登戸事件続き

>傷の連鎖について。
ここでの愚さんの言説を要約してみます。
・傷は治せる
・自己イメージを持っているから傷つく
・自己イメージを捨てれば傷つかない
・傷を自覚すると、身体が自ずと治してくれる


ですが、これらを裏付けているものは愚さんの個人的な体験のみです。これは一般性に乏しいのではないでしょうか? また、上記の主旨で説得しても、万人には通用しないのではないでしょうか?

被害者はさらなる被害者を再生産する、は私の持論です。今回の、登戸事件に限りませんが、このようなことが起こるのは必然だから抑止策を、といった観点で、以前から、社会的な事象に対する禅の姿勢を問うてきました。

ですが、愚さんは云いました。
> ですから、この事件で、こう思います。ひとがひとを傷つけない社会をつくること、そのためには、自分が傷つかなること。その為には、自分の傷をいやすこと。

これでは極論であって、実践性に乏しいのでは?

…………………・・・・・・・・・

その意味はわかりますが、実際にやってみないと、実践性に乏しいかどうかわからないでしょう・・・・
やってみて、初めて、それがプラクティカルかどうかわかるのでしょう。

それは永遠にできない作業かもしれません。でも、頭に火がついています。わたしは、子供の頃から、傷つけられてきました、そして、ひとを傷つけてきて来ました。わたしは、傷だらけです。その大部分は、押し殺しています。

わたしが傷つくことにより、わたしはわたしの首を絞め、ほかのひとの首をしめてきました。

わたしが傷つく限り、ひとに思いやりを持つのは難しいのです。自分のことで手一杯になるからです。わたしは痛いんです。ほかの人も痛いんです。

だから、わたしはこの痛みから脱出しようとします。その結果がうまくいくかどうかは、知りません。

そして、どうやったら傷つかないようになるか、また、すでに受けた傷をどう癒すか、に集中します。成功するかどうかは二義的です。私の髪の毛は燃えているんです。払いのけなければならないのです。

そこで、傷つくプロセスを調べていきます。自己イメージが問題なのはわかりました。そこで、自己イメージを守らないことにします。それはどういうことかといえば、傷つきやすくあることです。無防備になることです。

バカと言われれば、しょぼんとするんです。傷ついていきます。ガードしません。自己正当化もしなければ、相手を非難することもしません。ただ、傷つくんです。そして、その傷の痛みを十分に味わいます。

そうすると、自己イメージが消えていくことがわかります。

そして、自己イメージが消えていくとともに、生きることが楽になるかどうか、苦しくなるかどうか、自分で確かめます。また他者との関係がどうなっていくか、自分で確かめます。

もちろん、これは苦しい作業です。痛みを味わえといっているからです。ただ、自分の頭が燃えていると気づいた人間は、いやでもこのことに向き合うことになります。

これは説得すべきことではなく、個人個人が、この苦しみの生から脱却しようとするかしないか、決断の問題です。
そう決断しない人は、いまのままを続ければいいだけのことです。だれもそれを止めたりはできません。

CHOICE IS YOURS・・・・・・簡単でしょ

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この記事へのコメント

蓮風
2019年06月09日 09:47
暗黙裏に前提になっているものが間違ってると思うんですよね。

・自己イメージを解消することができる
・自己イメージを持った人々は苦痛に直面していない

なんで、上記 2 点を言明することができるのですか?
わたしは先ず、自己イメージを解消・払拭できる、と思い込む方が欺瞞だと思ってます。

それと、自己イメージを持っている人々でも、苦しみに直面して、どのようにしようか悩み苦しみ、暗中模索しているのだと思います。

愚さんの『あなたはわたしです(わたしはあなたです)』言説の背後にあるのは、「一者的世界観」で、「自分側からの」認識は重要視するものの、「他者側からの」認識の受容がおろそかになっているのでは、という危惧が(個人的に)増しています。

それでは「社会を構成できないのではないか?」、つまり、実際には社会は存在するのに、認識が歪んでいるので、社会的問題を引き起こすのではないか、と考えるようになりました。如何?

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