バカヤロー禅

KB会関係各位
田北です。
 1月31日KB会の動画をアップしました。
https://youtu.be/4bA9GzBFhfQ

できれば、みなさんに実験していただき、その結果を教えていただければ、幸いです。

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この記事へのコメント

2020年02月03日 04:54
うん?
じゃあおいらはありがたい禅をやろうかな^_^
地球人
2020年02月03日 07:23
バカヤロー禅は溜まっていた鬱憤を吐き出したから自我がサッパリしただけです。カラオケとか、山に登って「ヤッホー!」とか・・と同じです。
あんちょこにできてよいとおもいますが・・

知性・理性に働く寂静の坐禅とはレベルが違います。
地球人
2020年02月03日 09:51
バカヤロー!と嫌な想いを吐き出す。

う~ん、嫌な想いをじっくり味わう。

全く違います。

通行人
2020年02月03日 10:06
さすが、、、熱湯風呂に耐えたんだね。^^
地球人
2020年02月03日 10:11
愚さんは坐禅のできない一般人に、安直な方法を教えたのだろう。
通行人
2020年02月03日 10:22
煽り運転のように、その場でやると拙いとおもう。^^
地球人
2020年02月03日 10:36
KB会の動画を観られた良い子の皆さま、

分かってると思いますが、お家に帰ってからの話です。 以上 
地球人
2020年02月03日 11:00
アートマンの輪廻転生の件ですが・・・

仏陀は斯様に申しております。
まだ先かと思いますが、わたしも成仏したいものです。


この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、行き着く先は無明にのみ存する。

この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。



年寄りの初心者
2020年02月03日 11:52
鶏と卵のようになりますが そもそも煩悩が起きるのは自己があるから とも言えると思うのですが 煩悩を消していく作業で自己意識が小さくなる と言うことでよろしいでしょうか?
悟り体験がなくても コツコツやることで そこそこいけるでしょうか?
マイヤーマイヤー
2020年02月03日 14:04
マイヤーマイヤ
2020年02月03日 14:05
年寄りの初心者
2020年02月03日 14:17
人生罰ゲームのビデオみました 
やはり最後のところ  悟りに連結しているのは理解しましたがコツコツだけではダメなんでしょうか?
地球人
2020年02月03日 20:27
人生罰ゲームの動画はまだ見てませんが・・・

人生罰ゲームと認識するのは何故なんでしょうか?


自分の願望(欲望)と現実が一致しないのが原因であると考えますが・・・

それは当然かとおもいますが・・縁起の運があるから、思わない人も数多く居るとは思いますが・・

望みを小さくしても、やはり、嫌な事は数多くありますね。

諸法無我、因果因縁ですね。

仏陀は「一切皆苦」と言いました。

良寛は嵐に遭う時節には遭うがよく候・・・と言いましたか、



宮啓
2020年02月03日 21:17
 愚さんが元気溌剌と話しているのを聴いて嬉しく思います。

 人は、趣味・特技で繋がることが多々あるのですが、クリシュナムルティは、悩み・苦しみが共通の要素である旨を述べているように思います。

 戦争経験者は親友よりも戦友と言います。共通の悩み・苦しみを共にした友との深いつながり。

 平時においては、悩み・苦しみを顔に出すことを良しとせず明るく振る舞うことを良しとする風潮を感じます。

 私の周囲も悩み・苦しみを顔に出さないので、クリシュナムルティを読むまでは、周囲の者は悩み・苦しみをほとんど持たずに悠々と生きているのか・・と勘違いしていたほどです。

 このKB会においても、悩み・苦しみが共通の要素として繋がりが深まるとよいですね。。

 おまけに、悩み・苦しみが解消するならば・・、これを世に広めてゆくこと・・、あるいは自然に、必然的に広がってゆく可能性もありますね。。
地球人
2020年02月03日 21:31
愚さんの悩み苦しみは、自業自得だと想像するので、なんとも・・・
2020年02月03日 21:56


>地球人さん
>
>バカヤロー禅は溜まっていた鬱憤を吐き出したから自我がサッパリしただけです。カラオケとか、山に登って「ヤッホー!」とか・・と同じです。
>あんちょこにできてよいとおもいますが・・
>
>知性・理性に働く寂静の坐禅とはレベルが違います。

ご意見、ありがとうございます
2020年02月03日 22:16


>年寄りの初心者さん
>
>鶏と卵のようになりますが そもそも煩悩が起きるのは自己があるから とも言えると思うのですが 煩悩を消していく作業で自己意識が小さくなる と言うことでよろしいでしょうか?
>悟り体験がなくても コツコツやることで そこそこいけるでしょうか?

コツコツやるしかありませんし、コツコツやることで十分です。重荷を下ろしていくんだ、という決意があれば十分です。

仏教も何もかも必要ありません。もちろん知識はあってもいいですが、二義的です。

ものすごく単純です。あるがままの自己に直面していけばいいだけです。不安、心配、心細さ、悩み、等々です。

直面して、ひとつひとつ終わらせていくだけです。少しづつでいいです。骨が折れる作業ですが、得るものは大きいです。

自我が煩悩や条件付けを作り、煩悩や条件付けが自我を作ります。両者は、あい伴っています。

より正確にいえば、自我=煩悩です。自我と煩悩は別のものではありません。煩悩、条件付けを終わらせていくことは、そのまま、自我を減らしていくことです。
2020年02月03日 22:30


>地球人さん
>
>愚さんは坐禅のできない一般人に、安直な方法を教えたのだろう。

坐っても、坐っても、日常の問題が解決できていないというのが実際だと思っています・・・・わたしがそうでしたから・・・・

日常の悩みが解決しないんです。これじゃ、禅が日常からの単なる逃避になってしまいます。これがわたしの問題意識です。
地球人
2020年02月03日 22:54
>地球人さん
>
>>愚さんは坐禅のできない一般人に、安直な方法を教えたのだろう。

>坐っても、坐っても、日常の問題が解決できていないというのが実際だと思っています・・・・わたしがそうでしたから・・・・

>日常の悩みが解決しないんです。これじゃ、禅が日常からの単なる逃避になってしまいます。これがわたしの問題意識です。

坐禅しても、悩みを解決できるわけではありませんね。

じっくり、熱湯風呂に入って味わっただけですから、、

私が問うたのは、バカヤローと坐禅の二つの方法の違いです。

バカヤローは後付けでやるのはいいですが・・いずれ、直接。その場でバカヤローを言ってしまうのではないかと? 危惧したのです。

何も問題なければいいですが、相手あってことですから・・

地球人
2020年02月03日 23:24
バカヤローで解決しない複雑な悩みもありますからね。
地球人
2020年02月04日 00:15
言葉の選択を誤りました。

解決ではなく解消。
2020年02月04日 01:34


>地球人さん
>
>人生罰ゲームの動画はまだ見てませんが・・・
>
>人生罰ゲームと認識するのは何故なんでしょうか?
>
>
>自分の願望(欲望)と現実が一致しないのが原因であると考えますが・・・
>
>それは当然かとおもいますが・・縁起の運があるから、思わない人も数多く居るとは思いますが・・
>
>望みを小さくしても、やはり、嫌な事は数多くありますね。
>
>諸法無我、因果因縁ですね。
>
>仏陀は「一切皆苦」と言いました。
>
>良寛は嵐に遭う時節には遭うがよく候・・・と言いましたか、
>

まあ、よろしければ、まず動画を見てください
2020年02月04日 01:53


>宮啓さん
>
> 愚さんが元気溌剌と話しているのを聴いて嬉しく思います。
>
> 人は、趣味・特技で繋がることが多々あるのですが、クリシュナムルティは、悩み・苦しみが共通の要素である旨を述べているように思います。
>
> 戦争経験者は親友よりも戦友と言います。共通の悩み・苦しみを共にした友との深いつながり。
>
> 平時においては、悩み・苦しみを顔に出すことを良しとせず明るく振る舞うことを良しとする風潮を感じます。
>
> 私の周囲も悩み・苦しみを顔に出さないので、クリシュナムルティを読むまでは、周囲の者は悩み・苦しみをほとんど持たずに悠々と生きているのか・・と勘違いしていたほどです。
>
> このKB会においても、悩み・苦しみが共通の要素として繋がりが深まるとよいですね。。
>
> おまけに、悩み・苦しみが解消するならば・・、これを世に広めてゆくこと・・、あるいは自然に、必然的に広がってゆく可能性もありますね。。

わたしは、一切の・・・・繰り返します、一切の・・・・悩み・苦しみは、解消できると主張しています。

そして、いまの一般的なスタイル・・・・悟りを求めての修業というのは、主客転倒しているといっています。

わたしたちは、日常の問題を解決することに全力を傾けるべきであって、そのプロセスのなかで、悟りということもおのずからでてくるということです。

つまり、悟りということは目標ではなく、プロセスととらえるべきです。

悟りから、法理を作るのはできますが・・・・そのほうが、きれいなんで、いまはそうなっていますが・・・

日常の問題を解いていけば、必然的に悟りの問題はでてきますが、それを目標にすることは、非常に抽象的なものを追いかけることになり、賛同できません。

一方、日常の問題は、具体的で、ハッキリしています。ここから始めるべきです。それがわたしが感じていることです。

早い話が、仏教理論の勉強に一生を費やするのはバカバカしい、マニアチックな話だということです。わたしの人生は、この日常を離れてないという単純な理由からです。
2020年02月04日 01:54


>地球人さん
>
>愚さんの悩み苦しみは、自業自得だと想像するので、なんとも・・・

うーん、返す言葉がありませんが・・・・
2020年02月04日 02:02


>地球人さん
>
>>地球人さん
>>
>>>愚さんは坐禅のできない一般人に、安直な方法を教えたのだろう。
>
>>坐っても、坐っても、日常の問題が解決できていないというのが実際だと思っています・・・・わたしがそうでしたから・・・・
>
>>日常の悩みが解決しないんです。これじゃ、禅が日常からの単なる逃避になってしまいます。これがわたしの問題意識です。
>
>坐禅しても、悩みを解決できるわけではありませんね。
>
>じっくり、熱湯風呂に入って味わっただけですから、、
>
>私が問うたのは、バカヤローと坐禅の二つの方法の違いです。
>
>バカヤローは後付けでやるのはいいですが・・いずれ、直接。その場でバカヤローを言ってしまうのではないかと? 危惧したのです。
>
>何も問題なければいいですが、相手あってことですから・・
>
それはそうです
みゅう
2020年02月04日 07:15
つたないご報告

眠い、布団の外は寒い、トイレに行きたい、起きて雑用をしなくてはいけない、うつらうつらしていて気持ち良い、時間がどんどん過ぎてゆく
少なくともこれら六つが大きくなったり小さくなったり、鮮明になったり連想を広げたり、互いに結びついたり離れたり、色々な感じをふりまきながらグルグル回りを繰り返している。
 ここで、大きな声で数回ムーという。
膀胱の鈍い痛みの感じ以外が一瞬消える。この痛みは秒単位くらいで周期的におこり、元のグルグル回りが分単位くらいでだんだん復活してくる。
 
 今朝寝床で悶々とするわたしの実験報告でした。 
年寄りの初心者
2020年02月04日 09:11
悟りを目指す座禅は何も考えないで座るという事になってますが、 
座禅中ランダムに上ってくる(感情を伴う)記憶を待つ必要は無く
座禅中であっても むしろ積極的に嫌なことや恥ずかしかった過去を思い出して終わらせて行った方が効率的と解釈してよろしいでしょうか?
これで良ければ 禅の指導とも南方仏教とも 違いますが 今を身軽にと考えると合理的に思います いかがでしょうか?
Bananafish
2020年02月04日 09:27
愚さん

坐り込んでも日常の問題が解決しないのは、なぜでしょうか?
お節介な見物人
2020年02月04日 13:02
 愚さん、ご報告いたします。

 愚さんのおっしゃるとおり、気づいた時に発散させることが非常に有効のようです。後出しじゃんけんのようですが、私は車の中で短く「アッー」「ワァー」と精一杯力の限り吐き出すとスッキリしていました。

 感情は身体的に鬱積した情動であり膨大なエネルギーのようです。脳の道徳・倫理という思考上での処理限界を超えてしまうようです。学校で教わり訓練したとしても湧き起こってくるエネルギーを制御できるものではありません。先人があえて概念化して「怒り」「喜び」「憎しみ」「悲しみ」「苦悩」「嫉妬」・・という言葉をつけてくれたようです。
 普通は、スポーツなどの身体的な発散でもしなければ解消できないようです。不良と呼ばれている人が攻撃的なエネルギーをスポーツに転換することはよく知られています。また、子供が思い切り泣いて発散するとケロッとすることも同じ原理かも知れません。
 感情のエネルギーが身体内で封じ込めるられる限界を超えると、妄想(=思考・道徳・倫理)の世界から現実の世界に働きかけなければ収拾がつかなくなるようです。「暴力」「殺人」「ストーカー」「誹謗中傷」という現実的な物理作用となって表現せざるを得なくなるのではないでしょうか。「いじめ」として実害が及んでいるのを新聞やニュースで目にします。

 「能」の話になりますが、「能」では様々な面(=自我)を被ってこの現世で鬱積した感情を細やかに表現しているようです。「神・男・女・狂・鬼」。あくまでも演じているということであって能面は人間の内面を表す仮の姿のようです。能面の内側には変わらない者がいて様々な面によって内心が表現される。  我々の内心はその都度移り変わる単なる面でしかないかもしれません。誰であっても同じ面として現れる可能性があります。いつ狂になるか鬼になるかはわかりません。人間の持っている本質は変わらず、だれでも豹変して「感情」が爆発してしまう可能性があります。根本煩悩に翻弄されている人間の姿をみせてくれているようです。

 自我さんの思考エネルギーでは「感情」のエネルギーには太刀打ちできるものではなさそうです。身体のほんの一部である脳がどうして制御できるでしょうか。腹の底から湧き起こるとてつもないエネルギーのようです。ガス抜きをしておかないと、制御できなくエネルギーとして現実の世界で吐き出さなければならなくなるようです。

 傷つく前の防衛と清浄をかねて、お気に入りのマントラで処理しています。心が何かをとらえようとする瞬間に「意味ないじゃん」「無意味だよね」「どうでもいいですよ」「そんなの関係ない」「知ってどうなる」「ほっとけ」とブロックするようにしています。誰にもわからないマントラであり口癖にすればよからぬことに近づかなくてもいいようです。
地球人
2020年02月04日 13:52
感情は理屈では解消できません。

お節介な見物人
2020年02月04日 15:03
地球人さん

ご指摘のとおりです。
実践あるのみ。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月04日 20:01
仏教の怒りには何種類かあって、そのベースがドーサという怒りになるらしい。怒りというより、微妙な嫌な感じかな。
抑えるのが困難な強烈な怒りはドーサの成長発展系。

火事も手遅れにならないように早めに火を消さなければどうしようもないように、怒りもドーサのうちに消してしまうのがよいでしょう。
2020年02月04日 20:22


>みゅうさん
>
>つたないご報告
>
>眠い、布団の外は寒い、トイレに行きたい、起きて雑用をしなくてはいけない、うつらうつらしていて気持ち良い、時間がどんどん過ぎてゆく
>少なくともこれら六つが大きくなったり小さくなったり、鮮明になったり連想を広げたり、互いに結びついたり離れたり、色々な感じをふりまきながらグルグル回りを繰り返している。
> ここで、大きな声で数回ムーという。
>膀胱の鈍い痛みの感じ以外が一瞬消える。この痛みは秒単位くらいで周期的におこり、元のグルグル回りが分単位くらいでだんだん復活してくる。
> 
> 今朝寝床で悶々とするわたしの実験報告でした。 

なるほど・・・・・
2020年02月04日 20:33


>Bananafishさん
>
>愚さん
>
>坐り込んでも日常の問題が解決しないのは、なぜでしょうか?

原理的には解消するはずですが、自我の不在を見たところで、条件付けが簡単に落ちるわけではありません。

坐禅は、自我の不在を見ることを助けてくれ、その結果、条件付けも徐々に薄らいでいくのですが、間接的です。

条件付けがあらわになるのは、日常ですから、日常で条件付けと対峙し、終わらせていけば、そのほうが、手っ取り早いでしょう。

条件付けを終わらせることは、即、自我を減らしていくことを意味します。ですから、坐禅のサポートにもなるわけです

2020年02月04日 20:41


>年寄りの初心者さん
>
>悟りを目指す座禅は何も考えないで座るという事になってますが、 
>座禅中ランダムに上ってくる(感情を伴う)記憶を待つ必要は無く
>座禅中であっても むしろ積極的に嫌なことや恥ずかしかった過去を思い出して終わらせて行った方が効率的と解釈してよろしいでしょうか?
>これで良ければ 禅の指導とも南方仏教とも 違いますが 今を身軽にと考えると合理的に思います いかがでしょうか?

わたしは、そう思っています。簡単にいえば、いまの公案禅の、公案のかわりに、悩み事を持ってくればいいということです。

そしてここが大事なのですが、悩みをいじくりまわさないで、その悩みの源泉である感覚とひとつになって味わうということです。

というのは、調べてみると、悩みの思考の背後には、ある種の肉体的な感覚があり、それが脳を刺激して、悩みに変わっています。

これが難しければ、悩みの感覚、イヤダナーとか、自分で言葉を探して、それとともにいればいいと思います。

いずれにせよ、あたまを使ってああだこうだ考えるのはまずいです。

そうはいっても、つい考えてしまう場合もありますが、それは放っておいて、それ以上考えないようにすればいいと思います。

このためには、どうやるか、というハウツーよりも、自分が、悩みを解消するために坐禅しているんだということを十分に理解しておくことが大事だと思います。
Bananafish
2020年02月04日 20:55
愚さん

ありがとうございます。
特定の条件付けというか、悩みに直結するものを
ピンポイントで叩くならば、そのやり方のほうがダイレクトであると
いう感じでしょうか。参考になります。

ところで、過去の傷で、忘れてしまったもの、潜在意識(?)に
眠ってなかなか出てこないものを掘り起こすための良いアイディアなど
ありましたら、ぜひ教えてください。そこら辺を実験している
ところなので ...
2020年02月04日 20:59


>お節介な見物人さん
>
> 愚さん、ご報告いたします。
>
> 愚さんのおっしゃるとおり、気づいた時に発散させることが非常に有効のようです。後出しじゃんけんのようですが、私は車の中で短く「アッー」「ワァー」と精一杯力の限り吐き出すとスッキリしていました。
>
わたしも、車の中で、なんか頭の調子が悪いと、体中の力をいれて、わー!!!と叫んでいます。サッパリします。

> 感情は身体的に鬱積した情動であり膨大なエネルギーのようです。脳の道徳・倫理という思考上での処理限界を超えてしまうようです。学校で教わり訓練したとしても湧き起こってくるエネルギーを制御できるものではありません。先人があえて概念化して「怒り」「喜び」「憎しみ」「悲しみ」「苦悩」「嫉妬」・・という言葉をつけてくれたようです。
> 普通は、スポーツなどの身体的な発散でもしなければ解消できないようです。不良と呼ばれている人が攻撃的なエネルギーをスポーツに転換することはよく知られています。また、子供が思い切り泣いて発散するとケロッとすることも同じ原理かも知れません。
> 感情のエネルギーが身体内で封じ込めるられる限界を超えると、妄想(=思考・道徳・倫理)の世界から現実の世界に働きかけなければ収拾がつかなくなるようです。「暴力」「殺人」「ストーカー」「誹謗中傷」という現実的な物理作用となって表現せざるを得なくなるのではないでしょうか。「いじめ」として実害が及んでいるのを新聞やニュースで目にします。
>
わたしは、日常の刻々の感情を、わたしたちは、抑え込み、それを大事にせず、捨てているんだと思います。

ところが、捨てたつもりが、ちゃっかり、無意識に抑圧されて残っているわけです。これが悪さをして、ゆがんだ感情を生んだり、悩みになったりしてくるわけです。

だから、これを解放しようじゃないかということ界への扉にもなっているということです。一切の宗教は必要ありませんし、もし、使うにしても、宗教のしもべではありません。

宗教体系は、宗教が一番で、自分がそれに従うというスタイルです。そうじゃなくて、逆転させます。わたしが一番で、宗教はその手段に過ぎないということです。

> 「能」の話になりますが、「能」では様々な面(=自我)を被ってこの現世で鬱積した感情を細やかに表現しているようです。「神・男・女・狂・鬼」。あくまでも演じているということであって能面は人間の内面を表す仮の姿のようです。能面の内側には変わらない者がいて様々な面によって内心が表現される。  我々の内心はその都度移り変わる単なる面でしかないかもしれません。誰であっても同じ面として現れる可能性があります。いつ狂になるか鬼になるかはわかりません。人間の持っている本質は変わらず、だれでも豹変して「感情」が爆発してしまう可能性があります。根本煩悩に翻弄されている人間の姿をみせてくれているようです。
>
なるほどね・・・・聖書の詩編でも、さまざまな感情が描かれていて、修行者はそれを毎日読むと聞いたことがあります。

> 自我さんの思考エネルギーでは「感情」のエネルギーには太刀打ちできるものではなさそうです。身体のほんの一部である脳がどうして制御できるでしょうか。腹の底から湧き起こるとてつもないエネルギーのようです。ガス抜きをしておかないと、制御できなくエネルギーとして現実の世界で吐き出さなければならなくなるようです。
>
> 傷つく前の防衛と清浄をかねて、お気に入りのマントラで処理しています。心が何かをとらえようとする瞬間に「意味ないじゃん」「無意味だよね」「どうでもいいですよ」「そんなの関係ない」「知ってどうなる」「ほっとけ」とブロックするようにしています。誰にもわからないマントラであり口癖にすればよからぬことに近づかなくてもいいようです。

感情は一種のエネルギーでしょう。それを使うもの=自我がいなければ、おのずから消えていきます。実体はありません。

ですから、どのように深い、つらい、心の傷でも、かならず癒せるはずなんです。
2020年02月04日 21:10


>Bananafishさん
>
>愚さん
>
>ありがとうございます。
>特定の条件付けというか、悩みに直結するものを
>ピンポイントで叩くならば、そのやり方のほうがダイレクトであると
>いう感じでしょうか。参考になります。
>
>ところで、過去の傷で、忘れてしまったもの、潜在意識(?)に
>眠ってなかなか出てこないものを掘り起こすための良いアイディアなど
>ありましたら、ぜひ教えてください。そこら辺を実験している
>ところなので ...
>
これはその気になって一所懸命思い出すしかないですね。どんなイヤなことがあったかな・・・・とか、不条理なコンプレックスとか・・・・

こうやって、精神を浄化するのは、非常に効果的です。悟りの眼もハッキリしてきます
2020年02月04日 23:44
カーストはもともと進化段階のことでした。

バラモン 第五段階 道徳 安らぎ 如来
クシャトリヤ 第四段階 義務 責任 阿羅漢
ヴァイシャ 第三段階 情熱 幸福 不還
シュードラ 第二段階 安全 自由 一来
チャンダーラ 第一段階 肉欲 知識 預流
地球人
2020年02月05日 02:22
バカヤロー禅を拝聴しました。良い講義でした。

その日の事はその日の内に、ですね。
時間を置いてしまうと、対象の敵が内に入ってしまって外に無いので、バカヤロー!が空ぶってしまう。手応えがない。

消極的、受動的、ネガティブ・・・被害者の姿勢を改める必要があるのではないでしょうか。積極的、能動的、ポジティヴな姿勢で社会に望むことが大事でしょう・・・それができれば、どんな事を体験しても、気にならないと思うのですが・・それでも、プライド、自尊心が傷つくことはありますね。

余談ですが・・・愚さんは、バカヤロー!の対象の存在になってることはないですか? いえ、冗談です。m(_ _)m





地球人
2020年02月05日 04:36
ネット社会では皆さん、twitterで「バカヤロー!」の連呼ですが・・

これは被害者意識で加害者なのです。

被害者意識が強くなったのもエゴでしょう。 
みゅう
2020年02月05日 06:40
つたないご報告2みゅう

みゅう
2020年02月05日 07:23
つたないご報告2

パート1:”からす”で思い浮かぶこと

黒い大きな鳥。
くちばしが大きい。
夜明け前から飛び回っている。
鳴き声が大きくバラエティーがある、ことばがあるみたい。
頭が良く、人を識別しているらしい。
そういえば友人が通勤途中、ごみを散らかしているカラスにイラついてのみ終わった清涼飲料の空き缶を投げつけたら駅についたころ空き缶が空から落ちてきた、復讐された、なんて話を聞いたことがある。
解剖的に、明らかにハトなどとは異なる脳の外観をもち、、、

楽しいけれどきりがないのでここらで、、、

パート2:ムームー言いながら”からす”で思い浮かぶこと。

フェンスに止まってこちらを見てまばたきしている。
ずっと、、、

一息入れて、もう一度   からす@ムームー!

夜明けの空をバックに群れで飛び回っている。
ずっと、、、

つまらないので終了

報告終わり

この違いはなんでしょうか?
個人差は大いにあるでしょうが。


2020年02月05日 07:36
バカヤロウ坐禅は鏡の前でやると効果倍増?
地球人
2020年02月05日 07:51
>バカヤロウ坐禅は鏡の前でやると効果倍増?

 なるほど、、
年寄りの初心者
2020年02月05日 09:52
お忙しい所恐縮です つまらない内容ですがご意見いただければ幸いです。

赤ん坊が人見知りするのは自己を意識し、心地良い人(母親)とそうでない人とを区別するところから、  
条件付けが発生するとするとここからだと

年寄りですが人の集まる所が(子供の頃から)いまだに苦手です 
仮にこれを克服するとなるとここまで遡る必要があるのでしょうか?
それともバカヤロー禅を使って 居心地悪いゾ~!と吐き出していけば
ソコソコ行きそうでしょうか?

禅寺で若い坊さんと話をした所
悟り体験をしてから無防備になって よく笑うようになったと聞き
羨ましく思うのですが
この辺り体験をしなくても可能だと思われますでしょうか?
(僧院では体験によるものか葛藤を吐き出したのかは分けれないとは思いますが)
2020年02月05日 10:09


>年寄りの初心者さん
>
>お忙しい所恐縮です つまらない内容ですがご意見いただければ幸いです。
>
>赤ん坊が人見知りするのは自己を意識し、心地良い人(母親)とそうでない人とを区別するところから、  
>条件付けが発生するとするとここからだと
>
>年寄りですが人の集まる所が(子供の頃から)いまだに苦手です 
>仮にこれを克服するとなるとここまで遡る必要があるのでしょうか?
>それともバカヤロー禅を使って 居心地悪いゾ~!と吐き出していけば
>ソコソコ行きそうでしょうか?
>
>禅寺で若い坊さんと話をした所
>悟り体験をしてから無防備になって よく笑うようになったと聞き
>羨ましく思うのですが
>この辺り体験をしなくても可能だと思われますでしょうか?
>(僧院では体験によるものか葛藤を吐き出したのかは分けれないとは思いますが)
>

ひとの集まるところが苦手でいいじゃありませんか。なんで、よく笑うようにならなきゃいけないんですか?

すべきことは、簡単です。
1、ひとの集まるところにいたら、居心地の悪さを十分に自覚する。

2、禅の坊さんの話を聴くときに、かれが、うらやましいと自分が感じている。羨望の感覚を味わうことです。

以上が、あるがままの自分でしょ?

そして、このような観察を続けながら、自分が、しょっちゅう、「あるべき自己」と「あるがままの自己」と比較していることに気が付けばいいです。

この両者の矛盾が、自我です。大事なのは、あるがままの自己です。あるがままの自己を自覚しているうちに、なぜか、あるがままの自己が変化してきます。削れて行きます。

これが、只管打坐の本質です。

しかし、自覚することは難しいので、わかりやすい感情から入っていき、深いこころの傷までいやしていけないかな、と思ったのが、バカヤロー禅です


2020年02月05日 10:17


>愚さん
>
>
>>年寄りの初心者さん
>>
>>お忙しい所恐縮です つまらない内容ですがご意見いただければ幸いです。
>>
>>赤ん坊が人見知りするのは自己を意識し、心地良い人(母親)とそうでない人とを区別するところから、  
>>条件付けが発生するとするとここからだと
>>
>>年寄りですが人の集まる所が(子供の頃から)いまだに苦手です 
>>仮にこれを克服するとなるとここまで遡る必要があるのでしょうか?
>>それともバカヤロー禅を使って 居心地悪いゾ~!と吐き出していけば
>>ソコソコ行きそうでしょうか?
>>
>>禅寺で若い坊さんと話をした所
>>悟り体験をしてから無防備になって よく笑うようになったと聞き
>>羨ましく思うのですが
>>この辺り体験をしなくても可能だと思われますでしょうか?
>>(僧院では体験によるものか葛藤を吐き出したのかは分けれないとは思いますが)
>>
>
>ひとの集まるところが苦手でいいじゃありませんか。なんで、よく笑うようにならなきゃいけないんですか?
>
>すべきことは、簡単です。
>1、ひとの集まるところにいたら、居心地の悪さを十分に自覚する。
>
>2、禅の坊さんの話を聴くときに、かれが、うらやましいと自分が感じている。羨望の感覚を味わうことです。
>
>以上が、あるがままの自分でしょ?
>
>そして、このような観察を続けながら、自分が、しょっちゅう、「あるべき自己」と「あるがままの自己」と比較していることに気が付けばいいです。
>
>この両者の矛盾が、自我です。大事なのは、あるがままの自己です。あるがままの自己を自覚しているうちに、なぜか、あるがままの自己が変化してきます。削れて行きます。
>
>これが、只管打坐の本質です。
>
>しかし、自覚することは難しいので、わかりやすい感情から入っていき、深いこころの傷までいやしていけないかな、と思ったのが、バカヤロー禅です

付け加えますと、このような問いは、じつにいい問いです。わたしたちは、近くから始めないんです。色即是空とか、仏教理論とか、そういったものから始めてしまいます。そういうことに興味を持つのも悪くはないですが・・・わたしもそうでしたが・・・・そういうことより、キッカケは、もっと身近にあると思います。日常の自分のこころの働き、そこから、大きなものがつながっていると確信します。
年寄りの初心者
2020年02月05日 10:17
ご返答有難うございます

理解したつもりでもこうやって教えてもらうまで、、
情けない自分をじっくり たっぷり 味わいます

有難うございます
2020年02月05日 10:25


>愚さん
>
>
>>愚さん
>>
>>
>>>年寄りの初心者さん
>>>
>>>お忙しい所恐縮です つまらない内容ですがご意見いただければ幸いです。
>>>
>>>赤ん坊が人見知りするのは自己を意識し、心地良い人(母親)とそうでない人とを区別するところから、  
>>>条件付けが発生するとするとここからだと
>>>
>>>年寄りですが人の集まる所が(子供の頃から)いまだに苦手です 
>>>仮にこれを克服するとなるとここまで遡る必要があるのでしょうか?
>>>それともバカヤロー禅を使って 居心地悪いゾ~!と吐き出していけば
>>>ソコソコ行きそうでしょうか?
>>>
>>>禅寺で若い坊さんと話をした所
>>>悟り体験をしてから無防備になって よく笑うようになったと聞き
>>>羨ましく思うのですが
>>>この辺り体験をしなくても可能だと思われますでしょうか?
>>>(僧院では体験によるものか葛藤を吐き出したのかは分けれないとは思いますが)
>>>
>>
>>ひとの集まるところが苦手でいいじゃありませんか。なんで、よく笑うようにならなきゃいけないんですか?
>>
>>すべきことは、簡単です。
>>1、ひとの集まるところにいたら、居心地の悪さを十分に自覚する。
>>
>>2、禅の坊さんの話を聴くときに、かれが、うらやましいと自分が感じている。羨望の感覚を味わうことです。
>>
>>以上が、あるがままの自分でしょ?
>>
>>そして、このような観察を続けながら、自分が、しょっちゅう、「あるべき自己」と「あるがままの自己」と比較していることに気が付けばいいです。
>>
>>この両者の矛盾が、自我です。大事なのは、あるがままの自己です。あるがままの自己を自覚しているうちに、なぜか、あるがままの自己が変化してきます。削れて行きます。
>>
>>これが、只管打坐の本質です。
>>
>>しかし、自覚することは難しいので、わかりやすい感情から入っていき、深いこころの傷までいやしていけないかな、と思ったのが、バカヤロー禅です
>>
>付け加えますと、このような問いは、じつにいい問いです。わたしたちは、近くから始めないんです。色即是空とか、仏教理論とか、そういったものから始めてしまいます。そういうことに興味を持つのも悪くはないですが・・・わたしもそうでしたが・・・・そういうことより、キッカケは、もっと身近にあると思います。日常の自分のこころの働き、そこから、大きなものがつながっていると確信します。

そうだ、バカヤロー禅では、こうなります。

1、人の集まるところにいるとき、イヤだー!

2、お坊さんの話を聴くとき、ウラヤマシー!

これらになり切ったとき、いつ悟ってもおかしくないです
2020年02月05日 10:29


>年寄りの初心者さん
>
>ご返答有難うございます
>
>理解したつもりでもこうやって教えてもらうまで、、
>情けない自分をじっくり たっぷり 味わいます
>
細かい話ですが、「情けない」自分など、ありはしません。あるがままの自分があるだけです。
>有難うございます
年寄りの初心者
2020年02月05日 10:47
了解しました

たわいない日常が楽しみになりそうです
2020年02月05日 10:53


>年寄りの初心者さん
>
>了解しました
>
>たわいない日常が楽しみになりそうです

そうです、そうです。自分を観察するのは面白いんです。
こんなに面白いことはありません。おまけに、仏教とかより、はるかに多くのことを教えてくれたりします。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月05日 16:29
>バカヤロー!の対象の存在になってることはないですか? いえ、冗談です。

これはすごい視点です。

ネガティブ感情と主体である私を切り離して、ネガティブ感情だけを嫌になるくらい味わい尽すことによって、私からネガティブ感情を自然に消去するのが「バカヤロー禅」。これは効果があると思うけど、やはり被害者的な視点といえると思う。

他方で、自分がどれだけ多くの人間にネガティブ感情を味あわせたかという、加害者視点からの反省を徹底的に行うことができれば、自分のネガティブ感情なんかどうでもよくなって、自然に消えてしまうかもしれない。

浄土真宗の手法はこちらでしょう。
2020年02月05日 16:42


>地球人さん
>
>バカヤロー禅を拝聴しました。良い講義でした。
>
>その日の事はその日の内に、ですね。
>時間を置いてしまうと、対象の敵が内に入ってしまって外に無いので、バカヤロー!が空ぶってしまう。手応えがない。
>
>消極的、受動的、ネガティブ・・・被害者の姿勢を改める必要があるのではないでしょうか。積極的、能動的、ポジティヴな姿勢で社会に望むことが大事でしょう・・・それができれば、どんな事を体験しても、気にならないと思うのですが・・それでも、プライド、自尊心が傷つくことはありますね。

傷つくのを恐れないんです。傷つけばいいわけです。気になることは、気になればいい。それを感じるんです。観察するわけです。

傷つかないためには、傷つきやすくなければなりません。
>
>余談ですが・・・愚さんは、バカヤロー!の対象の存在になってることはないですか? いえ、冗談です。m(_ _)m

そういえば、ときおり、背中がゾクゾクっとしますね
>
>
>
>
>
>
たーぼー
2020年02月05日 18:52
他方で、自分がどれだけ多くの人間にネガティブ感情を味あわせたかという、加害者視点からの反省を徹底的に行うことができれば、自分のネガティブ感情なんかどうでもよくなって、自然に消えてしまうかもしれない。


自分を救えてない人間が人を救おうとするな、共に迷うだけだって事でしょう。
カルマさんに論破された不落因果、不昧因果もまだ訂正していない。
ここの参加者はみんな因果だけあって自由意思はないという見解みたいです。
もうヤフー掲示板の頃から、こんな事の繰り返しなんですよ。何回今まで見解を変えているか。私とも何回もやり合ってます。それでユーチューブでも講義してるんだから、面の皮が厚くないと禅者は務まらないですね。
たーぼー
2020年02月05日 19:10
ショーシャンクさんの解説を載せてあげる。目を覚ましてください。

わたしたち、迷いの衆生は、『落因果』つまり因果に落ちていて、果であるこの現象界であがいています。色の世界です。

その人たちにとって、この現象界は、鋼鉄のように強固なものです。

因果の世界にがんじがらめになっていて、『因果だからこうなるしかなかった』というような、環境や現象に支配されている、主体のない生き方です。



『不落因果』、因果に落ちない、というのは空の境地です。

十牛図で言えば、第八図 人牛倶忘 です。まんまるの円、空っぽです。

そこは現象世界も全くない、広々とした空間です。真空そのままです。



『不昧因果』、因果をくらまさない、というのは、十牛図で言えば、第九図と第十図です。真空妙有と真空妙用です。

無量心の現れと働きです。

果であるこの現象に主体的に働きかけることです。

自らを因として創造していくことです。



因果にとらわれ、因果の果である現象を堅固なものだと錯覚し、環境に支配されている生き方が、『因果に落ちる』迷いの衆生。



因果を超越したと思い込み、果である現象を無視して、悟りすまして、空の境地に浸ってるのが、『因果に落ちず』。



無量の境地にいながら、因果の果である現象を無視せず、誤魔化さず、現象に主体的に働きかけるのが『因果をくらまさず』。



この老人は、現象、現実から遊離した『空の悟り』を本当の悟りと思い込んでいて学人にもそんな生悟りを教えてしまった。

そのために500回も野狐に生まれ変わった。

自らが創造の主体であることがわからなかった。

しかし、百丈の『不昧因果』によって、自らの悟りが空一辺倒の生悟りにしか過ぎなく何の役にも立たないものであるとわかり、自らの主体を本当に悟り、野狐の身から脱した。

だから老人は『死んだ僧を弔う様式で葬儀をしてください』と頼んだのです。

百丈もその弔い方にふさわしいと判断してそうしたのです。



黄檗は、それを百も承知で、師の百丈に対して『あの老人が答えを誤らなかったらどうなっていたんですか?』と聞きます。

百丈は『近くに来い。教えてやろう。』と言います。

黄檗は百丈に近づいて、師である百丈の顔を平手打ちします。黄檗が主体を示したということです。主体の働きを示したのです。

 

  頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯



『不落』と『不昧』とは、コースの中の2つの料理、一つのサイコロの違う面であり、同じ類いのもの、似たようなものだ。

『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。

弟子の黄檗が師の百丈に平手打ちしたその働きからすると、千錯萬錯だ。

2020年02月05日 19:39


>たーぼーさん
>
>ショーシャンクさんの解説を載せてあげる。目を覚ましてください。
>
>わたしたち、迷いの衆生は、『落因果』つまり因果に落ちていて、果であるこの現象界であがいています。色の世界です。
>
>その人たちにとって、この現象界は、鋼鉄のように強固なものです。
>
>因果の世界にがんじがらめになっていて、『因果だからこうなるしかなかった』というような、環境や現象に支配されている、主体のない生き方です。
>
>
>
>『不落因果』、因果に落ちない、というのは空の境地です。
>
>十牛図で言えば、第八図 人牛倶忘 です。まんまるの円、空っぽです。
>
>そこは現象世界も全くない、広々とした空間です。真空そのままです。
>
>
>
>『不昧因果』、因果をくらまさない、というのは、十牛図で言えば、第九図と第十図です。真空妙有と真空妙用です。
>
>無量心の現れと働きです。
>
>果であるこの現象に主体的に働きかけることです。
>
>自らを因として創造していくことです。
>
>
>
>因果にとらわれ、因果の果である現象を堅固なものだと錯覚し、環境に支配されている生き方が、『因果に落ちる』迷いの衆生。
>
>
>
>因果を超越したと思い込み、果である現象を無視して、悟りすまして、空の境地に浸ってるのが、『因果に落ちず』。
>
>
>
>無量の境地にいながら、因果の果である現象を無視せず、誤魔化さず、現象に主体的に働きかけるのが『因果をくらまさず』。
>
>
>
>この老人は、現象、現実から遊離した『空の悟り』を本当の悟りと思い込んでいて学人にもそんな生悟りを教えてしまった。
>
>そのために500回も野狐に生まれ変わった。
>
>自らが創造の主体であることがわからなかった。
>
>しかし、百丈の『不昧因果』によって、自らの悟りが空一辺倒の生悟りにしか過ぎなく何の役にも立たないものであるとわかり、自らの主体を本当に悟り、野狐の身から脱した。
>
>だから老人は『死んだ僧を弔う様式で葬儀をしてください』と頼んだのです。
>
>百丈もその弔い方にふさわしいと判断してそうしたのです。
>
>
>
>黄檗は、それを百も承知で、師の百丈に対して『あの老人が答えを誤らなかったらどうなっていたんですか?』と聞きます。
>
>百丈は『近くに来い。教えてやろう。』と言います。
>
>黄檗は百丈に近づいて、師である百丈の顔を平手打ちします。黄檗が主体を示したということです。主体の働きを示したのです。
>
> 
>
>  頌曰
>  不落不昧 兩采一賽
>  不昧不落 千錯萬錯
>
>
>
>『不落』と『不昧』とは、コースの中の2つの料理、一つのサイコロの違う面であり、同じ類いのもの、似たようなものだ。
>
>『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。
>
>弟子の黄檗が師の百丈に平手打ちしたその働きからすると、千錯萬錯だ。
>

解説としては、それはそれでいいとして・・・・禅的にみていくと・・・・参考までに・・・・

1、狐の不落因果を、いまここで、出してみろ

2、不落因果といったら、なぜ狐になったか?

3、フマイ因果を、いまここで、出してみろ

4、師いわく、近前来、かれがためにいわん・・なにを言おうとしたのか?

5、テンテン誤らずんば、まさにこのなににかなるべし・・・・間違えなかったら、いま、どうしているか?

6、百丈山に、なぜ死野狐がいたか?

7、不落とフマイが同じところをいまここで、見せてみろ

8、不落とフマイがどっちも間違いのところを、見せてみろ

こまかく見れば、まだ、あるでしょうが・・・・
Bananafish
2020年02月05日 19:42
愚さん

色々とやってみようかな ... と思います。

一つ面白かったのは、今日あることが起こって、人目が気になる居心地の悪い
感じになって、それを観察してみました。そのあと、過去に同じような感じになった時の記憶を芋づる式に掘り起こしてみたら、感覚が急速に強まっていく感じがしました。同じスイッチが同じような状況で押されたんだなぁ、と。

興味深いです。


snow
2020年02月05日 20:04
>たーぼーさん

>それでユーチューブでも講義してるんだから、面の皮が厚くないと禅者は務まらないですね。

去年の夏ごろ、ショーシャンクさんのブログにたーぼーさんが、「愚さんに反発していたのは、言っていることが理解できなかったからだ。申し訳なく思っている。」というような内容を書かれていたのを拝見しましたよ。

気持ちが錯綜されているのかもですね。

 気を悪くされたらすみません。怒ってください。
2020年02月05日 20:20


>Bananafishさん
>
>愚さん
>
>色々とやってみようかな ... と思います。
>
>一つ面白かったのは、今日あることが起こって、人目が気になる居心地の悪い
>感じになって、それを観察してみました。そのあと、過去に同じような感じになった時の記憶を芋づる式に掘り起こしてみたら、感覚が急速に強まっていく感じがしました。同じスイッチが同じような状況で押されたんだなぁ、と。
>
>興味深いです。
>
それはよかった・・・・・同様な体験の報告をいただきました。それは、対象に対する感情を出すことによって、そのもの自体が、まっさらなものに見えてきた。また、子供のころの、つらかった、悲しかった記憶がボロボロでてきたとのことです。

わたし自身は、このプロセスを経て、いまはまったく過去の問題はなくなりました。不思議とほとんど忘れてしまうのです。

そして、これらの「しこり」は、竹のように無意識の中に、ある種のネットワークをつくっているようなのです。

これはいいことなんです。つまり、一つの「しこり」を解消すると、それにつられて、さまざまな「しこり」も一緒に解消されるようなんです。以上は仮説ですが・・・・実感です。

これと公案を両方やるといいんじゃないかな、と思います。

Bananafish
2020年02月05日 20:35
愚さん

最近、股関節を痛めてしまって、坐るのが少し辛いんです。
独参は続けているのですが ...

だから、alternativeをちょうど模索していた頃で、そんな時
KB会の動画やこちらの記事を拝見したもので、やってみよう!と思いました。

もう一つ実験しているのですが、悟りで自我の不在を体験する
逆方向に向かって、極限まで自我の感じを強めてみたら、
どうなるのかな、と、言葉でそれを誘導したりとか、あえて
自我の強まる状況を作ってみたりとか、想像したりしています。

あとは、「時間」を体がどういう感覚で感じているのか
見てみたり ... それを強めてみたり ...
けっこうクリエイティヴに色々持っていけそうですね。

また、色々とアイディアを教えてください!
2020年02月05日 20:46


>愚さん
>
>
>>Bananafishさん
>>
>>愚さん
>>
>>色々とやってみようかな ... と思います。
>>
>>一つ面白かったのは、今日あることが起こって、人目が気になる居心地の悪い
>>感じになって、それを観察してみました。そのあと、過去に同じような感じになった時の記憶を芋づる式に掘り起こしてみたら、感覚が急速に強まっていく感じがしました。同じスイッチが同じような状況で押されたんだなぁ、と。
>>
>>興味深いです。
>>
>それはよかった・・・・・同様な体験の報告をいただきました。それは、対象に対する感情を出すことによって、そのもの自体が、まっさらなものに見えてきた。また、子供のころの、つらかった、悲しかった記憶がボロボロでてきたとのことです。
>
>わたし自身は、このプロセスを経て、いまはまったく過去の問題はなくなりました。不思議とほとんど忘れてしまうのです。
>
>そして、これらの「しこり」は、竹のように無意識の中に、ある種のネットワークをつくっているようなのです。
>
>これはいいことなんです。つまり、一つの「しこり」を解消すると、それにつられて、さまざまな「しこり」も一緒に解消されるようなんです。以上は仮説ですが・・・・実感です。
>
>これと公案を両方やるといいんじゃないかな、と思います。
>
付け加えると、この「しこり」は、身体と密接に関連しているように感じます。つまり、感情を調べていくと、感情を刺激するある種の感覚が見つかります。ここが感情の源泉です。

この源泉は肉体的な感覚です。この感覚は身体の一部を走っています。どうも経絡と関係があるようなのです。

そして、その肉体的な感覚に注視していると、そこにグイグイ意識を向けていくと、そこがほぐれて、身体全体に広がったりします。

そうすると、解消します。

どうも、ヨーガとか気功とかは、こっちの方がらのアプローチのようです。身体の「しこり」を取って、精神を浄化するようなのです。坐禅では、坐禅のスタイルが気功です。

ですから、気を通しているわけです。

わたしにはできそうにありませんが、精神分析、ヨーガ、気功、禅、ヒンドゥー教、神道、道教、仏教、キリスト教、こういったものは、統合できるのだろうと思っています。
2020年02月05日 20:52


>Bananafishさん
>
>愚さん
>
>最近、股関節を痛めてしまって、坐るのが少し辛いんです。
>独参は続けているのですが ...
>
>だから、alternativeをちょうど模索していた頃で、そんな時
>KB会の動画やこちらの記事を拝見したもので、やってみよう!と思いました。
>
>もう一つ実験しているのですが、悟りで自我の不在を体験する
>逆方向に向かって、極限まで自我の感じを強めてみたら、
>どうなるのかな、と、言葉でそれを誘導したりとか、あえて
>自我の強まる状況を作ってみたりとか、想像したりしています。
>
>あとは、「時間」を体がどういう感覚で感じているのか
>見てみたり ... それを強めてみたり ...
>けっこうクリエイティヴに色々持っていけそうですね。
>
>また、色々とアイディアを教えてください!

自我の感じを強めるというのはいいアイデアだと思います。わたしもやってみました。自我になり切る。「オレが」という感覚になり切っていくわけです。「オレが」パソコンを見ている、という具合です。

わたしがやった限りでは、「オレガミテイル」というタダの言葉の響きになって、二元性が脱落します。

とにかく、いろいろ実験してみることはいいことだと思います。要点は、思考を動かさない、これだけ守っていればいいと思います。

また、面白い実験をしたら教えてください。
Bananafish
2020年02月05日 21:02
愚さん

了解です。

しばらくKB会はご無沙汰していますが、
都合をつけてみなさんにお会いしたいです。

また、よろしくお願いします。

Bananafish
2020年02月05日 21:09
>わたしにはできそうにありませんが、精神分析、ヨーガ、気功、禅、ヒンドゥー教、神道、道教、仏教、キリスト教、こういったものは、統合できるのだろうと思っています。

それぞれの方面でを道を極められた方々で、なおかつオープンな人たちが
一斉に集まって、皆で対話ができたら面白そうですよね。あーだこーだ
言いながら。愚さんがコーディネーターで ... とか、ネットで、KB会みたいに
できるんじゃないかな?妄想してみました。
2020年02月05日 21:17


>Bananafishさん
>
>>わたしにはできそうにありませんが、精神分析、ヨーガ、気功、禅、ヒンドゥー教、神道、道教、仏教、キリスト教、こういったものは、統合できるのだろうと思っています。
>
>それぞれの方面でを道を極められた方々で、なおかつオープンな人たちが
>一斉に集まって、皆で対話ができたら面白そうですよね。あーだこーだ
>言いながら。愚さんがコーディネーターで ... とか、ネットで、KB会みたいに
>できるんじゃないかな?妄想してみました。

そうですね・・・・・わたしの感じでは、みんな一緒の感じします。一方では、ちっぽけな禅の世界の中で、あっちがいい、こっちはダメだとか、まあ、それなりに理由はありますが、やってるわけです。

確かに、レベルの差が大きくあるのも事実ですが、こんなことやっててもしょうがないような感じがしますね・・・・
地球人
2020年02月05日 21:33
>愚さん

>>>消極的、受動的、ネガティブ・・・被害者の姿勢を改める必要があるのではないでしょうか。積極的、能動的、ポジティヴな姿勢で社会に望むことが大事でしょう・・・それができれば、どんな事を体験しても、気にならないと思うのですが・・それでも、プライド、自尊心が傷つくことはありますね。

>傷つくのを恐れないんです。傷つけばいいわけです。気になることは、気になればいい。それを感じるんです。観察するわけです。

積極的、能動的、ポジティヴな人は傷つくのを恐れないと考えます。
傷つくとすれば、プライド、自尊心でしょう。

自信に満ちた人が傷つくと、坐禅、接心は中々、大変でしょう。

プライドの高い人はそれを認めたくないのですから・・・

>傷つかないためには、傷つきやすくなければなりません。

回答ですね。







2020年02月05日 21:37
闇夜の烏は、光明の象徴なんだな。

なぜなら完全な自由は、調和であり、世界の本質は闇とカオスだからである。

snow
2020年02月05日 21:51
私だと思っていたものは、実体ではなかった、どこにも私という実体はない、ということが理解されると逆に主体性が現れてくる。
というシステムは、原始仏教も禅も同じなのだろう、と感じています。
ここが理解できないと、自分のお気に入りでないほうを批判したくなるのかも。

方法が、かたや瞑想、かたや坐禅や公案、という違いはあるでしょうけれど。
地球人
2020年02月05日 22:00
>>プライドの高い人はそれを認めたくないのですから・・・

>傷つかないためには、傷つきやすくなければなりません。

>>回答ですね

一つ、反論するとすれば、「バカヤロ!」はプライド、自尊心の面目を保ったことになります。

受け入れたのですかね?

2020年02月05日 22:06


>地球人さん
>
>>>プライドの高い人はそれを認めたくないのですから・・・
>
>>傷つかないためには、傷つきやすくなければなりません。
>
>>>回答ですね
>
>一つ、反論するとすれば、「バカヤロ!」はプライド、自尊心の面目を保ったことになります。
>
>受け入れたのですかね?
>
まあ、いろいろあるでしょうが・・・・・バカヤローじゃなくても、くやしいでも、悲しいでも、チクショーでも、うらやましいでも、なんでもいいですから、よろしかったら実験してみてください
2020年02月05日 22:08


>大平さん
>
>闇夜の烏は、光明の象徴なんだな。
>
>なぜなら完全な自由は、調和であり、世界の本質は闇とカオスだからである。
>
あなたの本質が闇夜のカラスです
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月05日 22:08
>たーぼーさん
>ここの参加者はみんな因果だけあって自由意思はないという見解みたいです

そうでしょうね。あくまで見解であって真理ではないです。
トピ主の愚さんも、あくまで自分の仮説だとされていますし。

ちょっとおかしいのは取り巻きにネチネチ嫌味をいれる投稿者がいるようだけど、無視していいと思います。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月05日 22:18
自分が傷ついていることを微妙なレベルまで自覚することは非常に重要だと思うが、逆方向、つまりいかに自分が他人や生き物を微妙なレベルで傷つけてきたかを自覚できるかは、より上級だね。

仏教は本来こっち。
地球人
2020年02月05日 22:25
>>地球人さん
>
>>>>プライドの高い人はそれを認めたくないのですから・・・
>
>>>傷つかないためには、傷つきやすくなければなりません。
>
>>>>回答ですね
>
>>一つ、反論するとすれば、「バカヤロ!」はプライド、自尊心の面目を保ったことになります。
>
>>受け入れたのですかね?
>

>まあ、いろいろあるでしょうが・・・・・バカヤローじゃなくても、くやしいでも、悲しいでも、チクショーでも、うらやましいでも、なんでもいいですから、よろしかったら実験してみてください


そうではなくて・・・

では、「傷つきたくないためには、傷つきやすくならねばなりません。」とは関係ないでしょう。

2020年02月05日 22:35


>地球人さん
>
>>>地球人さん
>>
>>>>>プライドの高い人はそれを認めたくないのですから・・・
>>
>>>>傷つかないためには、傷つきやすくなければなりません。
>>
>>>>>回答ですね
>>
>>>一つ、反論するとすれば、「バカヤロ!」はプライド、自尊心の面目を保ったことになります。
>>
>>>受け入れたのですかね?
>>
>
>>まあ、いろいろあるでしょうが・・・・・バカヤローじゃなくても、くやしいでも、悲しいでも、チクショーでも、うらやましいでも、なんでもいいですから、よろしかったら実験してみてください
>
>
>そうではなくて・・・
>
>では、「傷つきたくないためには、傷つきやすくならねばなりません。」とは関係ないでしょう。
>
つまり、自分をガードしないで、傷ついたらいいということです。プライドや、その他の強がりで、傷の痛みを避けるのは得策ではないよ、ということです。

お前はバカだといわれたら、いやオレはバカじゃない、バカはお前だ、とか、頑張らないで、単に傷つけばいいだけです。

その傷を味わえば、傷は癒えます。すると、次に、バカだといわれても、傷つかなくなるんです。

ことは、以上のように簡単ではありませんが、要点はそういうことです。
2020年02月05日 22:38


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>自分が傷ついていることを微妙なレベルまで自覚することは非常に重要だと思うが、逆方向、つまりいかに自分が他人や生き物を微妙なレベルで傷つけてきたかを自覚できるかは、より上級だね。
>
>仏教は本来こっち。

それはそうですね。そうできるひとは尊敬します。

ただ、わたしは、他人より自分のほうが大事なんです。わたしが世界で一番大事なんです。だから、わたしが解放されるところから始めたいと思います。
地球人
2020年02月05日 23:03
>>では、「傷つきたくないためには、傷つきやすくならねばなりません。」とは関係ないでしょう。
>

>つまり、自分をガードしないで、傷ついたらいいということです。プライドや、その他の強がりで、傷の痛みを避けるのは得策ではないよ、ということです。

>お前はバカだといわれたら、いやオレはバカじゃない、バカはお前だ、とか、頑張らないで、単に傷つけばいいだけです。

>その傷を味わえば、傷は癒えます。すると、次に、バカだといわれても、傷つかなくなるんです。

>ことは、以上のように簡単ではありませんが、要点はそういうことです。


傷つくには要因があります。相手に「バカヤロー!」と言われば、プライド、自尊心が傷ついたのでしょう。

ですから、家に帰って我慢できずにバカヤロー」と叫ぶわけでしょう。

それを否定してるのではないです。

単に親しい間柄で、「バカ、アホ」の類いなら傷つきません。「ハハハ・・・」笑ってすみます。何のしこりもありません。

そのまましこりの傷をほっといてはいけない、に反論してるわけではありません。 

以上です。









地球人
2020年02月05日 23:23
誤解されると、しこりが残りそうなので言います。笑

>「傷つきたくないためには、傷つきやすくならねばなりません。」

この文章がおかしいのです。

傷つく時は傷つくし、傷つかない時は傷つきません。

感情は意思・意志で制御できない、ということです。 では。
2020年02月06日 00:06


>タキ衛門さん
>
>脳派計測器。↓面白そうなので、買って坐禅中に測ってみようかなー。
>https://youtu.be/LpHZlMppKJc?t=474

面白そうですね。公案とかやっているとき、見たいですね。ちょっと、値段は高いですね・・・・・ニ三千円なら買う気するけど・・・・
2020年02月06日 00:06


>地球人さん
>
>誤解されると、しこりが残りそうなので言います。笑
>
>>「傷つきたくないためには、傷つきやすくならねばなりません。」
>
>この文章がおかしいのです。
>
>傷つく時は傷つくし、傷つかない時は傷つきません。
>
>感情は意思・意志で制御できない、ということです。 では。

了解です
2020年02月06日 07:33


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>>たーぼーさん
>>ここの参加者はみんな因果だけあって自由意思はないという見解みたいです
>
>そうでしょうね。あくまで見解であって真理ではないです。
>トピ主の愚さんも、あくまで自分の仮説だとされていますし。
>
わたしにとって、因果しかない、というのはハッキリとした真理です。ちょうど、太陽が東から上るといっているようなものです。

ですから、世界中の人間が否定的でも、そうだといいます。他人がどういおうか、関係ありません。西から上ると信じている人がいれば、それはそのひとの自由です。わたしとは関係ありません。

いずれにせよ、みなさまにとっては、わたしの主張は仮説だということです。自分で観察し、納得しない限り意味がありません。

みゅう
2020年02月06日 07:54
つたないご報告3

1.ムームー@無人の公園散歩
  考え事はできない。動きに支障ないが、きょろきょろするようになる。
2.ムームー@片付け
  外から帰って脱いだ靴をそろえたり、服を脱いでハンガーにかけたり     には支障ない。
3.ムームー@食事の支度
  決まったものを作るのには味加減も含めて支障ないが、みりんが切れて  砂糖増やすようなとき、ムームーが途切れる。
4.ムームー@写生
  ほとんど問題ない。というのは、例えば、結ばれたひもを描くのはでき  ない。
  ?。時間をかければできるかも。

  以上

  形式を整えれば一つの研究分野ではないでしょうか。”高度機能の相互干  渉”みたいな専門分野がありそう。探してみます。

  
蓮風
2020年02月06日 10:13
「脳波」なんて雑駁な現象のセンサーをつかって、なにをしようというのか……。

先行知見に目を通されてから、購入を考えたほうが、おカネをムダにしなさそうです。
地球人
2020年02月06日 11:11
自由意志の案件はまだ解決してないようですね。

先ず、自由意志を抽象ではなくて具体的に実例を提示してみては如何か?
地球人
2020年02月06日 11:23
自由意思・意志について、サルトルはその都度自由に選択する人生だと述べていますが、何について選択してるのですか? 
地球人
2020年02月06日 11:41
実存主義のはしりは、「主体性が真理である」として、ほかでもない「この私」が人生を作り上げていくと主張したキルケゴールの思想だといえます。ほかにも実存主義は色々な人が唱えていますが、共通していえることは、自分で人生を切り開く生き方を唱えている点です。 超訳「哲学用語」事典より

仏教の反論はどんな人生を歩もうが、所詮、因果応報の人生で本質は変わらない。との事です。
cheaptrick
2020年02月06日 12:58
トラウマやPTSDの治療に効果的で、とてもシンプルなEMDR (Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法)というのがあります。タキ衛門さんが気に入りそう。

精神医学の世界でも、一時期、やれ実存主義だの現象学だのと、哲学に傾倒した人がたくさんいました。なぜなら、有効な薬やテクニックが無かったからです。今では、そんなものに凝ってるのはマニアだけです。
地球人
2020年02月06日 14:06
どうやら・・・決着ついたようですね。笑
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月06日 17:33
自由意志は、仏教的な落とし所としていつもながらの、中道になるか。
西洋哲学的に、しかも純度100パーセントの意味での、自由意志ならあるとは断言できない。他方で、すべてが操り人形的な決定論に服して意志の役割ゼロかろいうと、こちらは間違いと断言できる。
曖昧かもしれんが、自由意志の中道の道を歩むしかない。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月06日 17:38
ここの人は自由意志が気に食わないようだが、安倍首相でも改憲できそうにもない日本国民憲法は、個人の意志決定の自由を志向の価値にしている。
個人の意志決定の自由が人権では、不可侵の自由権、政治に向かう
と国民主権。
地球人
2020年02月06日 18:14
日本国の憲法に依って国民は保障されています。
日本が他国と戦争になれば国民は戦わなければなりません。
日本国の因果に国民は拘束されています。
たーぼー
2020年02月06日 22:51
自由意志は、仏教的な落とし所としていつもながらの、中道になるか。
西洋哲学的に、しかも純度100パーセントの意味での、自由意志ならあるとは断言できない。他方で、すべてが操り人形的な決定論に服して意志の役割ゼロかろいうと、こちらは間違いと断言できる。
曖昧かもしれんが、自由意志の中道の道を歩むしかない。



カルマさんこんばんは。
私はカルマさんが書いた十二因縁の外に出る事が仏教のゴールだという言葉に賛同するんですよ。ここの皆んなも今は因果だけあって自由意思はないでやって行けばいいかもしれないが、十二因縁の外に出る為には自由意思は絶対に必要になると思います。
それはこの因果の世を捨てるか、この世で皆を救う為に十二因縁の内に留まるかの決断になると思います。大乗仏教が日本で広まったのは本来はここに由来すると思います。
地球人
2020年02月07日 00:45
ブログのやり取りは因果です。

あなたは因果なのです。



2020年02月07日 04:42
そう因果なのです^_^

例えば自販機で何種類かの内でお茶を買ったとする^_^
それは私の意思で買ったのではなく因果で決められていたのです^_^
つまり自分の自由意志で買ったと錯覚している訳です^_^
全ては因果の流れの中にいるわけです^_^
2020年02月07日 06:46
うん?

大事な縁を忘れておる^_^
因縁果やな^_^
みゅう
2020年02月07日 06:49
cheaptrick さん

とても面白いです。知りませんでした。

貴重な情報、有難うございました。
みゅう
2020年02月07日 07:01
つたないご報告4

cheaptrickさんから貴重な情報をいただきました。

>EMDR  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャピロは眼球運動を制御することで苦痛な記憶に関する不安を減少させる
ことを、公園を歩いている時に偶然発見した

 個人的に散歩の修行中に頭の中のおしゃべりを間欠的にとめる時間を取り入れています(読書中に時々欠伸をするような感じで)。このモードに入ると急に眼球が動いて周囲の景色が目に入ってくるのでそれを知りますが、ことばのはたらきが止まることと見えるものに注意が向くことの因果関係(どちらが因なのか、果なのか、あるいは、因果関係ではなく、ただの目印として使われているのか、あるいは、、、)はわかりませんが。
 ムームーがほかの言葉を圧倒してしまうので、ムームーVS悩みの本質的なところはことばのはたらきVS悩みにあるのではないかと想像しています。
snow
2020年02月07日 07:44
>あ さん

>例えば自販機で何種類かの内でお茶を買ったとする^_^
それは私の意思で買ったのではなく因果で決められていたのです^_^
つまり自分の自由意志で買ったと錯覚している訳です^_^
全ては因果の流れの中にいるわけです^_^


はじめまして。
すべては因果の流れの中にいる、そうですね。

いやいや、俺は自分で決めてんねん、という人がいたとしたら。
いやいや、俺は自分で決めてんねん、と浮かんできたことも因果の流れの中なんですよね。(笑)

柔軟性のある人のほうが、このあたり理解しやすいみたい。
固定観念が強いと難しいのかも。
snow
2020年02月07日 07:58
すべては因果因縁で動いている、全体があるだけなのだ。
こうした言葉を聞いて、窮屈で閉じ込められたもの、虚無的なものを感じた人というのは、その人の持っている物の観方でその言葉を観ているということ。

同じものを観ても、取りようは人によって違うから。

すべては因果因縁で動いている、全体があるだけなのだ。
という言葉で言い表される内容に、私は、逆に自由と広がりを感じる。
snow
2020年02月07日 08:03
ある思想、宗教に生活を支配されるのは馬鹿らしい。
それらは道具である。
と、思う。 あくまで私は。
2020年02月07日 08:05
この俺というのが第一根本想念である観念らしいからね^_^

行為者は居ない^_^

無為の為やな^_^
2020年02月07日 10:03
そうなるとバカヤロウと言ってるのは何者だろうね^_^
地球人
2020年02月07日 10:21
>大事な縁を忘れておる^_^
因縁果やな^_^

ブログのやり取りは縁は関係ないです。

何処の馬の骨か解らない、あさんのレスに返答してるだけですから、
地球人
2020年02月07日 10:44
言葉に反応してるだけなのだから、自他の区別はない。

因果があるだけです。
snow
2020年02月07日 11:49
そういえば。マイヤーマイヤーさんという方がお名前だけ書かれているのが気になる。
愚さんは、自由に書いていい、と言われてますよ~。
cheaptrick
2020年02月07日 12:10
>みゅうさん

面白いでしょ。渡辺さんは経絡にも言及されていましたが、それに関連するテクニックとしてはTFT(Thought Field Therapy)や、その簡易版のEFT(Emotional Freedom Techniques)があります。どちらも「エネルギー心理学」と呼ばれるジャンルのものです。TFTは少々専門的で面倒ですが、EFTはシンプルだし、一般向けの本も出ています。

心理的な悩みはこれらやバカヤロー禅で処理すればいいのです。それが片づけば、悟りを求めたりしなくなるかもしれません。
禅はあくまでも実存的な悩み(大疑)に決着をつけるためのものですから。
2020年02月07日 12:12
因だけではここに来ない^_^
縁があってここにいる^_^
果がまた因となる^_^


うわっ^_^
因縁果や^_^
ほんとは因の中に果が既にあるかもしれん^_^
時空間が因縁果を作り出すんやな^_^
と仮説を言って見る^_^
想念は何考えてるかわからん^_^
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 12:59
仏教における因果の意味がわかっていないね、全然。

単純な機械のメカニカルな因果とは違う。

人間の意思もまた、というよりある意味決定的なのだが、意思が結果へつながる因果力を与える。

お茶を飲む因果の流れを作りだしたのは、人間の意思。飲んだ瞬間の意思は大したものでないかもしれないが、過去に自分で意思したか、周りの人間や無関係の第三者が意思したか、過去世で意思したか、それらが合わさってだろうが、結果にオーケーを出した、結果を認容した意思が、意思こそが
因果において決定的なんだよ。
地球人
2020年02月07日 13:04
人との会話を求めているのですね。

此処は出会い系サイトではない。笑

因果があって我無し。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 13:08
愚さんが好きな例示として、きれいな女性をみてきれいだと思うのが因果だと。
それは置くとして、話しかける、電話番号を聞く、手を出してしまう。こう展開したとすれば、因果は因果だが、結果に向けた意思が因果の流れを変えたことになるのだよ。人間の因果の流れは、結果にゴーサインを出す意思なくしてはありえない。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 13:12
自動車で人を轢いても因果ですませるか?

誰にも責任はありません。自由に生きる私ってステキですで終わりか?

非常識。おしまい。
地球人
2020年02月07日 13:16
因果に因って我が生じるのです。
地球人
2020年02月07日 13:29
人を轢いた(因果)のは私です、となるのです。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 13:42
バカヤロー禅も、意思のもつ強力な因果実現力を無化することが狙いでしょう。

アイツをぶん殴ってやりたいというふうに、対象・客体を設定して強く意識したら、そのアイツを殴ることは回避できても、そのアイツとの人間関係はかくじに悪くなる。そして、全く無関係の誰かを将来殴る可能性も高まる。

そうならないように、微かなあるかなきかの怒りのうちに洗い流してしまおうというのが、バカヤロー禅なのかなと思う。
上手くできれば応用範囲も広いかなと。
地球人
2020年02月07日 13:48
「私」が人を轢いたのではなくて・・人を轢いた →「私」が顕れた。

ですから、因果我無しなのだけれども、因果生起我有りなのです。
地球人
2020年02月07日 13:53
感情に因って自我(煩悩)が生じたので、感情を浄化してしまえば自我(煩悩)は消滅するわけです。
地球人
2020年02月07日 14:17
論点から逸れてしまいましたが・・・

因果思考があるだけで、自由意思・意志は無い、とのことです。

自由意思・意志とは、定義することは可能です。
snow
2020年02月07日 15:01
事故で人を轢けば、賠償責任が生じる、
当然のことでしょう。

それと、「全体があるだけで自由意志はない。」という話は別。
世俗的な話と一緒に考えてもしかたないです。
地球人
2020年02月07日 15:03
昼、わたしはレストランでビフテキを食べた。「旨かった!」

しかし、わたしが旨かったのではない。旨いビフテキがあった。

真実は、わたしは旨いビフテキを食べていない。








snow
2020年02月07日 15:05
ということで終わります。(いい加減、飽きたので。)
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 15:06
仏教は意思を非常に重視する教えですよ。
ただ意思することはあまりにも膨大な回数に及ぶ。過去世の意思はそれ以上に膨大。個人だけでなく、関わりのある多くの人間の意思も影響してくる。
こういったものを考慮すると一回一回の意思の力は無意味であると思いがち。

ところがそうではない。発心、誓願、精進という意思の働きこそが、逆転打につながるのです。
地球人
2020年02月07日 15:26
> 事故で人を轢けば、賠償責任が生じる、
当然のことでしょう。
>それと、「全体があるだけで自由意志はない。」という話は別。
世俗的な話と一緒に考えてもしかたないです。

分かりやすく、説明したつもりなのです。

わたしが人を轢いたのではなく、人を轢いた私がいるのです。

わたしは車を運転していただけで、人を轢くつもりはなかった。

人を轢いた結果の私なのです。 因果=私なのです。

当然、世俗では賠償責任はありますよ。


snow
2020年02月07日 15:41
さっきのコメント、地球人さん宛じゃないです。
まぁ、誰宛ってこともないけど。

いちおうそれだけ。 終わりますね~。
地球人
2020年02月07日 15:44
色即是空
諸法非我

「我有り」とする不当な思惟の根本制止し、常に心してまなべ。(スッタニパーダ)



地球人
2020年02月07日 15:55
人を轢いた云々は、例え話です。
地球人
2020年02月07日 15:57
snowさん、了解です。
地球人
2020年02月07日 16:23
解脱した人は、バカヤロー禅をしません。
2020年02月07日 18:42
私たちは普段の生活で様々なことを選択して生きています。そしてそれを私たちは「自分の自由な意志でその都度決定していっている。」と思っています。ところが生活のパターンを研究してみると私たちは行動の80%以上がお決まりの習慣に従って暮らしているらしいのです。つまり「自分の自由な意志」というのは錯覚だというのです。では自分の「意志」ではなく何によって自分は普段行動しているかというと「周囲の環境や刺激、あるいは普段の習慣」によって自分の行動は決められているというのです。けれども本人はそうは思わずに、自分の意志で決定した「つもり」になっている、ということらしいです。
https://www.facebook.com/oohirasankonpirain/posts/1230278287149786/

う~~ん^^

ほしい^^

といったことが現代の研究でわかってきたということなのですが、実は仏教ではずっと昔からこういったことが理解されていました。 今でこそ「無意識」という概念は周知されていますが、現代の科学で無意識が取り上げられるようになったのはつい最近のことです。しかし仏教でははるか昔から無意識の存在を認識していました。 私たちが普段の生活の中、五感を使って体験したことは最終的に無意識という無尽蔵な蔵の中に積み上げられていきます。そしてその蔵の中では「いい」とか「悪い」といったことに分けられるのではなく、それそのままのものとして積み上げられていきます。 そうしてその無意識の蔵の中にあるものから、まるで煙が上がってその煙の臭いが衣服に染み付くように私たちの行動に影響を与えていきます。 つまり自分の無意識の蔵に入っているものによって自分の行動パターンというものが決まっていくということです。 これが脳科学で言う「周囲の環境や刺激、あるいは普段の習慣によって自分の行動は決められている」ということです。そして人はその無意識という蔵の影響で自分が行動しているとは思わずに、自分の確固たる意志によって意思決定をしているのだと思い込んでいるのです。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 18:46
>たーぼーさん
>私はカルマさんが書いた十二因縁の外に出る事が仏教のゴールだという言葉に賛同するんですよ。ここの皆んなも今は因果だけあって自由意思はないでやって行けばいいかもしれないが、十二因縁の外に出る為には自由意思は絶対に必要になると思います。
それはこの因果の世を捨てるか、この世で皆を救う為に十二因縁の内に留まるかの決断になると思います。大乗仏教が日本で広まったのは本来はここに由来すると思います。

日本大乗仏教の美点でしょうね。十二因縁の内で苦しむ衆生への熱い慈悲。
因縁しかないという現代人は、因縁の中でもっとラクをしたい、良い思いをしたいという欲求から八誌ているようなので、大乗仏教の精神も切り捨ててしまう危うさがあるようです。
2020年02月07日 18:48
今朝書いたっこれと似てるな^^



2020年02月07日 04:42
そう因果なのです^_^

例えば自販機で何種類かの内でお茶を買ったとする^_^
それは私の意思で買ったのではなく因果で決められていたのです^_^
つまり自分の自由意志で買ったと錯覚している訳です^_^
全ては因果の流れの中にいるわけです^_^
地球人
2020年02月07日 18:49
あさん、

KB会でも紹介してたとおもう。

わたしは坐禅派です。

バカヤロー禅は自我がスッキリするだけだとおもう。
2020年02月07日 18:53
十二因縁の外に出るじゃなくて滅するのが正解^^

これを逆観という^^

「無明(むみょう)滅すれば則ち行(ぎょう)も減す、行(ぎょう)滅すれば則ち識(しき)も減す、識(しき)滅すれば則ち名色(みょうしき)も減す、名色(みょうしき)滅すれば則ち六入(ろくにゅう)も滅す、六入(ろくにゅう)滅すれば則ち触(そく)も減す、触(そく)滅すれば則ち受(じゅ)も減す、受(じゅ)滅すれば則ち愛(あい)も減す、愛(あい)減すれば則ち取(しゅ)も減す、取(しゅ)滅すれば則ち有(う)も滅す、有(う)減すれば則ち生(しょう)も減す、生(しょう)滅すれば則ち老死(ろうし)・憂悲(うひ)・苦悩(くのう)も減する。」
2020年02月07日 18:56
僕とか「身口意」派なので・・・^^
バカヤロウよりありがたいのほうがあっていますです・・はい^^
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 18:57
滅するのと外に出るのは同じ。

十二因縁の中にはいないということだ。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 19:00
身口意というのはカルマのことなんだ。
機械仕掛けのワンパターンでいいわけがばかろう。

意志によって、身口意を制御せにゃあ。
2020年02月07日 19:02
一回鏡見てバカヤローって叫んだら^^

笑いがでてきたんだが^^

これって効果すごいよね^^

地球人
2020年02月07日 19:04
バカヤロー禅は本人を目の前にして「バカヤロー!」と叫んでるのと変わらない。本人を想定して叫んでるのだから・・
地球人
2020年02月07日 19:12
鏡を前にして、バカヤロー!と叫ぶのは良い。

自分の愚かさに気づくから。
地球人
2020年02月07日 19:24
自我はそう思えない。

そう思えたら、世界は平和になっている。


カルマ、業、輪廻転生
2020年02月07日 20:10
物理現象や自然の因果の流れなんか問題じゃないんだ。
バカヤロー禅がターゲットにするのは意志の領域のわけ。
ネガティブな感情や想念と実現意志のつながりを断ち切りたいだからね。

無為自然、どんなネガティブな体験でも泰然と受けてたちましょうではないでしょう?

なんとか未然にネガティブなものの芽をつぶして、ネガティブな体験に翻弄されるのを回避しょうというメソッドにみえる。
たーぼー
2020年02月07日 22:07
なんとか未然にネガティブなものの芽をつぶして、ネガティブな体験に翻弄されるのを回避しょうというメソッドにみえる。


つまりネガティブな感情を現象の果にさせない為に未然に防ぐ為のバカヤロー禅なんですね。私がそんな事出来るんですかと愚さんに聞いたら愚さんはどう答えるんだろ?
出来ると言ったらバカヤロー禅で未然に防ぐという自由意思を認める事になる(笑

たーぼー
2020年02月07日 23:50
なんとか未然にネガティブなものの芽をつぶして、ネガティブな体験に翻弄されるのを回避しょうというメソッドにみえる。

カルマさん、これは凄く哲学的に大事な事で因果の果は自分意思次第で変えられるということですよ。誰かが自販機でお茶を買うのが因果で決まってたと言っていたが、確かにお茶を飲みたいと思った時は以前の飲んだお茶の記憶が因になっている可能性は高いが、買うときにコーヒーにする事は自分で選べるんだ。しかし、因果だけあって自由意思派はこう言うかもしれない。そのコーヒーに変える事も因果で決まっていたのだと。とするとやはり因果と自由意思なんて何処まで行ったって分けられないんですよ。
地球人
2020年02月08日 00:49
バカヤロー禅は自我なのです。

自由意思とは自我なのです。
地球人
2020年02月08日 00:59
別に悪いとは言ってません。

自我の現代社会ですから・・・
地球人
2020年02月08日 01:27
仏教では自我を否定することを目的としたが、

現代においては、自我を積極的に肯定することではなかろうか。

個人・自我の尊厳は憲法で認められているのだから・・
地球人
2020年02月08日 01:35
現代人は抑圧された自我が苦しみです。

自我の解放を求めているのです。
通行人
2020年02月08日 01:45
では、バカヤロー禅は的を得てることになるね。^^
地球人
2020年02月08日 02:00
現代人に「我無し」と言っても理解されないな。笑
snow
2020年02月08日 07:15
自由意志(外部からの影響を一切受けない意志)を人は持ちうる、というなら、出家など必要ないでしょう。
外部との関係をできる限り遮断して修行に集中するために出家するのですよね。

諸法非我であるなら、意志も非我でしょう。
身体や感情と同じく。 意志だけは「我」なんでしょうか。そんなことはないですよね。
つまり、意志も「形成されたもの」だということです。
寄せ集められたものからできている、ということです。

ここで、「そんな馬鹿な。」と思いたくなるのが自我です。
自分の努力が無駄になるような気がしますからね。

努力はしたらいいんですよ。
意志は強く持たなくてはならない、と浮かんできたら、自分が思ったと思いたくなるものでしょうし。

しかし。 意志と言われているものの仕組みかわかれば、それへの取り組み方も変化していくだろう、ということです。

新しい切り口で書いてみました。

地球人
2020年02月08日 09:06
自由意志を主張するなら、具体的に実例を挙げればいいのです。

「わたしたちは自由だ!」と叫んでるだけでは立証したことにはならない。笑
地球人
2020年02月08日 09:25
「こんな因果に拘束された日本を脱出してアメリカに移住する。」

果してアメリカに移住して自由意志は獲得できるだろうか?

アメリカの因果律の世界でステータスを獲得するのは更に過酷ではないか?
地球人
2020年02月08日 09:48
自由意志とはエゴ(自我)です。
地球人
2020年02月08日 10:20
人も動物だからエゴは否定しない。

お節介な見物人
2020年02月08日 10:22
 自由意志の「ある・なし」のどちらかを了解したところで、どちらかの観念に固執して終わりになります。「言葉」の論争では、どちらかが是となれば他方は自ずと非となるのは「言葉」の性質上当然の結末のようです。「自我さん」は是非のやりとりが大好物のようです。「言葉・文字」を操る仕事師の面目を発揮できます。活躍の場を喜んでいます。実際は、「自我さん」に弄(もてあそ)ばれているかもしれません。気をつけましょう。

 「自我さん」に油を供給し続けても疲弊するだけかもしれません。自由意志があろうがなかろうが、今置かれた環境でできることしかできないようです。大統領でも首相でもない一般人のできることなどたかがしれています。
 「能無し大統領」と揶揄されるか「さくらでいじめられている首相」のほうがいい人もいるかもしれませが・・・。

 議論に勝利して「自我さん」が満足することで、お腹が一杯になったり頭痛が治ったり虫歯の進行が遅れたり耳鳴りがおさまるのならいいのですが・・・。「自我さん」をスター扱いせずに、賞賛もせずに信奉者にもならずに三流芸能人の扱いにしてみるのはどうでしょう。
 そんなにがむしゃらに稼がなくてもいいですよ。頑張らなくてもいいですよ、一緒に「ボッー」としましょうと誘うのです。「自我さん」と一緒にくつろいで一緒になにもしない心地良さを味わってみます。闘争好きの「自我さん」には新天地が与えられますが、どう過ごして良いのか戸惑うようです。

 そこで「自我さん」に塩をふって小さくなってもらいます。塩としては「知らなくてもいい」「何もしなくてもいい」「闘わなくてもいい」「引き下がりましょう」「負けましょう」「譲りましょう」という塩が有効かもしれません。
 お釈迦様は肉体と精神のすべてをかけて「闘い」「引き下がらない」というスタンスで「自我さん」の最大出力の限界まで試したようです。身体が疲弊し、ギブアップせざるを得なくなったかもしれません。
 やり尽くした後にはただ坐って「何もしない」「何もできない」状態に追い込まれて「自我さん」に大量の塩が降りかかったのかもしれません。完全なる敗北が完全なる勝利になったのでしょうか・・・。今まで勝とうとして駄目だったら、負けてみるのも一つの手かもしれません。
 余計なお節介をお許しください。
地球人
2020年02月08日 11:17
> 自由意志の「ある・なし」のどちらかを了解したところで、どちらかの観念に固執して終わりになります。「言葉」の論争では、どちらかが是となれば他方は自ずと非となるのは「言葉」の性質上当然の結末のようです。

自由意志が無いと主張する側は因果しかないと主張してるわけです。
自由意志が有ると主張する側は自由意志を具体的に言ってないのです。

では、お聞きします。自由意志とは何ですか?

お節介な見物人
2020年02月08日 11:31
読んで字の如く。
地球人
2020年02月08日 11:38
具体的実例で自由意志を表現してください。
snow
2020年02月08日 11:39
パーリの『ダンマパタ』には、
277 、「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 、「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 、「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

・・・・・

先ほど、「一切の形成されたものは我ならざるものである」(諸法非我)と書きましたが、「形成されたもの」ではなく、「事物」が正しいのですね。
ただ。 形成されたものは、無常であり苦しみである、とあり、そこから、そうしたものは「我ならざるものである」と導かれているので、事物=形成されたもの、ではありますね。
snow
2020年02月08日 11:43
ここで議題となっている「自由意志」というのは。
あらゆる束縛、外部からの影響から自由な意志、のことですよ。
それはありうるのか、人はそれを持てるのか、ということです。

ある、という方は、具体的に出してみてください。
地球人
2020年02月08日 11:53
>先ほど、「一切の形成されたものは我ならざるものである」(諸法非我)と書きましたが、「形成されたもの」ではなく、「事物」が正しいのですね。
ただ。 形成されたものは、無常であり苦しみである、とあり、そこから、そうしたものは「我ならざるものである」と導かれているので、事物=形成されたもの、ではありますね。

そうです。因果です。

地球人
2020年02月08日 12:03
一切の事物は因果であると明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。と、仏陀は述べたのです。
snow
2020年02月08日 12:16
あらゆる束縛、外部からの影響から自由な意志。
これを人間が持つことは極めて困難だということ。

また、その極めて困難なことをあえてしようというならば、そうしようという理由には注意が必要だと思うのです。
そのようにできる自分を誇りたい、という自我が隠れてはいないかどうか。

あらゆる束縛、外部からの影響から自由な意志。
これを人間が持つことは極めて困難である、ということが理解できた時、逆に自由になるということです。
これは、実感として感じないことには理解は難しいと思います。

snow
2020年02月08日 12:19
今のが私の結論です。
通行人
2020年02月08日 12:28
尾崎豊が「自由意志」支持について歌ってる。^^

「自由になりたくないかい♪ 自由っていったい何だい♪」
https://www.youtube.com/watch?v=l4w2HONUATw



2020年02月08日 12:37
地球人さんの想念垂れ流し^_^

これこそ本当の自由意志や^_^
地球人
2020年02月08日 12:42
>あらゆる束縛、外部からの影響から自由な意志。
これを人間が持つことは極めて困難である、ということが理解できた時、逆に自由になるということです。

そうです。
一切の事物は因果であると理解して我執から離れなさい・・そうであれば、涅槃寂静に至る、と仏陀も諭してるのです。
地球人
2020年02月08日 12:53
仏陀の八正道は自由意志の表明であるとも言えます。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月08日 13:22
販売機でお茶にするかコーヒーにするかというニュートラルな選択ならどちらでもいい。
お茶が苦悩や葛藤を象徴し、コーヒーがそれらからの解放を象徴するなら、重要な問題になる。

バカヤロー禅は、将来にわたってずっとお茶を選び続ける、場合によってはもっと強烈な苦悩をもたらすコーラ、もっとひどい何かを選ばないように、お茶の段階でこの回路を切断しちゃおうという手法じゃないですか?

決して因果の流れだけを受動的に受け入れるというものには見えない。もっとアクティブに因果の流れに介入しようというものでしょう。

わたしはそういうものであれば同意します。
お昼寝
2020年02月08日 13:33
寝食を忘れてくちゃべっている自我のパワー 恐るべし^ ^
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月08日 13:34
因果だって見せることはできまーせん。
こんなのジョーシキ。現象や出来事の背後に因果という項目を仮説しているだけ。そもそも科学がそういうもの。

自由意志をいまここに見せろ?あまりに幼稚な質問に絶句するしかありません。自由意志に限らず、形にならない心の要素をどうやって見せる?

自由意志についていえば、哲学史上の超一流どころは自由意志肯定がゴロゴロ。自由意志否定はスピノザかな。ここで展開される幼稚極まる批判ですむなら、世話はないです。

最後に、どんなジャンルの議論でも、極論を言って否定する方に立証責任があるものです。100パーセントない、そんなもの存在しな。そこまで主張するなら証明してくだしゃんせ。こっちは存在すると思ってそれに依拠しているわけで、議論するために書き込んでいるのではありません。

どうも自由意志否定の方々は思考停止の頑固なタイプが多いようです。
地球人
2020年02月08日 13:52
>バカヤロー禅は、将来にわたってずっとお茶を選び続ける、場合によってはもっと強烈な苦悩をもたらすコーラ、もっとひどい何かを選ばないように、お茶の段階でこの回路を切断しちゃおうという手法じゃないですか?

そういうことです。
「その日の出来事は・・その日のうちに」から講義が始まってます。

煩悩に成る前に芽を摘みましょう、てことです。

>決して因果の流れだけを受動的に受け入れるというものには見えない。もっとアクティブに因果の流れに介入しようというものでしょう。

悪しき因果の流れにならないように変えましょう。て、ことです。

バカヤロー禅の因果が迷走しないように終止符を、、、笑

お昼寝
2020年02月08日 14:01
自我の働きとくと見せてもらいました。楽しかった。

終わるの名残惜しいけど、止めたほうがいいかも。 ^ ^
地球人
2020年02月08日 14:03
>自由意志をいまここに見せろ?あまりに幼稚な質問に絶句するしかありません。自由意志に限らず、形にならない心の要素をどうやって見せる?

自由意志の事象の過去の実例、例えを提示することはできるでしょう。

根拠が無ければ自由意志が有ると言えない。

地球人
2020年02月08日 15:37
自由意志を全く否定してるのではありません。

自由意志を定義して欲しいのです。 

以前、自由意志を提示したことがあるのです。その時は、有る無しのどちらの立場ではありませんでした。東洋思想と西洋思想の違いでしょう。

他文献から、西洋思想の引用ですが・・

「自由意志とは、一般に行為者が思い通りに選択し、決断することのできる能力をいいます。これに対して哲学では、「決定論」に処置される概念としてとらえることができます。決定論とは、人間の行動は運命などの何らかの外的な要因によって決定づけられていると考えられる立場です。
したがって、反対に自由意志論者は、人間はこうした外的な要因によって決定づけられた存在ではないと主張します。いわば自由意志とは、自分で運命を決定することのできる能力であるといえます。」

「実存主義のはしりは、「主体性が真理である」として、ほかでもない「この私」が人生を作り上げていくと主張したキルケゴールの思想だといえます。・・・・実存は本質に先立つ。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。これは常に自由に何かを選択することなしには、一歩も前に進むことのできない人間の生を表現したものです。たしかに、「何をしてもいい」といわれると、人は戸惑うものです。ただ、同時にこの言葉は、私たちが無数の選択肢の中のなかから、その都度自由に選択して人生を歩んでいるという、誇らしい事実を認識させてくれるものであります。」  以上







マイヤーマイヤー
2020年02月08日 17:41
マイヤーマイヤー
2020年02月08日 17:42
マイヤーマイヤー
2020年02月08日 18:01
操作ミスかキボードの故障かで名前のみ投稿によりご不快を与えた深謝いたします。脳波計ですが以前バイオフィードバックと言う商品が流行った事があります。

オウムの使っていた通称パチパチくんと言う帽子状の物でないと脳波がどの位
前頭葉から後頭葉まで計測しないと無意味です。

禅は前頭葉には初心者でもアルハー波は現れますが後頭葉は熟練の座禅者でないと現れません。

以前TM瞑想が急激に広まったのは数十年の禅僧の脳波が数週間で計測出来たからです。

イケハヤ君なんでも金儲けにするのは知ってましたがこんなのもやってんだ。
2020年02月08日 18:49
「仏陀の「行為者はいない」という悟りと「結果はコントロールできない」という悟りは、同じものではないでしょうか。」

「行為者はいない」というのは、
存在の否定のことです。
この世界のすべてのものは、
因縁によって仮に有るのですから
存在そのものが、それ自体だけで
存在しているのではありません。
だからといって、何も無いわけではなく
因縁によって仮に有ります。
よって、仏教では存在の有無を断言しません。

「結果はコントロールできない」というのは、
一切皆苦のことでしょう。
一切の現象は、因縁によって起こるので
自由自在にはなりません。
不自由な状態のことを仏教では苦といいます。

よって、縁起を観れば、
「行為者はいない」
「結果はコントロールできない」
ということに到ります。

う~~ん^^
こやつもよく考えておる^^
2020年02月08日 19:14
「行為者はいない」

簡単に言えば無我^^
行為者=自我さんなんだな^^
故に「自我さんはいない」と言っておる^^
自我さんがかわいそうでもある^^
2020年02月08日 19:26
>snow
ここで議題となっている「自由意志」というのは。
あらゆる束縛、外部からの影響から自由な意志、のことですよ。
それはありうるのか、人はそれを持てるのか、ということです。

>ここで議題となっている「自由意志」というのは。
あらゆる束縛、外部からの影響から自由な意志、のことですよ。
それはありうるのか、人はそれを持てるのか、ということです。

>決定論とは、人間の行動は運命などの何らかの外的な要因によって決定づけられていると考えられる立場です。

>反対に自由意志論者は、人間はこうした外的な要因によって決定づけられた存在ではないと主張します。いわば自由意志とは、自分で運命を決定することのできる能力であるといえます。

>実存主義のはしりは、「主体性が真理である」として、ほかでもない「この私」が人生を作り上げていくと主張したキルケゴールの思想だといえます





2020年02月08日 19:35
>よって、縁起を観れば、
「行為者はいない」
「結果はコントロールできない」
ということに到ります。
>う~~ん^^
こやつもよく考えておる^^

このレスを書いたのは誰?
地球人
2020年02月08日 19:59
此処のバカヤロー禅のコメント、レスの流れは正に因果です。

地球人
2020年02月08日 20:49
<自由意志>

自分の意志を自由に決定しうること、これを肯定する非決定論と否定する決定論との二つの立場があって論争されているが、意志が因果の必然に縛れているなら、道徳の命令は無意味であり、行為の責任を問うこともできなくなるというのが非決定論の重要な論拠である。
意志の自由は先ず、1)選択の自由と解される。思慮によって対立する動機のうちどれかを選んで決定しうる自由がそれであり、このような自由は心理的に認められるが、この場合動機の選択を決定するものは終局的には人の性格である。しかし、性格が先天的な気質や環境の影響で決定されるとすればこの自由は相対的なものにすぎない。そこで、2)カントは現象の世界に対しては決定論を認めるとともに、【その背後の本体としての自我に因果の系列を自分から始める自発性の能力を始める自発性の能力を認め、これを先験的自由と名づけた。(→実践理性の要請)。科学的な決定論を否定することは困難であるから、多くの非決定論者はカントと同様に、因果関係の支配する世界とは別な高次の実在を考えてそこに自由を求めようとしている。】
(岩波哲学小辞典より)



タキ衛門@自由意志なし派
2020年02月08日 21:13
>100パーセントない、そんなもの存在しな。そこまで主張するなら証明してくだしゃんせ

 自由意思なしを証明するのはかなり困難です。一般的に、「~~ない」の証明は「悪魔の証明」といって、不可能ではないが、かなり困難だと知られています。
 例えば、「本物のサンタクロースがいない」というのを証明する事はほぼ不可能です。宇宙全部調べるのは膨大な時間とコストがかかるからです。
 ですので、自由意志なしというのは、正確に言えば、「自由意志なしは証明できないが、おそらくないだろう」という事です。
 また、私は、どちらかに100万円賭けろという事であれば「なし」にかけます。
 一方で、「あり」の方を見てみますと、「あるような気がする」といった感覚的な説明のみで、証拠らしきものを提示できていません。
 サンタクロースであれば、本物のサンタクロースを連れてくれば、証明できるわけです。
 
タキ衛門@自由意志なし派
2020年02月08日 21:41
自由意志議論について。ちょっと別の観点から。
 基本的に感情や思考は脳内神経シナプスによる微弱な電流によって起こります。そして、仮に、将来、どのような電流の流れ方をすれば、どのような思考や感情が起こるかの精緻な予測モデルの研究が進んだとします。同時に、量子コンピュータの運用なども成功して、莫大な計算も簡単にできるようになり、人間の思考を100%予測できるシステムができたとします。
 これができると、例えば、Aさんに電話してAさんが答えた内容と予測モデルが出力した答えが全く同じになります。つまり、Aさんは機械的な予測モデル通りに動いている事になります。
 あくまで、仮定の話ですが、仮に上記のような脳内予測モデルシステムができれば、「自由意志あり派」の人は「なし」に意見を変えますか?
地球人
2020年02月08日 22:46
人間にあって、人工知能AIにないものは?
たーぼー
2020年02月08日 23:09
多勢に無勢だな、こりゃ(笑
しかし、大乗仏教ってのは何でこんなネガティブなんかね。
カルマさんが言うように、こんなんだからテーラワーダや原始仏教、小乗仏教、哲学など自己を拠り所に自らが主体的に真理を探究する宗教が台頭してくるんですよ。
私は断言してもいいが、あと20年もすると日本の大乗仏教はかなり衰退していると思います。
地球人
2020年02月08日 23:14
宇宙誕生からの経験値を超える知能はあるのか?
地球人
2020年02月08日 23:22
人間は宇宙の原理を追体験してるだけでしょう。
たーぼー
2020年02月08日 23:33
大乗の修行は「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ


これは曹洞宗の有名な禅僧である澤木興道老師の言葉ですけど、そもそも大乗仏教の道を選ぶのは究極の主体的な意思なんですよ。「おのれ未だ渡らざる先に、一切衆生をわたさんと発願し」この発願こそが究極の主体性でなければいけないんです。
人に流されてとか、環境に流されてとか、過去の記憶に影響を受けてとかじゃなくて、自らが作っているこの虚仮の世で一切衆生を先に渡すという非常に奥が深い救済意思でなければいけないんです。
地球人
2020年02月08日 23:36
私の明日の行動は過去1年間の情報データがあれば安易に想像できます。笑
地球人
2020年02月08日 23:42
いや、一か月の行動データがあればわかるか、 苦笑
地球人
2020年02月09日 00:01
しかし、自由意志で明日の行動を変えることは可能なのなのです。
通行人
2020年02月09日 00:10
猿でないことが証明されるね。^^
2020年02月09日 00:22


>タキ衛門@自由意志なし派さん
>
>自由意志議論について。ちょっと別の観点から。
> 基本的に感情や思考は脳内神経シナプスによる微弱な電流によって起こります。そして、仮に、将来、どのような電流の流れ方をすれば、どのような思考や感情が起こるかの精緻な予測モデルの研究が進んだとします。同時に、量子コンピュータの運用なども成功して、莫大な計算も簡単にできるようになり、人間の思考を100%予測できるシステムができたとします。
> これができると、例えば、Aさんに電話してAさんが答えた内容と予測モデルが出力した答えが全く同じになります。つまり、Aさんは機械的な予測モデル通りに動いている事になります。
> あくまで、仮定の話ですが、仮に上記のような脳内予測モデルシステムができれば、「自由意志あり派」の人は「なし」に意見を変えますか?
>
自由意志の問題と直接関係あるかどうかはわからないのですが、ご興味があれば、ご一読して、中身を教えてください。

https://www.amazon.co.jp/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%BF%83%E2%80%95%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E5%BF%83%E3%83%BB%E7%89%A9%E7%90%86%E6%B3%95%E5%89%87-%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC-%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4622040964
2020年02月09日 00:29


>たーぼーさん
>
>多勢に無勢だな、こりゃ(笑
>しかし、大乗仏教ってのは何でこんなネガティブなんかね。
>カルマさんが言うように、こんなんだからテーラワーダや原始仏教、小乗仏教、哲学など自己を拠り所に自らが主体的に真理を探究する宗教が台頭してくるんですよ。
>私は断言してもいいが、あと20年もすると日本の大乗仏教はかなり衰退していると思います。

多勢に無勢でもいいじゃないですか。真理は、人数にも関係ないし、仏教も関係ないです。

さまざまな意見を参考にして、思う通りにやっていけばいいと思うんですがね・・・・
2020年02月09日 00:38


>たーぼーさん
>
>大乗の修行は「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ
>
>
>これは曹洞宗の有名な禅僧である澤木興道老師の言葉ですけど、そもそも大乗仏教の道を選ぶのは究極の主体的な意思なんですよ。「おのれ未だ渡らざる先に、一切衆生をわたさんと発願し」この発願こそが究極の主体性でなければいけないんです。
>人に流されてとか、環境に流されてとか、過去の記憶に影響を受けてとかじゃなくて、自らが作っているこの虚仮の世で一切衆生を先に渡すという非常に奥が深い救済意思でなければいけないんです。

それはキャッチフレーズとしてはいいですが、素朴な疑問として、自分が渡ったことがなければ、渡るということもよくわからないし、どうやって渡すなんてことはわからないと思うんです。

仏教だからといって、そう素朴に信用することはできません。まして、会ったこともないひとの話なんか信用できません。参考にはなりますが・・・・。もちろん、素直に、信用することのできる人は信用してもいいんですが・・・・・
2020年02月09日 00:49


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>因果だって見せることはできまーせん。
>こんなのジョーシキ。現象や出来事の背後に因果という項目を仮説しているだけ。そもそも科学がそういうもの。
>
>自由意志をいまここに見せろ?あまりに幼稚な質問に絶句するしかありません。自由意志に限らず、形にならない心の要素をどうやって見せる?
>
>自由意志についていえば、哲学史上の超一流どころは自由意志肯定がゴロゴロ。自由意志否定はスピノザかな。ここで展開される幼稚極まる批判ですむなら、世話はないです。
>
>最後に、どんなジャンルの議論でも、極論を言って否定する方に立証責任があるものです。100パーセントない、そんなもの存在しな。そこまで主張するなら証明してくだしゃんせ。こっちは存在すると思ってそれに依拠しているわけで、議論するために書き込んでいるのではありません。
>
>どうも自由意志否定の方々は思考停止の頑固なタイプが多いようです。

因果は説明できますよ、たたかれれば痛い。腹が減ったら飯を食う。

ないことの証明は、一般的に難しいですね。宇宙人がこの地球にいる、ということの否定は難しいです。

そうだ、こういうことは言えるかもしれませんね・・・もし自由意志があるとすれば、それは一つしかないはずだと・・・・

つまり、わたしの自由意志とあなたの自由意志が違うものであれば、その自由意志は、あなたや、わたしの条件付けを受けているということになりますから・・・

そうすると、自由意識は、宇宙的な一つのものでなければならないと・・・・
2020年02月09日 00:58


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>販売機でお茶にするかコーヒーにするかというニュートラルな選択ならどちらでもいい。
>お茶が苦悩や葛藤を象徴し、コーヒーがそれらからの解放を象徴するなら、重要な問題になる。
>
>バカヤロー禅は、将来にわたってずっとお茶を選び続ける、場合によってはもっと強烈な苦悩をもたらすコーラ、もっとひどい何かを選ばないように、お茶の段階でこの回路を切断しちゃおうという手法じゃないですか?
>
>決して因果の流れだけを受動的に受け入れるというものには見えない。もっとアクティブに因果の流れに介入しようというものでしょう。
>
>わたしはそういうものであれば同意します。

因果を積極的に受動的に受け入れていこうと意図しています。こころの傷は、受け入れれば解消されるという仮説です。わたしは、三毒・・・トンジンチ・・・は、こころの傷から来ていると思っています。

だから、傷と悩みは関係しています。ですから、悩みから傷に接触していくのがいいかな、と思った次第です。

実験は、わたし個人しかやっていませんが・・・・
2020年02月09日 01:02


>お節介な見物人さん
>
> 自由意志の「ある・なし」のどちらかを了解したところで、どちらかの観念に固執して終わりになります。「言葉」の論争では、どちらかが是となれば他方は自ずと非となるのは「言葉」の性質上当然の結末のようです。「自我さん」は是非のやりとりが大好物のようです。「言葉・文字」を操る仕事師の面目を発揮できます。活躍の場を喜んでいます。実際は、「自我さん」に弄(もてあそ)ばれているかもしれません。気をつけましょう。
>
> 「自我さん」に油を供給し続けても疲弊するだけかもしれません。自由意志があろうがなかろうが、今置かれた環境でできることしかできないようです。大統領でも首相でもない一般人のできることなどたかがしれています。
> 「能無し大統領」と揶揄されるか「さくらでいじめられている首相」のほうがいい人もいるかもしれませが・・・。
>
> 議論に勝利して「自我さん」が満足することで、お腹が一杯になったり頭痛が治ったり虫歯の進行が遅れたり耳鳴りがおさまるのならいいのですが・・・。「自我さん」をスター扱いせずに、賞賛もせずに信奉者にもならずに三流芸能人の扱いにしてみるのはどうでしょう。
> そんなにがむしゃらに稼がなくてもいいですよ。頑張らなくてもいいですよ、一緒に「ボッー」としましょうと誘うのです。「自我さん」と一緒にくつろいで一緒になにもしない心地良さを味わってみます。闘争好きの「自我さん」には新天地が与えられますが、どう過ごして良いのか戸惑うようです。
>
> そこで「自我さん」に塩をふって小さくなってもらいます。塩としては「知らなくてもいい」「何もしなくてもいい」「闘わなくてもいい」「引き下がりましょう」「負けましょう」「譲りましょう」という塩が有効かもしれません。
> お釈迦様は肉体と精神のすべてをかけて「闘い」「引き下がらない」というスタンスで「自我さん」の最大出力の限界まで試したようです。身体が疲弊し、ギブアップせざるを得なくなったかもしれません。
> やり尽くした後にはただ坐って「何もしない」「何もできない」状態に追い込まれて「自我さん」に大量の塩が降りかかったのかもしれません。完全なる敗北が完全なる勝利になったのでしょうか・・・。今まで勝とうとして駄目だったら、負けてみるのも一つの手かもしれません。
> 余計なお節介をお許しください。
>
観念化という問題はありますね・・・・
ただ、議論するのはいいと思っています。議論するとき、真剣になりますからね・・・・頭をひねるのはいいことだと思っています・・・
たーぼー
2020年02月09日 01:30
ただ、議論するのはいいと思っています。議論するとき、真剣になりますからね・・・・頭をひねるのはいいことだと思っています・・・


愚さん、こんばんは。
これはその通りなんですね。
書く=出力するというのは凄くいいです。
ボンヤリ分かっていること、でも上手く言語化出来ないような事が書くという事で頭の中で整理されるんですね。
だから私は申し訳ないけど、自分の為にこのブログに書いてます。
誰に評価されなくても、誰も読んでくれなくても頭がスッキリするから。
たーぼー
2020年02月09日 01:39
それはキャッチフレーズとしてはいいですが、素朴な疑問として、自分が渡ったことがなければ、渡るということもよくわからないし、どうやって渡すなんてことはわからないと思うんです。


それもよく分かります。
でもそうしたら小乗仏教ですよ。
大乗仏教ってのは「自己の身心そして他己の身心を脱落させむるなり」というところに本意があると私は思っています。
それなら日本の大乗仏教は小乗仏教的なものを(原始仏教も含めて)蔑視するのはおかしいと思いませんか?
明らかに日本の大乗仏教は小乗仏教的なものを見下している。私から言わしたら先に彼岸に渡ったら小乗仏教ですよ。
2020年02月09日 02:30


>たーぼーさん
>
>ただ、議論するのはいいと思っています。議論するとき、真剣になりますからね・・・・頭をひねるのはいいことだと思っています・・・
>
>
>愚さん、こんばんは。
>これはその通りなんですね。
>書く=出力するというのは凄くいいです。
>ボンヤリ分かっていること、でも上手く言語化出来ないような事が書くという事で頭の中で整理されるんですね。
>だから私は申し訳ないけど、自分の為にこのブログに書いてます。
>誰に評価されなくても、誰も読んでくれなくても頭がスッキリするから。

それはいいことだと思います。わたしもそうですが、言語化するというのはすごく整理になります。

わたしも、ブログも、KB会も、自分のためにやっています。話す対象は、わかいときの自分です。
2020年02月09日 02:51


>たーぼーさん
>
>それはキャッチフレーズとしてはいいですが、素朴な疑問として、自分が渡ったことがなければ、渡るということもよくわからないし、どうやって渡すなんてことはわからないと思うんです。
>
>
>それもよく分かります。
>でもそうしたら小乗仏教ですよ。
>大乗仏教ってのは「自己の身心そして他己の身心を脱落させむるなり」というところに本意があると私は思っています。
>それなら日本の大乗仏教は小乗仏教的なものを(原始仏教も含めて)蔑視するのはおかしいと思いませんか?
>明らかに日本の大乗仏教は小乗仏教的なものを見下している。私から言わしたら先に彼岸に渡ったら小乗仏教ですよ。

ふたつに差異はないと思っています。わたしが推測しているのは、仏教がアカデミックになりすぎて、一般ピープルから離れた時代があったんだと思います。

それに対するアンチとして、大乗仏教という名前で、アカデミズムを解放したんでしょう。

一般的には、空の思想とか竜樹さんが持ち込んだということになってますが、諸行無常って、空のことですから・・・もともとあるんです。ただまあ確かに、それを前面に出したのは、明晰ですね・・・・

自未得度先度他というのは、エゴを落とすにはいいキャッチフレーズではあります。それが肌にあうひとはその方向で進めばいいし、ひとのことなんか知るか、というひとは、小乗仏教的に進めばいいし、なんでもありだと思っています。

この問題は、最終的には、慈悲心、愛という、わたしの不得意な分野につながっていくでしょう。

それから、細かいですが、「自己の身心そして他己の身心を脱落させむるなり」というのは、大乗仏教の精神をあらわしたものではなく、悟りの風景だと思っています。

自己の心身が脱落すると、おのずから、他己の心身も脱落するからです・・・・相手のひとに自覚があるわけではありませんが・・・・



2020年02月09日 04:56
ブッダちゃんが「行為者はいない」なんて言うはずないんだよな・・^^

ソース探したがやはり見つからない^^

時間の無駄だった^^

「物質にも精神にも普遍の実体および本体がないことについて、「行為はあるが行為者はいない」などと説明されている」

これだけあったがこれもブッダちゃんの説明ではないな^^
2020年02月09日 06:16
八正道・・・(4)正業(正しい行為)

うん?^^

正しい行為?

「行為はあるが行為者はいない」・・?

行為者はいないのに正しい行為とはこれいかに^^?
snow
2020年02月09日 07:11
>因果を積極的に受動的に受け入れていこうと意図しています。こころの傷は、受け入れれば解消されるという仮説です。わたしは、三毒・・・トンジンチ・・・は、こころの傷から来ていると思っています。


嫌な感じ、痛みみたいなものを感じても、それを紛らわすような行動にはですに、そのままにしておく、という意味ですか?
その嫌な感じ、痛みみたいなものを十分に感じてみる、という。
そうであればですが、それをしてみたらやはりよかったです。
これからもしていこうと思います。
バカヤローは、なんか合わない。(笑)
まぁ、男性向きなのかな。
2020年02月09日 08:26
ブッダちゃんに聞いてみるか・・^^

ちなみにこの画像どこかの美術館にあるブッダちゃんの肖像画なんだが・・^^
本物かどうか・・あやしい^^

あれ?めがねかけてたっけ^^

http://shizenfukuchi.jugem.jp/?eid=469
地球人
2020年02月09日 08:36
しかし、自由意志は皆さん、反応します。

自由意志の発言元は自我なんですが、
snow
2020年02月09日 08:40
自由意志のあるなし、の話ですが。
まずは、「自由意志とはなにか。」が共通の認識になっているかどうか、確認しなくては話にはならないですよね。

私は、「あらゆる条件付け、環境など外部からの影響から干渉を受けない意志」であればそれを自由意志と言ってもいいだろうけれど、それはない、と考えています。

人が生まれて成長して生活するなかで、様々な外部の影響を受けないことは不可能で、それらによって人は形成されているし、いくからです。
こうしたことを指して、「自由意志はない。」と言っています。
例えば、仏教を知ればそれの影響を受け、キリスト教を知ればそれの影響を受けます。

結局。 「自由意志はある。」という人の中でも、ここからが自由意志だ、という定義は人によって違ってくるのではないか、と思います。

いずれにしろ、その人その人の状態にあった考え方を取ってみる、しかないのですよね。
合わない靴は足を痛めます。
2020年02月09日 08:47
行為者はいない^_^

ブッダちゃんが言った^_^

ソース出せや^_^

と言うことで浄土行く途中^_^
snow
2020年02月09日 08:49
例えば。こういう事例は自由意志の具体例である、というのを出してみていただけるといいのかな、とは思います。

具体例があるほうが、誰にでも理解しやすいですから。
地球人
2020年02月09日 09:21
思い出した。
スッタニパーダは仏陀の言葉に間違いないようなので、読んでみたら。笑

生まれによって、バラモンとなるのではない。生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである。

行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。

世の中は行為によって成りたち、人々は行為によって成りたつ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く車がくさびに結ばれているように。

熱心な修行と清らか行いと感官の制御と自制と、――これによてバラモンとなる。これが最上のバラモンの境地である。 ――「スッタニパーダ」
地球人
2020年02月09日 09:28
>例えば。こういう事例は自由意志の具体例である、というのを出してみていただけるといいのかな、とは思います。

snowさん、

わたしは、自由意志は無い派です。 で、自由意志はエゴだと書きました。

バカヤロー禅ですか・・・男ですが、やってみて向いてないすね。笑
地球人
2020年02月09日 09:33
続き、

西洋は個人主義だから、自我が「自由意志」を主張するのは必然なのです。
地球人
2020年02月09日 09:38
続き・・

東洋は身分制度があって、個人の人権が認められていなかったから衆生であって、諸法無我なのです。
snow
2020年02月09日 09:50
>地球人さん

>わたしは、自由意志は無い派です。 で、自由意志はエゴだと書きました。

なぜ、自由意志はエゴなんですか?
自由意志の意味を理解されていますか?
地球人
2020年02月09日 09:54
>>わたしは、自由意志は無い派です。 で、自由意志はエゴだと書きました。

>なぜ、自由意志はエゴなんですか?
自由意志の意味を理解されていますか?

自由意志については、西洋哲学を引用しました。 読んでいませんか?
地球人
2020年02月09日 09:58
簡単に述べれば・・・

自由意志とは選択意志です。何を選択するのですか?
snow
2020年02月09日 10:00
地球人
2020年02月09日 00:01
しかし、自由意志で明日の行動を変えることは可能なのなのです。

まず。地球人さんは、↑と書かれています。
失礼ですが、発言が一貫されてないように・・・。
整理されるといいかもですね。
地球人
2020年02月09日 10:03
地球人
2020年02月09日 00:01
しかし、自由意志で明日の行動を変えることは可能なのなのです。

今日の因果から行動を変えることは可能だとのことです。
snow
2020年02月09日 10:06
「私」という個別のものが存在しているという考え方からは、自由意志が存在するというのが導かれると思います。

「私」という個別のものは存在しない、「私」という実体はどこにも存在しない、という考え方からは、自由意志はない、が導かれる。

端的に言ってそういうことだと思います。
snow
2020年02月09日 10:13
>今日の因果から行動を変えることは可能だとのことです。

変えよう、と思うきっかけが何かあるはずです。
痛い目にあった、とか、人の話に感銘を受けた、とか、自分で自分が情けなく感じた、とか。
自分で自分が情けなくなる、という時、他者との比較をしています。
他者がいなければ比較もせず、情けなくもなりません。

スペース取ると悪いので終わらせてください。すみません。
地球人
2020年02月09日 10:17
>「私」という個別のものが存在しているという考え方からは、自由意志が存在するというのが導かれると思います。

例えば、どんな事ですか?

できれば、逃げないで答えて欲しいです。
地球人
2020年02月09日 10:23
>>今日の因果から行動を変えることは可能だとのことです。

>変えよう、と思うきっかけが何かあるはずです。
痛い目にあった、とか、人の話に感銘を受けた、とか、自分で自分が情けなく感じた、とか。

切っ掛けとは因果でしょう。 あなたが答えたのです。
snow
2020年02月09日 10:45
>>「私」という個別のものが存在しているという考え方からは、自由意志が存在するというのが導かれると思います。

>例えば、どんな事ですか?

>できれば、逃げないで答えて欲しいです。


やはり、ずれていらっしゃる。。。

私は、「自由意志はない。」と言っています。
「自由意志はある。」と言う人は、「私」という個別のものが存在しているというところからそう言っている、という話をしています。

ですから、私が、自由意志の例を出す必要はないんです。
前に一応出しはしましたけどね。
人間にも動物にも一切会ったことがない人を例えとして。

一度、じっくりと、「私とは何か、それはどこにいるのか。」とかを考察なり、体験なりを通じて確かめられるといいのだと思います。
大変失礼なのですが・・・、ただ自動反応的に書いていてもしかたないです。
地球人
2020年02月09日 11:03
>「私」という個別のものは存在しない、「私」という実体はどこにも存在しない、という考え方からは、自由意志はない、が導かれる。

その根拠は?




snow
2020年02月09日 11:31
>>「私」という個別のものは存在しない、「私」という実体はどこにも存在しない、という考え方からは、自由意志はない、が導かれる。

>その根拠は?

「私」という実体はどこにも存在しない = 他から様々なものを受け入れたり取り込んだりして成立しているのが「私」として見えているものだ、ということです。

酸素、食物がなければ死にます。 原因がなければ人は生まれません。

そもそも。 思考、記憶の中にしか、自我は存在していないでしょう。
このあたりを知ることが、そもそも坐禅の眼目なのではないですか。

スペースの問題がありますので、終わりますよ。そうでなければ続けてもいいのですが。
地球人
2020年02月09日 11:49
>>「私」という個別のものは存在しない、「私」という実体はどこにも存在しない、という考え方からは、自由意志はない、が導かれる。

>>その根拠は?

>「私」という実体はどこにも存在しない = 他から様々なものを受け入れたり取り込んだりして成立しているのが「私」として見えているものだ、ということです。
>酸素、食物がなければ死にます。 原因がなければ人は生まれません。

それを何と言いますか?

>そもそも。 思考、記憶の中にしか、自我は存在していないでしょう。
このあたりを知ることが、そもそも坐禅の眼目なのではないですか。

答えましたが、何の記憶ですか?

>スペースの問題がありますので、終わりますよ。そうでなければ続けてもいいのですが。

別に構いませんよ。

わたしは回答しましたから・・あなたが認めるか否かです。
2020年02月09日 11:59
うん?
地球人さん探してくれたか・・^^
ありがとう^^

スッタニパーダかぁ・・・・^^
どらどら・・^^

うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
2020年02月09日 14:29
自我の生い立ち^^

生存競争・・やもえない^^

自我さんいないと人類滅亡してた^^?
2020年02月09日 16:20
免疫と同じようなもんや^^

おいらが想念垂れ流ししてどうする^^
2020年02月09日 16:24
ブッダちゃんが説法で・・^^

「行為はあるが行為者はいない」

なんて言ったらみんなやりたい放題やで^^

解ってても言わん^^
地球人
2020年02月09日 16:26
SNOWとの会話は噛み合ってなかった。

>>>地球人
2020年02月09日 00:01
しかし、自由意志で明日の行動を変えることは可能なのなのです。

>>今日の因果から行動を変えることは可能だとのことです。


>「私」という個別のものが存在しているという考え方からは、自由意志が存在するというのが導かれると思います。
>「私」という個別のものは存在しない、「私」という実体はどこにも存在しない、という考え方からは、自由意志はない、が導かれる。
>端的に言ってそういうことだと思います。

それはその通りです。

>今日の因果から行動を変えることは可能だとのことです。
>変えよう、と思うきっかけが何かあるはずです。
>痛い目にあった、とか、人の話に感銘を受けた、とか、自分で自分が情けなく感じた、とか。
自分で自分が情けなくなる、という時、他者との比較をしています。
他者がいなければ比較もせず、情けなくもなりません。

自我意識。


>>>「私」という個別のものが存在しているという考え方からは、自由意志が存在するというのが導かれると思います。
>例えば、どんな事ですか?

>>できれば、逃げないで答えて欲しいです。

>やはり、ずれていらっしゃる。。。

>私は、「自由意志はない。」と言っています。

ここだ! 
snowさんは自由意志がある立場だと思っていたが、自由意志はない、と言ったので混乱した。

>「自由意志はある。」と言う人は、「私」という個別のものが存在しているというところからそう言っている、という話をしています。
>ですから、私が、自由意志の例を出す必要はないんです。
前に一応出しはしましたけどね。

>人間にも動物にも一切会ったことがない人を例えとして。
一度、じっくりと、「私とは何か、それはどこにいるのか。」とかを考察なり、体験なりを通じて確かめられるといいのだと思います。
大変失礼なのですが・・・、ただ自動反応的に書いていてもしかたないです。

自動反応的とは何処、思われたのですか?






地球人
2020年02月09日 16:37
>ブッダちゃんが説法で・・^^
>「行為はあるが行為者はいない」

>なんて言ったらみんなやりたい放題やで^^
>解ってても言わん^^

スッタニパーダを挙げたが、そんなこと言ってますか?^^
地球人
2020年02月09日 16:56
再掲!

「生まれによって、バラモンとなるのではない。生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである。

行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。

世の中は行為によって成りたち、人々は行為によって成りたつ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く車がくさびに結ばれているように。

熱心な修行と清らか行いと感官の制御と自制と、――これによてバラモンとなる。これが最上のバラモンの境地である。」 ――「スッタニパーダ」



snow
2020年02月09日 17:18
>地球人さん

>snowさんは自由意志がある立場だと思っていたが、自由意志はない、と言ったので混乱した。

自由意志の話題が出た当初から、何度も何度も「ない」方で私は書いています。

>自動反応的とは何処、思われたのですか?

今回はじめて思ったのではなく、以前からです。
(書き方がきつい感じですみません。)
地球人
2020年02月09日 17:25
地球人

2020年02月08日 15:37

自由意志を全く否定してるのではありません。

自由意志を定義して欲しいのです。 

以前、自由意志を提示したことがあるのです。その時は、有る無しのどちらの立場ではありませんでした。東洋思想と西洋思想の違いでしょう。

他文献から、西洋思想の引用ですが・・

「自由意志とは、一般に行為者が思い通りに選択し、決断することのできる能力をいいます。これに対して哲学では、「決定論」に処置される概念としてとらえることができます。決定論とは、人間の行動は運命などの何らかの外的な要因によって決定づけられていると考えられる立場です。
したがって、反対に自由意志論者は、人間はこうした外的な要因によって決定づけられた存在ではないと主張します。いわば自由意志とは、自分で運命を決定することのできる能力であるといえます。」

「実存主義のはしりは、「主体性が真理である」として、ほかでもない「この私」が人生を作り上げていくと主張したキルケゴールの思想だといえます。・・・・実存は本質に先立つ。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。これは常に自由に何かを選択することなしには、一歩も前に進むことのできない人間の生を表現したものです。たしかに、「何をしてもいい」といわれると、人は戸惑うものです。ただ、同時にこの言葉は、私たちが無数の選択肢の中のなかから、その都度自由に選択して人生を歩んでいるという、誇らしい事実を認識させてくれるものであります。」  以上



地球人

2020年02月08日 20:49

<自由意志>

自分の意志を自由に決定しうること、これを肯定する非決定論と否定する決定論との二つの立場があって論争されているが、意志が因果の必然に縛れているなら、道徳の命令は無意味であり、行為の責任を問うこともできなくなるというのが非決定論の重要な論拠である。
意志の自由は先ず、1)選択の自由と解される。思慮によって対立する動機のうちどれかを選んで決定しうる自由がそれであり、このような自由は心理的に認められるが、この場合動機の選択を決定するものは終局的には人の性格である。しかし、性格が先天的な気質や環境の影響で決定されるとすればこの自由は相対的なものにすぎない。そこで、2)カントは現象の世界に対しては決定論を認めるとともに、【その背後の本体としての自我に因果の系列を自分から始める自発性の能力を始める自発性の能力を認め、これを先験的自由と名づけた。(→実践理性の要請)。科学的な決定論を否定することは困難であるから、多くの非決定論者はカントと同様に、因果関係の支配する世界とは別な高次の実在を考えてそこに自由を求めようとしている。】
(岩波哲学小辞典より)
地球人
2020年02月09日 17:31
>自由意志の話題が出た当初から、何度も何度も「ない」方で私は書いています。

そうなのですか、、読んでなかったです。
あなたに限らず、ブログ主ではないので、気になったレスしか読んでません。

>>自動反応的とは何処、思われたのですか?

>今回はじめて思ったのではなく、以前からです。
(書き方がきつい感じですみません。)

そうですか、、その傾向はあるかもしれない。
自分の言ったことを忘れてる時があります。苦笑

地球人
2020年02月09日 17:46
「自由意志」は西洋と東洋では認識の違いがあって、正否を問うても回答はでないでしょう。
地球人
2020年02月09日 17:48
解答です。
地球人
2020年02月09日 17:56
認識の違いは、「東洋は我無し」で、西洋は「我有り」ですから議論しても噛み合いません。
地球人
2020年02月09日 18:29
中国も自我に目覚めたら崩壊するでしょう。
2020年02月09日 18:41
現在の日本は「我有り」なのでしょう。

若い人に「我無し」と言ったら、「はあ?あんた、何言ってるの?」でしょう。笑
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月09日 18:56
>タキ衛門@自由意志なし派さん

>自由意志議論について。ちょっと別の観点から。
 基本的に感情や思考は脳内神経シナプスによる微弱な電流によって起こります。そして、仮に、将来、どのような電流の流れ方をすれば、どのような思考や感情が起こるかの精緻な予測モデルの研究が進んだとします。同時に、量子コンピュータの運用なども成功して、莫大な計算も簡単にできるようになり、人間の思考を100%予測できるシステムができたとします。
 これができると、例えば、Aさんに電話してAさんが答えた内容と予測モデルが出力した答えが全く同じになります。つまり、Aさんは機械的な予測モデル通りに動いている事になります。
 あくまで、仮定の話ですが、仮に上記のような脳内予測モデルシステムができれば、「自由意志あり派」の人は「なし」に意見を変えますか?
地球人

微動だにしません。そもそもどうして上記のようなシステムが自由意志否定の根拠になるのか、その意味がわかりません。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月09日 19:05
>愚さん
>そうだ、こういうことは言えるかもしれませんね・・・もし自由意志があるとすれば、それは一つしかないはずだと・・・・

つまり、わたしの自由意志とあなたの自由意志が違うものであれば、その自由意志は、あなたや、わたしの条件付けを受けているということになりますから・・・

そうすると、自由意識は、宇宙的な一つのものでなければならないと・・・・



条件づけから完全に自由な意志であれば、何種類もあるのはおかしいので、自由意志は一種類だと思います。

その一つの自由意志が、条件づけの無数のバリエーションのなかで働いているといえるのかもしれない。潜在的には誰にでも働いているはずです。その引き出し方、自覚の度合には千差万別でも。

もじどおりの自由意志が顕在化するとき、そのときが最終ゴールだと考えています。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月09日 19:19
一連の対話の当初から、わたしは「仏教」的な「自由」意志という意味で使ってきたつもりですが、本来的には世の東西で別の自由意志があるのはおかしいと思います。

仏教的にいえば、人生苦の原因そのものである十二因縁の外に出ることが、悟り、涅槃、仏教の最終ゴールであれば、ゴールでも因縁の制約・限界があっては矛盾しているでしょう?

因縁の制約の中で堂々巡りしていることは仏教のそもそもの趣旨に反するのではないでしょうか。いつかは自分の意志によってジャンプせざるをえない。
2020年02月09日 19:24
六五三 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起(えんぎ)を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

人の行為の中に縁起を見る^^

「行為はあるが行為者はいない」・・^^

行為者をあるがままに見ると言う事はその行為者ではなくその行為の縁起をみることであると・・^^

つまり・・^^

行為=縁起か・・^^

深い^^

さすがブッダちゃんや^^

地球人さんありがとう^^
2020年02月09日 19:32
行為を縁起で見られると恥ずかしい感がする^^
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月09日 19:35
>愚さん
>こころの傷は、受け入れれば解消されるという仮説です。・・・トンジンチ・・・は、こころの傷から来ていると思っています。

感覚が入ってきたその瞬間、受け入れるかイヤがるかですね。イヤがることがトンジンチで、トンジンチは心に傷を与え、その傷を受け入れないとそれがトンジンチになって、以下トンジンチが肥大してという悪循環だと思います

傷の浅いうちにもがくのをやめて受け入れることだと思います。

バカヤロー禅はそういうメソッドだと理解しています。
2020年02月09日 19:44
縁起

縁起とは、他との関係が縁となって生起するということ

全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって
独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなる
ということを指す。
仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するもの
とされる。因縁生、縁生、因縁法、此縁性ともいう。

種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、
無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。
後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。

ふむふむ^^
2020年02月09日 19:48
経典によれば、釈迦は縁起について、

「 私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」

さてと寝るかな^^

さっぱりした^^
地球人
2020年02月09日 21:33
>人の行為の中に縁起を見る^^
>「行為はあるが行為者はいない」・・^^
>行為者をあるがままに見ると言う事はその行為者ではなくその行為の縁起をみることであると・・^^
>つまり・・^^
>行為=縁起か・・^^
>深い^^
>さすがブッダちゃんや^^

あさん、、行為が縁起と仏陀が言ってるソースを出してください。^^
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月09日 21:34
脳科学者だか、元脳科学者のテレビ芸人だかの自由意志幻想説を真に受けても全くつまらないと思う。脳科学という制約ルールの中で、単純に決めつけているだけでしょう。そもそも精神や意志を脳という物質に還元してしまうという前提がおかしい。
たーぼー
2020年02月09日 21:35
それから、細かいですが、「自己の身心そして他己の身心を脱落させむるなり」というのは、大乗仏教の精神をあらわしたものではなく、悟りの風景だと思っています。

自己の心身が脱落すると、おのずから、他己の心身も脱落するからです・・・・相手のひとに自覚があるわけではありませんが・・・・



愚さん、こんばんは。
これについて言うと、私は彼岸に渡る悟りは「自己の身心そして他己の身心を脱落させむるなり」ではないと思っています。
これは大乗の精神だと思っています。
これは自分で経験したわけではないので推測ですが、彼岸に渡る悟りは自己だけが逝く。最後の彼岸の悟りだけは抵抗しなければ他己の身心を脱落させないと思っています。だから先に彼岸に渡るのは小乗仏教だと言っているのです。つまりこの世を捨てる、関わりのある他者との縁を切るつもりじゃないと彼岸には渡れないと思っています。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月09日 21:59
科学というのは、物質現象を超えることはないでしょう?
理論やモデルや仮説というのはそれ自体で真理性をもつものではなく、物質現象の中で、物質現象を通して、物質現象の検証によって、物質現象に真理性のお墨付きをしてもらう。決して科学者の脳ミソが拵えた仮説を王様にするものではない。王様は物質現象それ自体。

仏教はそうではない。物質現象だけに還元されない心の領域を問題にする。
地球人
2020年02月09日 22:41
>たーぼーさん

>自己の心身が脱落すると、おのずから、他己の心身も脱落するからです・・・・相手のひとに自覚があるわけではありませんが・・・・

自他不二になると、人に対して具体的にどうなるわけですか?
タキ衛門@自由意志なし派
2020年02月09日 23:33
>そもそもどうして上記のようなシステムが自由意志否定の根拠になるのか、その意味がわかりません。

 「完全に予測できる」という事は、自由には動いていないという事です。
地球人
2020年02月09日 23:52
たーぼーさんではなく、愚さんの言葉であったか、、

たーぼーさんは小乗か・・

小乗の言葉は大乗から見た蔑視なのです。

2020年02月10日 00:11


>たーぼーさん
>
>それから、細かいですが、「自己の身心そして他己の身心を脱落させむるなり」というのは、大乗仏教の精神をあらわしたものではなく、悟りの風景だと思っています。
>
>自己の心身が脱落すると、おのずから、他己の心身も脱落するからです・・・・相手のひとに自覚があるわけではありませんが・・・・
>
>
>
>愚さん、こんばんは。
>これについて言うと、私は彼岸に渡る悟りは「自己の身心そして他己の身心を脱落させむるなり」ではないと思っています。
>これは大乗の精神だと思っています。
>これは自分で経験したわけではないので推測ですが、彼岸に渡る悟りは自己だけが逝く。最後の彼岸の悟りだけは抵抗しなければ他己の身心を脱落させないと思っています。だから先に彼岸に渡るのは小乗仏教だと言っているのです。つまりこの世を捨てる、関わりのある他者との縁を切るつもりじゃないと彼岸には渡れないと思っています。

小乗仏教と大乗仏教と、両方やったらどうですかね?彼岸に渡って戻ってくればいいわけですから・・・・
2020年02月10日 00:13


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>>愚さん
>>こころの傷は、受け入れれば解消されるという仮説です。・・・トンジンチ・・・は、こころの傷から来ていると思っています。
>
>感覚が入ってきたその瞬間、受け入れるかイヤがるかですね。イヤがることがトンジンチで、トンジンチは心に傷を与え、その傷を受け入れないとそれがトンジンチになって、以下トンジンチが肥大してという悪循環だと思います
>
>傷の浅いうちにもがくのをやめて受け入れることだと思います。
>
>バカヤロー禅はそういうメソッドだと理解しています。

とにかく、こころの傷をいやすのが急務だと思っています
2020年02月10日 00:14


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>>愚さん
>>そうだ、こういうことは言えるかもしれませんね・・・もし自由意志があるとすれば、それは一つしかないはずだと・・・・
>
>つまり、わたしの自由意志とあなたの自由意志が違うものであれば、その自由意志は、あなたや、わたしの条件付けを受けているということになりますから・・・
>
>そうすると、自由意識は、宇宙的な一つのものでなければならないと・・・・
>
>
>
>条件づけから完全に自由な意志であれば、何種類もあるのはおかしいので、自由意志は一種類だと思います。
>
>その一つの自由意志が、条件づけの無数のバリエーションのなかで働いているといえるのかもしれない。潜在的には誰にでも働いているはずです。その引き出し方、自覚の度合には千差万別でも。
>
>もじどおりの自由意志が顕在化するとき、そのときが最終ゴールだと考えています。

それをわかりやすい言葉に置き換えるとなんになります?
たーぼー
2020年02月10日 00:19
自由意思という言葉を使うと反射的に反感を買うという事がよく分かったので、主体的な意思という言葉を使いたい。
この主体的というのは、誤解があると思うのですが、俺が俺がの[我]が主体的というのではないのです。
私やカルマさんやショーシャンクさんのいう主体的とは他者の目で自分を見ないという意味での主体的であり、主体的であることは自我を弱めるんですよ。
タキ衛門@自由意志なし派
2020年02月10日 00:27
>条件づけから完全に自由な意志であれば

自由意志があるかないかは、「物理法則や因果律から独立した自由な意思があるかどうか」といった観点です。「条件づけから自由な意思があるかどうかは」は別の議論なので、混ぜて話さないほうがよいと思います。
 条件づけからの自由であれば、坐禅・瞑想で条件付の弱化が起こったり、悟ったりすることで、ある程度リセットされたりするんだと思います。
タキ衛門@自由意志なし派
2020年02月10日 00:36
>主体的とは他者の目で自分を見ないという意味での主体的であり

 意味がわからないのですが、具体的な事例としては、どういうものを想定していますでしょうか?
2020年02月10日 00:51


>地球人さん
>
>>たーぼーさん
>
>>自己の心身が脱落すると、おのずから、他己の心身も脱落するからです・・・・相手のひとに自覚があるわけではありませんが・・・・
>
>自他不二になると、人に対して具体的にどうなるわけですか?

ブログに書き込みをするわけです・・・・・それはおいておいて・・・・・・

結構、面白いんですが、相手が自分になったり、自分が相手になったりします。奇妙な感じです・・・・

たーぼー
2020年02月10日 01:14
>主体的とは他者の目で自分を見ないという意味での主体的であり

 意味がわからないのですが、具体的な事例としては、どういうものを想定していますでしょうか?


例えばこういうブログに文章を書くのでも他者の目を意識していませんか?
こんな事書いたらブログ主の愚さんにどう思われるかなとか。
一般的な仕事など生活でも全て他者の目を借りて自分を見てる。
そうじゃなくて、自分の目で自分を見るんです。人にどう思われようが関係ないと、自己に沈殿するんですよ。それが板に付いてくると日常生活でも人の目があまり気にならなくなって自我が減ります。他者の目を気にするから自己意識が強まるという事です。
2020年02月10日 02:57
あさん、、行為が縁起と仏陀が言ってるソースを出してください。^^


653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。--進み行く車が轄に結ばれているように。

スッタニパータ

「行為はあるが行為者はいない」

おなじことやな・・^^

「生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。」

つまり・・自由意志の否定や^^

因果の連鎖や・・^^

因果の連鎖を断ち切る^^

がおぉおおおおおおおおおおお^^

なんでこうなるねん^^

2020年02月10日 03:04
つまり・・^^

種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とする

〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉の連鎖^^

人が介在するのは難しい^^

「行為はあるが行為者はいない」・・やな^^
2020年02月10日 03:16
うん?

「怒りの連鎖を断ち切るために」だと・・^^

煩悩(惑)つまり・・迷いを断ち切る^^

智慧が必要やな・・^^

となると・・^^

波羅蜜(此岸(迷い)から彼岸(覚り)に到る行)となる^^
snow
2020年02月10日 05:57
できるだけ客観的に自分を観よう、という姿勢は大切だと思いますよ。
自分の目線だけでは変化が訪れにくいと思います。

私は昔、対人恐怖症だった時期がありました。
それが治ったのですが。

私の場合。被害妄想から恐怖を感じていました。
今にして思えば、どうってことない人の視線さえ怖かったのです。
しかし。人と会話しても人の話す内容を聞くのも上の空になってしまうほどでは、相手に迷惑をかけているかけているというのと、自分の中にある自己中心的な部分に気づき、次第によくなりました。
これはあくまで私のパターンで、他の対人恐怖の方のパターンはまた違うかとは思いますが。

自分の弱さ、醜い部分から目をそらしてはいけないと思います。
最初はきついのですが、実体としての「私」はいない、というのが理解できてからは、苦しくなくできるようになりますから。
それまではきついと思います。
snow
2020年02月10日 07:02
人の目を気にする、というのと、客観的に自分を観ていく、というのは、内容がまったく違います。

人の目を気にしないでいようとするあまりに、自分を客観的に観ていく姿勢を失わないようにしないといけないのではないかと。

2020年02月10日 09:52
僕とか浄土へ毎日行ってるので^_^
六波羅蜜はやらんけど^_^
地球人
2020年02月10日 12:02
愚かさん

>>>自己の心身が脱落すると、おのずから、他己の心身も脱落するからです・・・・相手のひとに自覚があるわけではありませんが・・・・
>
>>自他不二になると、人に対して具体的にどうなるわけですか?

>ブログに書き込みをするわけです・・・・・それはおいておいて・・・・・・

>結構、面白いんですが、相手が自分になったり、自分が相手になったりします。奇妙な感じです・・・・

なるほど、ブログへの書き込みです。一体です。
相手の批判で、自分の考えが整理できることがあります。

物別れになることも多いですが。






2020年02月10日 12:13
>>あさん、、行為が縁起と仏陀が言ってるソースを出してください。^^


>653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
>654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。--進み行く車が轄に結ばれているように。
>スッタニパータ

>「行為はあるが行為者はいない」
>おなじことやな・・^^

行為によってバラモンになるである。 スッタニパーダ

同じことです。^^
snow
2020年02月10日 14:30
>>人の目を気にしないでいようとするあまりに、自分を客観的に観ていく姿勢を失わないようにしないといけないのではないかと。

これは、倫理的な良い人間になるためにする、ということではないんですよ。

自分を客観的に観ていく姿勢 = 観察瞑想 のことを言っています。

「俺流」を主体的と勘違いしてもはっきり言って無駄です。

俺が消えた時に、主体性は現われてくるんです。
2020年02月10日 14:42
うーん^_^

俺俺詐欺やな^_^
2020年02月10日 16:35


>snowさん
>
>できるだけ客観的に自分を観よう、という姿勢は大切だと思いますよ。
>自分の目線だけでは変化が訪れにくいと思います。
>
>私は昔、対人恐怖症だった時期がありました。
>それが治ったのですが。
>
>私の場合。被害妄想から恐怖を感じていました。
>今にして思えば、どうってことない人の視線さえ怖かったのです。
>しかし。人と会話しても人の話す内容を聞くのも上の空になってしまうほどでは、相手に迷惑をかけているかけているというのと、自分の中にある自己中心的な部分に気づき、次第によくなりました。
>これはあくまで私のパターンで、他の対人恐怖の方のパターンはまた違うかとは思いますが。
>
>自分の弱さ、醜い部分から目をそらしてはいけないと思います。
>最初はきついのですが、実体としての「私」はいない、というのが理解できてからは、苦しくなくできるようになりますから。
>それまではきついと思います。

なるほど・・・・・そこで教えていただきたいのですが、対人恐怖の、おそらくはひとと会うときの不安感があるのでしょうが、ひとと会ったあとで、ひとりになったとき、その不安感を再現し、その不安感と一体となっていくことによって、不安感が消えていくというようなことはあるでしょうか?

自己の弱さ、醜悪さを直視することは非常に大事なことだと思っています。ご指摘通り、その際に、直視する主体はなく、弱さと醜悪さだけがあるのだということがわかれば、それで解消していくわけですね・・・・

たーぼー
2020年02月10日 17:11
自分を客観的に観ていく姿勢 = 観察瞑想 のことを言っています。



自己を習うのに他者や世間の目で習ったら迷いの人生ですよ。自己を習うのは、自分の目で習うんですよ。他者や世間の目で自己を習ったら、他者や世間の価値観で自己を見ることになっていつまでたっても自立出来ないです。
snow
2020年02月10日 18:11
>愚さん

>なるほど・・・・・そこで教えていただきたいのですが、対人恐怖の、おそらくはひとと会うときの不安感があるのでしょうが、ひとと会ったあとで、ひとりになったとき、その不安感を再現し、その不安感と一体となっていくことによって、不安感が消えていくというようなことはあるでしょうか?


不安感を再現し、その不安感と一体になって・・・という方法は、しませんでした。
人と話す時に、自分の心ではなく会話の内容に集中する、というのが突破口になりました。


>自己の弱さ、醜悪さを直視することは非常に大事なことだと思っています。ご指摘通り、その際に、直視する主体はなく、弱さと醜悪さだけがあるのだということがわかれば、それで解消していくわけですね・・・・


対人恐怖があった時は、完全なる二元性にいましたから、醜さ、弱さと私は強固に結びついていました。
へんな表現ですけど、醜さ、弱さみたいなものが、私といわれるものを通じて表れている(だけ)、というのはわりあい最近になって実感となったことです。
苦しむときは苦しむしかなくて、でも、それはきっと生みの苦しみなのかな、と思います。
2020年02月10日 18:18


>snowさん
>
>>愚さん
>
>>なるほど・・・・・そこで教えていただきたいのですが、対人恐怖の、おそらくはひとと会うときの不安感があるのでしょうが、ひとと会ったあとで、ひとりになったとき、その不安感を再現し、その不安感と一体となっていくことによって、不安感が消えていくというようなことはあるでしょうか?
>
>
>不安感を再現し、その不安感と一体になって・・・という方法は、しませんでした。
>人と話す時に、自分の心ではなく会話の内容に集中する、というのが突破口になりました。
>
>
>>自己の弱さ、醜悪さを直視することは非常に大事なことだと思っています。ご指摘通り、その際に、直視する主体はなく、弱さと醜悪さだけがあるのだということがわかれば、それで解消していくわけですね・・・・
>
>
>対人恐怖があった時は、完全なる二元性にいましたから、醜さ、弱さと私は強固に結びついていました。
>へんな表現ですけど、醜さ、弱さみたいなものが、私といわれるものを通じて表れている(だけ)、というのはわりあい最近になって実感となったことです。
>苦しむときは苦しむしかなくて、でも、それはきっと生みの苦しみなのかな、と思います。

なるほど・・・・・ありがとうございました
snow
2020年02月10日 18:21
>たーぼーさん

>>自分を客観的に観ていく姿勢 = 観察瞑想 のことを言っています。


>自己を習うのに他者や世間の目で習ったら迷いの人生ですよ。自己を習うのは、自分の目で習うんですよ。他者や世間の目で自己を習ったら、他者や世間の価値観で自己を見ることになっていつまでたっても自立出来ないです。


たーぼーさんが、「人目を気にせず」と書かれていたのは、「無心でする」という意味なのかも、ってさっき気づいたんです。
私も対人恐怖を突破したのは、それだったな、って思い出して。
いえ、たーぼーさんも恐怖症だとかそういう意味じゃないんですが。

たーぼーさんが上に書かれているのは、やはり俺流哲学だと思うんです。
自分という実体ってなかったんだ、というのが実感となってからが、ほんとの主体性の発現じゃないですか。
十牛図にもそれは表れていますよね。

筏としての瞑想は、必要なんじゃないか、という話と、それをしていくなかで、弱い、醜い自分を見つけやすくもなってそれはそれで苦しいけれど、それは浄化の道でもある、ということです。
たーぼー
2020年02月10日 19:27
たーぼーさんが上に書かれているのは、やはり俺流哲学だと思うんです。
自分という実体ってなかったんだ、というのが実感となってからが、ほんとの主体性の発現じゃないですか。
十牛図にもそれは表れていますよね。



その通りです。
自分という実体がないと気づいてからが、真の主体性ですが、私の経験では最初から絶対的に信じられるのは自分だけだというくらい主体性がないとカルマに翻弄されます。 特に老師などの頼る人のいない独覚ではね。まぁお好きにどうぞ
2020年02月11日 05:13
「特に老師などの頼る人のいない独覚」

そういうの独覚っていうの^^

ヘー^^
2020年02月11日 05:32
独覚・・二乗のことやな・・^^


さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。
かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。

かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。

これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。
2020年02月11日 05:36
小乗の修行者・・独覚か・・^^

では独覚でいくかなっと^^
2020年02月11日 05:45
二乗の境涯を目指す人々は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます。

菩薩とは、仏の覚りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味です。二乗が仏を師匠としていても、自分たちは仏の境涯には至れないとしていたのに対し、菩薩は、師匠である仏の境涯に到達しようと目指していきます。
また、仏の教えを人々に伝え広めて人々を救済しようとします。
すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
現実の世間のなかで、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他共の幸福を願うのが菩薩の心です。
二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い覚りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯です。

「特に老師などの頼る人のいない独覚」・・なんかおかしくね^^
2020年02月11日 05:49
辟支仏

サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、旧訳では一般的である。また「縁覚」「独覚」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、仏教やジャイナ教でこの名称を用いる。

 仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。

 特に天台では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。
2020年02月11日 05:59
大乗・小乗・・とか^^

独覚とか・・^^

大乗もいろいろ考えるな^^
2020年02月11日 06:04
仏教には大きく分けて、
「小乗仏教(テーラワーダ仏教)」と、
「大乗仏教」があります。
(→小乗仏教と大乗仏教の違い)
それぞれ実践の方法が違います。

小乗仏教の人たちには、
教えを聞いてさとりを目指す「声聞(しょうもん)」という人たちと、
中には独りでさとりを目指す「縁覚(えんがく)」という人たちがあります。
(「縁覚」は、「独覚(どっかく)」とも「辟支仏(びゃくしぶつ)」ともいわれます)
この人たちは、自分が救われないのに他人は救えない、
ということでまず自分の悟りを優先して目指します。

それに対して大乗仏教の人たちは、「菩薩(ぼさつ)」といわれ、
自分だけでなく、すべての人の救いを目指す人たちです。
「菩薩」といっても観音菩薩や弥勒菩薩のような有名な菩薩だけでなく、
本当の幸せを求める人は、みな菩薩です。
(だから、おそらくこのサイトを読んでいるあなたも菩薩です)

このように、仏教を求める人には、
「声聞」
「縁覚」
「菩薩」
と3通りの人がいます。


勉強になった^^
2020年02月11日 06:06
(だから、おそらくこのサイトを読んでいるあなたも菩薩です)

うん?^^

おいらの菩薩が確定した^^
2020年02月11日 06:17
灰身滅智

身体を灰にし、心(智)を滅すること。焚身灰智、略して灰断、灰滅ともいう。すなわち、部派仏教の最終目的とされる、煩悩も肉体も完全に滅し尽くした状態である無余涅槃を指す。『金剛仙論』九に「小乗の人は三界の煩悩を断じ、分段生死を尽くし、灰身滅智して無余涅槃に入り、善悪因果一切俱に捨す」(正蔵二五・八六四下)と説明される。このような部派仏教の考え方は、無住処涅槃(生死にも涅槃にも住しない状態)や久遠実成の仏陀を主張した大乗仏教側から、自分自身だけが修行を完成する利己的な態度であると批判された。ただし、この語は阿含経典や部派仏教の諸論書には現れず、大乗仏教の諸論疏にしか見られないことから、その典拠も明らかでなく、部派仏教の姿勢を批判する大乗仏教側が造語した可能性もある。

やばい^^

このへんでやめとく^^
2020年02月11日 06:23
小乗と大乗が火事やで^^

世界中が火事や^^
地球人
2020年02月11日 08:43
>おいらの菩薩が確定した^^

煩悩即菩提。

菩提即煩悩とは言わない。^^
2020年02月11日 17:42
どうかんがえても大乗非仏説やな^^

大乗仏説にあらず・・やな^^

大乗仏教の本質は、「歴史的ブッダへの回帰」ではなく、「仏伝的ブッダの模倣(まねび)」であることを確認。

大乗仏教のアイデンティティは、他者を救うためなら仏伝的ブッダの故事にもとづいて敢えて歴史的ブッダの教えに反することすらやってのける、「利他ゆえの仏教否定」であることを確認。


うわっ^^
2020年02月11日 17:56
「独覚」
この人たちは、自分が救われないのに他人は救えない、
ということでまず自分の悟りを優先して目指します。

これでいいんじゃないの^^

知らんけど^^
2020年02月11日 18:01
1

蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2

池に生える蓮華(れんげ)を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

5


無花果(いちじく)の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々(もろもろ)の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
6

内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
9

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


(貪り、愛欲、憎悪、迷妄、悪い習性、煩悩、妄執から離れること)
17

五つの蓋(おお)いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2020年02月11日 18:06
「怒りが起こったのを制する修行者(比丘(びく))は、この世とかの世とをともに捨て去る。」


「この世とかの世とをともに捨て去る。」^^

ブッダちゃんが

「怒りが起こったら、この世とかの世とをともに捨て去る」^^

・・とおっしゃられていますが・・^^

難解や^^



2020年02月11日 18:14
うん?

1、もし比丘にして、むらむらとこみ上げてきたいらだちを除去してしまうこと、あたかも全身くまなくひろがった毒蛇の毒を霊薬によって解消してしまうごとくであるならば、そのような比丘は、あちことへ往還し流転しつづけてきた輪廻を放棄してしまう。あたかも蛇が古くなったとき、久しく自分のものであった皮を捨てていくように。

もっと難解や^^
2020年02月11日 18:17
怒り=毒蛇の毒^^

霊薬=?

なんぞとなる^^
2020年02月11日 18:21
貪瞋痴は毒蛇の毒や^^

では霊薬によって解消してしまうごとくであるの霊薬とは^^

霊薬=この世とかの世とをともに捨て去る薬。

とこうなるが・・^^

抽象しすぎでわからん^^
2020年02月11日 18:28
「諸法無我」というんだろうな・・^^

おまえらは^^

となると・・

怒りが起こったのを制する修行者(比丘(びく))は、「諸法無我」を感ずる」

とこうなるな・・^^

うん?

想念が湧いた・・托鉢や^^
2020年02月11日 18:31
比丘は托鉢から戻ったとき、次のことを観察すべきである。

それは「六処によって生じる貧欲・瞋恚・愚癡などの不善法」が
捨断されているかどうか

「五妙欲・五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか、

「四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八聖道・止観」が
修習されているかどうか、

「明・解脱}が直証されているかどうかである。

これを^^

比丘は、怒りが起こったら次のことを観察すべきである。にかえればいいと^^

う~~ん^^

そうは問屋がおろさないか・・^^
2020年02月11日 18:33
僕とか地球人さんがいないので^^

かわりに想念垂れ流しをやってみました^^

すみませんです^^
2020年02月11日 18:39
1

蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘(びく))は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

第1 蛇の章 1はこれだった^^
2020年02月12日 04:47
この世とかの世とをともに捨て去る

うーん^_^

難解や^_^
2020年02月12日 04:51
だんだん分かってきた^_^

視点やな^_^
2020年02月12日 07:36
想念を焼き尽くして余すことなく、
心の内がよく整えられた修行者は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2020年02月12日 12:11
蛇は生きているあいだにいくども脱皮するといわれています。人間の生涯も、これと同様に、いくたびも脱皮、こころの脱皮を繰り返していくことが必要です。自己に纒(まと)うさまざまなもの、怒り、貪欲、迷妄などを脱ぎ捨て、本来みずからに属していないものをいたずらに追い求めることなく生きることが、この世とかの世を捨てることの真意です。これが“涅槃”ということです


そうかなぁ^_^

まだ奥が深いで^_^
2020年02月12日 12:15
ブッダちゃんのことや^_^

よからぬこと考えてとるで^_^
地球人
2020年02月14日 13:34
ブログ主の愚さんにお願いがあります。

あさんも想念のレスが止まりません。

別途、「あさんの部屋」のトピを作って頂けないでしょうか?

愚さんと他の方の貴重な対話が見えなくなってしまいす。

ロムされている方にもご迷惑だと思います。

お忙しいところ恐縮ですが、宜しくお願い致します。m(_ _)m

2020年02月14日 19:59


>地球人さん
>
>ブログ主の愚さんにお願いがあります。
>
>あさんも想念のレスが止まりません。
>
>別途、「あさんの部屋」のトピを作って頂けないでしょうか?
>
>愚さんと他の方の貴重な対話が見えなくなってしまいす。
>
>ロムされている方にもご迷惑だと思います。
>
>お忙しいところ恐縮ですが、宜しくお願い致します。m(_ _)m
>
あさん、いかがでしょうか?