自由意志2

>>私が思うのは一般の人、ごく普通の一般の人が禅仏教の後ろ向きの因果論で自分の人生を自分で切り開いていくという主体性がなくなってしまうんではないかと危惧してます。


>たーぼーさん。 私が書いたのを引用いただいたので、ここでもそうさせていただきますね。

自由意志はない、という表現に、虚無感や無力感、不気味さを感じてしまう人もいるようですが、表層での理解だとそのように感じてしまうものなのかもしれません。

自由意志がない、すべては因縁で動いている、ということをきちんと理解できれば、それは大きな救いになりますよ。
例えばですが。 どうしようもなくアル中な人がいたとします。
また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。
その人たちは、なぜそうなのでしょう?
脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。
自分を責めてもしかたないんです。(責める、ということさえ、そうなるしかないからそうなってるんで、それはそれでいいんですけど。)
自分を責めてもしかなない、というのは大きな救いですよ。
責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。

また逆に、とても才能があり優秀な人というのも、脳、身体の特性、環境、遺伝などからそうであるということで、その人個人の持ち物でもないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因果しかない、自由意志はない、というのを、理解するのは結構大変です。情緒的に反発するからです。どうしても、自由意志があるような気がしてならないからです。

それは、そうです・・・・・自由意志がないということになれば、無力感を感じますから・・・

ところが、実際は、逆のことが起きます。あらゆることがただの因果だとわかったとき、肩の荷がおります。ホッとします。つまり、努力することがすべて無駄であったということに気が付きます。これは、ホントに楽になります。

真理に達する道はないことが、ありがたいんです。あがくのを止めます。あがくのが止めば、真理は目前に現前します。

しかし、努力してあがくの止めるわけにはいかないんです。努力するのが難しいのではなく、努力を放棄することが難しいんです。

だから、どうするか、徹底努力するしかありません。自由意志があるという感覚を信じて、やるしかありません。徹底、あがきます。その結果、まちがいなく挫折します。そこがいいところです。

だから、努力するしかありません。ヘトヘトになるまでやればいいわけです。その努力の果実は大きなものがあります。

というわけで、わたしも努力を続けている次第です・・・・・いま、接心中です

"自由意志2" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント