わたしはあるか?

>それは科学的に求められる事柄であり、すなわち、実際の事実、真実でなければならない。。ということかもしれません。

 「私が無い」とは、概念、空想として「私が無い」のか?

 それとも、本当は、実際は「無い」にもかかわらず、生後の教育環境によって、「私」があると盲信しているのか・・?

 真実はそのどちらであるか・・!!と言うことで、一般ピープルは見解が分かれるというか、一般ピープルは、「私が無い」とは、心理的安定のためのおまじない(イメージ・空想)としか思えない。。「私」が絶対的に存在しているとしか思えない。。これが一般ピープルには拭えない烙印としてあるように思えます。
 たとえ、頭では理解しても、根っこではその烙印を拭えないでいる。
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「わたし」というものを、抽象的に考えるとややっこしくなります。腹を立てます、腹を立てている「わたし」がいます。あきらかに、腹を立ててから、腹を立てている「わたし」が生まれています。


まず、ムカっとした感覚があり、感情があります。それから、腹を立てている「わたし」があります。腹を立てなければ、腹を立てている「わたし」は存在しません。腹を立てていない、腹を立てている「わたし」は存在できません。

つまり、知覚なしに「わたし」は存在できないんです。「わたし」単体は存在できません。見る「わたし」、感じる「わたし」、思考する「わたし」・・・・・知覚、感覚なしに「わたし」はありえません。

だから、「わたし」は、知覚、感覚、思考とひとつです。「わたし」は、知覚、感覚、思考です。

いま、パソコンの画面を見て、実験してみてください。見る、そのあと、見ている「わたし」が生まれています。

悩む、悩みという苦痛、思考が生まれる、そのあと、悩んでいる「わたし」が生まれる。悩みは「わたし」です。

悩みの苦痛は、耐えるしかないんです。ひたすら、耐えるんです。そこに、バカヤローでもなんでも思考が出てきたら、そのままにして、苦痛を味わうわけです。身体全体で味わいます。

そのとき、時間はかかるかもしれませんが、長い時間ではないですが、苦痛は終わります。そして、それとともに、他の条件付けも落ちていきます。つまり、精神は浄化されていきます。

つまり、日常の悩みをきっかけとして、精神が浄化されていきます。悩みの苦痛はイヤなものですが、良薬は口に苦し。この薬は効きます。







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