それを皆に伝えるために一所懸命本を書いたのだな、としみじみ思いました。
(2)仏教の空、インド哲学の梵我一如、スピノザの神(God)即自然(Nature)、等々の言語表現が差し示す事は詰まる所は同じ事を表しているのだ、と考えると腑に落ちると言うか、すっきりします。そこで私が疑問に思う事は、もしそれらが詰まる所は同じ事を示しているとしても、やはりそれぞれ、違う所があるように思われます(例えば、仏教は一神教のように絶対者、絶対的な一者を立てません、その他様々な違いがあるように思われます)。そのような違いは各地域、各伝統の上の真理の表現の違いと見るべきか、それとも表現以上の違いがあるのかという事が気になります。私は所謂見性体験もなく、色々当て推量をしているのですが、渡辺さんはこれについてどうお考えになるでしょうか。
(3)"自由意志"について
(私は"自由意志"という語を、「ある人間がある時において2つ以上の選択の可能性から1つの選択を自らの意思によって等しく選ぶことができること」、換言すれば、「ある人Aが選択肢α、β、γ、δ、…、の中から過去t1においてαを選んだ場合、Aは過去t1においてβもγも…も等しく同様に選べたはずだということは正しい」というように、取り敢えず定義します。そして私自身は"自由意志"に非常に懐疑的であるにもかかわらず、まだ決定的なことを言うことができません。)
これまでの質問とも、また自我の問題とも関係すると思うのですが、我々人間の多くは自らを"自由意志"を持つものとして考えて、毎日を過ごしています。私も、以前は"自由意志"という言葉を知りませんでしたが、今思うと"自由意志"という言葉を知らないなりに"自由意志"を信じて生きていました。しかし、青年期にある種の哲学病というか認識病とでも言えばよいのか、適切な名称は知りませんが何か変な病のようなものにかかり、懐疑的になってしまったせいで今では"自由意志"を素朴に信じることができません。そして、"自由意志"の問題を実りのない詰まらない問題という哲学者が居るにも拘らず、私自身はどうもそうは思われず、宇宙を考えるに際して、我々人間自身を考えるに際して、そして私自身を考えるに際して、非常に本質的な問題だと思われるものですから、ああでもない、こうでもないと考えています。このKB会の動画と出会ったのも渡辺さんが自由意志は存在しない、という講義をしていらしたのを発見したからでした(その動画は私のお気に入りの1つであります)。
"自由意志"についてどのように考えればよいか、ということが第3の質問です。(何回も渡辺さんの自由意志に関する動画を見ているにも拘らず、未だに"自由意志"の渡辺さんの議論が完全に理解できていません。論理は辿れるのですが、腹の底から分かったとはならないのです。それとも"自由意志"の問題は論理であれこれ推量するものでなく、真理の洞察で直観的に解決する問題なのでしょうか)

以上の3つが渡辺さんにご質問したかったことです。しようと思えば、いくらでも質問してしまいそうなのでこの辺で止めにします。
明晰でなく、論理的に厳密でもない質問を長々と書き連ねてしまった事をお許しください。

Village beside a mountain stream
上記の自分の文章を読んでいて間違いを発見しました。それ故、訂正させて下さい。
上の文章で"自由意志"を「ある人Aが選択肢α、β、γ、δ、…、の中から過去t1においてαを選んだ場合、Aは過去t1においてβもγも…も等しく同様に選べたはずだということは正しい」というように定義してしまいました。この部分を訂正します。
即ち、"自由意志"を「ある人Aが選択肢α、β、γ、δ、…、の中から過去t1においてαを選んだ場合、Aは過去t1においてβもγも…も等しくαと同様に選ぶことができた、という事を正しいとするとき、Aは"自由意志"をもつと言われる」と定義し直します。
細かい違いですが、自分では訂正前の文が納得できなかったので訂正しました。
正直、この"自由意志"の定義が考えを進める上で適切なのかは全く分かりません。

@Village beside a mountain stream すいません、表示が短くなっているので、全体の問いを知りませんでした。


1、スピノザについてですが、基本的には同じだと感じています。さまざまな哲学者は、やはり同じものを見ているのですが、その表現のしかたに差があるのだと思っています。つまるところ、存在の根底があるわけですね。


2、さまざまな表現は同じだと思っています。


3、自由意志については、ブログでみなさんが議論しているので、参考にされたらいかがでしょうか?
https://kbkai.at.webry.info/
ここには、わたしの意見として、自由意志は否定していますが、自由についてはその先があります。それはまだ書いていないのですが・・・・・


緻密には答えられませんが、アバウトな感じとして以上です。そのほかにご質問があれば歓迎です

Village beside a mountain stream
@Krishnamurti Bohm
返信ありがとうございます。存在の根底の異なった表現なのですね。
ブログで自由意志を議論されていることを知りませんでした。時間をかけてじっくり読んで考えることにします。自由意志の否定の先にある自由ですか。大変興味深いです。スピノザもそのような自由を述べているのだろうと想像します(今の私にはさっぱりですが……)。
お言葉に甘えて質問させていただきます。
(1) "自由意志"という概念に密接に関わる概念に"決定論(determinism)"という概念がありますが、渡辺さんは"決定論"を肯定なさいますか?(私は"決定論"という語を「宇宙(存在の一切)は必然の因果で過去、現在そして未来に至るまで貫かれている、従って我々人間は能力の不足ゆえに未来の宇宙を実際には知ることは出来ないが、原理上宇宙の未来は決定されている」というように規定しておきます。)
(2) 渡辺さんは動画で、数の1は抽象の結果の産物だからその存在について悩むことはないと仰っていました。しかし、恥ずかしながら私は1を真剣に探してみたことがあります。数式を見ていると時々何が何だか分からなくなり気持ち悪くなることがあったからです。勿論、猫が眼前に居るように在るとは思いませんでしたので、何処かに探したのではなく、概念的に考察して探してみました。時間をある程度かけて考察したものの結果は惨憺たるもので、数1については分からず終いでした。そこで、お尋ねします。宇宙を完全ではないにしても記述することができる〈数〉とは一体何でしょうか?

Krishnamurti Bohm
@Village beside a mountain stream 決定論は肯定しません。これは一つは量子力学で否定されているからという単純な理由です。もうひとつは、これは確信がないのですが、宇宙意思・・・・もしそのようなものがあればですが・・・・それは、確定していないというように感じるのです。これは自由という問題とからみます。整理されて説明できないので、後日にします。
1を探したことがあるというのは、すばらしいです。いわれてみれば、一度は、1を探すべきだなとも感じました。数学ではペアノの公理から、定義されるんじゃなかったかと思いますが・・・・これとからんで、フレーゲの集合論の失敗する話は面白かったです。
宇宙を記述するというと、その定義はなにか、とかいうことになって、ややっこしいですが、なにか、∞と0と1は、あらっぽく、なにかなんだろうと、感じています。いいかげんな話ですが・・・・


Village beside a mountain stream
2020年02月11日 20:00
それでは質問の続きをさせていただきます。内容は大きく2つに分かれます。
(1)
実は「自由意志の否定且つ決定論理の肯定」で私は自分の考えを取り敢えず練っています。量子力学は科学啓蒙書のレベルでしか知りませんが、決定論が否定されていることは知っています。しかし、それでも決定論が正しいのではないかと考えてしまいます。というのも、サイコロを振るのを考える場合、(ⅰ)数学的に考えるならば、目の出方が同様に確からしいとしそれぞれの目の出る確率は1/6ですが、(ⅱ)経験世界で考えるならば、作られ得る限り精巧に作られたサイコロを私が振る時、振られ得る限り限りなくサイコロを振れば最終的には大数の法則に従うにしても、特定の振り方をするわけですから、その特定の振り方に対するサイコロの目の出方は1/1ではないか、と考えてしまうからです。つまり、経験世界で振られるサイコロは、原理的には決定論的ではないか、という予想からそのアナロジーで宇宙(存在の一切)は決定論的ではないか、と考えてしまうのです。勿論、これは素朴な推理であり、大いなる論理の飛躍を含む単なるアナロジー以外の何物でもないのですが、量子力学を勉強していない私はこのように考えてしまいます。とてつもないミクロの世界では非決定論的である宇宙が、マクロの世界では決定論であるかのように思われるのは何とも不思議です。結局、物理学と数学に対して素人の自分には何ともならない問題なのかもしれません。科学(Science )の歴史は人間の常識が如何にあてにならないかを示しているように思われるので、私の思考実験は無駄なのかもしれません。そんな事を考える暇があったら物理学をしっかり勉強しなさい!と科学者からはお叱りを受けるかもしれません。併し、私は素人ながら色々考えてしまいます。この宇宙が決定論であるか、非決定論であるかは科学はもしかすると永遠に答えが出せないのではないか、いや科学はそんなことは興味ないのかもしれない、もっというと科学者は本当に知的に謙虚であるからこの問題に答えを出すことは我々の仕事ではないと考えているのかもしれない、そもそも宇宙が決定論か非決定論かは暇な哲学者の仕事であって真に知的な問題ではない、…………、と科学者から見れば哲学者もどきの時間の空費を行っているのですが、自由意志と決定論が密接に関わる概念なので考察を止めるわけにもいかず、にっちもさっちもいかず、困りはてています。
後日の動画を楽しみにしております。



Village beside a mountain stream
2020年02月11日 20:01
(2)
"1"の探求は労多くして、益なしなのかもしれません。何が何だか考える程分からなくなります。併し、とてつもなく考えたくなる魔力のような何かがあるような気がします。"1"を考えている過程でフレーゲを知ったのですが、彼の書いた本を読むと彼もどうやらこの魔力にやられていたように私には思われます。"1"に対する尋常ではない関心がフレーゲを突き動かしていたのかもしれません。それ故、自分の理論が完成しないことが分かると物凄く落ち込んだのだと思いました。晩年の手紙でその悲しみが吐露されていました。私もフレーゲなら"1"の問題を解いてくれたのかもしれないと期待したのですが、偉大なるフレーゲでも解けないとすると、私のような凡人ではとても無理だ、"1"を実際に日常に於いても、数学に於いても使っているのだからそれで満足すべきだと自分を無理やり説得し今日に至っています。"1"への関心はほどほどが良いのかもしれません。何か病的な関心なのかもしれません。私は"1"と同様に"同じ"、"同一"、"等しい"という概念もモヤモヤして、わけがわからないのですが、これも"1"と同様に難問なので、"1"と一緒に自分のエポケー(判断中止)袋に放り込むことにしました。
このように長々と"1"について書いてしまいましたが、"1"の問題はどうも渡辺さんの仰っている事と根底で繋がっていると直観が導くものですから、このように書かせていただいております。私は存在の根源とでもいうべき何か(神、如来、ブラフマン、等々)を垣間見たことが一度もないので、判断しかねますが、それを見た人は「私とは宇宙である」とか「汝はそれなり」とかなんとかかんとか表現します。その時にもし全ての本質(essence)、あるいは実体(substance)が消失するとしたら、そこに世界のみがただ在る、正確には、ただ在るなのかもしれませんが、その時に〈数〉はどうなるのでしょうか?〈数〉も実体とともに消失するのでしょうか?私の予想は、〈数〉も本質と一緒に抜け落ちてしまうのではないかというものです。というのも"1"を支えているのは簡単に言ってしまえば実体でありますから、実体が確固たるものでなくなったとき、〈数〉もまた実体と運命を共にするのではないかと推論したからです。所謂悟った人は実体については語ります。併し、寡聞にして〈数〉については語ったのを聞いたことがありません。。実体が抜け落ちるとこれ性(thisness)も恐らく抜け落ちます、そしてこれ性が抜け落ちれば論理的には"1"も抜け落ちるはずです。また差別(difference )も抜け落ち、その結果、同じとか、違うとかも意味をなさなくなるはずです。とするならば、もうそこでは世界、宇宙、神、等々、とも言うことが出来ず、1つとさえ言えないと考えのが論理的だと思うのですが、どうでしょうか?
併し、もしそうだとするならば、宇宙を記述する数学とは何なのでしょうか?
悟った人の世界が真の世界で、物理学者の世界記述が二次的なものなのか、物理学者の世界記述のみが真のあり方を示しており、悟った人は時々言われるように精神異常者なのか、それともなんの矛盾もなくどちらも正しいのか、それともどちらも真実を捉え損ねているのか、それとも真実とは人間の作り出した願望以外の何物でもなく、真実という言葉遣いを捨てねばならないのか。疑問が山のように湧いてきます。
2020年02月11日 20:33


>Village beside a mountain streamさん
>
> それでは質問の続きをさせていただきます。内容は大きく2つに分かれます。
>(1)
>実は「自由意志の否定且つ決定論理の肯定」で私は自分の考えを取り敢えず練っています。量子力学は科学啓蒙書のレベルでしか知りませんが、決定論が否定されていることは知っています。しかし、それでも決定論が正しいのではないかと考えてしまいます。というのも、サイコロを振るのを考える場合、(ⅰ)数学的に考えるならば、目の出方が同様に確からしいとしそれぞれの目の出る確率は1/6ですが、(ⅱ)経験世界で考えるならば、作られ得る限り精巧に作られたサイコロを私が振る時、振られ得る限り限りなくサイコロを振れば最終的には大数の法則に従うにしても、特定の振り方をするわけですから、その特定の振り方に対するサイコロの目の出方は1/1ではないか、と考えてしまうからです。つまり、経験世界で振られるサイコロは、原理的には決定論的ではないか、という予想からそのアナロジーで宇宙(存在の一切)は決定論的ではないか、と考えてしまうのです。勿論、これは素朴な推理であり、大いなる論理の飛躍を含む単なるアナロジー以外の何物でもないのですが、量子力学を勉強していない私はこのように考えてしまいます。とてつもないミクロの世界では非決定論的である宇宙が、マクロの世界では決定論であるかのように思われるのは何とも不思議です。結局、物理学と数学に対して素人の自分には何ともならない問題なのかもしれません。科学(Science )の歴史は人間の常識が如何にあてにならないかを示しているように思われるので、私の思考実験は無駄なのかもしれません。そんな事を考える暇があったら物理学をしっかり勉強しなさい!と科学者からはお叱りを受けるかもしれません。併し、私は素人ながら色々考えてしまいます。この宇宙が決定論であるか、非決定論であるかは科学はもしかすると永遠に答えが出せないのではないか、いや科学はそんなことは興味ないのかもしれない、もっというと科学者は本当に知的に謙虚であるからこの問題に答えを出すことは我々の仕事ではないと考えているのかもしれない、そもそも宇宙が決定論か非決定論かは暇な哲学者の仕事であって真に知的な問題ではない、…………、と科学者から見れば哲学者もどきの時間の空費を行っているのですが、自由意志と決定論が密接に関わる概念なので考察を止めるわけにもいかず、にっちもさっちもいかず、困りはてています。
> 後日の動画を楽しみにしております。
>
こういうことですね。ミクロでは非決定論ということはわかるが、マクロでは決定論ではないか。だから、全宇宙は、未来まで決定されている。自由意志の問題を考えるときに、この問題は考えざるを得ない。

ミクロとマクロは分けられているといういうのが前提ですが、そうは簡単にいかないようです。この分離ができない例として、シュレディンガーの猫、の思考実験を考えることもできます。これはミクロとマクロをつなげたものだともいえます。そういう場合はマレではないか、大局に影響を与えないのではないか、という議論もあると思いますが、複雑系とかの例を見ると、そうもいえません。

また、量子もつれ、というのもあり、これを考えに入れると、マスマスよくわからなくなります。

ですから、わたしの考えでは、宇宙は、因果法則にのっとっているが、決定論ではないという感じです。

多世界解釈の場合は、決定論でもいいのですが、自分がどの世界に行くかわからないので、やはり非決定論だと思われます。

自由意志に関して、脳は物理現象を超えられないとすると、決定論ではないですが、因果の法則からは逃れられません。したがい、否定的です。

一方、自由意志ということについて考えてみると、やはり、なにの自由意志か?という問いに必ず帰着します。
わたし=自我というものが、存在しない以上・・・これに対する説明は省略します・・・わたしの自由意志なるものは存在しえません。

あるとすると、宇宙の自由意志ということになります。ヘーゲルなんかは・・・よく読んでないので聞きかじりですが・・・・おそらく、これを絶対精神と呼んだのだと思います。キリスト教だと、神の意志とかになるんでしょうか・・・

そうすると、その自由意志はどのようにあらわされているか、といえば、この現実の姿として表れているはずです。

こうなると、現象世界、自我、そういったものもすべて宇宙意思のあらわれとなります。世界のあるがままが自由意志の結果です。因果の法則も自由意志です。

わたしたちが、悩み、苦しむのも自由意志です。

別の観点から、とらえてみます。自由意志は通常思考過程を含みます。思考はその性質を観察すればわかりますが、過去から自由ではありません。経験から自由になれません。

経験は限定されています。したがって、自由意志は存在しません・・・・自由というのを自らに依存するという意味にとりました。そして、限定されているために、かならず不十分です。

こうなると、絶望的な感じがします。ところがそうではないと思っています。

そこで、自由意志というのをやめて、自由について考えてみることにします・・・・これも長くなりますので、今度、考えていることを書き込みます




2020年02月12日 06:31


>Village beside a mountain streamさん
>
>(2)
>"1"の探求は労多くして、益なしなのかもしれません。何が何だか考える程分からなくなります。併し、とてつもなく考えたくなる魔力のような何かがあるような気がします。"1"を考えている過程でフレーゲを知ったのですが、彼の書いた本を読むと彼もどうやらこの魔力にやられていたように私には思われます。"1"に対する尋常ではない関心がフレーゲを突き動かしていたのかもしれません。それ故、自分の理論が完成しないことが分かると物凄く落ち込んだのだと思いました。晩年の手紙でその悲しみが吐露されていました。私もフレーゲなら"1"の問題を解いてくれたのかもしれないと期待したのですが、偉大なるフレーゲでも解けないとすると、私のような凡人ではとても無理だ、"1"を実際に日常に於いても、数学に於いても使っているのだからそれで満足すべきだと自分を無理やり説得し今日に至っています。"1"への関心はほどほどが良いのかもしれません。何か病的な関心なのかもしれません。私は"1"と同様に"同じ"、"同一"、"等しい"という概念もモヤモヤして、わけがわからないのですが、これも"1"と同様に難問なので、"1"と一緒に自分のエポケー(判断中止)袋に放り込むことにしました。
> このように長々と"1"について書いてしまいましたが、"1"の問題はどうも渡辺さんの仰っている事と根底で繋がっていると直観が導くものですから、このように書かせていただいております。私は存在の根源とでもいうべき何か(神、如来、ブラフマン、等々)を垣間見たことが一度もないので、判断しかねますが、それを見た人は「私とは宇宙である」とか「汝はそれなり」とかなんとかかんとか表現します。その時にもし全ての本質(essence)、あるいは実体(substance)が消失するとしたら、そこに世界のみがただ在る、正確には、ただ在るなのかもしれませんが、その時に〈数〉はどうなるのでしょうか?〈数〉も実体とともに消失するのでしょうか?私の予想は、〈数〉も本質と一緒に抜け落ちてしまうのではないかというものです。というのも"1"を支えているのは簡単に言ってしまえば実体でありますから、実体が確固たるものでなくなったとき、〈数〉もまた実体と運命を共にするのではないかと推論したからです。所謂悟った人は実体については語ります。併し、寡聞にして〈数〉については語ったのを聞いたことがありません。。実体が抜け落ちるとこれ性(thisness)も恐らく抜け落ちます、そしてこれ性が抜け落ちれば論理的には"1"も抜け落ちるはずです。また差別(difference )も抜け落ち、その結果、同じとか、違うとかも意味をなさなくなるはずです。とするならば、もうそこでは世界、宇宙、神、等々、とも言うことが出来ず、1つとさえ言えないと考えのが論理的だと思うのですが、どうでしょうか?
> 併し、もしそうだとするならば、宇宙を記述する数学とは何なのでしょうか?
> 悟った人の世界が真の世界で、物理学者の世界記述が二次的なものなのか、物理学者の世界記述のみが真のあり方を示しており、悟った人は時々言われるように精神異常者なのか、それともなんの矛盾もなくどちらも正しいのか、それともどちらも真実を捉え損ねているのか、それとも真実とは人間の作り出した願望以外の何物でもなく、真実という言葉遣いを捨てねばならないのか。疑問が山のように湧いてきます。
>
長いレスを書いたのですが、消えてしまいました・・・ガックリなので・・・・気を取り直してあとで書きます
蓮風
2020年02月12日 09:59
愚さんへ

長文のレスは、いったんワープロかなんかに書き出してから転記したほうが、トラブルが少ないです。
2020年02月12日 10:11
liveでお願いします^_^
2020年02月12日 12:33


>あさん
>
>liveでお願いします^_^

そうしよう・・・・・
たーぼー
2020年02月12日 16:29
三十八 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)
五祖曰く,譬(たと)えば水牯牛(すいこぎゅう)の窓櫺(そうれい)を過ぐるが如く,頭角(ずかく)四蹄(してい)都(す)べて過ぎ了(おわ)る,甚麼(なん)に因(よ)ってか尾巴(びは)過ぐることを得ざる。
無門曰く,若(も)し者裏(じゃり)に向かって顛倒(てんどう)して,一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)し,一転語(いってんご)を下し得ば,以って上四恩に報じ,下三有を資(たす)くべし。其れ或いは未だ然(しか)らずんば,更に須らく尾巴を照顧(しょうこ)して始めて得べし。
頌(じゅ)に曰く,
過ぎ去れば抗塹(きょうぜん)に堕(お)ち,回(かえ)り来たれば却(かえ)って壞(やぶ)る。
者些(しゃし)の尾巴子,直に是れ甚(はなは)だ奇怪。


何でも質問していいなら、この公案の牛の尻尾とは端的に言えば何だと思いますか?
愚さんなら室内でどう答えますか?
2020年02月12日 22:05


>たーぼーさん
>
>三十八 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)
> 五祖曰く,譬(たと)えば水牯牛(すいこぎゅう)の窓櫺(そうれい)を過ぐるが如く,頭角(ずかく)四蹄(してい)都(す)べて過ぎ了(おわ)る,甚麼(なん)に因(よ)ってか尾巴(びは)過ぐることを得ざる。
> 無門曰く,若(も)し者裏(じゃり)に向かって顛倒(てんどう)して,一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)し,一転語(いってんご)を下し得ば,以って上四恩に報じ,下三有を資(たす)くべし。其れ或いは未だ然(しか)らずんば,更に須らく尾巴を照顧(しょうこ)して始めて得べし。
>頌(じゅ)に曰く,
> 過ぎ去れば抗塹(きょうぜん)に堕(お)ち,回(かえ)り来たれば却(かえ)って壞(やぶ)る。
>者些(しゃし)の尾巴子,直に是れ甚(はなは)だ奇怪。
>
>
>何でも質問していいなら、この公案の牛の尻尾とは端的に言えば何だと思いますか?
>愚さんなら室内でどう答えますか?

室内のことは、さすがにオープンにできませんが・・・・
見方は、大悟徹底して、悟り臭さもなくなったとき、なにが残るか、ということですね。

拶所としては、
その牛はどこにいるか?
その牛をここに引き出せ
その牛いつの時代に生まれたか?
その牛、東に過ぎたか、西に過ぎたか?
牛、ソウレイを過ぎる
公案の全体
その牛、おすかめすか?
子を産んでみよ

一応難透になっていますが・・・・その境涯になるにはなかなか大変ですね
cheaptrick
2020年02月15日 11:34
私のような参禅経験のない素人は、室内を終えれば大悟徹底まで行けるだろうと勝手に思ってます。しかし渡辺さんは、だいぶ前の動画で、チラッと「室内を終えたところで、本質的なことが分からなければ何にもならない」と言われていました。実際、そんなものなんでしょうか? 室内の公案修行を終えたことは、今の渡辺さんにとって、どのようにプラスになっていますか?
2020年02月15日 15:07


>cheaptrickさん
>
>私のような参禅経験のない素人は、室内を終えれば大悟徹底まで行けるだろうと勝手に思ってます。しかし渡辺さんは、だいぶ前の動画で、チラッと「室内を終えたところで、本質的なことが分からなければ何にもならない」と言われていました。実際、そんなものなんでしょうか? 室内の公案修行を終えたことは、今の渡辺さんにとって、どのようにプラスになっていますか?

なにか、ヘソみたいなものがあって、公案はその周辺に導こうとするものです。

室内を終えれば、なんとかなるとわたしも思っていたのですが、実際は、違いました。不満が残りました。そこで、ほかの室内もやったのですが、やはり不満が残りました。
ヘソがいまいち手に入らないんです。身につかないんです。

たしか、そのころだったと思いますが、そのとき、自分はひとつづつ進んできたと思っていたのですが、実際は、禅など始める前と一緒のところにいたんだと気が付きました。

結構、かなりのショックで、茫然となりました。結局、あらゆる努力は無駄だったのかなと思いました。

そのころ、やっと、仏教や禅の呪縛から逃れられたような気がします。仏教や禅は非常によくできていて、どうにもひとを虜にしてしまうのです。

そんなこんなで、ずいぶんサッパリしました。

公案は、元来、唐の時代の善が一番盛んだったころの禅僧の追体験をしようと始められたのだと思います。天才的な発想です。

おどろくべきほど、うまくできています。先人の慈悲心を感じます。公案にはまる人は、やったらいいと思います。

いまではわからないのですが、公案をやったことで、それらは身についているんだと思います。いま、見直してみると、むかし、なんだかよくわからなかったものが、結構、ハッキリ見通せるようになっていますから・・・・

そういう意味で感謝すべきでしょうね

いまでも、坐ると・・・坐らなくてもですが・・・・あたらしい発見がしょっちゅうあります。面白いです。公案の意味が深くわかったりします。ああ、こういうことだったのか、と。このゲームは終わりそうにありません。どこまで行くのか、NOBODY KNOWS・・・・・

cheaptrick
2020年02月15日 19:09
>愚さん

ありがとうございました。室内を終えた方のリアルな体験談が初めて聞けました。

誰の言葉か忘れましたが、公案「を」修行するのではなくて、公案「で」修行する、ということでしょうか。そこを勘違いすると、「室内を終えた」ということが、かえって束縛になるのかも知れませんね。

たしかに、唐代の禅僧たちは公案の修行などしていません。彼らは、奥底からわき起こってくる、自前のオリジナルな公案――私とは何か?とか、この生の意義とは何か?とか、この世界とは何か?とか――をもって修行したんでしょう。エンジンで動いていたわけです。風まかせでは、あそこまで行けなかったのかも知れません。

室内を終えても満足できなかった渡辺さんも、エンジン駆動なんでしょうね。
地球人
2020年02月16日 11:54
禅の公案はほとんど知らないのですが・・

室内とは自我のことですか?
散歩好き
2020年02月16日 20:28
三十八 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)
 牛(=自我)の頭も胴体もないと分かった。何故か思い返してみると尻尾はあったのかそれとも見逃したのか忘れてしまった。
 探そうにも記憶がない、何か残っているのはないかと言われると不安になる。無いでいいのに、ありもしない尻尾を勝手に妄想して出現させてしまう癖がどこかにあるようだ。無いということにこだわっていることさえも無くさなければならない。無さえこだわらない。
 ちょっとした思いにもとらわれない。無いにものにとらわれるな。無いも無いなら、何があってもいいということ。二元対立の世界に生きていても何の支障もない。一周回って元の位置に戻っただけ。*_*
2020年02月17日 17:15


>散歩好きさん
>
>三十八 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)
> 牛(=自我)の頭も胴体もないと分かった。何故か思い返してみると尻尾はあったのかそれとも見逃したのか忘れてしまった。
> 探そうにも記憶がない、何か残っているのはないかと言われると不安になる。無いでいいのに、ありもしない尻尾を勝手に妄想して出現させてしまう癖がどこかにあるようだ。無いということにこだわっていることさえも無くさなければならない。無さえこだわらない。
> ちょっとした思いにもとらわれない。無いにものにとらわれるな。無いも無いなら、何があってもいいということ。二元対立の世界に生きていても何の支障もない。一周回って元の位置に戻っただけ。*_*
>
以前にも書きましたが・・・・・
見方は、大悟徹底して、悟り臭さもなくなったとき、なにが残るか、ということですね。 牛は自我ではありません。本来の面目=仏のことです。

室内の拶所としては、
その牛はどこにいるか?
その牛をここに引き出せ
その牛いつの時代に生まれたか?
その牛、東に過ぎたか、西に過ぎたか?
牛、ソウレイを過ぎる、どういうことか?
公案の全体
その牛、おすかめすか?
子を産んでみよ

一応難透になっていますが・・・・その境涯になるにはなかなか大変ですね

IP
散歩好き
2020年02月17日 21:19
愚さま

ありがとうございます。
「本体の面目」はそのものであり知る対象ではない
生まれるまえからある意識?*_*

猫も犬も持ち合わせている汚されることのない意識。

「牛=本来の自己=仏」である身体も心もたんなる一時的な現れ?

見えているのも単なる意識の投影・・・、それなら何もなくて誰もいない。

考えもわからないことを考えること=牛の尻尾 

ということで分らないは分からないで、止めます。 
2020年02月17日 21:25


>散歩好きさん
>
>愚さま
>
>ありがとうございます。
>「本体の面目」はそのものであり知る対象ではない
>生まれるまえからある意識?*_*
>
>猫も犬も持ち合わせている汚されることのない意識。
>
>「牛=本来の自己=仏」である身体も心もたんなる一時的な現れ?
>
>見えているのも単なる意識の投影・・・、それなら何もなくて誰もいない。
>
>考えもわからないことを考えること=牛の尻尾 
>
>ということで分らないは分からないで、止めます。 
>
この公案は、大悟徹底した後、なにが残りますか?ということです。単純です。

そうは簡単に大悟徹底するわけではないので、苦労するわけです
散歩好き
2020年02月17日 21:47
事実だけの世界。

ありきたりの普段の生活があるだけ。*_*
2020年02月17日 22:32


>散歩好きさん
>
>事実だけの世界。
>
>ありきたりの普段の生活があるだけ。*_*

それはそうですがね・・・・・