ライブやります・・・・10日19時・・・・時間について

ライブやります・・・・・よろしかったら、参画してください

https://youtu.be/Vi9JHZv6Pdc

時間についてです。これは、形而上学ではなく、身近なものです。わたしたちは、時間に使われています。これはまずいんです。トリックにひっかかっています。

こんな、メールをいただきました。

昨日も途中からライブ配信に参加していました。
時間の話や、「死」がこの瞬間であることや過去が自我である等、とても面白かったです。

改めて「時間」について考えたところ、

・時間が過ぎていくのを、私たちは感覚でとらえられない/「時間」が過ぎていくのを身体の感覚で感じることができない

ということに気がつきました。
そのような意味でも、「いまこの瞬間しか存在しないんだなぁ」と思いました。
また、
・「時間」は人間が勝手につくったもで、自然界には存在しないのでは
とも思いました。
(もし私の考え方がおかしかったら教えてください🙏)


昨日たまたま友人とも時間について話しており、上記私の見解と、
「過去も未来もなく、この瞬間しか存在しない。」
ということを友人に話したところ、
「でも、小さいころの思い出も経験もあるし、将来があることがわかっているから、私たちは仕事がんばるし、給料もちゃんと支払われたり家賃も将来払えることが分かっている。銀行だって、将来貸してお金が返ってくるとわかっているから融資する。だから、過去がない、未来もがない、という考え方はおかしいのではないか?」
と言われました。
「社会的に便宜上「時間」という概念をつくったのでは」、
と答えてみたものの、
友人も、また私としても納得いかない答えで…
この点について、ぜひ渡辺さんのお考え/ご経験お聞きしたいです!

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この記事へのコメント

宮啓
2020年03月09日 22:08
 先日のライブで、「時間は我々の敵である」の言葉が印象に残りました。

 私たちは「今」が一番詳しく観察できるにもかかわらず、行動や観察を一日延ばしにしようとします。

 行動や観察を一日延ばしにするのは、今、それをしたくないという欲求が逆らっているということに「今」気づかなければ・・、半年後も一年後も、数年後もその行動は起こらないのですね。。

 悟りが起こらない理由。
2020年03月09日 23:18


>宮啓さん
>
> 先日のライブで、「時間は我々の敵である」の言葉が印象に残りました。
>
> 私たちは「今」が一番詳しく観察できるにもかかわらず、行動や観察を一日延ばしにしようとします。
>
> 行動や観察を一日延ばしにするのは、今、それをしたくないという欲求が逆らっているということに「今」気づかなければ・・、半年後も一年後も、数年後もその行動は起こらないのですね。。
>
> 悟りが起こらない理由。

それもありますね・・・・いま、決着をつけようとしないんです。そのために、理論を学ばなきゃならないとか、修行しなきゃならないとかいって、逃避します
cheaptrick
2020年03月10日 12:41
>愚さん

いま『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を、辞書を引きながら読んでいます。インドでは結構有名な文献で、ラマナ・マハルシご推薦です。

聖者ヴァーシシュタが英雄ラーマに教えを垂れるというものですが、内容は、何のことはない、ほぼ渡辺さんが言われていることです。

渡辺さん、インドに行ったら聖者になれますよ(笑)
地球人
2020年03月10日 13:46
時間の経過を感覚的に認知できませんが・・・時間の経過、過去は記録されています。 少年、青年の頃の写真を見てはどうですか?
2020年03月10日 13:51


>cheaptrickさん
>
>>愚さん
>
>いま『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を、辞書を引きながら読んでいます。インドでは結構有名な文献で、ラマナ・マハルシご推薦です。
>
>聖者ヴァーシシュタが英雄ラーマに教えを垂れるというものですが、内容は、何のことはない、ほぼ渡辺さんが言われていることです。
>
>渡辺さん、インドに行ったら聖者になれますよ(笑)

インドで就職しますか・・・・
地球人
2020年03月10日 17:18
人、個体の生命は永遠ではなく有限なので時間は有ります。
地球人
2020年03月10日 20:24
太陽系の惑星も永遠ではなく有限の寿命です。
宮啓
2020年03月10日 21:27
 時間が科学的に存在しないとき。

 それを説明する言葉に困るように思います。

 そのために、「時間は科学的に存在しない」とは述べずに、「心理的に時間は存在しない」と述べることで、最低限必要な伝達を可能にするという知恵が働いたように思います。

 この「時間は科学的に存在しない」の言明は、混乱をもたらすことが必至であるがゆえに、クリシュナムルティはその言明を避けた可能性があるということです。

 クリシュナムルティは『時間』の言葉を度々発します。真理と『時間』に何の関係があるのか・・?よく見えなかったのですが、今、真理と『時間』にとても大きな影響があることを感じることができます。
地球人
2020年03月10日 21:34
浦島太郎のお伽話か。
地球人
2020年03月10日 22:14
愚さんは全宇宙のわたしに覚醒したのだから永遠ではないでしょうか?
Village beside a mountain stream
2020年03月10日 22:24
「自我の問題は解決可能である。」という渡辺さんの言葉に励まされましたし、深く身体で納得しました。(勿論、究極的な立場で言えば、最初から解決されているし、今も、まさに今も解決している。完璧すぎる真実ゆえ、それに気付かない。基底は一瞬たりとも離れたことはない。ということになるのでしょうが、実感が湧かないので、このように書いておきます。)


楽をするためにいろんな哲学者の書を読みますが、気付いたら誰々はこう言ったという知識ばかりが蓄積され、特定の、あるいは複数の哲学者の(或いは特定の宗教の)単なる精神的奴隷に成り果てているということはよくあることだと思います。私がそれでしたし、今もそれに違いありません。

が、渡辺さんの講義を聞くと、「結局自分でやるしかない、考えるのは人に任せてはいけない。権威も何もいらない。偉い哲学者がなんだというのか。結局、このままでは、本当には何も分からないままに死んでしまう。死が解決されないままに死んでしまう。解決するのは自分だ。」と反省することができます。(上手に哲学者に向き合えばなんの問題もありませんし、寧ろ積極的に学ばないといけないとは思いますが。)

人生の問題、生死の問題は畢竟、哲学的なもの、形而上学的なもの(そして宗教的なもの)にならざるを得ないと思っているのですが、それは詰まる所そうなのであって、そのことは誰か特定の哲学者とか、特定の宗教とかが自分に問題解決の体系を与えてくれるわけではない、ということが渡辺さんの仰る通り、当たり前のようでいて、忘れさられている真実ではないかと思います。


渡辺さんのいうことも決して鵜呑みにせず、ヒントぐらいに考えて、軽いタッチで、然し乍ら妥協することなく真剣に考えていきたい、と講義を聞いて改めて思いました。

硬いタッチの文章になってしまいましたが、書きたいように書きました。

渡辺さん、KB会の皆さん、いつもありがとうございます。



2020年03月11日 07:34
ただありのままにいることがそんなに難しいのか^_^
2020年03月11日 08:14


>Village beside a mountain streamさん
>
> 「自我の問題は解決可能である。」という渡辺さんの言葉に励まされましたし、深く身体で納得しました。(勿論、究極的な立場で言えば、最初から解決されているし、今も、まさに今も解決している。完璧すぎる真実ゆえ、それに気付かない。基底は一瞬たりとも離れたことはない。ということになるのでしょうが、実感が湧かないので、このように書いておきます。)
>
>
>楽をするためにいろんな哲学者の書を読みますが、気付いたら誰々はこう言ったという知識ばかりが蓄積され、特定の、あるいは複数の哲学者の(或いは特定の宗教の)単なる精神的奴隷に成り果てているということはよくあることだと思います。私がそれでしたし、今もそれに違いありません。
>
> が、渡辺さんの講義を聞くと、「結局自分でやるしかない、考えるのは人に任せてはいけない。権威も何もいらない。偉い哲学者がなんだというのか。結局、このままでは、本当には何も分からないままに死んでしまう。死が解決されないままに死んでしまう。解決するのは自分だ。」と反省することができます。(上手に哲学者に向き合えばなんの問題もありませんし、寧ろ積極的に学ばないといけないとは思いますが。)
>
> 人生の問題、生死の問題は畢竟、哲学的なもの、形而上学的なもの(そして宗教的なもの)にならざるを得ないと思っているのですが、それは詰まる所そうなのであって、そのことは誰か特定の哲学者とか、特定の宗教とかが自分に問題解決の体系を与えてくれるわけではない、ということが渡辺さんの仰る通り、当たり前のようでいて、忘れさられている真実ではないかと思います。
>
>
>渡辺さんのいうことも決して鵜呑みにせず、ヒントぐらいに考えて、軽いタッチで、然し乍ら妥協することなく真剣に考えていきたい、と講義を聞いて改めて思いました。
>
> 硬いタッチの文章になってしまいましたが、書きたいように書きました。
>
>渡辺さん、KB会の皆さん、いつもありがとうございます。
>
ライブに参画いただいてありがとうございます。

このように感じています。
さまざまな知識・・・・宗教、哲学、科学・・・・は、それなりに結構なことだと思うのですが、依存している限り、害になると思います。

まず最初に、なにがなんでも、自分が解決するんだ、という決意が必要だと思います。いまのままの人生はイヤだ!、なんとしても、突破してみる、という決意です。

これは社会に対する反逆です。もちろん、犯罪者になるということでも、社会革命家になるということでもありません。

この決意が、さまざまな障害を突破していくのだと感じます。このとき、知識は役にたちます。

そして、あらゆる知識は、結局は、捨てるためにあったということに気が付きます。つまり、必要はなかったんです。

知識は結局、逃避なんです。ただまあ、最初からそうは思えないんですが・・・・どうしても、自分に自信が持てないんです・・・・また、変に自信を持つと、ややっこしいことになってしまいますが・・・

あらゆるものを捨て切っちゃったときに、動くものがあります。これが宝です。

この宝は、獲得することはできませんが、それ自身が勝手に自分を通じて動いていきます。

このゲームは勝つことが約束されています。あとは、ゲームに参加するか、しないかのことです。つらい作業もあるかもしれないし、骨も折れるかもしれませんが、危険ではありませんし、なにより、面白いです。

こんな面白いことありません・・・・・自分より面白いものはないからです
地球人
2020年03月11日 09:23
>ただありのままにいることがそんなに難しいのか^_^

「ありのまま」ではなく、「あるがまま」ではないか?

ここ数日、将来の金銭的なことで思案していた。

あるがままです。^^
2020年03月11日 10:07
うん?

実相

実相 (じっそう、tattrasya lakSaNam、तत्त्रस्य लक्षणम् (sanskrit))の「実」とは虚妄に対していわれる。すなわち真実の意味である。相は無相の義であるといわれる。「実相」とは真実が無相であるということをあらわす。諸法実相という複合語として使われることが多い。

「無相」とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいう。したがって「実相」とは、真実が無相であり、それが萬物の本来の相であることを意味する。

実相を萬物の本体などといって、現象の背後に現象生起の源としての何か実在的なものと考えるようなことがあるが、それは誤りであり、実相はけっして実在的実体ではない。実相とはすべてのもののありのままのすがたをいうのである。無相こそ萬有のありのままの姿であるということを説くのが実相である。

この意味で、この「実相」を法性、真如、如実などとよぶ。
地球人
2020年03月11日 10:29
言葉の差異なのだが・・・

>「無相」とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいう。したがって「実相」とは、真実が無相であり、それが萬物の本来の相であることを意味する。

であれば、「ありのまま」ではなく「あるがまま」だろう。

「ありのまま」に認識するとは言うが、「あるがまま」に認識するとは言わない。

地球人
2020年03月11日 10:48
要するに、「あるがまま」とは明日の天気は予測できない。

「シュレディンガーの猫」の話。 量子論です。
通行人
2020年03月11日 11:38
つまり、「ありのまま」に認識するとは、「あるがまま」に認識することだ。^^
cheaptrick
2020年03月11日 12:25
>愚さん

いま読んでいる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の中の文章です。

The perfect end to craving born of the perfect enlightenment, itself is known as Liberation. When this is attained, one does not grieve even though continuing to live.

「完全な悟りから生まれた渇望の完全な終焉、それ自体が解脱として知られている。これが達成されるとき、たとえ生き続けても嘆くことはない」

最初これを見たとき、ミスプリントかと思いました。「たとえ死んでも」ではないのかと・・・。しかし、よくよく考えれば、確かに生きるより死ぬほうがラクですね。

これを読んで、この作者はホンモノだと思いました。

どんな状況でも生きていけることが悟りの証である、ということでしょうか?

「死の恐怖」はもちろんありますが、「生の恐怖」というのも確かにあります。何が起こるかわからない、どんな苦しみが待ち受けているかわからない、という恐怖です。
今の人間が支配されているのは、むしろこの「生の恐怖」ではないでしょうか?
通行人
2020年03月11日 12:38
あるがままとは即今です。^^v
地球人
2020年03月11日 13:14
>The perfect end to craving born of the perfect enlightenment, itself is known as Liberation. When this is attained, one does not grieve even though continuing to live.

>「完全な悟りから生まれた渇望の完全な終焉、それ自体が解脱として知られている。これが達成されるとき、たとえ生き続けても嘆くことはない」

渇望の完全な終焉とは、生死の事実はあるが生死の観念の終焉。

2020年03月11日 20:45


>cheaptrickさん
>
>>愚さん
>
>いま読んでいる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の中の文章です。
>
>The perfect end to craving born of the perfect enlightenment, itself is known as Liberation. When this is attained, one does not grieve even though continuing to live.
>
>「完全な悟りから生まれた渇望の完全な終焉、それ自体が解脱として知られている。これが達成されるとき、たとえ生き続けても嘆くことはない」
>
>最初これを見たとき、ミスプリントかと思いました。「たとえ死んでも」ではないのかと・・・。しかし、よくよく考えれば、確かに生きるより死ぬほうがラクですね。
>
>これを読んで、この作者はホンモノだと思いました。
>
>どんな状況でも生きていけることが悟りの証である、ということでしょうか?
>
>「死の恐怖」はもちろんありますが、「生の恐怖」というのも確かにあります。何が起こるかわからない、どんな苦しみが待ち受けているかわからない、という恐怖です。
>今の人間が支配されているのは、むしろこの「生の恐怖」ではないでしょうか?

ヨーガですから、生きていくのはつらい、というのがベースにあると思います。わたしなんかも、生きていくのは面倒くさい、とすぐ思っちゃいます。そこらじゅうの出来事を問題にしていきます。逆に、わたしたちに問題がなければ、退屈してしまうでしょう。

生の恐怖というのは、時間の恐怖ですね、未来に対する恐怖ですね・・・未来を持たなきゃいいわけです・・・

そこで、こういった生に一気に決着をつけるため、死というものが出てきます。死んでしまえばいいわけです。かといって、自殺するのではなく、心理的に死んじゃえばいいわけです。

あらゆる過去・・・・いいことも悪かったことも・・・・に死ぬわけです・・・・それがどうせいつか来ることですから・・・

生きていながら、刻々と死んでいくこと、それさえできれば、この世は天国です。

地球人
2020年03月12日 02:18
この世は天国ですか?

この身体を維持する為に、お金の問題はないのですか?

働けばいいじゃないか?

生き物だから仕方ないですが、悟りを考える余裕がない程、仕事、労働は過酷でしょう。






2020年03月12日 05:48


>地球人さん
>
>この世は天国ですか?
>
>この身体を維持する為に、お金の問題はないのですか?
>
>働けばいいじゃないか?
>
>生き物だから仕方ないですが、悟りを考える余裕がない程、仕事、労働は過酷でしょう。
>
一般論をいっていても始まりません。この人生がしかたないと感じるなら、そのままの生活を続ければいいんです。

もし否定するなら、その否定する衝動そのものが、仕事や労働をなんとかしていくでしょう。

そのエネルギーがないのなら、それで終わりです。状況は、きわめて単純です。
地球人
2020年03月12日 09:45
仕事が忙しかった頃は仏教とか悟りとか全く無縁で興味ありませんでした。

皆さんはどうなのか? 

2020年03月12日 10:11
あー^_^

仕事が忙しい忙しい^_^

しかしそれでも私はいない^_^

行為はあるが私はいない^_^

色即是空 空即是色^_^
2020年03月12日 10:21
>あー^_^
>仕事が忙しい忙しい^_^
>しかしそれでも私はいない^_^
>行為はあるが私はいない^_^
>色即是空 空即是色^_^

 あさんはいないか、^^?


地球人
2020年03月12日 12:07
自身のことは視えてないのだな。笑
cheaptrick
2020年03月12日 12:26
>愚さん

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の要点は「聖なる無関心」のようです。

そこから「自発的で、意図を持たない行為」が流れ出す。

これが「解脱」である。こんな感じ。

私個人の勝手な解釈ですが・・・。
2020年03月12日 12:48
てきぱきと^_^

仕事をこなす^_^

おいら天才かも^_^
地球人
2020年03月12日 12:52
>『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の要点は「聖なる無関心」のようです。
>そこから「自発的で、意図を持たない行為」が流れ出す。

例えば、歴史上では誰ですか?
地球人
2020年03月12日 12:56
>てきぱきと^_^
>仕事をこなす^_^
>おいら天才かも^_^

他者が評価するものだが、笑
地球人
2020年03月12日 14:26
>仕事が忙しい忙しい^_^

>しかしそれでも私はいない^_^

仕事が忙しい時は私はいない。

そのレスを書いてる時が自我だ、あほ!^^
2020年03月12日 14:44
書いている主体はいない^_^

残念^_^
2020年03月12日 14:48
受想行識が書いている^_^

私はいない^_^ 
2020年03月12日 14:51
いないいないばー^_^
地球人
2020年03月12日 15:04
さっそく、自我の3連投!^^

愚さんに「あさんと遊ぼう!」トピを作ってもらったら?
通行人
2020年03月12日 17:00
自我が解放されると、宇宙のとか、無我の意識になった気がするのよ^^
2020年03月12日 17:26
アイデンティティについて質問なんですが、地に足の着いた具体的アイデンティティを獲得することってのは、現実生きていく上では結構大事じゃないですか?

何者でもない自己とか、自我とは過去の記憶の集まりだ。とかいわれても、それは究極そうかもしれませんが、人間のやる気の源になったりするのはもっと具体的なアイデンティティだと思います。
2020年03月12日 17:57
インドでは、企業がカーストを理由に優先的に雇ったり雇わなかったりしてはいけない。という法律があるのですが、やはり企業はバラモンの人を取りたがるそうです。面接の文字の書き方などに高カーストの人しかできないような書き方があって、面接官もそれを見抜くそうです。

バラモンはアイデンティティを持っているので、仕事もできる人が多いそうです。


やっぱ、具体的やる気には、アイデンティティは重要みたいです。
地球人
2020年03月12日 18:39
>バラモンはアイデンティティを持っているので、仕事もできる人が多いそうです。

>やっぱ、具体的やる気には、アイデンティティは重要みたいです。

太平さんの言う通りです。

自我の迷いが消えて宇宙の根源と繋がる自己同一の自我が最強なのでしょう。
地球人
2020年03月12日 19:08
キリスト教の聖書では・・・

神はモーセに言った、「 I am that I am わたしはあるという者だ」の自己同一性の言葉があります。
2020年03月12日 19:15
IDカードはいらんがな^^

ありのままでええんや^^
2020年03月12日 19:21
「わたしはある」と言う感覚^^

感覚だからね・・^^

真実ではない^^
2020年03月12日 19:25
「わたしはある」と言うことを証明しなさい^^

そしてIDカードを差し出す^^

意味不明^^
2020年03月12日 19:35
やはり・・どう考えても不識やな^^
2020年03月12日 20:14


>cheaptrickさん
>
>>愚さん
>
>『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の要点は「聖なる無関心」のようです。
>
>そこから「自発的で、意図を持たない行為」が流れ出す。
>
>これが「解脱」である。こんな感じ。
>
>私個人の勝手な解釈ですが・・・。

無関心の意味が、ハッキリしないのですが、無為ってことでしょうね・・・・それなら、わかります
2020年03月12日 20:19


>大平さん
>
>アイデンティティについて質問なんですが、地に足の着いた具体的アイデンティティを獲得することってのは、現実生きていく上では結構大事じゃないですか?
>
>何者でもない自己とか、自我とは過去の記憶の集まりだ。とかいわれても、それは究極そうかもしれませんが、人間のやる気の源になったりするのはもっと具体的なアイデンティティだと思います。

アイデンティティなんかなくても、まったく問題ありませんし、エネルギーはあるから大丈夫です。アイデンティティを持っても構いませんが、かならず、傷つき、挫折します
Village beside a mountain stream
2020年03月12日 23:07

〈私〉(自我、自己)があるから、〈爾〉(あなた、他我)があると渡辺さんは仰っていて、私もその通りだと考えます。

無我を探求するために、「〈私〉とはなんだろう。〈私〉が在るとはどういうことか。在るとはそもそもなんだろう。人間、コップ等が在るようには存在しない。〈私〉と人間はカテゴリーが違うようだ。何故なら、これが人間且つ〈私〉であるということが可能であるから。どれもこれもが人間ということはできないが、全てのものを〈私〉と言うことは論理的に可能である。この身体が〈私〉ならば、眼前のコップだって〈私〉であっても論理的になんの問題もない。等々等々等々。」のように自我を対象として考察を進めていくというのが本筋だと考えられます。

併し、他我を対象として無我にアプローチするという道もあるのではないか、と考えているのですが、どうでしょうか。(必要ない回り道かも知れませんが…。禅定で一気に自我と他我の非存在に気がつくという道が一番良い道なのかも知れません。)

私がこれまで体験してきた死は他者の死でした。

死者の亡骸を眼前にする時、亡骸はそこに在るのですが、何かが無くなってしまった、という感じがあります。「あの人は、もうここにはいない。亡骸はここに在るが、あの人はここにはいない。あの人はこの亡骸ではない。あの世に行ってしまったのだ、きっと。」と我々をして言わせる何かがあるように思います。

その無くなったものが、即ち他我であると思います。宗教的な言い方をすれば、他我は霊魂、魂(たましい)になるはずです。

併し少し考えてみれば、無くなったのは、その亡骸が生きていた時にあった、身体活動(呼吸、心臓の拍動、瞬き、言葉を発する、等々)であって、それ以上でもそれ以下でもないような感じがします。
生きている時に見ていたのは、身体活動を伴う身体のみでした。その身体をA(固有名を仮にAとします)と呼び、Aの魂など、決して見たことがありませんでした。

然るに、Aが死んだ今、生きていた時には特に必要のなかった、Aの魂が要請されます。強く要請されます。何かが永遠に取り去られてしまった、と悲嘆にくれます。

生きているあの身体がAだったとすれば、眼前の亡骸もAであるはずですが、我々は一般にそれを認めません。
身体以上の何かがAだったのであり、その何かがこの亡骸には無いが故に、この亡骸はAではない。従って、Aはここに居らず、どこか別のところに居る(それが天国であるか、黄泉の国であるか、地獄であるかは分からない)。


ある宗教学者が「他者が死んだ時に残るのは、その死者の身体と、その死者に関する生前の記憶と、その死者の名前である。」と言っていました。
名前即ち言葉と記憶が魂の根拠になっているようだ、とは分かるのですが、それ以上は分かりません。


以上長々と書き連ねてしまいましたが、質問の要点は以下の2つです。

(1)無我を探求するに当たって、自我からのアプローチが本道だと思いますが、他我からのアプローチもまた適切でしょうか。そして、適切であれば、それはどのように考えられるべきでしょうか。(適切でないとバッサリ切ってくださっても構いません。)

(2)他者の死の時に、他我が特に問題となり、その時、他我は一般的な霊魂概念として処理されますが、このような一般的な他我、霊魂に対する考え方のどこが間違っているのでしょうか。(勿論、私は、自我、他我ともに、非存在であるというのが、真実ではないだろうかとは思っているのですが、はっきり確信が持てないため、このようにしつこく、くどい質問をさせていただきます。)

死の問題をぶり返してしまい申し訳ありません。
私としては、質問せずにはいられませんでした。


















地球人
2020年03月12日 23:31
他者の死を観て自己の死を知る。(肉体の死)

意識は肉体が無くとも発生することは可能か?
通行人
2020年03月12日 23:36
意識とは知能です。
通行人
2020年03月12日 23:46
わたしはあなたであり。あなたはわたしであると認識できれば、自我は消滅して死は怖い存在ではない。
地球人
2020年03月12日 23:55
意識に実体が無いと認識すると自我が消滅する。
通行人
2020年03月13日 00:00
自我も他我も無い。
地球人
2020年03月13日 00:12
どちらにせよ、無意識も含めて意識は生体で無いと発生しない。
通行人
2020年03月13日 00:21
肉体の死は有る。
地球人
2020年03月13日 00:28
肉体の死は否定できない。笑
通行人
2020年03月13日 00:42
ところで、仏教は無我なのに何で墓参りさせているのよ。^^
地球人
2020年03月13日 00:48
それは、お経上げてお布施を貰わないと僧の生活が成り立たない。笑
通行人
2020年03月13日 01:26
縁起無我ってことだね。^^
地球人
2020年03月13日 01:48
世俗な。笑
Village beside a mountain stream
2020年03月13日 04:36
考えてみると私の質問はくどいですね。内容も長々とくどいですが、同じことを何度も聞くところがくどいです。反省しています。

以前の動画で上の質問に対する答えは述べられていて、あとは己の覚悟と実践のみであるということが明らかですから、質問する必要は無かったのかもしれません。

寝て起きた結果、このような反省の念が生じてきましたので、この文章を書きました。
2020年03月13日 10:03
心理学でも、アイデンティティの確立というのは、青年期の課題であって、そこをクリアできなかった人は、無気力になったり、いろんな問題が生じるといわれています。

2020年03月13日 10:09
ヒトラーとかナポレオンとか、一国の支配者みたいな人は不健全な間違った形で、アイデンティティを確立している。

これは私の考えですが、我にとらわれない人こそが、俗的なアイデンティティも手に入れることになると思うのです。

我やプライドに過度にとらわれていては、挑戦しリスクをとる勇気とかも生まれないと思うのです。
2020年03月13日 10:10


>大平さん
>
>心理学でも、アイデンティティの確立というのは、青年期の課題であって、そこをクリアできなかった人は、無気力になったり、いろんな問題が生じるといわれています。
>
それはそうです・・・・
だから、あなたがアイデンティティを持ちたいというなら、持てばいいんですが、それは、結局、つらい思いをすることになるよ、といってるだけです。あとは、あなたの好きなようにすればいいだけのことです。
2020年03月13日 10:13
今日楽しみなLiveがある感がする^_^
2020年03月13日 10:33
アイデンティティをもつ限り苦しむというのがいまだに納得できてません。

ふつうのひとは、アイデンティティ、地に足のついた自信がないがゆえに苦しんでいると思うのです。

自我は過去の記憶の集成で・・・とかいうのはあまりに観念的じゃないですか?

芸術にしても仕事にしても、いつも自分と向き合って生きていくわけです。

そういう人生を生きてる中に、事実をありのままに見ることができるよう自我をすり減らしていくのではありませんか?



人生は、観念的なものではなくもっと具体的なものであり有限だと思うのです。

たとえば、私が作曲を志したときと今を比べてみると、ありのままを見る力、事実の受容力は上がってるように思うのです。

昔より、至らない点などを指摘されても自然に受け入れられるようになりました。

ある程度、価値ある作品を生み出せるようになって、アイデンティティが前よりも確立されたのだと思います。

これは現実的成長ではないでしょうか?
2020年03月13日 10:57


>taishi ohiraさん
>
>アイデンティティをもつ限り苦しむというのがいまだに納得できてません。
>
>ふつうのひとは、アイデンティティ、地に足のついた自信がないがゆえに苦しんでいると思うのです。
>
>自我は過去の記憶の集成で・・・とかいうのはあまりに観念的じゃないですか?
>
>芸術にしても仕事にしても、いつも自分と向き合って生きていくわけです。
>
>そういう人生を生きてる中に、事実をありのままに見ることができるよう自我をすり減らしていくのではありませんか?
>
>
>
>人生は、観念的なものではなくもっと具体的なものであり有限だと思うのです。
>
>たとえば、私が作曲を志したときと今を比べてみると、ありのままを見る力、事実の受容力は上がってるように思うのです。
>
>昔より、至らない点などを指摘されても自然に受け入れられるようになりました。
>
>ある程度、価値ある作品を生み出せるようになって、アイデンティティが前よりも確立されたのだと思います。
>
>これは現実的成長ではないでしょうか?

であれば。持っていたらいいと思います。アイデンティティを持てば、それを守らなきゃならない、それは苦痛だと言っているだけです。

納得できなければ、持っていたらいいです・・・・・そして、確かめてみたらいいわけです・・・・大事なことは、自分で確かめてみることだと思います
2020年03月13日 11:18
よく、オリンピックとかで、メダルとって、インタビューで、どこ出身ですか?
とか聞かれて、世界市民です。とか答える人いますけど、アイデンティティがないなと思います。

自分はどこどこ村のだれべえで、父母は・・・です。

みたいな明確な答えをして、故郷や親に報いてあげればいいのにと思います。

孔子は、名声の確立を通じて孝を成し遂げるものと考えていました。
cheaptrick
2020年03月13日 12:12
>愚さん

聖なる無関心・・・「執着から解き放たれ、欲望から自由な静寂」です。

ラマナ・マハルシが、朝早く起きて台所仕事をテキパキとこなしながらも、「私は何もしていない」と言ったという、あの感じです。

マハルシが推薦する文献で、邦訳があるのは『アシュターヴァクラ・ギーター』だけです。しかたなく、夜な夜な辞書を引いて、英訳されたものをいろいろ読みましたが、結局、彼の『対話』以上のものではありませんでした。
まあ、それが確認できただけでもOKです。

「ある晩、その地方の不思議な静寂の中で、梟のホーホーという鳴き声によっても破られない沈黙とともに彼が目を覚ますと、何かまったく異なった新しいものがあることに気づいた。その運動はあらゆるエネルギーの根源に達した。これは、決して恐怖や切望、絶対的安心への頑なな願望に由来する人間精神の投影物である神、最高原理、ブラフマンと混同したり、あるいはその種のものと見なされるべきではない。それはそのいずれでもない。願望はおそらくそれに到達できないだろう。言葉はそれを測ることができない。いわんや、思考はそのまわりに巻き付くことさえできない。いかなる確信を持って、それがすべてのエネルギーの根源だとあなたは言うのか、と人は尋ねるかもしれない。これに対してはただ、事実そうなのだと、まったき謙虚さを持って答えうるだけである。毎晩彼は、この絶対者の感覚とともに目覚めた。それは、静止的で固定した、不動のものではない。人間が測ることのできない全宇宙がその中にある。これが究極のものであり、始まりであり終わりであり、そして絶対なるものである。あるのはただ、信じがたい広大さと、途方もない美だけである」

結局これだけです。生きているあいだに、これが体験できたら、まさに「一生参学の大事、ここに畢りぬ」でしょう。

それと、渡辺さんがよく言われていることが『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の中にもありました。

The total abandonment of all notions or ideas is Liberation and such an abandonment is possible when the pursuit of pleasure is abandoned. Notions and ideas gradually cease to arise and to expand in one who resolutely refrains from associating words with meanings, in his own mind — whether these words are uttered by others or they arise in one’s own mind.

「一切の観念や想念の完全な放棄が解脱であり、そのような放棄は、喜びを追い求めることを放棄したときに可能となる。観念や想念は、自身の心の中で、それが他人から発せられたものであれ、自身の心の中に生じたものであれ、言葉と意味を結びつけることを断固として止める人の中では、しだいに生じたり膨らんだりはしなくなる」



ところで、次のサットサンガ(ライブ)はいつでしょうか?
私はChromecastを使ってテレビで見ています。ほぼ等身大の渡辺さんを目の前にしています(笑)
2020年03月13日 12:57
>聖なる無関心・・・「執着から解き放たれ、欲望から自由な静寂」です。

坐禅すれば体験できます。

>ラマナ・マハルシが、朝早く起きて台所仕事をテキパキとこなしながらも、「私は何もしていない」と言ったという、あの感じです。

無心。 曹洞宗の修行で体験できます。



2020年03月13日 13:05


>大平さん
>
>よく、オリンピックとかで、メダルとって、インタビューで、どこ出身ですか?
>とか聞かれて、世界市民です。とか答える人いますけど、アイデンティティがないなと思います。
>
>自分はどこどこ村のだれべえで、父母は・・・です。
>
>みたいな明確な答えをして、故郷や親に報いてあげればいいのにと思います。
>
>孔子は、名声の確立を通じて孝を成し遂げるものと考えていました。
>
これは推測する問題じゃなくて、自分で確かめてみるしかないんです。だから、あなたは、「健全な」アイデンティティを持って、生きてみればいいです。

やってみることが大事なんです。自分で実践してやってみない限り、納得はできません。頭の理解は、あまり意味がないんです。

だから、わたしの主張は頭の片隅に入れておくだけで、思う通りに進むべきです。
2020年03月13日 13:08


>cheaptrickさん
>
>>愚さん
>
>聖なる無関心・・・「執着から解き放たれ、欲望から自由な静寂」です。
>
>ラマナ・マハルシが、朝早く起きて台所仕事をテキパキとこなしながらも、「私は何もしていない」と言ったという、あの感じです。
>
>マハルシが推薦する文献で、邦訳があるのは『アシュターヴァクラ・ギーター』だけです。しかたなく、夜な夜な辞書を引いて、英訳されたものをいろいろ読みましたが、結局、彼の『対話』以上のものではありませんでした。
>まあ、それが確認できただけでもOKです。
>
>「ある晩、その地方の不思議な静寂の中で、梟のホーホーという鳴き声によっても破られない沈黙とともに彼が目を覚ますと、何かまったく異なった新しいものがあることに気づいた。その運動はあらゆるエネルギーの根源に達した。これは、決して恐怖や切望、絶対的安心への頑なな願望に由来する人間精神の投影物である神、最高原理、ブラフマンと混同したり、あるいはその種のものと見なされるべきではない。それはそのいずれでもない。願望はおそらくそれに到達できないだろう。言葉はそれを測ることができない。いわんや、思考はそのまわりに巻き付くことさえできない。いかなる確信を持って、それがすべてのエネルギーの根源だとあなたは言うのか、と人は尋ねるかもしれない。これに対してはただ、事実そうなのだと、まったき謙虚さを持って答えうるだけである。毎晩彼は、この絶対者の感覚とともに目覚めた。それは、静止的で固定した、不動のものではない。人間が測ることのできない全宇宙がその中にある。これが究極のものであり、始まりであり終わりであり、そして絶対なるものである。あるのはただ、信じがたい広大さと、途方もない美だけである」
>
>結局これだけです。生きているあいだに、これが体験できたら、まさに「一生参学の大事、ここに畢りぬ」でしょう。
>
>それと、渡辺さんがよく言われていることが『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の中にもありました。
>
>The total abandonment of all notions or ideas is Liberation and such an abandonment is possible when the pursuit of pleasure is abandoned. Notions and ideas gradually cease to arise and to expand in one who resolutely refrains from associating words with meanings, in his own mind — whether these words are uttered by others or they arise in one’s own mind.
>
>「一切の観念や想念の完全な放棄が解脱であり、そのような放棄は、喜びを追い求めることを放棄したときに可能となる。観念や想念は、自身の心の中で、それが他人から発せられたものであれ、自身の心の中に生じたものであれ、言葉と意味を結びつけることを断固として止める人の中では、しだいに生じたり膨らんだりはしなくなる」
>
>
>
>ところで、次のサットサンガ(ライブ)はいつでしょうか?
>私はChromecastを使ってテレビで見ています。ほぼ等身大の渡辺さんを目の前にしています(笑)
>
なんか、恥ずかしいですね・・・・

今晩やろうかなと思っているところですが、いまいち、気合が入ってないので・・・・気合が入ったら、告知します。
2020年03月13日 13:10


>さん
>
>>聖なる無関心・・・「執着から解き放たれ、欲望から自由な静寂」です。
>
>坐禅すれば体験できます。
>
>>ラマナ・マハルシが、朝早く起きて台所仕事をテキパキとこなしながらも、「私は何もしていない」と言ったという、あの感じです。
>
>無心。 曹洞宗の修行で体験できます。
>
そんなにうまくいきました?うまくいけば、結構なことではありますが・・・・・
地球人
2020年03月13日 13:42
名前が抜けました。

>>聖なる無関心・・・「執着から解き放たれ、欲望から自由な静寂」です。
>
>坐禅すれば体験できます。
>
>>ラマナ・マハルシが、朝早く起きて台所仕事をテキパキとこなしながらも、「私は何もしていない」と言ったという、あの感じです。
>
>無心。 曹洞宗の修行で体験できます。
>
そんなにうまくいきました?うまくいけば、結構なことではありますが・・・・・


ずい分、時間が掛かりましたが、坐禅は体験したと自己認識です。

曹洞宗の修行は体験してないので想像です。すみません。



地球人
2020年03月13日 13:58
>であれば。持っていたらいいと思います。アイデンティティを持てば、それを守らなきゃならない、それは苦痛だと言っているだけです。

>納得できなければ、持っていたらいいです・・・・・そして、確かめてみたらいいわけです・・・・大事なことは、自分で確かめてみることだと思います

それは苦痛を伴います。

社会的に住所、氏名、生年月日から解放されることはありません。

地球人
2020年03月13日 14:44
坐禅は思考、思念が止み自我、アイデンティティが消えて解放され寂静の無意識に至ります。正しい坐禅を続ければ誰でも体験できるでしょう。

学識を積んだ人は体験すると涅槃寂静の悟りに至るかもしれない。






2020年03月13日 14:48
アイデンティティの確立ってそんなに簡単なことじゃないと思います。

心理学でも、エリクソンやフロイトによれば、性器期の課題であるといわれてますが、ほとんどの人間はわずかしか成し遂げてないと思います。マズローは自己実現といってますね。


私は、アイデンティティを確立するためにがんばってきました。

私が神智学や心理学を勉強したり、音楽やってきたのも、地に足の着いたアイデンティティを確立するためだったといっても過言ではないかもしれません。
2020年03月13日 15:21
アイデンティティを持つ限り侮辱されたりしたとき苦しむといわれますが、侮辱されて苦しむのは、事実を受容できないからでは?

たとえば、お前の音楽へぼいだろ。とか精神病者は生きる価値ない。といわれたとき、もしへぼければ、そのへぼい点に向き合って改善しようとすればいいことで、精神病が生きる価値ないというのはそれ自体間違ったことをいってるわけで
事実を端的に見れば傷つかないのでは?
2020年03月13日 15:37


>大平さん
>
>アイデンティティを持つ限り侮辱されたりしたとき苦しむといわれますが、侮辱されて苦しむのは、事実を受容できないからでは?
>
>たとえば、お前の音楽へぼいだろ。とか精神病者は生きる価値ない。といわれたとき、もしへぼければ、そのへぼい点に向き合って改善しようとすればいいことで、精神病が生きる価値ないというのはそれ自体間違ったことをいってるわけで
>事実を端的に見れば傷つかないのでは?

へぼいと言われれば、へぼいかもしれないと思い、生きる価値がないと言われれば、ないかもしれないなと思えばいいわけです。

つまり、自分のことをなにも知らない生き方です。それがアイデンティティなしに生きることです。
地球人
2020年03月13日 15:39
大平さんの言っているアイデンティティの確立とはどんな理想像ですか?
地球人
2020年03月13日 15:47
理想である限り、アイデンティティから外れます。
地球人
2020年03月13日 15:52
同時に理想を求めるアイデンティティは煩悩ですから苦しみます。
2020年03月13日 15:59
<理想である限り、アイデンティティから外れます。

たとえば、理想の女を絵で描こうとします。最初は当然うまく生きませんよね。


苦労して、何回も書き直してようやくかけるようになってくるかもしれません。


かけなくて自殺するかもしれません。


そうやってむずかしいことにとりくんでいくうちに理想に近づいていきます。

実際にそういう風にして苦労して人生を生きることで自我が磨り減りあいすることを学びます。

それを自己実現や成長と呼びます。

結果としての賞とか肩書きはどうでもいいのです。
それらは運がよければついてくるだけのことです。
地球人
2020年03月13日 16:50
自我が挫折しないことを祈ります。

自我・アイデンティティを手放した時に素晴らしい音楽を創れることもあるのでは? どうしても、自我・アイデンティティは拘束した世界観です。

地球人
2020年03月13日 16:56
自我の苦悩を表現する音楽もありますが・・・
2020年03月13日 17:40
エゴと、アイデンティティは違うのでは?

エゴは事実に反した抵抗で、アイデンティティは事実を見ることからくる。

たとえば、創作していて、美しくないところがあったら改善しますよね。

次に生かす。

エゴはそれを嫌がる。

2020年03月13日 17:54


>大平さん
>
>エゴと、アイデンティティは違うのでは?
>
>エゴは事実に反した抵抗で、アイデンティティは事実を見ることからくる。
>
>たとえば、創作していて、美しくないところがあったら改善しますよね。
>
>次に生かす。
>
>エゴはそれを嫌がる。
>
アイデンティティを持てば、かならず、それが一番大事になります。防衛します。これが、まさしくエゴイズムです。
簡単です。アイデンティティは必ずエゴのアイデンティティで、エゴイストにならざるを得ないんです。

そのことを納得するには、まずアイデンティティを持ってみればいいわけです。それがどのような結果になるか、自分で見てみるしかありません。
2020年03月13日 17:58
たとえば、私の肌がやや黒いとします。事実は、肌が黒いです。

したがってアイデンティティは肌が今のところ黒いです。

自我は、白くなりたいとか、私は本来肉体ではないとかいって、黒井ことから逃げることです。
2020年03月13日 18:09


>大平さん
>
>たとえば、私の肌がやや黒いとします。事実は、肌が黒いです。
>
>したがってアイデンティティは肌が今のところ黒いです。
>
>自我は、白くなりたいとか、私は本来肉体ではないとかいって、黒井ことから逃げることです。
>
自我は、肉体にアイデンティティを持ちます。アイデンティティを持たないというのは、肉体にもアイデンティティを持ちません。
2020年03月13日 18:20
肌の色が黒いというのは事実であって、それからの逃避や偏見がなければ問題ないとおものですが。
2020年03月13日 18:35
たとえば、ちょっと下品な話ですいませんが、大人の製品を販売するTENGAの統計によると、男性のアレの平均サイズは13.5cmという統計が出ています。

しかし、これには男の見栄がかなり影響していて、実際の平均は12cm前後だろうといわれています。

私がいう事実を認めるというのは12cmだったら、12cmと認めることです。


美人とかイケメンとかもそうです。

鏡見て、自分がイケメン美女じゃないことを認める。

そして人生こんなもんさ。と笑う。
通行人
2020年03月13日 20:26
>美人とかイケメンとかもそうです。
>鏡見て、自分がイケメン美女じゃないことを認める。
>そして人生こんなもんさ。と笑う。

自嘲は負でしょ。
通行人
2020年03月13日 21:01
鏡に映ってるのは私自身である。

認識知能です。自我意識は勘違いです。
通行人
2020年03月13日 21:10
体を抓ると痛い。

私が痛いと勘違いする。^^

通行人
2020年03月13日 21:12
鏡を見て不細工だな。

私が不細工と勘違いします。^^
通行人
2020年03月13日 21:26
Aさんは不細工だ。

同じ認識です。知能です。
通行人
2020年03月13日 21:32
私、自我があると勘違いしてる。

地球人
2020年03月13日 21:38
愚さんの受け売りだな。笑
みゅう
2020年03月14日 07:03
Village beside a mountain stream さん

>〈私〉とはなんだろう。〈私〉が在るとはどういうことか。在るとはそもそもなんだろう。人間、コップ等が在るようには存在しない。〈私〉と人間はカテゴリーが違うようだ。何故なら、これが人間且つ〈私〉であるということが可能であるから。どれもこれもが人間ということはできないが、全てのものを〈私〉と言うことは論理的に可能である。この身体が〈私〉ならば、眼前のコップだって〈私〉であっても論理的になんの問題もない。等々等々等々。

 ↑ 私はこの視点が面白いと思い、割り込ませていただきました。

>無我を探求するに当たって、自我からのアプローチが本道だと思いますが、他我からのアプローチもまた適切でしょうか。そして、適切であれば、それはどのように考えられるべきでしょうか。

 他我を仮定しない自我、あると思いますか?
 
 逆は?

 フライデーや海賊(キリスト教の神様も)の登場しないロビンソン漂流記の無人島生活どうですか? 

 仲間と海賊のいないワンピースのルフィーってなんでしょう。

 逆はどうでしょうか。





2020年03月14日 09:21
私とはなんだろう?^_^

サウナの中で私の存在を証明してみるとするかな^_^

地球人
2020年03月14日 10:32
相対する自己がないと物を認識することができない。
2020年03月14日 10:55
うわぁああああああああああああー^_^

サウナの中で咳すんな^_^

ばかたれがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ^_^

コロナうつるだろ常識的に考えて^_^


うーん^_^

サウナの中で私の存在証明できたな^_^
地球人
2020年03月14日 10:58
相対する自己の視点がないとコロナウィルスが分からないだろう。w
地球人
2020年03月14日 11:02
常識的に考えて相対する自己がないとコロナウィルスに感染するわww
地球人
2020年03月14日 11:09
常識で考えて、鏡に映ってるのは私自身と分からないのであれば認知症だ。あさんよwww
2020年03月14日 11:15
うん?

何必死になってるの^_^

軽いタッチでいいんだよ^_^

つまりありのまま^_^
地球人
2020年03月14日 11:31
軽いタッチ?

わたしの言ったことが解ったのならいいけども、

禅者は解らない人が多い。w
通行人
2020年03月14日 11:40
コロナウィルスと一体になっては地球人は全滅するわ、^^
地球人
2020年03月14日 12:31
そのままの自己でよかった・・・であるから、禅では外道の悟りもあるなのだろう。
通行人
2020年03月14日 13:29
そら、 本来の自我が解放されるだけだからね。^^
地球人
2020年03月14日 14:44
禅宗の悟りは「衆生本来仏なり」だが、仏性も生まれてからの経験識です。

虐待されて育った子が親になると虐待する例が非常に多い。

本人も何故、虐待してしまうか?わからないようだ。

通行人
2020年03月14日 14:53
それ、 本人は虐待してる認識はなくて躾だと思ってる。
Village beside a mountain stream
2020年03月14日 23:35
みゅう さん

 みゅうさんこんにちは。どうも初めまして。視点が面白いと言っていただき、どうもありがとうございます。

 私は自我と他我の問題に悩まされていて(これはみゅうさんも同じだと思いますが)、色々と問題解決のために頭をひねっているのですが、五里霧中で困り果てています。特に死を考えるとどうしても自我と他我の問題になるので、この問題に取り憑かれているのですが、まだ解決には至っておりません。従って、上手く質問に答えることはできないのですが、とりあえずの私の思うところを書きます。(私は頻繁に〈私〉という記号を用いますが、これは自我と同義のものとしています。〈〉無しの私は文法的私です。)


>他我を仮定しない自我、あると思いますか?

 無いと考えています。自我は他我が在っての自我であり、他我は自我あっての他我であるというのが論理的であると思います。
 
勿論、独我論(solipsism)【実在するのはわが自我とその所産のみであって、他我や外界などすべてはわが自我の観念または意識内容にすぎないとする主観的認識論。(広辞苑第六版)】という立場も論理的にはあり得るし、それなりに一貫した論理を構築できるのではないかとは思いますが、私は独我論を肯定できません。 
何故なら、自我が存在することすら、今の私には肯定も否定もできないからです。独我論を支持する人は己の論の礎石となる「〈私〉は存在する」という命題をどのように証明するのでしょうか。多分、この命題は独我論を成り立たせるために無条件に肯定するしかない命題だと思います。この命題を真だとしてしまえば、独我論の壮大な論理的建造物が矛盾なく構築されるのではないか、と勝手に思っているのですが、私は納得できません。

「自我は存在するか」と考えるときは、「自我」、「存在する」という概念をはっきりさせねばならないと思うのですが、私は「存在する」という概念が厳密には何を意味しているのか分かっておりません。

私は「存在する」という語に躓いています。何気なく使っていれば、問題ありませんが、少し反省すると途端に訳が分からなくなります。西洋哲学に於いては、プラトン、アリストテレス、中世のスコラ神学者、デカルト、ジョン・ロック等の近世哲学者から現代のアメリカ分析哲学者まで、皆が「存在する」という概念を論じていますが、皆様々なことを言うので何が何だか分からなくて困っています。
 

長々と書きましたが、「存在する」という語が鍵ではないか、といこと以外は結局分かりません。




>フライデーや海賊(キリスト教の神様も)の登場しないロビンソン漂流記の無人島生活どうですか? 

もし、人間が母の胎から取り出されてすぐに、その赤ん坊以外人間が一人もいない無人島に置き去りにされて絶対孤独のロビンソン・クルーソーになった場合、その赤ん坊は一日も経ずに死んでしまうのではないかと考えます。この場合赤ん坊には自我はないだろうと考えます。

もし、ある程度大きくなって一人でも生きていけるギリギリの歳(幼児?)で無人島に絶対孤独の状態に置き去りにされた場合、その場合も数か月以内に死んでしまうと思うのですが、その場合は自我があるのではないか、と考えます。というのもそこまで大きくなる過程で言葉を覚えたでしょうから。その幼児の絶対孤独ロビンソン・クルーソーは〈私〉とい言葉を知っているはずです。従って、〈私〉という語の概念も知っているはずです。故に、その子には自我があると考えます。


人体実験になってしまうので、思考実験上の話ですが、
もし、母の胎から取り出された一人の赤ん坊が、自分以外の人間と一度も触れることもなく、赤ん坊の世話がすべて機械でなされ、世話をする機械以外全く無い部屋に置かれ、赤ん坊が言葉を一度も聞くことなく、普通の人が自我意識を持つ年齢まで育てられたとすると、その子供は自我を持たないのではないかと考えたことがあります。その子供は声を発するかもしれないが言葉は持たないのではないかとおもいます。「うー」とか「あー」という音声を言葉であるとするならば、言葉を持つと言えるでしょうが、一般にそのような場合は言葉を持っていないというのではないでしょうか。

人間は生まれながらにして、脳を含めた身体の認知的枠組みを生物的に持っているので、言葉が無くても自我意識を持つのだろうか、と考えたりもしますが、結局のところ分かりません。



>仲間と海賊のいないワンピースのルフィーってなんでしょう。

 この問いも大変な問題提起だと思います。それ故、私の手に負えそうにない問題です。実際手に負えません。併し、なんとか考えてみたいと思います。
フィクションを例にとると何だか大変なので、ワンピースの世界をこの世界の我々と同じように考えたいと思います。従って、ドナルド・トランプと同じようにルフィーを考えたいと思います。(ちなみに、私は、『ナルト』は全巻読んだのですが、『ワンピース』には通じていません。ネット情報を参考にしました。)

「ルフィー」という語は特定の人間に名付けられた固有名詞です。特定のこれと指差せる人間をモンキー・D・ルフィーと我々は呼びます。

ところで、ルフィーには様々なアイデンティティがあります。
つまり、ルフィーは様々な述語を持ちます。

ルフィーは (1)モンキー・D・ガープの孫である。
      (2)モンキー・D・ドラゴンの息子である。
      (3)ポートガス・D・エースの義弟である。
      (4)身長174㎝である。
      (5)ゴムゴムの実を食べた。
      (6)5月5日に生まれた。
      (7)麦わらの大船団の大頭である。
       ・
       ・
       ・
      (∞)
述語は厳密には無限個ではなく、限りなく多い個数だと思いますが、こうしておきます。
そこでルフィーはなぜルフィーなのか、と考えていくと、

 最初に考えられるのは、
(ⅰ)これらの述語を持つがゆえに。
ということになろうと思いますが、しかし、ルフィーが身長1m以下の時にもルフィーはルフィーでしたし、まだゴムゴムの実を食していないときにもルフィーはルフィーであったのですから、上の(4)、(5)等はルフィーにとって本質的なものではない、と考えられます。
 しかし、(1)、(2)、の述語は本質であると一般に思われます。
もし、ルフィーがモンキー・D・ドラゴンの息子ではなかったならば、我々の知るルフィーは存在しなかったでしょう。従って、モンキー・D・ドラゴンが存在しなかったならば、ルフィーは存在しなかったと言えそうです。
 一体アイデンティティはルフィーにとって何なのか、分からなくなってきました。


次に考えられるのは、
(ⅱ)我々が、これがルフィーだ!とすぐに認めることができる身体がルフィーがルフィーである理由である、というものでしょう。
 しかし、これもどうも怪しいです。
というのも、ルフィーが胎児のときには今のルフィーの姿をしていませんでしたし、ルフィーがよぼよぼの爺さんになって今のルフィーと全く異なった姿になってしまったら、それをルフィーと呼ぶにせよ、それはルフィーだ!、と全肯定できるでしょうか。
また、ルフィーが敵の技にかかり、仮にへんてこな魚の姿になってしまったとしましょう。その魚はルフィーなのでしょうか。ルフィーなのでしょうが、それをルフィーと呼ぶことに抵抗があります。

また、全くあのルフィーの姿の人物が、仲間もなく、海賊でもない場合も想定できます。漫画で考えれば、あのルフィーの絵がナルトと呼ばれ、ナルトの主人公として物語の中で活躍している、と考えることも可能です。
その場合、絵として、姿としてはルフィーなのに、ナルトと呼ばれ、忍びの世界におり、ゴムゴム実の能力者ではなく、忍術、仙術を用いて戦っており、日向ヒナタと結婚し、火影になっているでしょう。
この時、サンジ、ゾロ、チョッパー等の仲間を持たず、サスケ、サクラ、ネジ等を仲間に持つナルトと呼ばれるその人物は一体ルフィーなのか。
物体としてはルフィーのはずなのに、それをルフィーである、と断言することを躊躇させる何かがそこにあります。

とすれば、一体ルフィーをルフィーたらしめているのは何なのか。
最初の疑問に戻ってしまいます。



答えは、渡辺さんの仰るように、アイデンティティなど本質的に存在しないというものでしょうが、とりあえずこのように書いてみました。

長々と書きましたが、私も何が何だか、よくわかっていません。


最後に、もうすでにお読みになっていたら申し訳ないのですが、永井均さんの本と永井均さんを敬愛する鈴木康夫さんの『天女(アプサラ)たちの贈り物(マーヤー)』をみゅうさんにお薦めして文章を終わりにします。


書きたいことを書きたいだけ書いたら、とんでもなく長い文章になってしまいました。

皆さん、ご寛恕願います。

2020年03月15日 00:44
世界は有意味的な存在するものの集まりであると規定したが、
それらを私達が受容すれば、感覚的刺激であるということになり、
そしてそれらは他者と共有しているものであると私達は常識的に思っている。

ところが何らかの形で、他者との一体感が崩れると、他者と共有していたと
いう素朴な感覚が崩れて、それらの中心を為す「私」が出現する。
「私」のそのような出現は、私と他者との一体感が崩れたことを意味する。
他者との一体感の崩壊は、他者との間の何らかの競合関係が生じた時に生ずる。
例えば他者との間に意見の不一致が生じて、議論が為される場合、
他者との一体感が崩れて、それまで他者と共有していた素朴な世界の共有感は
崩壊して、それと共に「私」が現れる。
「私」は私の眼前に広がる世界のパースペクティヴの中心に位置して、
ことさらに「私」の世界を強調する。


「「私」のそのような出現は、私と他者との一体感が崩れたことを意味する。」

ふむふむ^^

ということは・・^^
2020年03月15日 00:58
私はあなた・・^^

他者との一体感

他者との一体感の崩壊

「私」が出現する

他者と共有していたという素朴な感覚が崩れて・・^^

すべては感覚^^
みゅう
2020年03月15日 08:01
Village beside a mountain stream さん

ご回答ありがとうございます

>視点が面白いと言っていただき、どうもありがとうございます。

 論理の力にも敬服させられます。おおいに学ばせていただきこちらこそありがとうございます。

 いきものは ”感覚” を束ねてそれらを ”性質” としてもつ ”もの” を
つくる。これら”ーー”がまた感覚として束ねられてそのいきものの”世界”がつくられてゆく、、、という解釈も、いきものである一個人としての私の世界の一部にすぎませんが。

>色々と問題解決のために頭をひねっている

 世界がそれぞれのいきもののつくるものならその世界どうしの摩擦が生じるのは当然であり、さらに、ひとつのいきものはそれ自体がいきものとみなされるパーツの組織であるという基本的な性質上、絶え間なく取り入れられる感覚からつくりつつある世界に問題は不可避。(私の世界では、、)

 この状況で頼れる道具の一つが発想と検証の地道な過程(私の世界では、、)”論理の力”

 >五里霧中で困り果てています

 わたしは言葉の海に溺れそうな感じです。がんばりましょう。


お願い。続きを書きたいのですが、時間がありません。できればコメント少しお手柔らかにお願いします。 

2020年03月15日 08:17
「他者と切りはなされた自己などは存在しないのであるから、
そのような意識は幻想に過ぎない」

縁起やな・・^^
2020年03月15日 09:01
私は幻想だと^_^

幻想がサウナ温泉瞑想に入る^_^

なんかコロナが気になる感がする^_^

幻想だから大丈夫や^_^

私は幻想ありのまま^_^
2020年03月15日 10:45
私はコロナに感染しない^_^

なぜなら^_^

不垢不浄 であるから^_^

2020年03月15日 10:56
私は^ ^

不生不滅 不垢不浄 不増不減

である^_^

うわっ^_^

空や^_^

2020年03月15日 11:06
私はいないけどここにいる感がする^_^
地球人
2020年03月15日 12:02
あさん、今日も元気だね、こんにちわ!^^
Village beside a mountain stream
2020年03月15日 12:23
みゅう さん

長く複雑な文章になってしまい申し訳ありませんでしたm(__)m
問題が難し過ぎて、長くならざるを得ませんでした。もう少しスッキリ要点を述べた文章を書きたかったのですが、力不足で書けません。ごめんなさい(・_・;


併し、みゅうさんの問題を禅定等の仕方ではなく言葉で探求するのであれば、どうしても哲学的になってしまうと思います。そして、哲学になれば、くどい文章は避けられません。哲学者は非常にくどい文章を書きますが、あれはわざとくどく書いているのではなく、どうしてもそうならざるを得ないのだと考えています。プラトンもジョン・ロックもヒュームもくどいったらくどいです。
私の書いた文章も本物の哲学者から見れば、論理の穴だらけな、意を尽くされていない非常に短い文章になってしまいます。


>いきものは ”感覚” を束ねてそれらを ”性質” としてもつ ”もの” を
つくる。これら”ーー”がまた感覚として束ねられてそのいきものの”世界”がつくられてゆく、、、という解釈も、いきものである一個人としての私の世界の一部にすぎませんが。

これはもう完全に哲学的疑問です。
もし哲学的に考えるのであれば、認識論(Epistemology)がその疑問を扱っています。感覚から徹底的に世界を考える英国経験論のデイヴィッド・ヒューム(David Hume,1711-1776)等がこういった疑問をこれでもかと論じています。
「世界は、例えるならば、一枚の絵のような不可分な全体としてあるはずなのに、どうして“もの”として我々に現れるのだろうか」。この疑問も古来から哲学で論じられてきました。プラトンもアリストテレスも現代の哲学者も論じています。こういった哲学者の本を参考程度に読むと勉強になります。

また、科学方面から考えるという手もあります。
科学でこの問題を主題として扱っているのは、認知心理学、神経科学、等であり、学問として日々ものすごい速度で進展していると思います。
これから先は言葉、概念を用いて考察する哲学よりも、これらの認知科学が人間の、生物の認識の謎を解き明かしていくのではないか、と個人的には思っているのですが、そうはいっても哲学もまだまだ活躍するはずです。というのも、哲学は今や認知科学の主要な柱の一つだからです(人によっては色んな意見がありますが…)。


>世界がそれぞれのいきもののつくるものならその世界どうしの摩擦が生じるのは当然であり、さらに、ひとつのいきものはそれ自体がいきものとみなされるパーツの組織であるという基本的な性質上、絶え間なく取り入れられる感覚からつくりつつある世界に問題は不可避。(私の世界では、、)世界がそれぞれのいきもののつくるものならその世界どうしの摩擦が生じるのは当然であり、さらに、ひとつのいきものはそれ自体がいきものとみなされるパーツの組織であるという基本的な性質上、絶え間なく取り入れられる感覚からつくりつつある世界に問題は不可避。(私の世界では、、)

宇宙スケールで考えるならば、生物の摩擦すら秩序でしょう。宇宙スケールでは全てが秩序なのではないかと考えています。

が、宇宙スケールで考えることをやめて、我々のスケールで考えてみるならば、
みゅうさんの仰る通り、生き物が認識の作用でそれぞれ“世界”を作るならば、対立、摩擦は不可避だと思います。これも難しい問題です。


>続きを書きたいのですが、時間がありません。

みゅうさんの好きなように続きを書いてください。


私の文章はややこしいですが、お許しください。

























地球人
2020年03月15日 14:02
>が、宇宙スケールで考えることをやめて、我々のスケールで考えてみるならば、
みゅうさんの仰る通り、生き物が認識の作用でそれぞれ“世界”を作るならば、対立、摩擦は不可避だと思います。これも難しい問題です。

大乗仏教では縁起の世俗社会で生きている人間は悟れないとの結論に至りました。
地球人
2020年03月15日 14:11
縁起の世界で個体が悪戦苦闘しない悟りはあるでしょう。
通行人
2020年03月15日 14:23
現代人の悟りは縁起に付き合わない個人主義だわ ^^
地球人
2020年03月15日 14:33
個人主義を実行するには自我の確立が不可欠だ。
地球人
2020年03月15日 14:58
仏教の東洋では「自我」が存在してなかった。大衆の「我」があっただけです。
地球人
2020年03月15日 15:12
正に日本人は大衆の「我」です。

未だに「自我」に目覚めていない。笑
地球人
2020年03月15日 15:25
自我が自立してないので不安の煩悩に陥り、無我、無、無、無・・と坐禅を組んでしまいます。笑
地球人
2020年03月15日 15:29
勘違いも甚だしい。笑
地球人
2020年03月15日 16:16
ですから・・・すべきことは自我に目覚め自我を確立して依存してる社会から自立することです。

さすれば、社会に対する諸々の不安、煩悩は滅するでしょう。


2020年03月15日 18:37
新型コロナウイルス^^

体は感染するが私は感染しない^^

これいかに^^
2020年03月15日 18:50
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減

「空、無が有と現れている・・・」

2020年03月15日 19:10
私とは・・^^


無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

であるからにして感染しない^^
2020年03月15日 19:15
私とは・・^^

無色

無受想行識

無眼耳鼻舌身意

無色声香味触法

無眼界

乃至無意識界 無無明亦 無無明尽

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

うん?

わたしはいない^^

2020年03月15日 19:17
私は空の相を持つ^^
地球人
2020年03月15日 19:45
あさんの悟りは迷いがないから自我が元気でいいね。^^
通行人
2020年03月15日 19:57
>わたしはいない^^

 お歳だから、認知症の悟りもあるかも ^^?
地球人
2020年03月15日 20:31
日本人の自我が認められたのは最近、戦後だからね。

自我が確立してないから、不安なのです。
通行人
2020年03月15日 20:39
自我が自立してない。

事が起きると、国、政府のせいにする。^^
地球人
2020年03月16日 00:40
自我の解釈が西洋と東洋では違うのだろう。

西洋では自己に囚われてると気づくのも自我です。
みゅう
2020年03月16日 07:55
Village beside a mountain stream さん

 ご指摘ありがとうございます。勉強になります。

>>他我を仮定しない自我、あると思いますか?

 >無いと考えています。自我は他我が在っての自我であり、他我は自我あっ
 >ての他我であるというのが論理的であると思います。

 他我と自我、互いに影響しあってともにその姿を刻々変えていくのはそのとおりだけれど、私の世界では基本的に他我から自我がつくられます。

 この体も含めてものしかない世界にかしこいいきものが現れるとその行動を予測するために感覚と結びついた他我が出現します。もっと賢いいきもの、他我の概念を使ういきもの、たとえばヒトが現れ、それと二人称で表現するような関係を持つときそのいきものの行動を予測しようとしてそのいきものにとっての他我からわたしの自我が出現します。その後、常設された他人のその目を通して感情をかきまわす自我が常駐するようになります。

 ずいぶんめんどくさいけれどここにそのめんどくささを閉じ込められれば
自我のまきちらす諸面倒の悪影響も幾分抑えられるのではないかと、、

 気が付くと、たらたら足踏みで進む自転車をかすめて爆走していったスポーツカーみたい、Village beside a mountain streamさんすっかり姿が見えません。

 また私のそばを走り抜けるのをお見かけしたら声をかけさせてください。
 
地球人
2020年03月16日 11:25
>>自我、自己同一性がある限り苦しみます。

>私はいない ^^

>いないないバー ^^


 あさんを見つけた。 この人だろ!^^

https://www.youtube.com/watch?v=dDbRkSEOajc

通行人
2020年03月16日 12:33
そうだね、 自我の自覚がないと無責任な行動するわ。
2020年03月16日 12:34
私は空である^_^

色形を持たない^_^

Village beside a mountain stream
2020年03月16日 20:32
みゅう さん

>他我と自我、互いに影響しあってともにその姿を刻々変えていくのはそのとおりだけれど、私の世界では基本的に他我から自我がつくられます。

他我から自我がつくられるのか、自我から他我がつくられるのか…。これもまた難しい問題です。他我から自我がつくられるとも言えるし、自我から他我がつくられるとも言えると思います。
認知心理学者が赤ん坊を研究することで自我と他我の形成プロセスを解明しようとしており、なんとも素晴らしい試みだと思っているのですが、研究者の間でも様々な意見があり、問題がなんとも難しいので、私は彼らの研究成果を飲み込めずにいます。が、分からないなりに次のように考えます。

・赤ん坊にあるのが感覚だけであって自我は生まれてしばらくの間は無かったと仮定するならば、自我の形成は他我からではないか?
・つまり、赤ん坊の脳の認知的枠組みは、成長する中で母親等の他者に「自我」を認め、「私」という言葉の用い方を学習し、その視点(みゅうさんの言う“他人の目”)から赤ん坊自身の身体に「自我」を適用するのではないか?(ここで言語が非常に重要な、根本的な役割を果たすのではないか?)
・よって、最初にあったのは他者に在るとされた「自我」ではないか?
・とするならば、自我と他我の誕生は全く同時なのではないか?
 
・自分の自我←自我→他者の自我

・〈私〉←「私」(言葉としての私)→〈あなた〉


また、次のようにも考えます。

 よく渡辺さんが「思考は存在しない思考者を立ててしまう。何故なら思考は思考をみることができるから。」と仰っていますが、これは重要な指摘だと思っています。
 「鉛筆」、「自転車」、「猫」、等は指さすことができます。従って「これ(もの)は鉛筆である。」と言うことができます。
がしかし、自我すなわち〈私〉は指さすことができないと思います。何故なら指さそうと思っている〈私〉とは思考者に他ならないと考えられるからです。もし指さす(対象としてとらえる)ことができる何かがあるとすれ「私」という言葉のみではないかと考えているのですが、まだはっきりしたことは分かりません。

家に一匹の猫が居るのですが、その猫は自我を持つだろうか、とよく考えます。そして、猫は自我を持たないだろうと考えます。おそらく、感覚だけがあるのでしょう。お腹がすいたらニャーと言い、眠くなったら眠り、気に入らないことがあったらトイレ以外の場所で用を足します。これらの行動を猫は自我なしにやっているのだろうか?おそらく自我なしにやっています。
翻って、我々人間を対象とすると、果たして猫とどこが違うのだろうと考えてみますと、ある人は「猫には自我がない。猫のような動物には本能のみで動いているのであって、自我を唯一もつ人間とは非常なる懸隔がある。」とはっきり言います。

一見もっともらしい意見ですが、私は疑問を持っています。
猫が自我なしに本能のみで動いているならば、我々人間もまた自我なしに本能のみで動いていると言うべきではないでしょうか。猫等の動物と人間の最大の違いは複雑な文法体系を持つ言語を有しているかどうかではないでしょうか。この言語が人間と人間以外の動物に絶対的な本質的な差を設ける理由になるとはどうも思われません。猫が本能でニャーと餌をねだり鳴くのであれば、我々も本能で「美味しいものでも食べたいな~。」と言っているのではないでしょうか。

猫にも人間にも在るのはただ、感覚なのかもしれません。渡辺さんは言語による思考ですら感覚であると仰っていました。この言葉は自分にとっては衝撃的でした。

私、みゅうさんを含めた人間も、猫も、蟻も、風に揺られる大木も、路傍の石ころも、天体の運行もよく分からないが、刻刻と動いているというのが本当の所なのだろう、と考えています。
併し、我々ヒトは言語を有するがゆえに、ヒト、チンパンジー、ゴリラ、猫、犬、等々の生き物に身体の主人を考えてしまいます。〈私〉がこのキーボードを打っている身体を動かしているような気がしますし、目の前を横切った女性にはその女性を動かしている主体の他我を見てしまいます。しかし、真実はただすべてが刻々と運動しているというものでしょう(それも時間無しに。渡辺さん曰く。)。
 みゅうさんの仰るようにヒトは行動を予測するために、詰まる所生物として生き残っていくために、自動的に便宜上他我を立てているのだと思います。

併し、こういった考えは世間一般的な考えではないので、困っています。



>この体も含めてものしかない世界にかしこいいきものが現れるとその行動を予測するために感覚と結びついた他我が出現します。もっと賢いいきもの、他我の概念を使ういきもの、たとえばヒトが現れ、それと二人称で表現するような関係を持つときそのいきものの行動を予測しようとしてそのいきものにとっての他我からわたしの自我が出現します。その後、常設された他人のその目を通して感情をかきまわす自我が常駐するようになります。

やはり、自我と他我はともに出自が「私」という言葉なのでないかという感じがします。まだはっきり分かりませんが。もしそうであれば、この私Villageが〈私〉でもよいですし、みゅうさんが〈私〉でも問題はないということになります。
思うに、全ての人が最もプライベートなものだと思っている〈私〉に「私」という同一の語を用いるのですから、やはり、自我と他我は切っても切れない関係がありそうです。
それ故、自我が落ちれば、他我も落ちるのだろうと考えているのですが。


>気が付くと、たらたら足踏みで進む自転車をかすめて爆走していったスポーツカーみたい、Village beside a mountain streamさんすっかり姿が見えません。

 >また私のそばを走り抜けるのをお見かけしたら声をかけさせてください。


今回も文章が大変長くなりました
一方的に書いてばかりの傍若無人なる態度で申し訳ございません(._.)

私も自転車をこいでいるつもりなのですが、速くペダルをこぎすぎているのでしょう。そんなに速くこぐ必要はないと分かってはいるのですが…………。足が勝手に動いています。
自分でいうのもなんですが、私は少し変人なのだと思います。自覚があるからまだまだ大丈夫でしょうが…。内から出でくる考えが自分を圧倒し、飲み込んでしまうのです。それに圧倒され、気付いたらこのように独走していることが多々あります。
一方的に突っ走る。褒められた態度ではありません。ご海容下さいm(__)m



また気軽にお声掛け下さい。このようなことに悩む自分と同じような人とは滅多に出会えないので、ここにも考えている人がいる!とただただ嬉しいのです。朋有りインターネット上にて言葉を交わす亦た楽しからずや、といったような心境です。
渡辺さんが動画で「個々別々の個人の考えがバラバラにあるのではなく、本当は一つの宇宙の思考が在るだけだ。宇宙が話して、宇宙が聞いている。」と仰っていたの聞いて感動し、自分の考えていることは自分のものではなく、本来nobodyの思考だから、一人でノートにあれこれ書いているだけではもったいないと思い、これまで考えたことも合わせて書きました。

是非遠慮せずにまた声をかけて下さい(^^)/
みゅう
2020年03月18日 07:21
Village beside a mountain stream さん

>赤ん坊にあるのが感覚だけであって自我は生まれてしばらくの間は無かったと仮定するならば、自我の形成は他我からではないか?

 もののつくられた順序はできあがったものの構造の階層そのものではなくともそれを理解するのに欠かせない解析対象だと思います。

>家に一匹の猫が居るのですが、その猫は自我を持つだろうか、とよく考えます。そして、猫は自我を持たないだろうと考えます。おそらく、感覚だけがあるのでしょう。お腹がすいたらニャーと言い、眠くなったら眠り、気に入らないことがあったらトイレ以外の場所で用を足します。これらの行動を猫は自我なしにやっているのだろうか?おそらく自我なしにやっています。

 私の世界ではニャーと言うのがものとしてのその猫で、お腹がすいてニャーと言うのがその猫の自我、Village beside a mountain stream さんの記法をお借りして<その猫>になります。お腹がすく感じはもともと私のところ(もう少し正確に言うと”ここ”)にあったものですが、この過程で<私>はありません。<その猫>があるためにものとしての私の独自性も永続性も仮定していません。ものとしての私さえも必要ありません。

 >他我から自我がつくられるとも言えるし、自我から他我がつくられるとも言えると思います。

 苦悩は自我の現象です。自我がひどく人工的なものであるという見方は苦悩と対峙するときに少しは力になるかと思います。

 





Village beside a mountain stream
2020年03月18日 22:21
みゅう さん

またしても、私Villageが普段ノート等で考えていることを基に文章を書き綴ります。


>もののつくられた順序はできあがったものの構造の階層そのものではなくともそれを理解するのに欠かせない解析対象だと思います。

 
「もの」概念は本質概念(e.g. 人間、猫、車、本、石、月、太陽、等の哲学で言う第二実体。わざわざこんな術語を持ち出す必要はないかもしれませんが、正確を期すために書きます。)と密接な関係があると今のところ考えています。(「もの」概念と本質概念は相補う概念。一方なくして他方は無いという関係。)
ところで、哲学的、プラトン的に考えるのをやめて、プラグマティックに考えるならば、その本質概念は人間の認知のために作られた単なる言葉であり、「もの」も人間が世界で生きていくために便宜上用いている単なる言葉でしかなくなります。(「もの」とは外に確固としてそれ自体で存在する物体というより、概念ではないでしょうか。従って、言語体系無しに「もの」は無い、と今のところ考えています。物体もやはり「もの」です。)

とすれば「もの」の構造の階層そのものはどうなるのか。
「もの」の構造の階層そのものとは、宇宙(世界、存在一切)に在ると想定される我々人間では計り知れない秩序(秩序≣構造の階層)(宇宙が秩序にあるのかどうかすら疑問といえば疑問ですが。何故なら秩序とは極めて人間的な概念かもしれませんから。)から、人間が生きていくために言語を用いて抽象した根本的に人間的な言語的な体系ではないでしょうか。
従って、向こう側に在ると考えている「もの」の構造の階層とは、実は、人間が便宜上作り出したものであって、言語体系の中にあり、
本当の所は、宇宙の秩序それ自体は在るとしても、それは原理上知りえない、と考えてみたりするのですが、どうでしょうか。

つまり、「もの」の秩序は知ることができるが、それは人間が言語(数学を含む)を用いて生み出したものであるからである。ある言語の秩序(秩序≣構造の階層)、ある数学体系の秩序が我々に知られ得るように、「もの」の秩序は根本的に言語的であるが故に知られ得るが、世界それ自体の秩序は知りえない、と考えるのです。
(私はプラトン等のイデア論的言語観よりも、経験論的なプラグマティックな言語観が好きなのですが、禅の達人からすれば「ごちゃごちゃうるせぇ!どっちもどっちだ。真理から外れているという観点からすれば、どんぐりの背比べだ!馬鹿もんが!」ということなのでしょう。思うに、私は言語の役割を重要視しすぎているかもしれません。)


> 私の世界ではニャーと言うのがものとしてのその猫で、お腹がすいてニャーと言うのがその猫の自我、Village beside a mountain stream さんの記法をお借りして<その猫>になります。お腹がすく感じはもともと私のところ(もう少し正確に言うと”ここ”)にあったものですが、この過程で<私>はありません。<その猫>があるためにものとしての私の独自性も永続性も仮定していません。ものとしての私さえも必要ありません。


この問題提起も大変難しい問題提起に私には思われます。みゅうさんは気質が哲学者なのでしょう(哲学病とも世に言いますが…)。すでにご存じで、お読みになったかもしれませんが、哲学者ウィトゲンシュタインがみゅうさんの問いと同種の問いを死ぬまで問い続けたものと私は哲学の素人ながら考えています。
もし、まだお読みになっていないのでしたら、彼の著作を読むことをお薦めします。私では手に負えない問題ですから…。(もうお読みになっていましたら、ごめんなさい。)


それでも、私Villageの考えることを少し述べるならば、次のようになります。

(ⅰ)「猫がニャーと鳴く。」
(ⅱ)「お腹をすかせた猫がニャーと鳴く。」

この一見同じような二つの文にみゅうさんは違いをみておられる、という理解でよろしいでしょうか。
(ⅰ)の猫はものとしての猫であり、
(ⅱ)の猫はお腹をすかせる主体としての〈猫〉であると。

つまり、(ⅱ)の猫は、感覚主体、行動主体の自我としての〈猫〉であると。

確かに、痛みという感じ、心地よさという感じ、お腹がすいているという感じ、等は“ここ”にしかないように思います。つまり、他者の痛み等は全く感じることができません。(私も‟ここ”という表現を用いますが、ちょっとひかかっています。というのも、幻影肢【失った腕や脚がまだ存在するかのように、痛み・かゆみや運動感覚を感ずる現象。幻肢。】という現象もあるからです。人差し指の痛みは人差し指に在るような気がしますが、本当のところどうなんだろうか、痛み等の感覚は場所を占めないのだろうか、と考えます。みゅうさんは、強いて言うならば“ここ”という表現になる、と仰っているように文面からは理解できます。それ故、私もその表現に倣います。)

 猫でなく人間で考えると、

 (Ⅰ)「この男性が痛いと言う。」
 (Ⅱ)「痛みを感じているこの男性が痛いと言う。」

 自分が知る痛みは常に“ここ”に在る痛みなのだから、眼前のこの男性が痛いと言っているのは観察できるが、〈この男性〉が痛みを感じているとどうして言えようか、という疑問は勿論、あります。そこに、我々は他我を一般的に認めます。しかし、確実なのは“ここ”に在る全ての感じと、知覚で把握されるあらゆるものの動きでだけではないか、と…。

 う~ん。難しいです⤵。
 
 私の勉強不足且つ思考不足です。これ以上は今のところ分かりません。

 みゅうさんの問題提起はよく分かるつもりなのですが…。


 >苦悩は自我の現象です。自我がひどく人工的なものであるという見方は苦悩と対峙するときに少しは力になるかと思います。

 
 仰る通りだと思います。自我が人工的であれば、苦悩も人工的であると言えるでしょうから(私はそう言い切る境地にはいませんが。今のところ、やはり苦悩は向こうに在る気がしてなりません。)。
 私は最大の謎、というより最大の苦悩の生/死の正体を知りたいがためにこのように自我と他我をあれこれと考察しているのですが、なかなか難しいです。
 私が死ぬとはこの身体に在ると思われてならない〈私〉、〈自我〉(人によっては魂だったり、意識だったり)が無くなってしまうことであり、それ故、自我が本来存在しないならば、生まれてもないし、死にもしない、とは分かるのですが。
 
 上手く内容がまとまっておらず、お役に立てていないのではないかと思っていますが、あれこれ書いてみました。
  
みゅう
2020年03月19日 07:23
Village beside a mountain stream さん

丁寧なご指摘ありがとうございます。


>>もののつくられた順序はできあがったものの構造の階層そのものではな くともそれを理解するのに欠かせない解析対象だと思います。
、、、、(失礼して)、、、
 「もの」の秩序は根本的に言語的であるが故に知られ得るが、世界それ自体の秩序は知りえない、と考えるのです。

 そういう組み立て方があってももよいと思いますが、、、

>(私はプラトン等のイデア論的言語観よりも、経験論的なプラグマティックな言語観が好きなのですが、禅の達人からすれば「ごちゃごちゃうるせぇ!どっちもどっちだ。真理から外れているという観点からすれば、どんぐりの背比べだ!馬鹿もんが!」ということなのでしょう。思うに、私は言語の役割を重要視しすぎているかもしれません。)

 身の安全を重視する私は禅の達人の前で ”真理から外れているという観点からすればすればどっちもどっち” なことを言うときには老師の手が届かないところから、つばきのかからないよう距離を保って「ごちゃごちゃ」言うように心がけています。

 
>> 私の世界ではニャーと言うのがものとしてのその猫で、お腹がすいてニャーと言うのがその猫の自我、Village beside a mountain stream さんの
    、、、
つまり、(ⅱ)の猫は、感覚主体、行動主体の自我としての〈猫〉であると。


 多分、その通りです。ありがとうございます。


>確かに、痛みという感じ、心地よさという感じ、お腹がすいているという感じ、等は“ここ”にしかないように思います。つまり、他者の痛み等は全く感じることができません。(私も‟ここ”という表現を用いますが、ちょっとひかかっています。というのも、幻影肢【失った腕や脚がまだ存在するかのように、痛み・かゆみや運動感覚を感ずる現象。幻肢。】という現象もあるからです。人差し指の痛みは人差し指に在るような気がしますが、本当のところどうなんだろうか、痛み等の感覚は場所を占めないのだろうか、と考えます。みゅうさんは、強いて言うならば“ここ”という表現になる、と仰っているように文面からは理解できます。それ故、私もその表現に倣います。)

 そんなふうに考える人を発見してとてもうれしく思いました。私の場合、五感を突き詰めてゆくと場所を伴った痛みみたいな感覚に行きつきます。痛みのない場所は感じられるに場所のない痛みは認識できません。この場所の感覚は座標のない、原点も決まってない、広さもはっきりしない空間。でも、少なくとも”ここ”はある。  どうでしょうか。

  私の人差し指の痛みが人差し指に在るようにものたちを配置したのが私の世界です。

 哲学病!たまに治るかもしれないけれど、、直る気配なし、、かな

Village beside a mountain stream
2020年03月20日 22:48
みゅう さん


 >身の安全を重視する私は禅の達人の前で ”真理から外れているという観点からすればすればどっちもどっち” なことを言うときには老師の手が届かないところから、つばきのかからないよう距離を保って「ごちゃごちゃ」言うように心がけています。


 正しい態度かどうか分かりませんが、私もごちゃごちゃ言うようにしたいと思っております。やはり、疑問は疑問であり、妄信、盲信はよくないと思いますから。


 >そんなふうに考える人を発見してとてもうれしく思いました。私の場合、五感を突き詰めてゆくと場所を伴った痛みみたいな感覚に行きつきます。痛みのない場所は感じられるに場所のない痛みは認識できません。この場所の感覚は座標のない、原点も決まってない、広さもはっきりしない空間。でも、少なくとも”ここ”はある。  どうでしょうか。


 私もそのように思います。“ここ”としか言いようのない所とでも言うべきか…。やっぱり、難しいです。自分の痛みは“ここ”にあるのに、他者の痛みは“ここ”にはない。
例えば、目の前の女性が料理の最中に人差し指を切ってしまい「痛い」と言ったとき、その女性からしての“ここ”が痛んでいると想像はできますが、その女性の人差し指の痛みを私が“ここ”に感じることはできません。
他人の痛みをすべて感じていたらとんでもない苦痛ですが、幸い“ここ”の痛みしか感じることができません。
しかし、これは幸いと呼ぶべきか。というのも、他者あるいは世界と物凄い断絶があるように感じさせるからです。
孤独というか、一人っきりというか、なんというか、そんな感じに襲われることがあります。


>私の人差し指の痛みが人差し指に在るようにものたちを配置したのが私の世界です。


ここが難しいです。渡辺さんが動画で「我々は個々別々の世界が在るように思っているが、本当は世界は一つで、私だけの世界など無い」というようなことを仰っていたような気がするのですが(私の理解は正確ではないかもしれません)、これをどう考えればよいか。
みゅうさんには次のような感じはありませんか?
世界それ自体は知られ得ないが、私の身体と言われるこの身体が世界を知覚することで、世界それ自体から“私の世界”を表象として作り上げている。それ故、今まさに、知覚されている全ては“私の世界”であり、他者と世界を共有することは根本的に、原理的にできない。何故なら、世界は各々各自に“私の世界”として表れているのだから。今読んでいるこのVillageの文章も“私の世界”の産物である。というような感じが。

上のような考えは色々な問題点があるのですが、私もうまく問題点を上手く理解しきれていないので、上のような考えは問題があるのではないか、とだけ言うに留めます。

みゅうさんが上のような世界把握をしてらっしゃるかは知りませんが、私は上のような考え方に取り憑かれ、「世界はもしかしたら根本的に“私の世界”ではないか、そうだとしたら世界それ自体などいらない。“私の世界”だけで十分だ。しかし、“あなたの世界”が無い“私の世界”は奇妙ではないか。“私の世界”は(ⅰ)世界それ自体、(ⅱ)世界を知覚する〈私〉、(ⅲ)世界を知覚する〈私〉以外の〈爾〉が必要ではなかったか、とすれば、“私の世界”とはなんだろう。云々かんぬん……。」と考え、少し病的になったことがあります。


>哲学病!たまに治るかもしれないけれど、、直る気配なし、、かな


すみません病気扱いして…。哲学書とかではそのように言われることがあるのですが、気にすることではないでしょう。
 みゅうさんや私のようなに色々と考える人は変わっているかもしれませんが、決して病気ではありません。「哲学病」とは哲学者の諧謔です。私は哲学者では全くないのですが、諧謔を弄してみました。
 所謂「見性」をすると、治るのか、治らないのか。まあ、どっちもでもよいのでしょう。治らなくても全然よいと思います。私も治りそうにありません。