> その問いとは「夢/現実」についてです。
>
> 私は昔から比較的夢をよく見る方で、それもリアルな夢を見る方だと思います。リアルでビビッド(vivid)な夢をよく見ます。それは殆どが悪夢です。つまり、不快で苦しい夢です。
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> 例えば、津波に飲まれ大海の一部となってしまった街で必死に泳ぐ夢だったり、私を殺そうと襲いかかってくる人間からなんとか逃げ、最終的にその人間を刀で脳天から斬ってしまう夢だったり、車の助手席に座っていて、友人が事故を起こしてしまう夢だったり、砂一面の渦に飲み込まれてしまう夢だったり、その他いろいろです。
>
> 夢には当然のことながら映像があり(目を閉じているにも拘らず)、また思考があり、「意志」があります。
> 夢に於いて、必死に思考し、あれこれ考え、行動します。それが夢であると気付けば、夢に於いてそれらの体験をよそよそしく突き放して見ることが出来るだろうか、と目覚めた後考えてみたりするのですが、残念ながら夢に於いてそれが夢であると気付いたことはありません。
>
> 夢に於ける「知覚」、「感情」、「意志」は非常にリアルで切実なものです。特に、夢に於ける「意志」が興味深いです。
> といいますのも、その夢に於ける「意志」は、現実と呼ばれるこの世界に於ける「意志」と同じくらい切実な体験だからです。
>
> 勿論、朝目覚め、見た夢を振り返ってみるとその体験はぼんやりしています(遠い過去の記憶のようなぼんやり感です)。
>
> 併し、それがリアルであったことは間違いありません。
>
> 私は夢に於いて人を刀で斬ってしまいましたが、当然のことながら、そのことのために私が殺人罪で訴えられることはありません。なぜなら、この現実で実際に人を斬った訳ではないからです。
> 併し、一体あれはなんだったのか。夢とはそもそも何なのかという疑問がふつふつと湧いてきます。
>
> 「夢など幻覚に等しい熟考するに値しない虚偽の経験だ」と言い捨てることもできましょうが、私はそうは思えません。
> また、「夢は夢分析、精神分析に任せればよいではないか」という考えも個人的には嫌なのです。勿論、それはそれとして大変有益でしょうが、極端に言ってしまえば、それはあくまでも一般通念的世界認識に基づいているからです。つまり、夢/現実の確固たる線引きに基づいているからです。現実から夢を分析し、解釈していくという立場に基づいています。
>
> 私が問いたいのは、夢/現実の区分そのものであり、夢に於ける「思考」と現実に於ける「思考」の違いの解釈であり、延いてはそもそも「現実」とは何なのかということだからです。
>
> この身体が活動を停止すれば、この「現実」と永遠におさらばしなければなりません(と一般的に考えられています)。
>
> 「夢は虚偽の体験であり、現実は本物の体験である」、「夢に於ける意志と現実に於ける意志には決定的な差がある」等々と一般的には言われるかもしれませんが、
>よくよく考えてみれば、確固たる存在性を持っていると言われるこの「現実」も、必ず訪れる死という点(?)から考えれば、何かそこまで確固たるものではないような気が時々します。(「時々」と言いましたのは、このような実感を常に持っている訳ではないからです。そのように考える時以外はこの「現実」になんの疑問もありません。)
>
> 愚さんの仰るように、今、世界を見ている者(認識主体)が、一般に考えられているような〈私〉(=自我)ではなく、未知なるもの(知り得ない何か)であるとすれば、
>矢張り、夢を見たのもその知り得ない何かだったのでしょうか?
>
> 一体、誰(who)が夢を見たのか。何(what)が夢を見たのか。
>夢と現実とはそもそも何なのか。
>
> 死ぬのは誰なのか。Villageなのか。〈私〉なのか。それとも……。
>

適切なレスになっているとは思いませんが、わたしの夢に関する感じはこうです・・・・

眠っているとき、脳は昼間に起きた出来事で、矛盾があることを、解消しようとしているんだと推測します。つまり、ネットワークの組み換えをやっているんじゃないかなと思っています。このときに、夢を見るのだと・・・・

そして、夢に特徴的なことは、自我意識、自意識がないということです。ただ、情景が展開してそれに自分が対応しているだけです。常に、意識の背後で、自意識・・・唯識でいえば、末那識・・・・が、働いているのですが、睡眠中は、それがストップするようなのです。

この自意識は、目覚めているとき、無意識に蓋をして、無意識が意識化されないようにブロックしています。ですので、無意識と意識の間にギャップが生じ、両者の間に葛藤を起こしています。ですから、睡眠中に無意識は意識とつながりあい、ネットワークの組み換えをやっているようです。

この自意識がない夢の働きを、禅僧は、大夢、と呼んだようです。ですから、日常を、夢のように送れればいいわけです。

クリシュナムルティなんかだと、食べすぎとかを除いて、夢は見ない、といいます。別の言い方をすれば、目覚めている間に、矛盾を起こさないから、睡眠中調整する必要がないんだ、ということでしょう。禅に関していえば、夢を題材にした公案もありますし、前述した大夢というのもありますから、否定されてはいないでしょう。

ここで、三昧、瞑想ということがでてくるわけですが、これは、坐禅とかやってるうちに、自意識の活動が穏やかになり、思考に対して、リフレクションしなくなるわけです。これは夢と同じような効果があり、ネットワークの組み換えを効率的に行うようなのです。

夢と現実についてですが、区別は難しいですね。自我は現実か?、他者は現実か?、数は現実か?速度は現実か?温度は現実か?時間は現実か?とか、考えると、わからなくなります。意識、思考のつくりあげるものを現実といえば、夢も現実でしょうね・・・・

また、金剛経だったか、一切の有為の法は、夢、幻、泡、影のことく、また雷(いかづち)の如し、かくのごとくの観をなすべし、とかいうのがありましたが、要するに、世界そのものを夢幻と見なせ、ということですが、そうだとすれば、あらゆるものが夢でしょうね・・・・

夢を見ている主体はなく、ただ夢があるだけでしょう。仮に、真我とか神とかいう言葉を使えば、夢は真我であり、真我がそれを見ているということになります。

死ぬものは、「わたし」というイメージでしょう。つまり、イメージがなくなるだけですから、死ぬものはないということになります。

睡眠、夢、無意識、ここら辺のところは、よくわからないですね・・・・・

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