cheap trickさん

興味深い引用をご紹介いただき、ありがとうございます。
ところで、これらの訳文は、どこから持ってこられたのでしょうか?

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この記事へのコメント

cheap trick
2019年12月16日 13:21
圜悟の言葉は鈴木大拙の『禅仏教入門』のP30からの引用で、彼の書簡の中のものです。圜悟克勤といえば公案のイメージが強いですが、このようにストレートに語ったこともあったと知って驚いた次第です。「いかなる仏も・・・」以下は別の説法のときのもの(P47)です。どちらも出典は不明ですが、大拙がピックアップしたものだから信用できるでしょう。

玄沙師備の文章も間違いなく大拙の本からですが、かなり前に抜書きしたものなので、どの本からなのかは分からなくなりました。しかし『禅による生活』のP159に、玄沙の言葉として「それは大海に深く沈んでいるようなものだ。波は君たちの頭上を越えているが、君たちは両手をさしのべ、あわれにも水を求めてやまぬのだ」というのがあります。

「君たちは大海の中に沈んで頭の上まで水に浸りながら・・・」という文章は、白隠の坐禅和讚の「たとえば水の中に居て、渇を叫ぶがごとくなり」を想起させます。白隠の頭の中には玄沙の言葉があったのかも知れませんが、彼らがまったく知るはずのない『スワルーパ・サーラム』というアドヴァイタの文献の中にも、「まるで人が、首の深さの水の中に立ちながら、喉の渇きが癒やされないままのようだ」という文章が出てきます。彼らが同じ体験をしたことが分かります。彼ら自身の、あまりにもシンプルで自明なことにそれまで気づかなかったことへの驚きが、こういう表現になったのでしょう。そのあたりは渡辺さんもよくお分かりだと思います。

引用したエックハルトの言葉は『禅問答と悟り』のP103からのもので、彼の説教集のどこかにあるはずです。これにはユングも注目していたようです。「神を自らの内に迎え入れて神を神たらしめる」という言葉は、大拙が悟りの定義とした「悟りは人間の中に神が入り来たって、そこで神が自己を意識するのである。この意識は人間意識の底に絶えず存在する、超意識ともいうべき意識である」という文章と一致します。「私は自らがかつてあったところのものであり、増えも減りもしないものなのだ。私はそのときあらゆるものを動かして、しかも自らは不動のものなのだ」。エックハルトはこの不動性をドアと蝶番に喩えています。「私はかつてあったところのものであり、また、これから永久に変わらぬところのものである」とは、仏教でいえば本覚でしょう。

本覚と始覚に関しては、真宗に『安心決定鈔』という文献があります。古文ですが読みやすいものです。ネットで検索すれば出てきます。お暇なときに御一読ください。時間がなければ最初の部分だけでも結構です。おそらく作者は、信心獲得の直後に最初の部分を書いたのでしょう。禅僧の投機の偈のようなものです。驚きと興奮が伝わってきます。後は落ち着いてから、分析を深めて書き足していったものだと思います。禅僧は真宗を軽く見ているようですが、ここまで達した人もいるんです。
2019年12月16日 18:11
自然法爾と無為自然^^

基本おなじやな^^

行き着く先は皆こうなる^^
2019年12月16日 23:07
どうもありがとうございます。

鈴木大拙の本は、むかし、ずいぶんと読んだんですが、すっかり忘れているようです。

個人的には、禅も真宗もキリスト教も神道も道教もヨーガもみな一緒だと感じています。
2019年12月17日 12:17
結論としては何もしない^_^
愚さんも動画で言ってた^_^

うん?

うわっ^_^

お前らやんけ^_^
cheap trick
2019年12月17日 12:28
私もずいぶん読みました。はじめの頃は「なぜこんなに回りくどく、勿体ぶって訳のわからないように書くのか?」とイライラしましたが、今はこの人ほど仏教や悟りをストレートに、明晰に説く人はいないと思っています。

真宗は教義そのものを公案とする禅のようなものだと思います。その教義とは、簡単に言えば「はるかな昔から、私たちはすでに阿弥陀仏によって救われている」というものです。これを深く信じて念仏するうちに心が浄化され、やがて「内」から、それが紛れもない事実として現れてくる、ということです。これは渡辺さんがKB会で再三言われているプロセスです。欠点は深く信じるのが困難なこと、そして何より、張り合いがなくて退屈なことです。

年末のご多忙なおり、KB会の開催ご苦労さまです。動画のアップを楽しみにしています。
2019年12月17日 15:28
自然法爾とちと違う^_^
地球人
2019年12月17日 16:25
自我は事が起きると、どうのこうの思考して二次被害を起こして炎上します。
2019年12月17日 17:53
中国古代の正統な思想は儒教で、規律・人倫を重んじる。これに対し、反正統として老荘思想は「無為自然」という囚われのない生き方を理想とした。そこに民衆宗教が加わり道教が形成された。「自然法爾」も「自ら爾る」という老荘思想を四字熟語にしたもので、「自然」の類語になる。ここで「自然」「自然法爾」は漢音の読みである。「自然」「自然法爾」と仏教用語だけは今も呉音読みをする。
親鸞はサンスクリット原典から仏教を学んだのでなく、道教を背景とした漢訳経典から学び、道教用語としての「自然法爾」や「自然」を用いて考えている。囚われのない生き方を表す道教の用語「自然」を、親鸞は計らいのない他力の信心を表すのに用いている。そこに親鸞への道教の影響が見られるのだと、福永光司(一九一八~二〇〇一)は中国哲学史の蘊蓄を傾けて論じている(『道教と古代日本』人文書院)。


・・・だろうな^^
2019年12月17日 18:00
まさか・・^^

親鸞ちゃんと道教が結びついていたか・・^^

これには^^

ビックリ^^
2019年12月17日 18:28
 荘子が「自ずから然る」と言っている、その「因るべき対象」は、たしかに人間の
働きを超越して存在するものです。が、しかしそれは、むしろ「宇宙のすべてを貫く
法則」という性格が強いようです。

 「宇宙のすべてのもの」は、それぞれあるがままにあり、そこに自ずからなる
宇宙の秩序が作られているけれども、それは「何者か(神)がそう在らしめている」
訳ではなくて、まさに文字通り「自ずから然る」(自分からそうなっている)のです。
 そして、宇宙のすべての物が「自ずから然る」ことにより、人間にはどうすること
もできない「必然的な法則」になっているのです。

うん?

あれ・・・^^?

あれれれ^^?

荘子ちゃんが言ってたのか・・^^

親鸞ちゃんが言ってると思った^^
2019年12月17日 19:43
① 仏教そのものの真理を表す場合は、さとりの世界が、有無のはからい(分別)を超えはなれて空であり、真理そのもの(真如)として、それ自身独立自存し、絶対に自由であることを無為自然といい、あるいは善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずることを業道自然というように、それ自身のもつ法則にのっとって、そのままにあること(法爾)を指す。
親鸞は、自分のはからいをすてて〔阿弥陀〕如来の法則に従うことを「自然法爾」とし、〔阿弥陀仏の〕本願によって衆生が救われることの必然性(願力自然)を説いた。無量寿経には、極楽が無為自然の世界であり、そこに生まれる者は自然虚無之身を受けるとある。
2019年12月17日 19:49
「自然」は通例、次の三種に分類されます(『浄土真宗辞典』二八九頁)。
 ①業道自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。「自ずから然り」という意にあたる。『大経』「五善五悪」(五悪段)の用例は多くはこの意であるが、親鸞は「自然」の語をこの意で用いることはない。
 ②願力自然。「自ずから然らしむ」という他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、願力にまかせる行者は、何のはからいもなく本願力によって自ずから浄土に往生せしめられることをいう。
 ③無為自然。さとりの世界は有無の分別を離れ、分別による限定を超えた絶対無限の境地であることをいう。
2019年12月17日 19:52
②願力自然。「自ずから然らしむ」という他力の意。

ここ重要^^

おぼろげながら親鸞ちゃんの他力の意味がわかってきた^^

「自ずから然らしむ」・・やな^^
2019年12月17日 20:00
「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。

「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず 

う~~ん^^

寝る^^    
2019年12月17日 20:04
結論・・「なにもしない」^^

つまり・・・^^

お前らや^^
2019年12月17日 20:06
最終結論・・「おまえらが悪い」^^

とこうなる^^

今日は寝つきが悪そうだ^^

寝る^^
2019年12月18日 04:51
自然法爾やな^_^
2019年12月18日 07:40
行者のはからひにあらず 

この一言に親鸞ちゃの思いが詰まってるな^_^

うーん^_^

感銘やな^_^
2019年12月18日 10:11
9歳からやで^_^

うーん^_^

感銘や^_^
地球人
2019年12月18日 18:00
思考しない。思考が事実を歪める。
2019年12月18日 21:57
他力やな^_^
2019年12月18日 22:10
南無阿弥陀仏^_^
2019年12月19日 07:41
南無阿弥陀仏^_^

行者のはからひにあらず^_^
2019年12月19日 07:42
自然法爾^_^
2019年12月19日 07:44
無為自然^_^

完璧や^_^
2019年12月20日 07:40
南無阿弥陀^_^

あるがまま^_^

おのずとそうなる^_^

他力やな^_^
2019年12月20日 10:08
苦行では悟れんとブッタちゃん言ってたそうな^_^

そこからの無為自然やな^_^
2019年12月20日 12:12
体験しないと心解出来ないということやな^_^
2019年12月20日 12:16
心解脱やな^_^
2019年12月20日 12:19
847
想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
想いと偏見とに固執した人々は、
互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
2019年12月20日 14:44
三界流浪の凡夫やな^_^
2019年12月21日 17:37
仏説観無量寿経

「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を

犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。

 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。

 そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。

 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
2019年12月21日 17:41
うん?

まじ^^?

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏^^

極楽極楽^^

温泉サウナ水風呂瞑想と大して変らん^^
2019年12月22日 09:00
温泉サウナ水風呂瞑想きた^_^

毎日極楽なんだけど^_^

とりあえず^_^

南無阿弥陀仏^_^
2019年12月24日 15:25
全力で仕事した後の^_^

温泉サウナ水風呂瞑想は極楽や^_^

南無阿弥陀^_^

ではでは^_^
2019年12月28日 08:50
始まり無い永劫の昔、愚かな人々の多くは仏性を不可思議な智慧の活らきだと考え、仏性を如来だとしてきたが、このような理解は大笑いするほかはないのである。
さらに進んで仏性を説いてみるに、煩悩の中に泥まみれでずぶぬれのままであってよいのではないが、仏性とはただの土壁や瓦礫なのだ、悉有と仏性とは同じ言葉であって、現実のもろもろ現象を仏性と云うのである。
さらに云えば「いったい、どうだ、この仏性とは。」

人びと、元に立ちもどって委細を尽くすか。
仏性は三頭、八臂である、尽界はなにもかもが仏性である。


正法眼蔵仏性 仁治二年(1241)十月十四日、 京都・観音導利興聖宝林寺において僧衆に示す


1241年か・・・

2019-1241=778年前か・・^^

おっと温泉瞑想の時間だ^^

9日間まったりするで^^
2019年12月28日 20:17
温泉サウナ水風呂瞑想で日焼けした^^

水風呂の後の外気での瞑想はこの時期特におすすめ^^

ちなみに今この動画を見終わったところ^^

ところどころ考えさせられた^^

https://www.youtube.com/watch?v=w2j-0msZ5UA

2019年12月29日 08:43
床屋きた^_^

そのまま温泉サウナ水風呂瞑想や^_^

阿弥陀48やで^_^
2019年12月29日 08:48
浄土か^_^

2019年12月29日 09:29
うわっ^_^

浄土に温泉とサウナがある^_^

善悪のない世界^_^

法だけがそこにある^_^

極楽や^_^
2019年12月30日 03:43
楽な生き方^^

法にまかせるか・・・^^
2019年12月30日 05:03
うん?

無為自然やないかい^^
2019年12月30日 07:05
浄土は±0思考かぁ・・^^

±0思考が自然のあり方やな・・・^^

2019年12月30日 07:32
法然って・・・^^

法と自然を結びつけた名前だよね^^

「自然法爾」と関係あるかもしれん^^

法然ちゃんに聞いてみよっと^^
2019年12月30日 08:14
おっと・・^^

浄土へいかんとあかん^^

温泉サウナ水風呂瞑想の時間や^^

では^^
2019年12月30日 08:29
うん?

・・ということは・・^^

法然ちゃんも老子の影響うけとるやないけ^^

どないなっとんねん^^
2019年12月30日 17:16
漢訳された仏教-仏教の中国化

 梵本は中国に入ってきますと、これは中国から日本に仏教が朝鮮を伝わって入ってきたときとは全くといってよいほど様子が違うわけです。何となれば、仏教がインドから中国に入りましたのは、西暦紀元前後、キリストの誕生したころですけれども、そのころの中国はたいへんに高度の学術文化が発達している。

 要するにインド西域から中国に仏教が入ってきますと、仏典は全部漢訳される、つまり中国語に変えられてしまうということになるわけです。日本にやって来たのは、もちろんその中国語に翻訳された仏教文献、漢訳仏典です。

 ところで中国語に翻訳されるということは単に言葉が変えられるだけでなく、考え方、思想、哲学、こういったものまで、かなり大幅に変わっていくということになる。つまりインドの仏教が中国で翻訳され、漢文に変えられていくということは、単に言語、文字、文章表現の問題だけに止まらず、インドの仏教が中国的に内容を変えられるということにもなるわけです。

 第一に中国語に翻訳される場合の翻訳語の問題です。

 -仏教の教理の主な言葉が、中国の古典哲学ですでに使われていた言葉によって翻訳されていく。そして、この場合に重要なことは、菩提が老荘の哲学の「道」、現代の中国語で発音しますとタオですね、このタオという言葉で翻訳されますと、仏教というのは菩提の教、つまりタオの教、道の教ですから、そこで仏教は中国で道教と呼ぼれることになります。

https://is.gd/KYL7Qs

ふむふむ^^

そういうことか・・^^

空海ちゃんもそうか・・^^

ということは・・・^^

漢訳された仏典はみな老荘思想に影響されていると・・^^

こうなる^^
2019年12月30日 17:28
特に問題はないが・・^^

荘子ちゃんと気が合うからね^^

ねっ^^

荘子ちゃん^^
2019年12月30日 17:30
うわっ^^

きも^^

おまえらってキモイんだけど・・^^
2019年12月31日 08:14
さてと・・^^

浄土へいくかなっと^^
2019年12月31日 08:19
浄土は±0思考・・^^

行者のはからひにあらず・・やな^^

つまり・・自然法爾

ゆえに無為自然^^
2020年01月01日 09:05
浄土きた^_^

現実は0思考^_^

あるがままやな^_^
2020年01月01日 09:13
なぜこの時期にお前らが温泉サウナ水風呂瞑想をしないのか不思議や^_^

水風呂の後の瞑想は極楽やで^_^
2020年01月01日 21:49
自然は0思考^^

あるがまま^^

ついでにおいらも0思考^^

あるがまま^^

楽やわ^^
2020年01月01日 21:52
これが自然法爾というものか・・^^
2020年01月01日 22:58
・・ということで^^

真宗編終わりとするかなっと^^
2020年01月01日 23:05
自然法爾の事

 「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(あらためて。ことさらに)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。

 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏(このうえなくすぐれた仏。ここは、無色無形の真如そのものをいう)にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

 弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

  正嘉二年(1258年)十二月十五日

愚禿親鸞八十六歳
みゅう
2020年01月03日 07:55
あ さん

昨年中はいろいろご教示いただき、有難うございました。
今年もよろしくお願いします。

早速ですが

>浄土へいくかなっと

>浄土は±0思考・・

この、浄土の±0思考というのは行かれたあちらで認識されるのでしょうか、
それとも、たとえば、浄土の記憶からこちらで認識されるのでしょうか。あるいは、、、
2020年01月03日 09:13
今温泉サウナ水風呂瞑想の直前ですが^_^

浄土は今ここに眼前してますね^_^

2020年01月03日 09:15
思考が入ると一念三千の世界が広がる^_^
大平
2020年01月03日 17:13
人間は腰痛ひとつで暗い気持ちになる。
2020年01月03日 20:38
0思考・・・^^

自然法爾・・無為自然を心解してからの0思考^^

ただ見てるだけ0思考・・^^

浄土への最短距離^^
みゅう
2020年01月04日 06:45
あ さん

 記憶の出し入れの繰り返しの中で”見た”から”物”を組み立て”時間”と”自分”を作り上げて”世界”を眼前に展開したら、三千でもひとつでも十億でも、それこそ思考そのものではありませんか?
2020年01月04日 08:55
思考の根底には我があるからね^^

常に非思量でいればいいんだよ^^

956因縁果 ◆d........o 2016/10/23(日) 18:02:39.39ID:42F6TBJ7
「意識こそは虚妄分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。それは
意識自らの言葉に依る熏習を種子として生じ、またあらゆる表象の言葉に由る熏習を種子
として生じている。それ故に、意識は無限に種々の形相のある虚妄を分別するが故に遍計
と名づく。」

無着(摂大乗論)

957神も仏も名無しさん2016/10/23(日) 18:03:38.86ID:42F6TBJ7
「(意識が遍計することは)名・概念を対象として虚妄分別するのであり、概念を依他起性の
上に相(形相・性質)として付託し、相を見て執着し、種々に思考を廻らして言葉として言う、
見る、聞く等の四種の言説を為して、ものが存在しないのに存在と誤認するのである。」

無着(摂大乗論)

958因縁果 ◆d........o 2016/10/23(日) 18:08:32.68ID:42F6TBJ7
無着「摂大乗論」

表象されて名を与えられるものが、そのまま外界に実在するのではない

959因縁果 ◆d........o 2016/10/23(日) 18:08:59.16ID:42F6TBJ7
「1、同一の物に対して様々な異なった認識が生じる。例えば人が見れば清冽な水が流れ、
手を洗い、口をすすぎ、あるいは沐浴するのに適した川であっても、地獄の罪人はそれを火
の川として表象する。・・・・・同じ川を餓鬼は汚物に満ちたものとして表象する。このように同
一の物が見る者の境遇の差別に応じて様々に表象されるということは、表象が外界の実在
に対応することなく、主観的に虚妄分別されたものであることを示すであろう。

960因縁果 ◆d........o 2016/10/23(日) 18:09:22.67ID:42F6TBJ7
2、対象が存在しない場合にも認識が生じることを、我々は現に経験する。例えば、過去に
見たものを今想起する際、この想起の認識は対象が存在しないのに生じているのである。
また瑜伽を修習すれば未だ存在していない未来の物が見えるようになる。・・・・・これらの例
は、認識が必ずしも実在する対象を表象するのではないことを示している。

961因縁果 ◆d........o 2016/10/23(日) 18:09:40.91ID:42F6TBJ7
3、認識は必ず対象と対応関係にあるとすれば、人は倒錯の無い智を得ることを目的として
修行に努める必要は無いことになるであろう。最高の真実を了る倒錯の無い智を得たときに
、人は仏の階位に到達する。ところが認識は必ず対象に対応して生じるものであるならば、
対象があればそれに対応して倒錯の無い智が生ずることになるが故に、宗教的修行は全く
無意味であることになる。

962因縁果 ◆d........o 2016/10/23(日) 18:10:01.13ID:42F6TBJ7
4、瑜伽を行じて自在力を得た菩薩は、自らの意思に従って対象を描出することが出来る。
瑜伽を修得した者は、ある対象を観察しようとすれば、その対象が思いのままに心の中に
映し出されてくる。ただし、このようにして心の中に描出された影像は、外界にその対象物が
対応して実在するわけではない。瑜伽を行じて修習の階梯を進めば、見道の階位に至って
対象の表象を離れた純粋な超世間的な智を得ることが出来る。」 

963因縁果 ◆d........o 2016/10/23(日) 18:10:25.37ID:42F6TBJ7
うわっ^^

時間がないから過去のもの貼った^^

浄土へいくど^^

ちなみに因縁果は過去の名前^^
2020年01月04日 09:01
5因縁果 ◆d........o 2016/09/12(月) 16:36:26.50ID:vbJ+V/3u
1.思いの通りにならないことを「苦」といいます。

2.その苦の原因は、思いに対する「執着」です。

3.思いに執着するのは、「思いは自分」という誤解があるからです。

4.その誤解が解けることを「さとり」といいます。

5.さとれば、思いに対する執着がなくなります。

6.執着がなくなれば、苦がなくなります。

7.苦がなくなると、心配・不安・恐怖がなくなります。

8.心配・不安・恐怖のない生活を「極楽」といいます。
2020年01月04日 09:40
浄土きた^_^

温泉サウナ水風呂瞑想^_^

極楽の極地^_^

みゅう
2020年01月05日 07:25
あ さん

無着 さん  さすが!

>日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
六識
ろくしき
仏教用語。サンスクリット語シャッド・ビジュニャーナa-vijnaの訳。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6種の認識をいう。色形と目とによって視覚(眼識)が生じるように、色(いろかたち)、声、香、味、触(可触物)、法(考えられるもの)という六境(6種の対象)と、目、耳、鼻、舌、身(皮膚)、意(一瞬間前の識)という六根(6種の認識器官)とによって視覚、聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚、思惟(しゆい)が生じる。この6種の認識を六識という。意識すなわち思惟作用は概念的認識であるとともに、視覚ないし触覚という前五識に参与し、統覚としての作用をももつ。[梶山雄一]

 意識という言葉は思考=思惟の意味で使われているようです。
 
 視覚や触覚に対して統覚があるとすればカブトムシも思考する?

 一方、現代的には

>デジタル大辞泉の解説
い‐しき【意識】
[名](スル)
1 心が知覚を有しているときの状態。「意識を取り戻す」
2 物事や状態に気づくこと。はっきり知ること。また、気にかけること。「勝ちを意識して硬くなる」「彼女の存在を意識する」
3 政治的、社会的関心や態度、また自覚。「意識が高い」「罪の意識」
4 心理学・哲学の用語。
㋐自分自身の精神状態の直観。
㋑自分の精神のうちに起こることの知覚。
㋒知覚・判断・感情・欲求など、すべての志向的な体験。
5 《〈梵〉mano-vijñānaの訳》仏語。六識・八識の一。目や耳などの感覚器官が、色や声など、それぞれ別々に認識するのに対し、対象を総括して判断し分別する心の働き。第六識。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

 
 随分、違いがあるようですが、ここでは、4㋑とすると
思考が自我を作り出しその上に意識を置く、、、でいいでしょうか。

 カブトムシに自我があるかわかりませんがチームワークをするイヌにはありそうです。

 無意識でヒトを傷つけたりするので自我は意識の十分条件ではないでしょう。

 ちなみに、意識はせいぜい一つですが、いろいろな思考が並列的に行われています。

 とすると

>思考の根底には我がある

 
 逆じゃないですか?


 最後の8項目について、、、時間切れでまたいつか。





 
2020年01月05日 08:12
意識は感覚であり刹那生滅する・・^^

そこで終わればなにも問題は起きないのだが・・^^

それに執着すると思考が生じ虚妄分別の世界に陥る^^

執着が我を生じさせるんだな・・これが・・^^

そういえば・・現量・・直接知覚が真実だとなんかあったな^^

それよりも・・^^

浄土・・つまり0思考の自然を常に見てたほうが休まる^^

ついでにおいらも自然と同じ0思考で・・^^

最近心解したようなので0思考が継続してる^^
2020年01月05日 09:05
浄土きた^_^

思考のない清浄の世界^_^

温泉サウナ水風呂瞑想でおいらもついでに空寂清浄や^_^
2020年01月05日 18:30
現実は0思考・・^^

善いも悪いもないか・・・^^

自分の都合でつまり・・思いで決めているか・・^^



2020年01月05日 18:33
つまり・・^^

思考が現実を歪めているわけだ^^

これを虚妄分別という^^
2020年01月05日 18:42
生は良くて死は悪い・・^^

自分の都合でみるとこうなるな・・^^

0思考の自然としてはどちらでもない^^

生死は0思考からみると・・・^^

あるがままか・・・^^

2020年01月05日 18:59
親鸞聖人は、人が当たり前の願いを持つことの、どこに疑問を持たれたのでしょうか。それは、本当の幸せとは何かということです。お釈迦様は、人生は苦であるとお示しくださいました。それは、言い換えれば、そもそも、人生というのは、自分の思い通りの願いは実現しない世界ということです。そのことを、大きく生老病死という四苦としてお示しです。人は、どれほど願いを叶えたとしても、必ず年老い、病に侵され、死んでいくのです。こればかりは、避けようがありません。健康であるように仏様に願いを掛けたとしても、必ず病に侵されていきます。家内安全を仏様に願ったとしても、必ず悲しい今生の別れは訪れます。そうすると、自分の思い通りの人生を求め続け、願い続けていく先に訪れるのは、どうしようもない失望と虚しさではないでしょうか。それぞれが、自分の願いを叶えることを求めていくことは、当たり前のことですが、必ずしも、本当の幸せにはつながらないということでしょう。

それでは、本当の幸せとは何でしょうか。それは、思いのままにはならない人生が、そのままで、ありがたいと思えるような世界に出遇っていくことでしょう。年老いる中、病に侵される中、死んでいく中にあっても、恵まれた自分だけの人生を、ありがたいものとして合掌していけるような、喜びに満ちていく世界があるのです。仏教では、そのような世界に出遇っていくことを、「生死を超える」といいます。そして、生死を超えることを二千年以上、求め続けてきたのが、本来の仏教徒の姿なのです。

西本願寺(浄土真宗本願寺派)

正法寺

そのとうりやな・・・^^
2020年01月05日 19:10
自分の思い通りの願いは実現しない・・^^

皆言っておる^^

つまり・・・^^

0思考の自然つまり現実を自分の都合でみてるからよい悪いが生じる^^

常に0思考の自然に0思考のおいらでいかんとあかん^^

0思考とは平常は0思考で+-に偏っても直ぐに0思考に・・・^^

なに言ってるかわからんくなった^^

寝る^^

2020年01月06日 03:15
自然は0思考あるがまま^_^

ついでにおいらも0思考あるがまま^_^
みゅう
2020年01月06日 06:06
みゅう
2020年01月06日 06:33
あ さん

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130807/360924/?P=4

 ルンバになってちょっと動いてみました。この楽ちんさは、あさんの0思考
かな。
 それまでの自分と比べてみました。外から見たら、ほとんど置き換えられそうです。自分はルンバでもよかったんじゃないか。
 これからもこれで行こうかと思いました。いえ、ルンバのままでは思えない。ルンバの世界には”未来”が含まれていないから。
 生物特有のシミュレーションによるフィードフォワード制御機能がないから。
 要らなくないですか? 本当に?
 
  
2020年01月06日 07:45
会社にいると^_^

おいらの0思考を邪魔する奴がおる^_^
2020年01月06日 10:11
出家やな^_^
2020年01月06日 19:11
非思量とは、辞書を引くと
「すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地。坐禅の要とされる。」
とあります。

つまりやな・・^^

現実は0思考・・いいも悪いもない・・あるがまま・・^^

いい悪いを決めてるのは観念なんだな・・^^

自分の都合でいい悪いを決めてる^^

しかし現実は0思考なんだな・・^^

すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地^^

おわかりいただけたであろうか^^

2020年01月06日 19:29


2020年01月06日 07:45
会社にいると^_^

おいらの0思考を邪魔する奴がおる^_^


そう考えると・・^^

会社で座禅はちょっと無理があるかもしれん^^
2020年01月06日 19:51
【三界唯心】
 十地の第六(現前地)で、悟りの境地が次の言葉で表現されている。
「三界は虚妄にして但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆心に依る」(三界唯心偈)
 三界は欲界、色界、無色界のこと、つまり迷いの世界であるが、これらは皆心の持ち方によって現れ出る仮の姿。迷いの要素(十二因縁の諸項目)もまた心のあり方によって起こる。したがって心の持ち方によって仏の世界も出現するのである。それを瞑想による直観によって観ずるのが悟りの境地、仏の智慧と説く。


現実は0思考故に・・^^

「三界は虚妄にして但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆心に依る」

虚妄分別なんだよな・・^^
2020年01月06日 19:56
現実は0思考・・あるがまま・・^^

よいもわるいもない^^キリッ

ということで・・^^

寝る^^
2020年01月06日 20:08
うん?

現実・・自然は0思考・・あるがまま・・^^

ついでにおいらも0思考・・あるがまま・・^^

やったな^^
2020年01月06日 20:17
現量^^

現量とは、いわば無分別である。‥‥現現別に転ずる。ゆえに現量と名づける。

現実に量知すること。色等の諸法に向かって、現実にその自相のままを量知し、みじんも分別推求の念がないもの。直接知覚を意味して、主として感覚器官と外界の事物との接触によって生ずる知覚の過程とその結果の認識内容をいう。

陳那の定義でいえば、現量は概念作用を伴わず、対象そのものの個別相(自相)を認識するものである。そのような、直接知覚によって得られた知識が正しいかどうかを判断する規範が「現量」であり、仏のさとりはそこにあるから、もっとも重要であるとする。
2020年01月06日 20:18
きりがないので・・^^

寝る^^
2020年01月07日 07:34
自然法爾

ゆえに無為自然^^
みゅう
2020年01月07日 07:50
あ さん

 勉強させてもらって、感謝してます。

>色等の諸法に向かって、現実にその自相のままを量知し、みじんも分別推求の念がないもの。直接知覚を意味して、主として感覚器官と外界の事物との接触によって生ずる知覚の過程とその結果の認識内容をいう。
 

 自分自身に当てはめてみると、認識は感覚、知覚、認知?の一直線の働きには思えません。ひとつの知覚はいくつもの感覚を取り入れ、感覚に影響を与え、認知も知覚に対してしかり、そして、結果は変形して記憶され、その記憶は認識の各段階に影響を与え、その間にまた同じ?感覚がはいって来てサイクルが回り記憶が更新される。しかもこのサイクルはよくつかめていませんが1秒間に幾つというレベルは超えているように思います。

 ”自相”はどこに紛れ込んでしまったのか、、、

あ さんはちがうでしょうが、、、

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO85079060R30C15A3000000/
2020年01月07日 10:06
何言ってるかわからん^_^
2020年01月07日 12:04
愚さんならわかるかも知れん^_^
2020年01月07日 12:13
あるがままを見るとは無分別の直接知覚なんだな^_^
2020年01月07日 12:13
2020年01月07日 12:19
簡単に言えば^_^

良い悪いという観念で見ない^_^

あるがままを見る^_^

つまり0思考で見ると^_^

現実も自然も0思考あるがまま^_^

行者の計らいにあらずやな^_^
大平
2020年01月07日 13:15
思考=第六識
想念=第七識
存在=第八識

としたほうがわかりやすい。

光明とは、第六識の脱落。

大平
2020年01月07日 13:27
第六識 左脳 思考 象徴
第七識 右脳 自我 主観意識 想像
第八識 間脳 意志 客観意識 物自体

この3つがひとつになることが悟り。

左脳は右脳の十全な働きを妨げる。

間脳には、左脳の働きを抑制する力がある。

間脳が、左脳を抑え、右脳の働きが十全に発揮されるこれが、光明の状態。

公案禅はその手段。
2020年01月08日 04:45
解脱って観念からの解脱かも知れんなー^_^
みゅう
2020年01月08日 06:54
あ さん

>何言ってるかわからん

あら。

しっかりつかめてないと表現も雑になるなあ、と、反省。

出直してきます。
2020年01月09日 07:43
風は0思考あるがまま^_^

ついでにおいらも0思考あるがまま^_^
2020年01月09日 07:45
うん?

行雲流水やないけ^_^
2020年01月09日 12:09
こううんりゅうすい【行雲流水】

①自然のままによどみなく移りすぎることのたとえ。②何事にも執着せずに自然のなりゆきにまかせて行動することのたとえ。③諸国を行脚する禅僧のたとえ。
2020年01月09日 12:20
大たい略りゃく、行雲こううん流水りゅうすいの如ごとく、初はじめ定質ていしつ無なく、但ただ常つねに当まさに行ゆくべき所ところに行ゆき、常つねに止とどまらざる可べからざる所ところに止とどまり、文ぶん理り自し然ぜんにして、姿し態たい横生おうせいす。

うん?

自然法爾かな^_^

2020年01月09日 12:22
大略如行雲流水、初無定質、但常行於所当行、常止於所不可不止、文理自然、姿態横生。
2020年01月09日 18:05
【行雲流水】の初出は分かりませんが、蘇軾(ソショク)の『與謝民師推官書:謝民師(シャミンシ)推官(スイカン)に与うるの書』の中にでてきます。
推官という位にあった謝民師に「文を創る時の心構え」を示したものです。

蘇軾(1036年~1101年)は北宋の政治家で、詩人でもあります。唐宋八大家の一人で東坡居士と号しています。

文を創るにあたっては、
行雲流水のようでなければいけない。初めから決まった形があるのではなく、自然の成り行きに任せるのである。「行くべきところに流れゆき、止まるところで止まるのである。」と云っています。

  大略如行雲流水、
  大略 行雲流水の如し
     行雲流水のように

  初無定質、
  初めより定質無し
     初めから決まった形があるのではなく

  但常行於所當行、
  但だ常に当(まさ)に行くべき所に行き
     行くべきところに流れゆき

  常止於所不可不止、
  常に止まらざるべからざる所に止まる。
     止まるところで止まるのである

心の趣くままに書いていって、自然にとどまるべきところにとどまるのが、文を成す極意である。と言っています。
2020年01月09日 19:53
【行雲流水】

何事にも執着せずに自然のなりゆきにまかせて行動することのたとえ。

なぜ執着するのか^^


一言で言えば・・無明だから^^

これに尽きる^^

理解していれば執着はしない^^

ゆえに智慧が必要とされてるんだな^^
2020年01月09日 19:55
無明

仏教用語で、無知のこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。

真理に暗い^^
2020年01月09日 20:06
そうなると・・^^

執着は迷いかもしれんな^^
2020年01月09日 20:09
迷うから執着する^^

そうなると・・^^

自我への執着は・・^^

己に迷っているとこうなるな・・^^
2020年01月09日 20:11
【二の一】

第一に、色というは、我この身なり。
また世界の天地草木にいたるまで、形のあり、色のある物はみな、この色のうちなり。
楞厳に、一切衆生無始よりこのかた、己にまよいて、物として、本心を失いて、物のために転ぜらる、といえり。

【二の二】

この意(こころ)は、一切万法はみな法身真如の体なる事を知らずして、かえって天地の中の万物と思いて、その万物の境界にまよいて、物のために、わが心を転ぜられて、さまざまの妄想を起こすという事なり。

【二の三】

また古人、法身は形殻のうちにかくるといえり。
形殻とはこの身なり。
この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。
2020年01月09日 20:13
【二の五】

まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。
身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
涙よだれ血などは水なり。
あたたかなるは火なり。
出入の息と、うごきはたらくは風なり。
この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。

かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。

かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。

【二の六】

さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。
かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。

かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。

これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。
2020年01月09日 20:25
いかんいかん^^

ちょっと考えるとこうなる^^

寝る^^
2020年01月10日 04:40
迷うから執着する^_^

迷わなければあるがまま^_^
2020年01月10日 07:31
迷いー執着ー苦の連鎖^_^
2020年01月10日 07:33
迷いとは真理に暗いこと^_^
2020年01月10日 07:35
三法印やな^_^
2020年01月10日 12:15
どうもおいらよりお前らの方が悟る気がする^_^

なんでやねん^_^
2020年01月10日 12:20
法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。

法身とは^_^
2020年01月11日 08:18
楽に生きる^^
2020年01月11日 08:22
寂滅為楽・・^^

楽を為す^^

2020年01月11日 08:30


「故に曰く『道を為(おさ)むれば日(ひび)に損じ、之を損じて又之を損じ、以て無為に至る。無為にして為さざる無きなり』と」

 また「道を修めるものは、日々に人為を削り去り、削り去ったうえにもさらに削り去って、ついには無為に到達する。無為に至ってこそ、することがないままに、あらゆることをすることができる」ということばもあるわけである。
 しかしながら、現在すでに有限の物となっているわれわれにとっては、万物の根源である自然の道にかえろうと思っても、それは大きな困難をともなうものではあるまいか。これを、たやすいものとしてできるのは、ただ大人だけに限られたことであろう。
2020年01月11日 08:33
日々に人為を削り去り、削り去ったうえにもさらに削り去って、ついには無為に到達する。

これやな^^
2020年01月11日 08:36
人為を削り去り・・^^

人が為すことを削り去る^^

・・なにもしない・・^^




お前らや^^
2020年01月11日 09:11
2020年01月11日 09:14
浄土きた^_^

行の止滅^_^

形成作用の止滅やな^_^

ブッタちゃんも言ってた^_^

無為に生きるか^_^
2020年01月11日 09:24
禅定が深まるに連れて形成作用が滅していき,覚りの境地とも言える想受 滅に至るとその形成作用は完全に滅する

うん?^_^
2020年01月11日 09:42
『道(みち)は常(つね)に無為にして、而(しか)も為さざる無し。』


(道はいつでも何事も為さないでいて、しかも全てのことを為している。)
2020年01月11日 13:04
自然法爾やな^^
2020年01月11日 19:08
一、『末燈鈔』第五通

「自然法爾(じねんほうに)」の文

二、『唯信鈔文意』

「極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい)」の文


うん?

読まんでもだいたい解る感がする^^

重要なのは体験すること^^
2020年01月11日 19:12
親鸞聖人八十六才の時の法語(『末灯鈔』第五通)に、この自然法爾のことが出ています。
 「じねんといふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。法爾といふは如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ」と述べています。
 それによって知られるように、阿弥陀如来の本願のはたらき、すなわち本願力のことを示すのが、真宗における「自然法爾」であります。
 この用語は直接には法然聖人の「法爾道理」から導かれたものだと思われますが、法爾道理とは自然必然の理というべきものであって、法然聖人は物理的必然の事象を例にして、如来の本願による救いが必然の道理であることを、この用語をもって説いています。
 自然法爾の「自然」とは、人間のはからいを超えた「しからしむ」という疑うことのできない如来の本願のはたらきをさし、「わがはからはざるを自然とまふすなり、これすなはち他力にてまします」【歎異抄】といわれるように、「他力」にほかなりません。
 これとは別に「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり」といい、さらに「かたちもましまさぬやうをしらせむとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせむれうなり」といわれていますが、この場合の「自然」は「無為自然」であって、究極の悟りの真理そのものはかたちを越えているから、自然というほかはないというのです。
2020年01月11日 19:18
 「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり[1]。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。
2020年01月11日 19:24
また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば・・・


無為とか・・法身とか・・^^

おわかりいただけたであろうか・・^^

なんか最近書いたような感がする^^


2020年01月11日 19:27
無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。

無明のまどひ・・・^^

これも書いたような・・^^
2020年01月11日 19:31
世親ちゃんがでてくる^^

ちなみに・・^^

世親ちゃんとは唯識三十頌以来友達だから^^
2020年01月11日 19:39


2020年01月10日 12:20
法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。

法身とは^_^




仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり[1]。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。


昨日の答え出てきた^^


南無南無^^
2020年01月11日 19:53
うん?

ことばもたえたり。

龍樹ちゃんの中論の戯論寂滅やな・・^^
2020年01月11日 19:55
 「では、この不死の底にはどのようにして到達されるのであろうか。」
 断片的であるが、竹村氏の説明の筋を追う。

 「対象論理、いわば分別的知性が、一たんは超えられなければ、あらゆる二元対立を超えることはできないであろう。」

 「一切の意識されるものに対する喜びと偏執と識別とを除き去れという。」

 「焦点はあくまでも識別作用が止滅する、ということである。それが悟りの世界への鍵となるのである。」

 「対象論理、分別を滅することは、戯論が寂滅することである。そこに八不の世界、一切の二元対立を脱落した境界がある。『中論』は正にこのことを中心に説いている。それは、釈尊の仏法に正しく根ざしていたことを、我々はすでに見すえることができたであろう。もちろんそれは、必ずや禅定の中に成就するであろう。」
2020年01月11日 19:56
 「一切の分別を超えるというとき、たとえば、何も考えず、何も動作せず、精神的にも身体的にもただじっとしているだけということになるのであろうか。ただ空白が広がるのみの心境が、悟りの境地なのであろうか。
 もちろんそうではあるまい。思うに、八不(一切の二元対立の否定)とは、生じない、滅しない等、あらゆる述語が成立しないということであり、故に主語が立たないということである。すなわち、対象化されたものの把握が一切ないということである。しかしそこでは、主体が正に主体のあり方にあることが実現しているということである。主体としての自己が、その主体のあり方のままにあることが成就しているただ中、むしろ絶対の主体、絶対の生が成就しているただ中であろう。不生不死は、不生の一言に集約されうるが、その不生とは絶対の生のことだったのであり、絶対の主体のことだったのである。」
2020年01月11日 20:00
なにもしない^^

おまえらや^^




「一切の分別を超えるというとき、たとえば、何も考えず、何も動作せず、精神的にも身体的にもただじっとしているだけということになるのであろうか。ただ空白が広がるのみの心境が、悟りの境地なのであろうか。

皆こう考える^^

必然のながれ^^
2020年01月11日 22:04
八不中道

インドの仏教者龍樹の『中論』冒頭の帰敬序にある,「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去」の句を八不という。八不は,すべての存在が相依相待の関係にあり,他から独立してそれ自体として存在するものは一つもない,という縁起の道理を説いたものである。さらにこの八不には,真理に合する中道の実践も説かれていると考えて,八不中道という
2020年01月11日 22:15
不生亦不滅  不常亦不斷 
不一亦不異  不來亦不出 
能說是因緣  善滅諸戲論 
我稽首禮佛  諸說中第一




不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、
不一にして亦た不異、不来にして亦た不出なりと、
能く是の因縁を説きて、善く諸の戯論を滅したまえば、
我れは稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと。
2020年01月11日 22:20
簡単にいえば・・^^

分別しているのは観念・・思考であり・・^^

現実の世界は0思考であり・・あるがままであると・・^^

2020年01月11日 22:22
うん?

なんか違う感がする^^
2020年01月11日 22:26
そんなことより・・^^

楽に生きる^^

これが大事や^^
みゅう
2020年01月12日 07:16
あ さん

 勉強させてもらって、感謝してます。


>インドの仏教者龍樹の『中論』冒頭の帰敬序にある,「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去」の句を八不という。八不は,すべての存在が相依相待の関係にあり,他から独立してそれ自体として存在するものは一つもない,という縁起の道理を説いたものである。さらにこの八不には,真理に合する中道の実践も説かれていると考えて,八不中道という

 「生滅」は存在しても「生」も「滅」もそれ自体として存在しない。つまり、それ自体としては「ない」。
  
  同じように、「断常」「一異」「来去」は存在しても「断」「常」「一」「異」「来」「去」はそれ自体としては「ない」。

  ということでいいでしょうか。
 
それでは、

  「苦楽」の場合は?

  「真理」と「誤謬?」は?

  そもそも、「存在」そのものについては?

2020年01月12日 07:29
まぁだいたいええ加減に^^

大事やな・・^^
2020年01月12日 07:31
縁起の道理・・^^

縁起空やな・・・^^
2020年01月12日 07:38
龍樹ちゃんは理屈屋なので難解や^^

おすすめできへん^^
2020年01月12日 07:42
おすすめはもちろん^^

温泉サウナ水風呂瞑想や^^

この寒い時期は特にね^^

外に出て真っ裸で瞑想や^^

天気がいいと日焼けするで^^
2020年01月12日 07:44
この水風呂が大事や^^

いっさい責任はとらないので^^

自己責任でお願いします^^
2020年01月12日 08:28
一番重要なことは・・^^

体験だけが真実やで^^
2020年01月12日 08:31
・・ということで^^

浄土へ体験しに行く^^

経典なんか参考程度でいいんや^^

まぁだいたいええ加減にやな・・^^
2020年01月12日 09:14
浄土きた^_^

縁起なるものは空である^_^

苦楽一如やな^_^
2020年01月12日 16:56
一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。

もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。
2020年01月12日 16:57
いち‐にょ【一如】

1 仏語。唯一絶対の真理。真如が異なる現れ方をしながら一つのものであること。
2020年01月12日 16:59
差別相を超越した存在義^^

相とは・・^^
2020年01月12日 17:01
三相

人間は三相について妄想を抱いており、この妄想によって人は苦しむ(無明)。この妄想を除去することで苦しみを終えることができ、清浄(visuddhiyā)への道である。これが四諦と八正道で語られる仏教の核心部である。
2020年01月12日 17:03
三相(さんそう、巴: ti-lakkhaṇa ティラッカナ)とは、全ての存在および物事は、無常(アニッチャ)、 苦(ドゥッカ)、 無我(アナッタ)であるという仏教の根本思想。三相はダンマパダの277,278,279節 に記載されている。
2020年01月12日 17:05
二七七 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


二七八 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


二七九 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

2020年01月12日 17:16
有為の四相

仏教は、このように変化するものを「有為法(ういほう)」といい、常に変化し続けることを「諸行無常」という。有為法は、因縁によって〈生〉じ、〈存続〉し、〈変化〉し、〈消滅〉する。この変化をそれぞれ生相(しょうそう)・住相(じゅうそう)・異相(いそう)・滅相(めっそう)と名づけ、有為の四相と呼んでいる。四相のうち「滅相」とは〈消え去るすがた〉という意味である。
 人間の一生も生・住・異・滅の四相を示す
2020年01月12日 17:22
無為の為とは何か

いずれも自分で考えて、

自分が為そうとして為したものではない

ということです。



彼らは為そうとしないことで、

自分の実力以上のことが為されることを

知っているのです。



為そうとする自分がいなくなった時、

自動的に為している自分がいる。



する者がなく、行為だけがある。

これが、無為の為の境地です。
2020年01月12日 17:25
する者がなく、行為だけがある。
これが、無為の為の境地です。

なに~~~^^

「する者がなく、行為だけがある。」だと・・^^

自然法爾・・か^^

これでいこう^^
2020年01月12日 17:27
行者の計らいにあらず・・やな^^
2020年01月12日 17:52
「無為の為」(無為にして為さざる無し)について
 荘子哲学の魅力の一つとして、天地自然の「無為」とともに、「無為の為」、すなわち、「無為にして為さざる無し」という道のはたらきが挙げられる。「無為の為」とは、ものごとに対し、対岸の火事として何もせず傍観することではない。そこには、人為を排するといえども、天理に従い、ものに冥合しての行(ぎょう)がある。それは、精神を養う「養生」の思想の発展形の一つとしての、「道」との一体の境地といえよう。 さらに、その動的世界においては、上述した蘇東坡の「与可画竹時」のように、名人たちの無心の境地、三昧境から、人為の及びもつかない大きな自然の妙用が現れる。「為す無くて為さざる無し」の境地が、荘子の「無為の為」の世界であると思う。

ふむふむ^^
2020年01月12日 17:53
ものごとに対し、対岸の火事として何もせず傍観することではない。

うん?

お前らでてきた^^
2020年01月12日 18:17
親鸞 ちゃんの親は

「天親」すなわち世親ちゃん親かぁ・・・^^

なるへそ・・^^
2020年01月12日 18:19
なんで親鸞ちゃん世親ちゃん知っとるねん・・・^^
2020年01月12日 19:31
将ラズ、迎エズ、
応ジテ而シテ蔵メズ
2020年01月12日 19:35
過ぎ去ったことをくよくよと悩まない。
先のことを考えて取り越し苦労をしない。

事が起こればそれに応じて、最善を尽くすのみで
結果を淡々と受け止め、心に留めない。

荘子
2020年01月12日 19:45
有為・無為かぁ~~^^

無為は涅槃やな・・^^


無為涅槃 むい-ねはん

有為涅槃に対する語。『涅槃経』には、

如来にすなはち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。
有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり。

と説かれている。また『法事讃』に、

極楽は無為涅槃の界なり。とある。
2020年01月12日 19:46
皆考えることはおなじか・・・^^
2020年01月12日 22:37
問うて曰く、
憶想と分別により、貪恚癡を生じ、
浄不浄の顛倒は、皆衆縁より生ず。

中論

貪欲(むさぼり)と,瞋恚(憎しみ怒り)と,愚痴(愚かな迷い)とは,思考作用から生ずる,と說かれている。なぜならば,〔それらは〕,淨と不淨とのもろもろの顛倒(妄想)に縁って起こるからである。
2020年01月12日 22:50
不浄

仏教では煩悩にまみれ精進せず世俗の垢にまみれた人を「不浄なる存在」と見ます。
2020年01月12日 22:55
釈迦が出家した時、衆生の多くは人間世界のこの世が、

無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ

と見なしていた。これを四顛倒(してんどう、さかさまな見方)という。 釈迦は成道した直後にまずこの四顛倒をただし、この世は無常・苦・無我・不浄であると説いた。これが諸行無常・一切皆苦・諸法無我などという仏教用語の基となっている。


常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である

これが常楽我浄である。
2020年01月13日 02:47
顕浄土真実証文類 四

愚禿釈親鸞集

【1】 つつしんで、 真実の証を顕せば、 それは*他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、 この上ないさとりという果である。 この証は必至滅度の願 (第十一願) より出てきたものである。 ^この願をまた証大涅槃の願とも名づけることができる。

 さて、 *煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れた*衆生が、 仏より回向された信と行とを得ると、 たちどころに*大乗の*正定聚の位に入るのである。 正定聚の位にあるから、 浄土に生れて必ずさとりに至る。 必ずさとりに至るということは、 *常楽我浄という徳をそなえることである。 この常楽我浄の徳をそなえるということは煩悩を滅し尽した境地、 すなわち畢竟寂滅に住することである。 この寂滅はこの上ないさとり、 すなわち無上涅槃である。 この無上涅槃は消滅変化を超えた真実そのもの、 すなわち無為法身である。 この無為法身はすべてのものの真実のすがた、 すなわち実相である。 この実相はすべてのものの変ることのない本性、 すなわち法性である。 この法性はすべてのものの絶対究極のあり方、 すなわち真如である。 この真如は相を超えた絶対の一、 すなわち一如である。 ^そして阿弥陀仏は、 この一如よりかたちを現して、 *報身・*応身・*化身などのさまざまなすがたを示してくださるのである。
2020年01月13日 02:53
この無為法身はすべてのものの真実のすがた、 すなわち実相である^^
2020年01月13日 05:51
「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」

親鸞「愚禿鈔」

愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている。
2020年01月13日 05:58
「私の心は、外見では賢く振舞っているが、その中身は煩悩にまみれ、愚かである」
2020年01月13日 06:01
親鸞という名は浄土教の教えを伝えた七高僧の中のインドの天親菩薩の親、中国の曇鸞大師の鸞の字をとられたものです。
2020年01月13日 06:08
七祖ともいう。親鸞聖人が浄土教の祖師と定め尊崇されたインド・中国・日本の七人の高僧。

龍樹菩薩
天親菩薩
曇鸞大師
道綽禅師
善導大師
源信和尚
源空聖人

うわっ^^

理屈屋の龍樹ちゃん1番目かよ^^

それよりも・・^^

なんで龍樹ちゃん知っとんねん^^

2020年01月13日 09:17
浄土きた^_^

人は何故悩むのか^_^

簡単^_^

無明だから^_^