わたしはあるか?

>それは科学的に求められる事柄であり、すなわち、実際の事実、真実でなければならない。。ということかもしれません。

 「私が無い」とは、概念、空想として「私が無い」のか?

 それとも、本当は、実際は「無い」にもかかわらず、生後の教育環境によって、「私」があると盲信しているのか・・?

 真実はそのどちらであるか・・!!と言うことで、一般ピープルは見解が分かれるというか、一般ピープルは、「私が無い」とは、心理的安定のためのおまじない(イメージ・空想)としか思えない。。「私」が絶対的に存在しているとしか思えない。。これが一般ピープルには拭えない烙印としてあるように思えます。
 たとえ、頭では理解しても、根っこではその烙印を拭えないでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「わたし」というものを、抽象的に考えるとややっこしくなります。腹を立てます、腹を立てている「わたし」がいます。あきらかに、腹を立ててから、腹を立てている「わたし」が生まれています。


まず、ムカっとした感覚があり、感情があります。それから、腹を立てている「わたし」があります。腹を立てなければ、腹を立てている「わたし」は存在しません。腹を立てていない、腹を立てている「わたし」は存在できません。

つまり、知覚なしに「わたし」は存在できないんです。「わたし」単体は存在できません。見る「わたし」、感じる「わたし」、思考する「わたし」・・・・・知覚、感覚なしに「わたし」はありえません。

だから、「わたし」は、知覚、感覚、思考とひとつです。「わたし」は、知覚、感覚、思考です。

いま、パソコンの画面を見て、実験してみてください。見る、そのあと、見ている「わたし」が生まれています。

悩む、悩みという苦痛、思考が生まれる、そのあと、悩んでいる「わたし」が生まれる。悩みは「わたし」です。

悩みの苦痛は、耐えるしかないんです。ひたすら、耐えるんです。そこに、バカヤローでもなんでも思考が出てきたら、そのままにして、苦痛を味わうわけです。身体全体で味わいます。

そのとき、時間はかかるかもしれませんが、長い時間ではないですが、苦痛は終わります。そして、それとともに、他の条件付けも落ちていきます。つまり、精神は浄化されていきます。

つまり、日常の悩みをきっかけとして、精神が浄化されていきます。悩みの苦痛はイヤなものですが、良薬は口に苦し。この薬は効きます。







ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

2020年01月17日 04:00
ただ見ているだけなのに^_^

苦が生じるとはこれいかに^_^
2020年01月17日 07:37
虚妄の世界を見ているということやな^_^
2020年01月17日 07:39
一念に三千の世界があると^_^
2020年01月17日 07:44
世間における一切のものは虚妄である。中村元訳(『ブッダのことば』9)

またブッタちゃんとおなじや^_^

どないなっとんねん^_^
2020年01月17日 10:05
数学は思惑が入らないから真理を求めるには最適やな^_^
2020年01月17日 12:21
果たして仏教は、人間には「世俗の我」と「真実の我」の二つがあるという。もちろん前者は、世間(世俗)に留まって、徒に生まれ、徒に死を繰り返しているわれわれ自身のことであり、後者は真理に目覚めた覚者を指している。つまり、見る私が「世俗の我」であるか「真実の我」であるかによって、世界もまた虚妄ともなれば、真実ともなるのだ。
ところが、ここに重大な問題がある。それは、この世が虚妄であると知るのは覚者に限られるということだ。言い換えれば、「真実の我」(親鸞の言う「まことのひと」であり、臨済の「真人」にあたる)を知るのでない限り、われわれはこの世が虚妄の世界であると気付くこともなく、生々死々を繰り返すことになるからだ。一方、「世間における一切のものは虚妄である」と知った者はこの世とかの世をともに超えた真実の世界に至り、再び空しく生死の円環を巡ることはない。

親鸞ちゃんに続き臨済ちゃんも^_^

老荘思想きたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ^_^

臨済ちゃんおまえもか^_^
地球人
2020年01月17日 13:00
「私」について・・・

物体の「私」とは砂粒であり、リンゴの実の一つである。
何一つとして形状が同じ砂粒、木の実はありません。ヒトもまた然り。

「私」とは生年月日、名前、指紋です。人間社会の都合上、識別して誕生しました。

>「わたし」というものを、抽象的に考えるとややっこしくなります。腹を立てます、腹を立てている「わたし」がいます。あきらかに、腹を立ててから、腹を立てている「わたし」が生まれています。

「我思う故に我有り」はですが、正しくは「思う故に我有り」でしょう。

ゴキブリがヒトの認知能力があれば、「わたし」が誕生します。

>いま、パソコンの画面を見て、実験してみてください。見る、そのあと、見ている「わたし」が生まれています。

見るだけでは「わたし」は生じません。見るだけでは、猫と同じですね。

>だから、「わたし」は、知覚、感覚、思考とひとつです。「わたし」は、知覚、感覚、思考です。

AIロボットは「わたし」がありません。名前を呼べば、ハイ!と返事しますが、、

>悩む、悩みという苦痛、思考が生まれる、そのあと、悩んでいる「わたし」が生まれる。悩みは「わたし」です。

「我思う故に我有り」は間違いで、「思う故に我有り」でしょう。

>悩みの苦痛は、耐えるしかないんです。ひたすら、耐えるんです。そこに、バカヤローでもなんでも思考が出てきたら、そのままにして、苦痛を味わうわけです。身体全体で味わいます。
>悩みの苦痛は、耐えるしかないんです。ひたすら、耐えるんです。そこに、バカヤローでもなんでも思考が出てきたら、そのままにして、苦痛を味わうわけです。身体全体で味わいます。

耐えられなくて、他のせいにしたり、何だかんだ理由をつけて逃げてしまうのです。

>そのとき、時間はかかるかもしれませんが、長い時間ではないですが、苦痛は終わります。そして、それとともに、他の条件付けも落ちていきます。つまり、精神は浄化されていきます。

坐禅で体験できます。感覚としては癒された体感があります。
自縛が解けるのですかね。


>つまり、日常の悩みをきっかけとして、精神が浄化されていきます。悩みの苦痛はイヤなものですが、良薬は口に苦し。この薬は効きます。

逆に悩みが無いのは危険です。大きな間違いを犯すかもしれない。










地球人
2020年01月17日 13:16
自宅だと途中で苦痛になって止めたり中途半端になるので、坐禅は体得するまで公然の場であるお寺とか、するのがよいでしょう。

学識がある人だと真に悟られるかもしれない。笑

地球人
2020年01月17日 15:12
さて、此処で問題です。

悩んで決断したほうが良い結果をもたらすか?
それとも、悩まないで決断したほうが良い結果をもたらすか?
地球人
2020年01月17日 18:13
>悩んで決断したほうが良い結果をもたらすか?
それとも、悩まないで決断したほうが良い結果をもたらすか?

結果は変わらない。
悩まないで決断した方が後悔がないので結果に拘らない。
2020年01月17日 18:31
悩みは甘え^^

真剣勝負だと悩んでる間に切られて終わる^^
地球人
2020年01月17日 19:08
>悩みは甘え^^

悩みは煩悩ですが、そんな捉え方もありますか。
2020年01月17日 19:14
「お金がない」

まさしく甘え^^

「つべこべ言わず働け」となる^^
地球人
2020年01月17日 19:16
神仏に依存するのは甘えか?
2020年01月17日 19:16
世の中甘く見てるから悩むんだよな^^
地球人
2020年01月17日 19:21
本来、「お金が無い」は有る無いだから悩みにならない。
2020年01月17日 19:25
みんなの悩みって知りたいんだけどなにかな・・^^

ほとんど人間関係だと思うけど^^
地球人
2020年01月17日 19:25
神仏に依存するのは、世の中には悲惨な不幸もあるので已むに已まれる事情もあります。
2020年01月17日 19:28
この世に悲惨な不幸なんてないよ・・^^

そう思っているだけ^^

地球人
2020年01月17日 19:31
人間関係は相手があってのことだから難しい。そして、人間関係は簡単に縁を切ることができない。
地球人
2020年01月17日 19:34
生死に絡む不幸があります。

世の中に不幸が無いとすれば平和な社会なのです。
2020年01月17日 19:35
この世は良くもない悪くもない0思考なんだな・・^^

あるがままなんだな^^

よい悪いを決めているのは人の思考なんだな・・^^

・・とだれかが言ってた^^
2020年01月17日 19:38
自然が0思考あるがままならば・・^^

生きてよし・・死んでよし・・になるな・・^^

とだれかが言ってた^^
地球人
2020年01月17日 19:54
自然死ならわかるが・・死に方の問題があるでしょう。

例えば、あなたの家族が惨死して割り切れますか?
2020年01月17日 20:08
受け入れますね^^
地球人
2020年01月17日 20:10
〇仏教の有無

存在と非存在。仏教では存在するものはすべて一時的な仮のものであり、諸条件によって生滅するものであるから。存在それ自体に不変常住な固定的実体はないと考える。存在に固定的実体を認めるのが「有」の見解である。逆に,すべての存在を否定してしまうのを「無」の見解という。仏教は、すべてが諸条件によって生滅するという事実に立って,「有」と「無」という両極端の見解に陥ることを戒めている。この立場が仏教の「中道」である。
地球人
2020年01月17日 20:13
あさん、、実際に経験されたか?
2020年01月17日 20:16
天台の三諦やな・・^^
2020年01月17日 20:18
すべてを受け入れられるということはどういうことか・・^^
2020年01月17日 20:20
ちょっと天台の三諦について確認したいので・・^^

さらばじゃ^^
地球人
2020年01月17日 20:31
無我を実感してるのであれば・・・
2020年01月17日 20:44
「仏教の有無」の意味がわからんかったが・・^^

有為・無為の有無か・・・^^



〈空 諦〉

「空」の字は一般的に「うつろ・ない・欠けた」という意味に理解されていますから、「空とは無(非存在)」と考えがちですが、仏教では精神のあるものも、ないものも、一切世間のものはすべて因縁によって生じており、因縁によって生じる事物は、それ自体に実体はないとし、これを空と説いています。

つまり、一切の事物には実体がないという真理を空諦と言うのです。
地球人
2020年01月17日 21:58
愚さんがトップで書いてますが・・・

知覚・感覚・思考が「わたし」です。
諸法無我とは、縁起の出来事で「わたし」はコロコロ変わり、恒常不変の実体が無い(空)。五蘊の感覚器官、肉体は「わたし」ではないとするのが仏教です。(諸法無我・色即是空)
地球人
2020年01月17日 22:13
〇中道
仏教の実践についての基本的な考えで、対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くこと(苦楽中道)によって悟りに到達し、それを具体化するために八正道を説いた。大乗仏教ではこの考えがさらに深められ、有・無、生・滅などに代表されるような日常的な観念やことばを超えたところに究極的な真理があり、それに達するために「すべてのものは空である」とみることが中道であるとされる。「コトバンク」

地球人
2020年01月17日 22:47
ここは宗教・仏教トピではないから程々で、、笑

みゅう
2020年01月18日 07:22
 ご指摘、ありがとうございます。

>腹を立てます、腹を立てている「わたし」がいます。あきらかに、腹を立ててから、腹を立てている「わたし」が生まれています。

 「腹を立てる」はほかの言葉でも成り立ちそう。

 困っています、困っている「わたし」がいます。あきらかに、困ってから、困っている「わたし」が生まれています。

 食事をしています、食事をしている「わたし」がいます。あきらかに、食事をしてから、食事をしている「わたし」が生まれています。

      ○○な私がいるから私がある!
 
「わたし」もほかの言葉でも成り立ちそう。

 腹を立てている「あなた」がいます。腹を立てている「あなた」が生まれています。(すべて「わたし」からみて。「あなた」からみたらどうなるかはこのさい知りません)

      ○○な××がいるから××がある!
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%8C%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:De_Alice's_Abenteuer_im_Wunderland_Carroll_pic_24.jpg

さらに、
      属性を前提にして実体がある!?
 
理学的な発想

      波は測定されてものになる! に似ている?


 因みに、「私が悩むから私がある」の対偶をとって
     「私がなければ悩まない」は工学的発想でしょうか。

   合掌


 ところで、「ある」は簡単に「存在」と置き換えて使っています。「存」 も「在」も 「ある」と読みますが、これ、なんでしょう?






2020年01月18日 07:41

* 五つの蓋い pañca 五つ  nīvaraṇā 遮止、防止、防護 →訳註に【貪欲と、いかりと、こころのしずむことと、こころのそわそわすることと、疑いとをいう。】
さらにダンマパダ295の訳註に【心を覆う五種の煩悩、五つの障害のことで(1)むさぼり(貪欲、情欲rāga)、(2)いかり(瞋恚pratigha)、(3)心くらく身も重く、眠り込んだようなものうい状態(昏沈睡眠(こんじんすいめん)styāna-middha)、(4)心がざわざわして高ぶるはたらきと心を悩ませる後悔(掉挙(じょうこ)悪作または掉悔auddhatya-kaukrtya)、(5)疑いためらうこと(疑vicikitsā)をいう。これらは心を覆って善を生ぜしめない。これら五つの心作用は心の明らかなはたらきを覆いかくして蓋(かさ)のごとくであるから、蓋という。】とある。
* 悩みがない anigha 動転しない、無苦の、安静の、悶がない
* 疑惑を越える  tiṇṇa 渡った、渡脱した、超えた kathaṃkathā 疑惑、猶予
* (苦悩の)矢 salla は矢、箭、刺箭、投槍、の意味であり本来は苦悩の意味はない、が釈迦は教えを譬喩を用いて話しているのであるから、箭を抜く visallo は「〈苦悩の〉箭を抜く」と解する。
訳註には【欲情(rāga)、嫌悪(dosa)、迷妄(moha)、高慢(mana)、悪い見解(ditthi)の五つをいう】とある。

【詩の大意を読む】

五つの蓋いを捨てる

  ダンマパダ295の訳註にあるように、心を覆って善を生ぜしめない、つまり悟りを得るために障害となる心のはたらきは五つあります。善を生ぜしめない、というのは具体的には悟りを得るための修行の瞑想ー八正道の正定を行う妨げになる、という意味で今までに見てきたさまざまな心の働き方の中から五つを抽出分類したものです。この五つが働いていると頭に血がのぼり理性が働かず、切れて感情で行動し善悪の判断がつけられなくなります。つまり、今目の前にないことに心が奪われ意識を集中統一することがむずかしくなるのです。
  この五つは、悟りを得るということではなくても、社会生活を送る上でも仕事や人間関係、自分のいき方心の持ち方に良くない影響を与える心の働きでもあります。少しでもコントロールできれば安定した心の状態で日々を過ごすことができるでしょう。

(1)むさぼり(2)いかり、は心がこの状態にあれば意識を集中統一して瞑想に入るのはとうてい無理なことだとわかります。
(3)心くらく身も重く、眠り込んだようなものうい状態、は身心が倦怠感に覆われている状態です。やる気、前向きな状態ではありませんからやはり意識を集中統一して瞑想に入るのは無理です。
(4)①心がざわざわして高ぶるはたらきと②心を悩ませる後悔、は①は心が昂奮している状態です。倦怠感に覆われているのと反対の状況です。むさぼり・いかりと同じく心が対象に向いて瞑想に向けての意識の集中ができません。②は、心が、今目の前にない過去に執われて「ああすればよかった。こうしなければよかった」とくよくよしている状態です。瞑想に入るというのは、今現在のこの一刻に意識を集中統一するということですから①も②もそういう状態ではないので(4)として一括りなのです。
(5)疑いためらうこと、はこれも心が、今目の前にない対象に執われている状態であるということです。元の言葉 vicikitsā には四聖諦の真理についてあれこれ思い惑うという意味があります。修行のスタートにおいて四諦の真理を骨身にしみて知らなければ、その内容である八正道の実践には入れません。入り口であれこれ思い惑っていたら意識を集中統一して瞑想に入るのはとうてい無理なことです。また、むさぼり・いかりに心が支配されていても対象への疑いが起りますがこの場合は疑い以前の問題になります。

  五つのどれを見ても正定【正しい方法によって精神を集中して、心の状態が真理に照らし迷いのない正しい状態に定まり清浄な悟りの境地に入ること】にいたるための修行、精神意識の集中統一に役立ちそうにありません。心が、この五つに覆われている状態を脱して初めて善が生じるきっかけをつかめるのです。
  五蓋の状態から脱するには、心を心の外の対象に向けない、今現在のこの一刻一瞬に意識を集中統一して思惟観察することが大事です。社会生活を送る上でも、今現在のこの一刻一瞬に意識を集中してー気づき、立ち止まり、ふり返り、見直す・改めるー仕事や勉強や自分が今なすべきことに取り組めればきっと善い成果を上げられるはずです。些細なことには動じない安定した心をつくれるでしょう。

悩みがない

  悩みがない、と訳されていますが原語には他に、動揺しない、苦しみがない、わずらいがないという意味もあります。では逆に悩みがある、苦しみがある、というのはどんな状態でしょうか?
  人は、いつも家庭でも仕事でも、自分のこと人のことで「ああしたいけれど、こうして欲しいけれど、こうなって欲しいけれど」「どうしたら望みが叶えられるだろう」と考えを巡らして悩みます。自分が疑問に思っていること、わからないこと、不安に思っていること、で頭はいっぱいです。体調が悪ければ「もしかしたら悪い病気ではないか?」子供の成績がふるわなければ「進学できないんじゃないか?」友人からメールの返事が来なければ「嫌われたんじゃないか?」と悩みます。悩みは尽きません。悩みは、今目の前にないこと、つまりまだわかっていない未知のこと先の未来のこと、解決のついていないこと、解決のつけ方がわかっていないことがあると起るのです。そんな悩みの構造をよく見ると「こうなって欲しいけれどそうなるだろうか?ならなかったらどうしよう?」と、必ず自分の評価基準が基になっているのがわかります。自分の思い描いている(評価基準)ような結果にならなかったらどうしよう!そのことで心が動揺している、というのが悩みの真の姿です。こう考えれば、悩みの大元は自分の評価基準をもっていること、つまり、ものごとを自分の思うとおりにしたいという欲=渇愛であるということに行き当たります。渇愛があるから人はものごとを自分の思うとおりにしたくて、あれこれ考える。これが悩みです。渇愛は今までに見てきた生きることは苦しみである、の苦の原因でした。悩みとは生きることは苦しみであるというその苦しみのことなのです(苦は不満、悩みとも訳されます)。

  悩みがない、とは渇愛がないということ。苦しみがないこと。心が動揺しないこと。心がコントロールできているということです。

ほほう^^

・・・で^^
2020年01月18日 07:43
悩みがないとは=汚れがない=無明ではない、智慧がある、四諦八正道に目覚めているという意味でもあるのです。四諦八正道に目覚めてものごとをありのままに見てとらえて認識できる状態、境地にいるのです。
  この境地にあれば、それ以前の心の状態のようには渇愛を出発点にしてあれこれと妄想し、悩み煩悶し動揺することはないのです。そうなるためには、やはり、今現在のこの一刻一瞬に意識を集中統一して思惟観察すること、四諦八正道を実践することです。

うわっ^^

なんか間違えた感がする^^
2020年01月18日 07:46
17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


これを考えてただけなんだよな^^
2020年01月18日 07:54
悩みがない、とは渇愛がないということ。

ものごとを自分の思うとおりにしたいという欲=渇愛

結論

悩みがない、とはものごとを自分の思うとおりにしたいという欲がないということ。

となるな・・^^

そういえば・・ものごとを自分の思うとおりにしたいという欲がないなぁ・

・^^

知らんけど^^



2020年01月18日 07:56
うん?

みゅうさん・・^^

割り込んでごめん^^
2020年01月18日 08:08
悩みがない、とは渇愛がないということ。

ものごとを自分の思うとおりにしたいという欲=渇愛

結論

悩みがない、とはものごとを自分の思うとおりにしたいという欲がないということ。



このことからブッダちゃんは無我を説いたんだよな・・^^

わかるわかるその気持ち^^

みんな拡大解釈しすぎ^^

2020年01月18日 09:01
とすれば^_^
逆の発想もありで^_^

全てが思いどうりになれば悩みはない^_^

これを^_^

全てが思い通りにならないーこれを思い通りになっていると考える^_^

そうすれば悩みがないとなるな^_^

ちなみに^_^

浄土きた^_^
2020年01月18日 09:20
あー自分の思った通りにならないな^_^

思った通りやが^_^

これやな^_^

問題はこの思考の中の自分が何者かや^_^

思考の中の自分やからな^_^

無我か非我か^_^

それが問題や^_^
宇宙
2020年01月18日 09:32
苦痛を味わう。示唆に富む言葉です。
いじらない。無字ネンテイの最大のチャンスです。強い感情的エネルギーに添い、一体化、ムー、ウーでもオリャーでも。
たーぼー
2020年01月18日 09:55
私は無いという言い方は間違いです。
私は○○では無いという言い方ならOKですが、絶対的な主体性は有るのです。
白隠禅師の大悟18回小悟数知れずの境地では絶対的な主体性があるのです。
主体がない、主体はあるが認識出来ないというのは全て途中図です。
因果だけあって自由意志がないという言い方は間違いであり、人間にとって一番大切な主体性=やる気を失わせてしまう言い方です。これが今の既成仏教の最大の問題点だと思います。
地球人
2020年01月18日 12:41
人のことが言えないが、あさんの多投は我欲です。^^
2020年01月18日 12:55
我欲です。^^
地球人
2020年01月18日 13:00
時どき、考えるのですが、私が世界でたった独りになったら、どんな想いがするのだろうか?
地球人
2020年01月18日 13:07
自我は主張するものです。^^

「私が無い」は真実か?

それとも、私とは何ものか?
通行人
2020年01月18日 13:26
地球人は発狂して自殺するんじゃないか?

コブダイなら生きていけるな。^^

http://www.nagoyaaqua.jp/news/images/2014122818142547_1.jpg

「コブダイは雌性先熟で、子供の頃はメスで、卵を産む。50cmを超えるとコブが張り出してきて、オスに性転換する。」
2020年01月18日 13:39
「私が無い」は真実か?

思考の中にはいますね^^

ただいると思ってるだけで・・^^

しかし人の思考は.顛倒してますからね・・^^

そもそも「私」と言う概念があやふやですからね・・^^
地球人
2020年01月18日 13:40
コブダイは自我で苦しんだりしないな。

ヒトは生物の中で一番、弱い生き物だ。
2020年01月18日 13:45
「私」を追及していくと最終的にどこに行き着くんでしょうかね・・^^

教えていただきたいです^^
地球人
2020年01月18日 13:53
宇宙誕生の歴史に行き着くのでは?
2020年01月18日 14:09
まさか・・・^^

梵我一如に行き着くとか・・^^

うわっ^^
地球人
2020年01月18日 14:21
五種の構成要素(五蘊)を、アートマンとは異なった他のものであると見て、アートマンであると見ない人々は、微妙なる真理に通達する。毛の尖端を矢で射るように。 「テーラガーター」
お節介な見物人
2020年01月18日 14:57
 人間は思考によって何でも解決できるという幻想(=脳の癖)が染みついていてなかなか脱することができないようです。
「知る」ことや「知識」を得ることや「思考力」を高めれば解決できると自らが催眠術にかかっているかのようです。
 学校での試験には「模範解答」があり、多く一致すれば点数化されて高評価されていました。何らかの成功体験があり、「教科書」の知識や問題の解き方をマスターした人が優秀であるとみなされます。ここで「思考」=重要なツールとしての地位が確立されているようです。
 五感の感受による見聞覚知によって「ありのまま」の事実を知っています。見えたままは見えたまま、聞こえたままは聞こえたまま・・。それが「一無位の真人・本来の自己・・」と呼ばれているようです。分別や思考によって現れる「私」以前であり、「私」が出てこないので誰もいないただの見聞覚知があるだけ。そこには「私」がいないので葛藤・混乱はありません。
 「私」という幻想が出現する以前の空っぽの得体の知れない感受体。言葉も文字も概念などのフィルターのない純粋な見聞覚知。痛い(=言葉に鳴る前の)という感覚、見る者が見られているだけ、聞く者が聞かれているだけ、感じる者が感じられているだけ・・・。そこに感覚をコントロールしている「私」などいません。「私」はいつも後づけ。

 何らかの痛い(=言葉になっていない)という感覚があって、痛い(=言葉になっていない)という何らかの思いが「経験と言葉の記憶」を探り「痛い」という言葉と結びついて「痛い」となる。痛がっている何かに、「私」という幻想の主体を結びつける。そこで「痛いを感じている私」となる。次に身体を前面にだして被害を被り守らなければならない「私」が第一であるとします。ついには「私(=身体)が痛い」となります。最後に「私が苦しんでいる」ので苦しみを取り除かなければならない「哀れな私」となってしまうかもしれません。
 「私が痛い」という「私」があらかじめ存在しているのではなく、ある感覚がありそれが「痛い」という概念にピッタリで言葉をあてはめる。「痛い」があるだけで、痛んでいる私はいません。
 痛みを感じている「私」は何歳でどこにどんな姿で存在しているのでしょうか。「私」に触れることも見ることも言葉を聞くこともできません。肉体が私なら10歳の「私」と今の「私」とはどの瞬間から切り替わったのでそうか。古い「私」と新しい「私」の伝達式はいつどこで行なわれているのでしょうか。今の「私」と将来認知症になってしまうかもしれない「私」は同じでしょうか。コロコロ変化して都合よく「私」をくっつけているだけではないか・・・。
 元気ハツラツで飛び回っていた「私」と高熱で身動きができない「私」は同じでしょうか。先付けの「私」なら、「私」は若かった「私」は老いた。「私」はまったくの別人です。後づけの「私」なら、若い頃の「私」も老いた「私」も同一の年をとらない。便宜的にその時その時勝手に都合よく作り出すので年齢のない「私」をあとづけしています。10年前と「私」は変わっていなと勘違いするのは、経年劣化のない実体がない「私」を持ち出して後づけでくっつけているからではないでしょうか。
 「私」があって「痛い」のではなく、ただ「痛い」感覚があるだけ。後づけで「痛い」に「私」がくっついて「私が痛い」となる。それも年齢も性別も容姿も何人かも一切のアイデンティティのない透明な「私」がくっついてしまうようです。「痛い」時の「私」は何者かを見抜けるのか?「痒い」ときに「私」が出てきていちいち事細かく「私」の右手を「痒い」場所に持ってきてい「私」の人差し指をこれくらいの強さで3回に渡ってこすると「私」が指示しているでしょうか?そこに「私」などいません。考察してみてください。
2020年01月18日 15:51
「私」の右手を「痒い」場所に持ってきてい「私」の人差し指をこれくらいの強さで3回に渡ってこすると「私」が指示しているでしょうか?そこに「私」などいません。考察してみてください。



為そうとする自分がいなくなった時、

自動的に為している自分がいる。



する者がなく、行為だけがある。

これが、無為の為の境地です。

無為の為の境地か・・・^^


人智を超える・・・

する者がなく、行為だけがある。

この無為の為の状態は、

自らの中にある最高位のものが、

自らの中にある最も低位なものを

捉える現象と言われています。

"する者"が消えゆく時に、

高次な何かと同調し一体化して、

自分を超えた何かが起こってくる。

ほほう^^





2020年01月18日 15:57
「道は常に無為にして、

而(しか)も為さざる無し」



何事も為さずにいて、しかも為している

という意味になります。

無為自然やな^^
2020年01月18日 16:01
「無為自然」という考え方 - 心が楽になる老子の言葉

余計な情報や一般論に惑わされることなく、言葉でよけいな説明を加えることなく、 ただあるがままに、“自然”でいなさい。 そうすれば、世の中の雑音に振り回されずに心穏やかに生きられるよ。

そうは言ってもうるさくまとわりつく奴おんねん^^
2020年01月18日 17:02
五感の感受による見聞覚知によって「ありのまま」の事実を知っています。見えたままは見えたまま、聞こえたままは聞こえたまま・・。それが「一無位の真人・本来の自己・・」と呼ばれているようです。分別や思考によって現れる「私」以前であり、「私」が出てこないので誰もいないただの見聞覚知があるだけ。そこには「私」がいないので葛藤・混乱はありません。


う~~ん^^


現量(直接知覚)

陳那の定義でいえば、現量は概念作用を伴わず、対象そのものの個別相(自相)を認識するものである。そのような、直接知覚によって得られた知識が正しいかどうかを判断する規範が現量であり、仏のさとりはそこにあるから、もっとも重要であるとする。

「現量とは、無分別をいう。」、「現現別に転ずる。ゆえに現量と名づける。」(因明入正理論)


仏のさとりはそこにある^^
お節介な見物人
2020年01月18日 17:25
 「私」が考察しているのか、考察がありそれに「私」をくっつけて「私が考察している」としているのか。

 「私」が歩いているのか、歩いていることに「私」をくっつけて「私が歩いている」のか。
 「私」が食べているのか、食べていることに気づいている何かを「私」として「私が食べている」としているのか。
 「私」が空腹なのか、空腹を感じている感覚がありその感覚を人に伝えるために後づけで「私」をくっつける。「私はお腹が空いている」と表現すればだれにでも通じます。
 
「我思う故に我あり」
 何らかの感覚が湧いていてそれにピッタリ合う概念を表現する言葉がある。
何らかの感覚が湧いているのだから何かが存在しているはずである。それは自らにある感覚。自らを他人に示す名前が「我」という言葉。
 感覚を何らかの言葉を使うことができる=思考=思い
 自身の意志で思考し続け自身を制御しているのなら、失敗しする前に思考が気づいて修正するはずなので依存症になることを自らが防ぐ事が出来るはずです。
 思考よりも本能や感情が優先されるので、身を守ったり怒りを抑えられずに行動したり感情をあらわに表現してしまうようです。

 五感を備えた身体には何もいない(=空っぽ)が何らかの感覚があり、自動的に言葉にすることが出来る。言葉を使って思いを巡らすことができるのを「我」という概念がある。そこで「我」をあとづけして、「我思う」としているようです。「我」が最初からどこかにいて、「我」が自らの意志で思考していると思いこんでいるようです。
 何も疑うことなく「我思う」としている。一切転倒。
 思考+我なのに、我+思考としているだけかも知れません。
地球人
2020年01月18日 18:18
坐禅で自我を観てるのは何者か?

坐禅はタイムラグがあるので、自我を観てるのは自我になるかな。

お節介な見物人
2020年01月18日 18:44
「普勧坐禅儀」に
「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。これすなはち坐禅の要術なり」とあります。
地球人
2020年01月18日 19:03
観る自我が消えた。非思量の自我か?
通行人
2020年01月18日 19:11
見てる意識はあるのだから自我です。
お節介な見物人
2020年01月18日 19:16
正法眼蔵現世公案に
「自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。」
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」とあります。
地球人
2020年01月18日 19:22
無意識なら植物人間だな。笑
たーぼー
2020年01月18日 22:57
仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。
仏性かならず成仏と同参するなり。


これが主体です。これがNOBADY(何者でも無い)です。何にでも化けるはNOBADYではありません。
お節介な見物人
2020年01月18日 23:06
 哲学では知られる対象と知る主体(=分離した「私」)という分離がなければ成り立たないようです。いくら哲学書を読んだとしても「他は是れ吾にあらず」であり他人の知覚したものや他人の境地をそのまま自身のものとすることはできないようです。
 仏道は何かを得たり何かに達したりするものではなく、すでに誰でも備わっている「本来の自己」に気づき分離した自己が幻想であると見抜くことのようです。
・「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」
・衆生本来仏なり 「白隠禅師坐禅和讃」

 常に思考することで「私=自我」が存続しているようです。自我は幻影だと見抜かれると自我は存続できなくなるようです。自我は過去や未来を持ち出して「今ここ」と比較して苦しんでいるだけのようです。ただ今にあって今にくつろげば自我の必要性はありません。
 「あるがまま」を認めたくない「こうあるべきだ」という抵抗が自我の特徴です。思考があえて問題にして「苦」をせっせと作り出しているというカラクリがあります。葛藤や混乱を鎮めるために思考するのですがかえって火に油を注ぎ混乱を増幅させていいるようです。
 思考ですべてが解決できるのなら、苦悩する人などいるはずがありません。一時しのぎの対処療法でしかないということ。思考で部屋が綺麗になることはありません。実際に掃除しなければならないという当たり前のことが思考には通じないようです。

 「今ここ」に我々が生きているということは、我が身を守る術を身につけている最強の生き物たちだという証です。脈々といのちが繋がれてきたのは、大きな苦難への耐性があるはずです。その生きるすべがDNAに刻み込まれています。
 危険をすばやく察知し安全・安心でいる。生きるために必要なものを強引に欲してぶんどってきた。貪りと怒りが身を守ってきた。我々の脳に深く刻まれている脳の習性(=癖)は簡単には消えるものではないようです。
 誰もが「自分かわいい」我欲、我執、我見に染まっているというのが当たり前でのようです。自己保身の為に攻撃的になったり皮肉を言ったりするのは自然の行動のようです。
 自身のアイデンティティの確立のために、自意識に傷を残したり穢したりしてきたはずです。意識下にヘドロが溜まっているのが普通です。
仏道修行は心を清浄にしていくと解釈されています。自意識の傷を補修したりヘドロを排除しない限り清浄にはならいようです。清浄になっていくことで我々の本来の本質が見えるようになっているようです。

 幻想の「私」を強固にしてきた固定観念や思想や信念を徐々に剥ぎ取っていくしかありません。
 思索によって知りえたとしても「私」を強化させているだけかもしれません。また「知」を自惚れや自己満足にのためにするようでは清浄とは逆のベクトルとなってしまっているようです。
 自らを救えるのは自身でしか救えないようです。思考は問題を作り出し煩悩を生み出している。自らを苦しめているということに気づき思考の連鎖を食い止める必要があるようです。
地球人
2020年01月18日 23:35
仏性に気づこうが自我意識はあります。
地球人
2020年01月19日 00:01
じっかりした自我に目覚めてなかった多くの日本人は天皇陛下、万歳!と死んでいった。日本人は未だに自我から逃れようとして自立していない。民主主義に目覚めてない。
みゅう
2020年01月19日 07:50
お節介な見物人 さん

 真摯な姿勢に感服させられます

一つ、お役に立てれば

>「今ここ」に我々が生きているということは、我が身を守る術を身につけている最強の生き物たちだという証です。脈々といのちが繋がれてきたのは、大きな苦難への耐性があるはずです。その生きるすべがDNAに刻み込まれています。

 
 生き延びている「最強の生き物たち」を構成しているのは必ずしも「最強の生き物」たちではありません。

 肝炎をもたらすあるウィルスはは感染すると自分のDNAを宿主のDNAに潜り込ませます。その段階では少しだるくなるだけなのですが、宿主のDNAはなんと、個体を死に至らしる反応を起こさせます(劇症肝炎)。刻み込まれているそのすべは個体が生きるすべではありません。

 余計なお節介だったらごめんなさい。
2020年01月19日 09:10
わたしはあるか?

この私というものが不在の時があるんだよね^_^

思考するとそこにいる^_^

思考しなければどこがに出かけている^_^

ちなみにこの私はかっこよくてすんばらしい私なんだよな^_^

うん?

何か問題でも^_^?
お節介な見物人
2020年01月19日 10:35
 みゅう さん
 医学の専門家でありませんのでレアケースについてはまったく分かりません。自然のシステムはレアケースによって全体が反転するようなことはないように思われます。

 私たちは僅かな異常の方に注目するようにできているかもしれません。
 身体で何らかの感覚を感じているのも身体の僅かな部分の感覚でしかないように思われます。身体の内部に起こっていること、血流や免疫機能やホルモンの働きなどまったく感知できないようです。ドロドロになっている血液を見ることができないので、平気で動物性脂肪の多い食品を食べてしまうようです。
 私の身体といいながら自身の身体で起こっていることはほとんど知らずに生きていると言っても過言ではないかもしれません。血液検査によって数値の比較を見ることでしか各臓器での異常を知り得ないというのが現実のようです。
 爪や髪の毛が伸びたとか、皺が増えたとか、足腰が衰えたとか、節々が痛くなったとか目に見える部分や実感よってようやく気づくことができるようです。
 太りすぎてしまった人は、どこかで気づいてもいいようなものですが昨日と今日を比べてもそんなに太っている実感はないのかもしれません。何でそこまで放置してきたのと言われても本人にとっては気づけない変化だったかもしれません。 
 晴天の日に雲を見てしまうのは雲の方が目立つからのようです。夜空に月が出ていると月に注目してしまいます。夜空全体を見る人は天文学者くらいかもしれません。散歩中に何かの音を感知してそれが鳥のさえずりであると気づきます。
普通は鳥のさえずりと聞いてしまうし詳しい人はツグミの鳴き声だと即座に聞き分けています。
 気づかないで勝手に分別が働いて次には二元対立の良い音色だうるさい鳴き声だと次から次と妄想が湧き起こっているようでうす。分別・二元対立・妄想を競い合っているかのようです。ただ空気中を伝わってきた何らかの振動でありすでに音源はどこにもありません。振動に善悪もありません。人の言葉も文字も善悪もないただの振動でありただの反転した何らかの形です。アラビヤ語やアラビヤ文字を見て善悪がどこにあるのかサッパリ分かりません。勝手に識別して概念が当てはまると善悪が成立する人間だけの仕組みになっているだけではないでしょうか。

 何が言いたいかといいますと、あるイベントによってトリガーが引かれそのイベントに注目せざるを得ない。とりあえずイベントに対処するようになっているのが脳の習性(=癖)なのではないかということです。音が気になるということは通常(=平常時)は静寂の中にいるということ。身体の異変が気になるということはホメオスタシスが働いているということ。味を感じるということは本来は味のない状態であるということ。匂いを感じるということは普段は匂いがないか匂いに麻痺している状態が続いているということ。見ているものが気になるということは普段は何を見ても気になっていないということ。
 本来は平安・静寂・無事であるのに、異常・喧騒・異変の方が気になってしょうがない。イベントをなんとか解決したいと必至になっているということのようです。解決するのに慣れ親しんだ思考が一番の頼もしい助っ人だという思い込みから抜け出せないというカラクリのようです。自身でコツコツ作り上げてきた習慣ですので、自身の習慣を疑いなさいといわれてもピンとこないようです。

 起こるべきことが起こっているだけなのに、常に自身にとって「自分かわいい」で対処しようとする自己保身が前面に出て立ち向かう。臨戦態勢で生きているのが我々の習性のようです。
 お釈迦様は王子として平穏無事な(=勝手な想像)日々を過ごしていたかもしれません。城外に出て老病死という現実を垣間見て衝撃を受けたと推察されます。一般人は病死など日常のことで驚くに足りないのですが、日々平穏無事の中で過ごしている人にとってはかなりのショックだったのではないでしょうか。仏道はネガティブな教えのように言わていますが、根本では平穏無事だからこそ「苦」が注目されたというのが出発点のように思われます。

 火事などがニュースになるというのは、日常では火事はほとんどないということの裏返しではないでしょうか。平常より異常に自然に注目がいくようになっているということに気づかなければならないのでは。
 「私」は普通にある感覚ですので、「私」はいないといわれれば不安であり反発したくなるのも当然です。しかし、ありもしない「私」を使う方が異常なのですが長年にわたって異常を異常と思うことなくだれもが「私」と言って通じ合っています。異常があまりにも平然と常に使われ「当たり前」になっているということのようです。妄想も妄想と気づかずに行っているので、妄想であるとは認められないかもしれません。異常であったものが「当たり前」となってしまったものを見抜くことはたいへんなようです。単に平常に戻すだけなのですが・・・。
 私たちは、自身が転倒していることを真摯に認めていくことでしか転倒から抜け出せないかもしれません。思考を使って思考から目覚めることなどできないようです。変転した形を追いかけていただきありがとうございます。
2020年01月19日 11:03
そう考えてみると無意識は正確やな^_^

考えないでみんな無意識に任せた方がいいんじゃね^_^
2020年01月19日 12:41
考えないでみんな無意識に任せて生きる^^

あるがままに生きる・・無為の為・・やな^^

楽に生きるもあるかな^^
地球人
2020年01月19日 12:52
日本人は自我を確立してないから、考えるのが苦手なのですよ。
みんなと同じいい。笑
2020年01月19日 13:13
考えないで無意識に任せて生きる^^

これ重要じゃね^^

知らんけど^^
地球人
2020年01月19日 13:16
無意識とは何ですか? 笑

何か行為をする時に意志・意思が働くでしょう。
地球人
2020年01月19日 14:25
諸法無我(非我)

仏陀の時代のインド社会はカーストのバラモン (司祭者) ,クシャトリヤ (王侯、武士) 、バイシャ (庶民) 、シュードラ (隷属民) の種姓制度があって差別されていた。人は階級に属していた。個人は無かった。

仏陀は今の我(自分)は諸法非我(無我)と理解して、皆、平等な真の自我の人に目覚めて八正道を実行せよと諭したわけです。

通行人
2020年01月19日 14:38
自我はエゴと誤解されるから、自己としたほうがいいんじゃない。^^
地球人
2020年01月19日 15:16
自我には自己の意味もあるし、「自我の人」と言ったのだ。万人の意味を含めて・・
2020年01月19日 19:13
何か行為をする時に意志・意思が働くでしょう。

人の思考は顛倒しているとはこういうこと^^

意志・意思は後付なんだな・・^^

これが^^
2020年01月19日 19:24
自由意志に関する論争を巻き起こした実験は、1983年にさかのぼる。
アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット(1916 – 2007)は、
われわれがとある動作をしようとする「意識的な意思決定」以前に、
「準備電位(Rediness Potential)」と呼ばれる無意識的な電気信号が
立ち上がるのを、脳科学的実験により確認した。

平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、
「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。
しかしわれわれの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の
約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れているのだ。
つまり、われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、
すでに脳により決断が下されていることになる。

無為の為・・やな^^

われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、
すでに脳により決断が下されていることになる。

思考ではなく無意識に任せるとはこうゆうこと^^

生きるのが楽になるで^^

明日からやろうと思ってるんだが^^
2020年01月19日 19:30
無為の為

為そうとする者がなく、行為だけがあるという境地

これって無意識に任せてる境地じゃね^^

そうなると・・^^

無為自然にも関係してくるな・・^^
地球人
2020年01月19日 22:44
無意識の時は無意識を認識することはできない。
地球人
2020年01月20日 00:28
自然とは何ですか?
2020年01月20日 07:41
無意識に全てを任せると楽やわ^_^

しかもスムーズにことが運ぶ^_^
2020年01月20日 07:43
悩みは全て無意識ちゃんにお任せ^_^

これやな^_^

無意識ちゃん^_^

俺かよ^_^
2020年01月20日 10:11
無為の為やな^_^
2020年01月20日 12:09
結論^_^

人は考えたら迷う^_^

考えて行動するうちはまだまだ初心者^_^

何も考えず事をなすことが出きたなら^ - ^

その道を極めたと言っていいだろう^_^

故にお前らは悩んでいるうちはまだまだ初心者という事やな^_^
2020年01月20日 12:14
お前ら初心者^_^

いい響きや^_^
2020年01月20日 17:20
まじ1日やってたら・・^^

解脱した^^^

1時的なものかもしれないが・・^^

この感触は忘れないでおこう^^

たぶん考えるという左脳を使わず右脳で見てたんじゃないかと・・^^

そういえば・・あれに似てる^^

ちょっと調べるか・・^^

たぶんみんなも解脱感が味わえると思う^^

やってみるべし^^

本でも書こうかな・・^^

「悩み事問題ごとはは無意識に任せろば解脱できる^^」

後ね・・頭は悩みに使うもんじゃなく遊びに使うもんだと悟った^^

2020年01月20日 17:34

https://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_my_stroke_of_insight/transcript?language=ja

そして私自身からのまた仕事からのストレス、それがみんな無くなった。私は体が軽くなったのを感じました。想像して御覧なさい、外部世界とのすべての関係、それに伴う多くのストレス、それらがみんな無くなってしまうのです。私は穏やかな感覚に満たされていました。想像して御覧なさい、37年間の感情が詰まった荷物を失ったらどんな気持ちになるか。私は恍惚感に満たされていました。その恍惚感は美しいものでした・・・


これやな・・^^
2020年01月20日 18:29
そこで荘周は、「無為自然」の考えをさらに進めて、「逍遥遊(しょうようゆう)」という境地に達しました。

「逍遥遊」とは、知を捨てたところに何にもとらわれない自由な世界が広がるとし、世俗にまったく関心をもたず、絶対的自由の精神を身につけることをすすめる考え方です。

「逍遥遊」この境地やな・・・^^

おいらも今日達したんだけど・・^^

なにか問題でも^^?
2020年01月20日 20:12
さてっと・・^^

明日も思考せず・・^^

すべて無意識ちゃんに任せるかなっと^^

無意識ちゃん「おい」^^
2020年01月21日 02:58
無為の為
為そうとする者がなく、行為だけがあるという境地

きょうもこれやな^_^

つまり無意識ちゃんにお任せと^_^
2020年01月21日 03:02
もしかして無意識ちゃんに任せると我執が消えるじゃね^_^
2020年01月21日 03:18
スケートの大会で考えて滑ると失敗する^_^

何も考えずに無意識に任せると自然に上手くいく^_^

こうなりたいと言う欲が惑わせるだな^_^
みゅう
2020年01月21日 07:30
あ さん
 
また、あ さん! 

>平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、
「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。
しかしわれわれの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の
約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れているのだ。

指を曲げる前に、脳のある部分にある変化が認められることが多い。その変化が認められる前にまた別の部分の同じような変化を特殊な状況で認めた。


>つまり、われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。

これでいいのかな?

その決定もその決断も、、、ベンジャミン・リベットさん

すくなくとも私ではないようです。


ところで、新年早々、解脱されたそうで、あらためて、

  おめでとうございます

これからは、”あ さん” などという、なれなれしい言い方は✖!?
”あ 様”とお呼びすべきでしょうな。よろしくお願いいたします。



2020年01月21日 10:05
何も考えず全てを無意識に任すのじゃ^_^

南無南無^_^
2020年01月21日 10:11
無意識が正解を出しているのにお前らが不正解を出している可能性まである^_^
2020年01月21日 15:33
みゅうさんの感想を聞きたいのじゃ^_^

全てを無意識に任せれば何か変化起きたかな^_^
2020年01月21日 16:29
苦の原因が分かった^_^

無意識からの伝達や^_^

苦しませるしか解らす方法ないもんな^_^
2020年01月21日 17:36
どうやら本物は影を潜めている無意識らしい^^

大部分の実権を握っている^^

おまえらはあやつられているにすぎない^^
2020年01月21日 17:38
意識を無意識に変える^^

すんばらしい世界が広がる^^

なんでこうなるねん^^
2020年01月21日 17:42
全てを無意識に任せ切る^^

思考は入らない^^

ただこれだけ^^

慣れれば簡単なもんや^^

気軽にやればいい^^

そのうち慣れる^^

慣れたらしめたもの^^

本気になってはならない^^
2020年01月21日 17:45
1日やれば・・^^

「解脱」の2文字が浮かんでくる^^

おいらがその感覚を味得たんだから・・^^

10人中8人はそうなるな・・^^

間違いない^^

だれか観想書いてくれんかな・・^^
2020年01月21日 17:47
もっといい方法があると思うんだよね^^

考えてみるかなっと^^
2020年01月21日 17:49
無為の為

「為そうとする者がなく、行為だけがあるという境地」

これを頭にいれとけばいい^^
2020年01月21日 17:57
10数年前ある時、大阪の下町を歩いていたら、突然何だか自分が自分の意志で歩いているという感覚が薄れ、”大本から自分を生かしているものによって動かされている…何て幸福なんだ…”という実感が込み上げてきました。その時ふと浮かんだのが、小池先生が高弟のO先生に言った「自分を手放してごらん。ラク~になれるんだよ!」という言葉でした。
私がずーっと書き続けているのがまさにこういう事でして、老子の言葉”為さずして為す…無為の為”に通じる事かと思います。

https://blog.goo.ne.jp/sitateru/e/e886e32323b11f8276a7350e86c96162

こんな感じではなくて・・^^

小池先生が高弟のO先生に言った「自分を手放してごらん。ラク~になれるんだよ!」

こんな感じのような・・・違うような^^

2020年01月21日 18:03
つらい仕事を他人に任せて・・^^

「あー楽だ^^」

という感じやな^^

これを・・^^

つらい仕事からの「解脱」と言う^^

うわっ^^
地球人
2020年01月22日 05:22
脳より先に私はない。

「我思う故に我有り」は間違いで、「思う故に我有り」です。
みゅう
2020年01月22日 06:22
おせっかいな見物人 さん

 ご返信 ありがとうございます。

 何回か試みましたが、私がなにかの専門家?でないからかも、たとえばご指摘に対する反論さえ私にはできません。私の理解力を超越されたご指摘(実は指摘されているのかも分かってない)に、    
  降参
地球人
2020年01月22日 06:45
私が鏡を見て私自身だと分かるのではない。

鏡は物を映す道具であると脳が判断して私自身と分かるのである。
地球人
2020年01月22日 06:48
重度の認知症になると鏡に映ってるものが誰か?分からなくなります。

あさん、気をつけて・・笑
あ 様
2020年01月22日 07:22
>全てを無意識に任せれば何か変化起きたかな

 みゅうさんの世界では意識は統覚の記憶(想起も含めて)なので少なくとも哺乳類の健全な行動には意識がないことはないようです。行動はその場でのフィードバックと思考実験によるフィードフォワードで制御されそれらは統覚のはたらき。働けば痕跡=意識が生まれます。病的な異常に昂進した意識に対して健全な弱い意識を無意識といってもいいとは思いますが、、
 たとえば、格闘家は、実戦で、なるべくあらためて思考実験(時間とエネルギーが必要)をしなくともよいようにジムでイメージトレーニングをしてフィードバック(条件反射、エコ)の回路を準備しています。これをリングの上では「無意識」といってもいいのかな。
 実生活はスポーツではないので行動の健全な制御をするためにどうしても苦しくて時間もかかる思考実験がその場その場で必要になることもあると思います。職場で瞑想するの、いいんですか?
 
わたし:裏山の樫の木のてっぺんにひとつあるなにか赤いものが悩みの種     のおさる
 
 
 
みゅう
2020年01月22日 07:25
あ 様

すみません。前の書き込み、わたし みゅう です。
2020年01月22日 12:07
みゅうさん^_^

こんにちわ^_^
2020年01月22日 12:55
無為の為が順調でござる^_^
地球人
2020年01月22日 14:39
意識がある。脳の知覚が働いてる。私が有るのではない。

地球人
2020年01月22日 14:49
昼から酒を飲んでいる。私が欲してるのではない。脳が欲してるのである。笑
地球人
2020年01月22日 15:12
酒を飲むことを止めることにした。
私が止めることにしたのではない。
知能の警告に従ったのである。笑
地球人
2020年01月22日 15:29
頭脳に指示に逆らわないで従えばいいのです。それが悟りです。
地球人
2020年01月22日 15:39
知能の指示と言ったほうが解りやすいか。
みゅう
2020年01月23日 07:41
あ 様


>みゅうさん^_^ こんにちわ^_^

こんにちわ

>無為の為が順調でござる^_^

異議なし



地球人
2020年01月23日 15:51
無意識とは何ですか? 例えば?

無為とは何ですか? 例えば?
お節介な見物人
2020年01月24日 23:43
お節介な概念のお遊びです。勝手なイメージですので鵜呑みにされないように願います。
知識として記憶するよりも鏡や他人を見てたしかめるてみるのがいいかもしれません。

>無意識とは何ですか? 例えば?
修練や習慣によって自動化された行動や自動化された判断。
パターン化されて何の苦もなくできている事。
同じ側の手足が同時に出ないで歩くことができている。
文字を見て勝手に頭で読んでいる。
分かっているようなことを書いているなと思ってしまう。
おしゃべりする時に、どのように喉を使いどのように唇を動かしているかを知らずに言葉を発している。
なるほどとうなずく。
コップを持つ手が水の入る量に応じて最適な握力で掴み落とさないでいる。
何かを掴んだり持ち上げる時に重心が判ること。
物を見て軽いか思いかが分かる。
五感での感受。
自分で気づいていないこと。
自分で意識してやっていないこと。
自分で意識できないこと。

>無為とは何ですか? 例えば?

起こっていることにいちいち難癖をつけない。問いかけをしない。
人の意志ではどうにもならないこと。天候にケチはつけられない。
感受されたもので、自身の頭の中で一体となっていること。
「無言の言・無弦の琴・不射の射・無為自然」やり尽くして為すことがなくなる。
純粋な意識に委ねている。
探求が止み「真なる我」のままにある。
利口な自分からおさらばして愚者のままにある。
お節介な見物人
2020年01月24日 23:52
お節介な言葉遊びです。

>「私」が絶対的に存在しているとしか思えない。これが一般ピープルには拭えない烙印としてあるように思えます。

 普段の私たちは「私」というものを対象を認識(=五感で感受)している主体(=私)としているようです。思考している「私」がいるということは思考する何か(=対象)があるはずだという思い込みによって「思考する私」と「私以外の思考対象」が存在することになってしまいます。
 身体である「私」がいるということは身体(=私)以外が存在することになります。動いたり五感で感受したりする主体だという思い込みです。これは普段に活動していて疑うことのない「私」です。この「私」を「普段の我・社会的な自己」というふうに表現して通じるているでしょうか。
 この勝手な概念(「普段の我・社会的な自己」)の受渡しができるのが他の動物と人間との違いのようです。概念を言葉・文字で伝えあって分かったような顔をしているようです。伝える人のイメージと受けとる人のイメージが一致しているなどわかりません。色鉛筆を使ってまったく同じ絵であればイメージの一致が見られるのですが、そんなことがあり得るのか甚だ疑問です。
 「普段の我・社会的な自己」にまとわりついているアイデンティを何もかも取り去ってしまった「真なる我・本来の自己・無位の真人・仏・主人公・仏性・本来の面目・無修無証・・」の主体性があるようです。
 「私」はこういう者ですと自己紹介する一切を持ち合わせていないのが「真なる我・・・・」それはアイデンティ=「国籍・趣味・好きなもの・嫌いなもの・主義主張・血液型・男女・職業・肩書・権威・所属・宗教・信仰・識別・判断・個別性・信念・嗜好・・・・」等がない。「私」であると人に説明する一切を持ち合わせていない。ただ見えるものが見えるまま、聞こえる音が聞こえるまま、味わう味は味のまま、匂いう匂いは匂いのまま、感じる感覚は感覚のまま。識別作用を起こして取捨選択する以前のフィルターのないそのまんま。ただ思考以前の「それ」であるから、だれもがまったく同じ「真なる我・・」が備わっているようです。T大統領もロケットマンと呼ばれている人も極悪人もノーベル賞をもらう人も犬も猫もまったく同じ。ありのままをありのままに感じている意識(=思考する以前に完璧に働いている)に差があるのか考察してみてもいいかもしれません。
 
 一般ピープルは、身体やアイデンティや思考が「私」であるとして教え込まれ疑うこともなく普通に使っています。常に使い慣れている「私」を「私」としている。些細なことでどうのこうの騒ぎ立て悩み苦しんでいるのが「普段の我・社会的な自己」。思考で何でも解決してやろうと意気込んでいる。
ubik0101&hato
2020年01月25日 21:37
お節介な見物人さん

はじめまして。いくつかの投稿文を読ませていただきました。どうも、タイプがあるとしてですが、こちらと近い感じがします。ちょっと覗いてもらえませんか。できれば感想を聞かせてください。

http://www2.rocketbbs.com/11/bbs.cgi?id=ubik0101
2020年01月26日 09:39
たぶんお節介な見物人さんは学者やで^_^

引くわー^_^
お節介な見物人
2020年01月26日 14:14
Uyamangalisa⬅言語の一つ、知っている人しか意味がない。
世界は自身で意味づけや価値づけをしているだけかもしれません。関心のない人には何でもないただの世界。犬の世界と人間の世界は同じではありません。

 私たちは自身が感受している世界で何かをとらえたくて、いてもたってもいられない「得体の知れない生き物」のようです。
 この世界に何か意味があるはずだ何か価値があるはずだと探し回ります。犬や猫が匂いで実体を掴むように・・。思考が何かを見つけたり、何かを解決できるとの思い込みから抜け出せないようです。
 「思考」はそもそも概念(=実体がない)を言葉(=通じる人たちの道具)で表現しています。「思考」はイメージであり、「思考」でつかんだとしているのもイメージでしかないようです。イメージ(=例えば図面・楽譜等)を現実の現物や音として出現できてしまうのでイメージが現実だと勘違いしてしまっているようです。
 イメージと現実の間にはタイムラグが存在しているのに、脳ではイメージ即現実と結びつてしまっているようです。(空即是色)
 また現実にある現物にイメージから導出された名前をつけています。商品名はほとんどが造語でありイメージではないでしょうか。名前は現物ではなく頭で操作できるイメージとして操作できるようになっています。(色即是空)
 禅の公案ではこのイメージで考えるていることに気づかせる公案が数々あります。「非風非旗」心が動くというのも何かおかしいと気づく。思考するのも本来迷っている。見えているんは外にはなく自身の中にあり自身そのもの。思考して旗がどうなるでもない。
 現物は現物(色是色)、思考(=幻想・イメージ)は思考(=幻想・イメージ)(空是空)でしかありません。思考は現実ではないし、現実は思考ではないということのようです。どんなに考えてもゴミが取り除かれることはありません。傘を持っていないのに、「傘を持ってくればよかった」と嘆いても傘は現れません。
 思考するだけで問題がどうして無くなるのでしょうか。問題があってそれがどうして悪いのでしょうか。問題がもんだいたる所以は解決できるという前提に基づいているようです。思考で何でもかんでも解決できるという脳の癖を見抜くチャンスとしてはどうでしょうか。
 今までどれほどの悩みを、どれほど思考してきたことでしょう。思考になにができたでしょうか。期待しすぎ。経典を読んだり他人の意見を聞いて、さんざん知識を手に入れた。何も解決できないし何も達していないし何も掴んでさえいない。努力してきた自分の今のその有り様を直視してみる。今までやって駄目ならこれからも駄目だと見切りをつける。思考に頼っていたことが間違いであったと素直に認める。一旦思考からおさらばしてみる。
 四諦=四つの諦め
 生は考えても生を取り消すことができない。考えを諦める。
 老は考えても若くはならない、考えを諦める。
 病は考えても治らない、医者に任せる。考えで治るということを諦める。
 死は考えても死なないことはない。死をそのまま受け容れて考えることを諦める。
 苦は思考でどうすることもできない。苦という現実を現実として受け入れればわざわざ思考する対象として悩み続けることもないだろうに・・・。
 どうでもいい思考で余計なエネルギーを使うのはもったいないかもしれません。それよりも身体を動かして断捨離するほうがすっきりするのではないでしょうか。
 お節介な独り言です信じないでください。
ubik0101
2020年01月26日 19:27
なんか、それらしい話をしてるようですが、体験した人の話にある、香りがない、なぜなんだろう・・・知識による知的理解かな・・・あるいは、お節介な見物人さんにとって、愚さんのブログは馴染みがないので、こんな文章になることもあるのかな?と思っていたのです。

こちら名前も年齢も性別もない、たんなる料理人です。