幸福とはなにか? 刻々の死 ライブやります

ライブやります

今日20日の19時から・・・・
https://youtu.be/HcNVX3sP0M0

幸せとはどういうことなのか? そのようなものはあるのか? 死との関係は?
そういったことについて話し合いたいと思います。

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この記事へのコメント

宮啓
2020年03月20日 09:07
 以下のことがらと関係あるような気がするのですが・・。よろしければ、とりあげてもらえれば幸いです。


『自我の終焉』、最後の4行+1行より引用。

K:問題を解決するためには、個別的なものから一般的なものへと移行する必要があるのです。一般的なものから、ますます奥深くまで入っていけば、そこには、多分、慈悲心、愛そして英知と呼ばれている純粋なものがあるのです。しかし、奥深くまで入るためには、あなたの精神、心、そして全存在を、この探求に捧げなければならないのです。

私たちはこれまで長い間話し合い、そして今、どこかに到達したのではないかと思います。 (引用終わり)


 私は、個別的なものから一般的なものへの移行すら、ままならないのですが・・。

 一般的なものへ移行した後、その先についても、愚さんの体験等をしりたいです。。

 よろしければ、お願いします。。
2020年03月20日 12:01


>宮啓さん
>
> 以下のことがらと関係あるような気がするのですが・・。よろしければ、とりあげてもらえれば幸いです。
>
>
>『自我の終焉』、最後の4行+1行より引用。
>
>K:問題を解決するためには、個別的なものから一般的なものへと移行する必要があるのです。一般的なものから、ますます奥深くまで入っていけば、そこには、多分、慈悲心、愛そして英知と呼ばれている純粋なものがあるのです。しかし、奥深くまで入るためには、あなたの精神、心、そして全存在を、この探求に捧げなければならないのです。
>
>私たちはこれまで長い間話し合い、そして今、どこかに到達したのではないかと思います。 (引用終わり)
>
>
> 私は、個別的なものから一般的なものへの移行すら、ままならないのですが・・。
>
> 一般的なものへ移行した後、その先についても、愚さんの体験等をしりたいです。。
>
> よろしければ、お願いします。。

ありがとうございます。了解です。
自我の終焉、どこかへ行ってしまって、持ってないのですが、趣旨はわかります。
宮啓
2020年03月20日 21:58
 自我があるとどれだけ苦痛があるか?

 これを肌で理解することが大事であると愚さんは述べています。

 しかし、自己逃避を要領よく行っている自我は、娯楽にも恵まれ、生計(仕事)も悪くはない生活で、自我とうまく付き合っているようです。

 どのようにすれば、自我が苦痛であることを肌で知ることができるのでしょうか。。
Village beside a mountain stream
2020年03月20日 22:56
愚 さん (『自我への執着』のところに書き込むべきなのかもしれませんがここに書き込みます)

>簡単な原理です。わたしはわたしを知ることはできません。目が目をみれないのと同じです。ですから、わたしが未知のものです。
しかし、知ることはできなくても、未知のもので「ある」こと、はできます。

このときには、刻々の体験だけがあります。このとき、脳にはなんのストレスもありません。そこに至福があります。

これは獲得すべきものではありません。精神が自らに仕掛けたトリックを見破ったときに訪れる静けさがあるとき、自ずから存在しているものです。

早い話が、自我の虚構を見破ったときに、訪れる幸福です。刻々の幸福です。


本日のライブも大変勉強になりました。ありがとうございました。

私は、頭では、言葉では色々分かっているつもりになっていますが、根本的に、身体的に、徹底的に分かっていないので、結局言葉も分かっていないということになっています。

詰まる所、私は本気になっていないのです。これがすべてだと思いました。


今、即今、実際我々は刻々死んでいるのだから、何かになろうとするのでもなく、何かを手に入れようとするのでもなく、即今の死に気づいて刻々死んで刻々生きれば、それがすなわち幸福だ、そもそも自殺などする必要がない、という言葉にどれほどの救いがあることでしょう。少なくとも私は救われております。渡辺さんには人を救ってやろうという心は全くないのでしょうが、それがまた素晴らしいと思います。よくわからないのですが、慈悲とは本来そういったものではないでしょうか。いや、違うのかもしれませんが…。渡辺さんがライブをしたいからして、我々が参加したいから参加する。私は勝手に救われているだけなので、これからも気軽な軽いタッチで講義をお願いします。
生まれるのも一人、歩くのも一人、死ぬのも一人、お釈迦様だけでなく私Villageも天上天下唯我独尊なのだと、傲慢かもしれないと思いつつも、考えた次第です。
cheaptrick
2020年03月20日 23:10
物種吉兵衛(ものだねきちべえ)(大阪府堺の農家の生まれ,1803~1880)

奥さんが中風になって、二百日のあいだ、寝床に床していた。その間、吉兵衛は少しのあいだも離れずに介抱した。仲間が見舞いにいって「長々の病人で、さだめてお疲れでしょう」と声をかけると、「ワシは疲れということを知らぬのや、このムツキ(おしめ)いっぺんいっぺん、しはじめのしおさめや。もういっぺん、しなおしということはないのや」と言われた。

「前後際断」という言葉も知らない真宗人が、阿弥陀様への全託で、禅僧と同じ心境になるというのが面白いです。
2020年03月20日 23:17


>宮啓さん
>
> 自我があるとどれだけ苦痛があるか?
>
> これを肌で理解することが大事であると愚さんは述べています。
>
> しかし、自己逃避を要領よく行っている自我は、娯楽にも恵まれ、生計(仕事)も悪くはない生活で、自我とうまく付き合っているようです。
>
> どのようにすれば、自我が苦痛であることを肌で知ることができるのでしょうか。。

他人から悪口や陰口をいわれるとき、嫉妬するとき、腹立ち、不運を嘆くとき、未来への不安、心配、過去の悔恨、生きるのがつらくなるとき、死への恐怖・・・・そういったことですか・・・

問題は、それらの根源が自我にあると直感できないわけですね・・・・これは困りましたね・・・・確かに、直感しずらいですね・・・・・考えてみます
2020年03月20日 23:22


>Village beside a mountain streamさん
>
>愚 さん (『自我への執着』のところに書き込むべきなのかもしれませんがここに書き込みます)
>
>>簡単な原理です。わたしはわたしを知ることはできません。目が目をみれないのと同じです。ですから、わたしが未知のものです。
>しかし、知ることはできなくても、未知のもので「ある」こと、はできます。
>
>このときには、刻々の体験だけがあります。このとき、脳にはなんのストレスもありません。そこに至福があります。
>
>これは獲得すべきものではありません。精神が自らに仕掛けたトリックを見破ったときに訪れる静けさがあるとき、自ずから存在しているものです。
>
>早い話が、自我の虚構を見破ったときに、訪れる幸福です。刻々の幸福です。
>
>
>本日のライブも大変勉強になりました。ありがとうございました。
>
>私は、頭では、言葉では色々分かっているつもりになっていますが、根本的に、身体的に、徹底的に分かっていないので、結局言葉も分かっていないということになっています。
>
>詰まる所、私は本気になっていないのです。これがすべてだと思いました。
>
>
>今、即今、実際我々は刻々死んでいるのだから、何かになろうとするのでもなく、何かを手に入れようとするのでもなく、即今の死に気づいて刻々死んで刻々生きれば、それがすなわち幸福だ、そもそも自殺などする必要がない、という言葉にどれほどの救いがあることでしょう。少なくとも私は救われております。渡辺さんには人を救ってやろうという心は全くないのでしょうが、それがまた素晴らしいと思います。よくわからないのですが、慈悲とは本来そういったものではないでしょうか。いや、違うのかもしれませんが…。渡辺さんがライブをしたいからして、我々が参加したいから参加する。私は勝手に救われているだけなので、これからも気軽な軽いタッチで講義をお願いします。
>生まれるのも一人、歩くのも一人、死ぬのも一人、お釈迦様だけでなく私Villageも天上天下唯我独尊なのだと、傲慢かもしれないと思いつつも、考えた次第です。
>

その通りです。自分の孤独を見ること、それが別の次元のドアを開くんです。
2020年03月20日 23:25


>cheaptrickさん
>
>物種吉兵衛(ものだねきちべえ)(大阪府堺の農家の生まれ,1803~1880)
>
>奥さんが中風になって、二百日のあいだ、寝床に床していた。その間、吉兵衛は少しのあいだも離れずに介抱した。仲間が見舞いにいって「長々の病人で、さだめてお疲れでしょう」と声をかけると、「ワシは疲れということを知らぬのや、このムツキ(おしめ)いっぺんいっぺん、しはじめのしおさめや。もういっぺん、しなおしということはないのや」と言われた。
>
>「前後際断」という言葉も知らない真宗人が、阿弥陀様への全託で、禅僧と同じ心境になるというのが面白いです。

なるほど・・・・
2020年03月20日 23:26
スッタニパータ

762

他の人々が「安楽」であると称するものを、
諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。

他の人々が「苦しみ」であると称するものを、
諸々の聖者は「安楽」であると知る。

解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。


本当かな^^?
2020年03月20日 23:35


>あさん
>
>スッタニパータ
>
>762
>
>他の人々が「安楽」であると称するものを、
>諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
>
>他の人々が「苦しみ」であると称するものを、
>諸々の聖者は「安楽」であると知る。
>
>解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
>
>
>本当かな^^?

例えば、こうはいえますね・・・・

他の人々が、成功は「安楽」であると称するが、聖者は、「苦しみ」であるという

他の人々が、死は「苦しみ」であると称するが、聖者は「安楽」であると知る
2020年03月20日 23:41
ふむふむ^^

なるへそ~~^^
snow
2020年03月21日 09:07
> しかし、自己逃避を要領よく行っている自我は、娯楽にも恵まれ、生計(仕事)も悪くはない生活で、自我とうまく付き合っているようです。
>
> どのようにすれば、自我が苦痛であることを肌で知ることができるのでしょうか。。

他人から悪口や陰口をいわれるとき、嫉妬するとき、腹立ち、不運を嘆くとき、未来への不安、心配、過去の悔恨、生きるのがつらくなるとき、死への恐怖・・・・そういったことですか・・・

問題は、それらの根源が自我にあると直感できないわけですね・・・・これは困りましたね・・・・確かに、直感しずらいですね・・・・・考えてみます

・・・・・・・

拝見して感じたことを書かせてください。

何ら問題もなく生活がうまく回っていることに対しての退屈さ、物足りなさをもし感じられているとしたなら、その物足りなさを感じるというのが自我の苦痛さと言えるのかな、と。

そうではなく。もやもやとしたものであっても、不安、怒りなどを感じる時があるなら、その瞬間に「気づいている」ようにすればいいのではないでしょうか。
無意識で生活しているのではなく、いつも気づいているようにしていれば、不安、怒り、落胆といった感情、それがどんなにささいなものであっても、浮かんでくることに気づくはずです。
マイヤーマイヤー
2020年03月21日 09:39
余裕が有れば質問コーナーや一人語りでダラダラ気楽な放送なも
お願いしますm(__)m
cheaptrick
2020年03月21日 14:09
今どきの禅僧たちの言葉はハッキリ言って信用できません。彼らは「前後際断」という言葉を、それこそ耳にタコができるほど聞いているし、言葉によってその意味を学んでいます。ですから、彼らがその言葉を発したからと言って実行できているかは疑問です。

人に聞かれればそれなりの事を言うでしょう。しかし中身はどうでしょうか? ただ「やってるつもり」だけなのかも知れません。

妙好人の場合はそうではありません。彼らの言行録の中には、禅はおろか、真宗の教義すら、まったくと言っていいほど出てこないんです。

つまり吉兵衛の「前後際断」は、単なる知識としての「前後際断」ではなく、彼の存在の真ん中から出た100%ピュアでオリジナルな「前後際断」です。だから信用できるんです。

私たちも渡辺さんから、そういう「源泉かけ流し」の言葉を聞きたいわけです。



ところで、マハルシの『対話』の中に「呼吸と心は同じところから出てくる」という意味の文章があります。私は坐禅もヨーガの呼吸法も修練したことがないので、このあたりのことが実感としてよく分かりません。

坐禅のベテランである渡辺さんの「感覚」としてはどうでしょうか?
2020年03月21日 14:31


>cheaptrickさん
>
>今どきの禅僧たちの言葉はハッキリ言って信用できません。彼らは「前後際断」という言葉を、それこそ耳にタコができるほど聞いているし、言葉によってその意味を学んでいます。ですから、彼らがその言葉を発したからと言って実行できているかは疑問です。
>
>人に聞かれればそれなりの事を言うでしょう。しかし中身はどうでしょうか? ただ「やってるつもり」だけなのかも知れません。
>
>妙好人の場合はそうではありません。彼らの言行録の中には、禅はおろか、真宗の教義すら、まったくと言っていいほど出てこないんです。
>
>つまり吉兵衛の「前後際断」は、単なる知識としての「前後際断」ではなく、彼の存在の真ん中から出た100%ピュアでオリジナルな「前後際断」です。だから信用できるんです。
>
>私たちも渡辺さんから、そういう「源泉かけ流し」の言葉を聞きたいわけです。
>
>
>
>ところで、マハルシの『対話』の中に「呼吸と心は同じところから出てくる」という意味の文章があります。私は坐禅もヨーガの呼吸法も修練したことがないので、このあたりのことが実感としてよく分かりません。
>
>坐禅のベテランである渡辺さんの「感覚」としてはどうでしょうか?

坐禅に、ベテランも初心者もありません・・・・・これは本当なんです・・・・

ですから、ご自分で、まず呼吸の始まる感じ、思考の始まるところを、調べてみたらいいです。

それと、吐く息の時と、吸う息の時の、感じの違いとか・・・・
2020年03月21日 14:33


>マイヤーマイヤーさん
>
>余裕が有れば質問コーナーや一人語りでダラダラ気楽な放送なも
>お願いしますm(__)m

その場で、題を出してもらって、ああだこうだ対話するのも面白いかもしれませんね・・・・・
カルマ、業、輪廻転生
2020年03月21日 15:12
ほとんどの人間は概念の牢獄に生きている。

文章を読むのも書くのも、概念的。

思考も心理的反応も概念的。

この概念の牢獄から脱獄する出口が呼吸ということですよ。

いくら仏教やアドヴァイタについて、文献読みや論理的な整理をしたところで、概念の牢獄であることにおいて、縁なき衆生と何の違いもない。
カルマ、業、輪廻転生
2020年03月21日 15:14
概念といえば、まずは「時間」が概念だね。
カルマ、業、輪廻転生
2020年03月21日 15:22
数息観という行は優れていると思うが、一つ問題があるとすれば、呼吸が数という概念に取り込まれて、呼吸そのものも概念的にしてしまう恐れ。

心を概念の縛りから解き放って、生命やリアリティそのものに触れさせることに逆行する要素。
2020年03月21日 15:31


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>ほとんどの人間は概念の牢獄に生きている。
>
>文章を読むのも書くのも、概念的。
>
>思考も心理的反応も概念的。
>
>この概念の牢獄から脱獄する出口が呼吸ということですよ。
>
それはそうですね・・・・・
地球人
2020年03月21日 16:02
もし、有限ではなく無限の永遠の生命だったら、私は何もすることがない。

何しろ、永遠なのだから、、、
地球人
2020年03月21日 16:10
そうか、、、此処の人達は人間を止めてゴキブリになりたいのだね。笑
2020年03月21日 16:16


>宮啓さん
>
> 自我があるとどれだけ苦痛があるか?
>
> これを肌で理解することが大事であると愚さんは述べています。
>
> しかし、自己逃避を要領よく行っている自我は、娯楽にも恵まれ、生計(仕事)も悪くはない生活で、自我とうまく付き合っているようです。
>
> どのようにすれば、自我が苦痛であることを肌で知ることができるのでしょうか。。

考えてみれば、もし、問題がなければ、それでいいんじゃないでしょうか・・・・・自我とうまく付き合っているのなら、なぜ自我の問題に興味を持つのですか?
地球人
2020年03月21日 16:33
生物の歴史を辿れば無我から進化して自我に至ったのです。

退化するのもどうか?と考えます。
宮啓
2020年03月21日 17:45
 愚さん

> 自我があるとどれだけ苦痛があるか?
>
> これを肌で理解することが大事であると愚さんは述べています。
>
> しかし、自己逃避を要領よく行っている自我は、娯楽にも恵まれ、生計(仕事)も悪くはない生活で、自我とうまく付き合っているようです。
>
> どのようにすれば、自我が苦痛であることを肌で知ることができるのでしょうか。。

考えてみれば、もし、問題がなければ、それでいいんじゃないでしょうか・・・・・自我とうまく付き合っているのなら、なぜ自我の問題に興味を持つのですか?


 先進国の平均的な生活者として、隣国や過去の本国と比較して問題が少ないので、これ以上不満を述べないことをよしとしているようです。

 平均的であるので私自身は耐えられないことはないのですが、自我のまま生きていて、未来に先はないことは重々承知しています。

 子や孫の代に更なる不幸が待ち受けていることがよくわかります。自我のまま、世界が進んでいく先にあるもの。暗黒。破滅。

 クリシュナムルティに関わった者として、唯一の回避策である「自我の終焉」を知った者として、これを捨てたくはないと強く願っているのです。
2020年03月21日 19:04


>宮啓さん
>
> 愚さん
>
>> 自我があるとどれだけ苦痛があるか?
>>
>> これを肌で理解することが大事であると愚さんは述べています。
>>
>> しかし、自己逃避を要領よく行っている自我は、娯楽にも恵まれ、生計(仕事)も悪くはない生活で、自我とうまく付き合っているようです。
>>
>> どのようにすれば、自我が苦痛であることを肌で知ることができるのでしょうか。。
>
>考えてみれば、もし、問題がなければ、それでいいんじゃないでしょうか・・・・・自我とうまく付き合っているのなら、なぜ自我の問題に興味を持つのですか?
>
>
> 先進国の平均的な生活者として、隣国や過去の本国と比較して問題が少ないので、これ以上不満を述べないことをよしとしているようです。
>
> 平均的であるので私自身は耐えられないことはないのですが、自我のまま生きていて、未来に先はないことは重々承知しています。
>
> 子や孫の代に更なる不幸が待ち受けていることがよくわかります。自我のまま、世界が進んでいく先にあるもの。暗黒。破滅。
>
> クリシュナムルティに関わった者として、唯一の回避策である「自我の終焉」を知った者として、これを捨てたくはないと強く願っているのです。

さまざまな動機があるんですね・・・・わたしの場合は、自分のことで手いっぱいで、ひとのことを考える余裕はなかったです・・・・いまもそうですが・・・・

子や孫の代のことは、かれらの問題で、かれらに任せようと思っています・・・・
宮啓
2020年03月21日 21:25
 愚さん

 「自我の終焉」が難しいのは、私は「自我」に苦しめられている被害者であるという条件付けかもしれませんね。。

 何か不都合があれば、環境や制度(構造)のせいにする、という条件付け。

 その最たる悪が「自我」という構造。わたしはその「自我」の犠牲者。


 そこでクリシュナムルティが言いそうなことは、「自我」の構造を知った以上、「あなた以外に責任者はいません」。とクリシュナムルティが言いそうです。
 責任者とは、自身の「自我」の責任のことです。

 わたしは、自身の「自我」の責任を負っていなかったのです。何か宇宙の責任にしているのです。

 だから、「自我の終焉」がほど遠いのかも知れません。


 そこで気づいたのですが。

 禅宗では、座るときに、線香をたき、そこに仏像があります。

 これの意味は、最高責任者としての「仏(神)」が居る。すなわち、「わたしは責任を負わない」という大前提が潜在的にあるのではないか・・と気づきました。

 クリシュナムルティは、これに気づいていたのかもしれません。。
2020年03月21日 21:58
「マーティンガヤよ『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とはわたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らばいでも、清らかになるとことができる。』と説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

スッタニパータ 839

愚さんがたびたび言っている^^
Village beside a mountain stream
2020年03月21日 23:24
古代ギリシア哲学者エピクロス(341–270 BC)の言葉

「正しい人は、最も平静な心境にある、これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている。」

「或る人々は名声を得て世の注目をひくようになることを欲した。それは、そうすれば、他の人々からの、損なわれることのない安全が、自分たちにもたらされるであろうと思う人々だからである。そこで、もしこのような人々の生活が損なわれることなく安全であるならば、かれは自然的な善を獲得したわけであるが、もしそうように安全でないならば、かれらは、かれらが最初に自然的な親近さによって欲したもの(目的)を、所有していないわけである。」

「地上のことや地下のこと、端的にいって、限りない宇宙で起こるあらゆる事象が、気がかりになるままで放っておかれるものならば、たとえ人々とのかかわり合いで損なわれることのない安全が得られても、何の役にも立たない。」

「もし君が、どんな折にも、君のひとつびとつ行為を自然的な目的へ帰着させるのではなく、かえって、忌避するにせよ追求するにせよ、中途半端にしてほかの方に向かうならば、君の行為は君の言説と一致しないことになろう。」

「全生涯の祝福を得るために知恵が手に入れるものどものうち、友情の所有こそが、わけても最大のものである。」

「われわれの生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない、これきりで、 もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の〈支配者〉でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている、人生は延引きよって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。」

「その他のすべてにたいしては、煩われることのない安全を獲得することが可能である、しかし、死にかんしては、われわれ人間はすべて、防壁のない都市に住んでいる。」

「この生から去りゆくべき当然の理由をたくさんもっている人は、どの点からみても、小人である。」

「最大の善については、それが生じるのと、われわれがそれを楽しむのとは、同時である。」

「あたかもわれわれが長いあいだわれわれに大きな害を与えてきた邪な人を追い払うように、われわれは、悪い習慣を、徹底的に追い払おうではないか。」

「われわれは、哲学を研究しているように装うべきでなくて、真に哲学をすべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということではなく、真の意味で健康であるということなのであるから。」

「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい、というのは、あたかも、医術が病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである。」

「人はだれも、たったいま生まれたばかりであるかのように、この世から去っていく。」

「自分で十分に用が足せるものごとを、神々に請い求めるのは、愚である。」

「亡くなった友人にたいしては、悲嘆によってではなく、追想によって、共感を寄せようではないか。」

(以上、岩波文庫『エピクロスー教説と手紙ー』出隆/岩崎允胤 訳 より抜粋)


勿論、エピクロスは仏教徒ではありませんし、仏教の教説の方が理論的にも、実践的にも高度なのでしょうが、ちょっと仏教に近いように思います。
いや、私は仏教を勉強し始めで、正直なところ、仏教的なのかよく分かりませんが、KB会的ではないでしょうか?これらのエピクロスの言葉は。渡辺さんがこれらの言葉を発してもなんの違和感もありません。
厳密に言えば、渡辺さんが言いそうにないような言葉も含まれていますが、やはり雰囲気は同じです。

おもしろいな〜、と思ったので抜き書きしてみました。
2020年03月21日 23:40


>宮啓さん
>
> 愚さん
>
> 「自我の終焉」が難しいのは、私は「自我」に苦しめられている被害者であるという条件付けかもしれませんね。。
>
> 何か不都合があれば、環境や制度(構造)のせいにする、という条件付け。
>
> その最たる悪が「自我」という構造。わたしはその「自我」の犠牲者。
>
>
> そこでクリシュナムルティが言いそうなことは、「自我」の構造を知った以上、「あなた以外に責任者はいません」。とクリシュナムルティが言いそうです。
> 責任者とは、自身の「自我」の責任のことです。
>
> わたしは、自身の「自我」の責任を負っていなかったのです。何か宇宙の責任にしているのです。
>
> だから、「自我の終焉」がほど遠いのかも知れません。
>
>
> そこで気づいたのですが。
>
> 禅宗では、座るときに、線香をたき、そこに仏像があります。
>
> これの意味は、最高責任者としての「仏(神)」が居る。すなわち、「わたしは責任を負わない」という大前提が潜在的にあるのではないか・・と気づきました。
>
> クリシュナムルティは、これに気づいていたのかもしれません。。

ひとが一般的に自我を終わらさないのは、その気がないからだと思っています。つまり、真剣さがないんです。

なぜ真剣にならないかといえば、自分の置かれている状況・・・・かなり悲惨な状況・・・・に、気が付かない、ないし、あきらめているからです。

自分の頭に火がついていれば、必死になって消すはずです。なにがなんでも、なんとかしようとします。がむしゃらに、もがきます。

それが起きない、それだけのことだと思います。
2020年03月22日 08:45
かくのごとく、世尊は〔答えた〕

「マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、
伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず
、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。

〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、
戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、
〔清浄を言わ〕ないのです。

しかして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、
〔何ものにも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」
〔と〕。



龍樹ちゃんの戯論寂滅はこれを見た感がする^^
2020年03月22日 08:59
「ブッダの教え」(理法)というものは、敢えて言うなれば、次の経典の言葉で集約できるのだろうと思った。

 「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、個執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」(Sn.837)

 いわゆる最初期の仏教においては、特定の教義なるものは殆ど説かれていなかった、ということであるのだろう。

 『 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。』(Sn.789)
 
 『(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。』(Sn.790 )

 『かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。』(Sn.794)
 
 さらにここで、私は、龍樹の『中論』から、おなじみの言葉を再度引用してみようと思う。

 『〔ニルヴァーナとは〕一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。』(第25章・24)

  ブッダは何も説かなかった。繰り返して言うが、私は龍樹のこの言葉は、仏教の核心を表わしている一句であると思っている。

ふむふむ^^

やはり同じ感がしたか・・・^^
宮啓
2020年03月22日 09:12
自分の状況に気がつかない理由、それゆえに真剣になれない理由を考えてみました。

①信仰:特定の宗教だけではなく、亡くなった祖母・祖父、あるいは父母がいる場合に、天から何かと見守ってくれていて、いざという時に手を差し伸べてくれるという潜在的な伝統。

②永遠の自己幻想:死後に、あの世で生きながらえている。そして、先に亡くなった祖母・祖父、あるいは父母に会える。または、輪廻転生によって再び地上に肉体を与えられるだろうという潜在的な生命保証感。

③私は「自我」の犠牲者であり、過去の「自我」達によって作られた社会・世界・伝統の犠牲者であるという被害者意識。また、それゆえの自身の「自我」に対する責任の放棄(「私は被害者であり責任はない」)。

④この「自我」構造による困難において、救済者(天の存在・宇宙人・聖者等々)がいつかやって来て、何とかしてくれるだろうという期待感。


 科学的に、すなわち真理としては。

 私はいつか「完全消滅」の四文字と遭遇する。

 すなわち、先だった祖父母やあるいは父母はどこにもいない。

 等々の、真理としての事実と直面しない伝統によって、「真実に対して私は布団を被った状況に居る」ということに気づきます。

 先進諸国のその「布団」は、軽くて暖かく、肌心地がピカいちなものとして洗練されています。
snow
2020年03月22日 10:21
>宮啓さん

>自分の状況に気がつかない理由、それゆえに真剣になれない理由を考えてみました。


書かれておられた内容は、自分の状況に気づかれない理由というのとは、ずれていらっしゃるように感じます。
なぜなら。同じようにある程度、経済的にも環境的にも恵まれた生活を送っていても自我に苦しむ人はいるからです。

  ↑ こんなふうに私は今、書きました。これを読まれてどんな思考、感情が浮かんでこられましたか?

スルーしていただいて構わないのですが。
私が書いた内容に対して浮かんできたであろうなにがしかの思い、それが今の生の感情であり思考だということであり、それが自我ですよ。
宮啓
2020年03月22日 11:00
snowさん

>ある程度、経済的にも環境的にも恵まれた生活を送っていても自我に苦しむ人はいるからです。--

 上記のことは、私も同感です。

 しかし、私と愚さんが述べているのは、「人は自我に苦しんでいるが、それでも自我を捨てきれない・・」ということです。
勘太郎
2020年03月22日 11:50
愚さんの話を聞きながら眠りに着きました。

夢か現か?夜中に目が覚めました。
国境も国もありませんけれども。コロナ騒ぎを見ていると、人と云う生命とコロナビールスという生命のせめぎ合いが地表で行われ、それぞれの国が一つの塊となって、A国ではAという戦術をB国ではBという戦術を使って立ち向かっている。それは人と云う一つの命が、命の、繁栄を図っていろんな戦術で戦っているその命が自分だとう感じがして、私の身体の胸の辺りにじんじんするモノろ感じて胸が熱くなりました。人頑張れ、ビールス頑張れ!
 
戦争に人が熱中するのはこのじんじん感覚で自分を国と一体化して、自我を忘れるのが快感なんだろうと思います。苦しみ・悲しみ・怒りはホント快感です。なんで快感か解りませんでしたけれど、自分を忘れる事で快感を産むのですか、納得しました。歌謡曲は失恋の悲しみを歌って聞く人を酔わせます。戦争映画は怒りで、ホラーは恐怖で・・・。それぞれ快感で人はそれを求めます。ほんと納得です。
地球人
2020年03月22日 12:07
愚さんをはじめ、あなた方が此処で語ってるのは自我ではないと、、、

では、何ものですか? 
snow
2020年03月22日 12:16
>宮啓さん

挨拶が抜けてしまいました。 はじめまして。 コメントありがとうございます。

> どのようにすれば、自我が苦痛であることを肌で知ることができるのでしょうか。。

というコメントを数日前に宮啓さんは出されていましたが、こちらについては問題なく肌で知ることはなされているのですか?
なにか、この部分がうやむやなまま話題が変わったようにも感じられたので。
地球人
2020年03月22日 12:36
【自我】①(哲)他のものに相対して存在する自己。
    ②(心)自己に関する意識・概念

 以上、国語辞典より。 自我を勘違いしてませんか? 笑
地球人
2020年03月22日 13:49
勘違いはエゴとエゴイズムでしょう。

自我 - 英語でego のこと。自己を対象とする認識作用、哲学および精神分析学における概念。

利己主義 - エゴイズムの略 - 自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方。     
地球人
2020年03月22日 14:06
悟りとは自己を対象とする認識。又は宇宙を対象とする認識です。

要するに、悟る主体は自我です。笑
宮啓
2020年03月22日 14:22
snowさん

 苦痛を肌で知ることは難しくはないですよね。。

 しかし、その苦痛と「自我」との関連を、理屈で頭で理解しているということです。

 苦痛と「自我」との関連を、理屈ではなく、頭に火がついてるときのように気づいているのか・・?ということです。


愚 2020年03月20日 23:17のコメントから引用

他人から悪口や陰口をいわれるとき、嫉妬するとき、腹立ち、不運を嘆くとき、未来への不安、心配、過去の悔恨、生きるのがつらくなるとき、死への恐怖・・・・そういったことですか・・・

問題は、それらの根源が自我にあると直感できないわけですね・・・・これは困りましたね・・・・確かに、直感しずらいですね・・・・・考えてみます
(引用終わり)

 以上のように、愚さんは、「それらの根源が自我にあると直感」することが難しいと述べています。

 頭で理解することは難しくありません。しかし、これを肌で実感することが難しいのです。

 そこで、改めて、愚さんは、これが難しいのは真剣さが足りないと述べているのです。

 自我の終焉というのは、頭での理解、本を読んでの理解では無理なのです。。
地球人
2020年03月22日 14:39
自我はエゴイズムの略ではありません。エゴです。笑
通行人
2020年03月22日 14:51
エゴはwikipediaの引用でしょう。

エゴは概念と解釈してるね。概念に実体は無いでしょう。^^
snow
2020年03月22日 15:00
>苦痛を肌で知ることは難しくはないですよね。。

そうなんですか。 では、これについてはOKなのですね。

> しかし、その苦痛と「自我」との関連を、理屈で頭で理解しているということです。

> 苦痛と「自我」との関連を、理屈ではなく、頭に火がついてるときのように気づいているのか・・?ということです。


例えばなんですが。 道ですれちがった若者たちに、「あのおじさん、だっさ~。」とか言われて指をさされて大笑いされたとします。
そしたら、いらっと一瞬はしませんか? それとも一瞬たりともいらっとしませんか?
これ、赤ちゃんであれば言葉が理解できないし、自我もないからまったく気にしませんよね。

苦痛と「自我」との関連って、そんな難しい話ではないですよ。
snow
2020年03月22日 15:01
すみません。 今の、宮啓さん宛です。
宮啓
2020年03月22日 15:24
 snowさん

 >例えばなんですが。 道ですれちがった若者たちに、「あのおじさん、だっさ~。」とか言われて指をさされて大笑いされたとします。
そしたら、いらっと一瞬はしませんか? それとも一瞬たりともいらっとしませんか?--

 上記の苦痛を肌で感じることは難しくありません。

 しかし、この「苦痛」を「自我」にくっつけることは「思考」の働きなのです。頭での世界なのです。

 だから、頭ではなく、直感で直接、これを見ることが難しい。

 これを愚さんは以下のように述べているのです。


 愚 2020年03月20日 23:17のコメントから引用

他人から悪口や陰口をいわれるとき、嫉妬するとき、腹立ち、不運を嘆くとき、未来への不安、心配、過去の悔恨、生きるのがつらくなるとき、死への恐怖・・・・そういったことですか・・・

問題は、それらの根源が自我にあると直感できないわけですね・・・・これは困りましたね・・・・確かに、直感しずらいですね・・・・・考えてみます
(引用終わり)


 これを直感するための方法は、さらに難しい。。
地球人
2020年03月22日 15:29
エゴ・自我は自己に対する認識作用、知能の働きです。

自我の知能に依る純粋な認識であれば悟りです。
通行人
2020年03月22日 15:34
ともかく、自我の意味にエゴ(エゴイズ)が無いことは分かった。^^
地球人
2020年03月22日 15:45
わたしは通行人ではない。

自我の知能に依る区別ができなければ認証だ。笑
カルマ、業、輪廻転生
2020年03月22日 15:45
自我の痛みは思考を介さないとわからない?

とても信じられない。

わからないなら、グタグタ思考で論じ上げることもないんじゃない。

クリシュナムルティ本なんか、それこそゴミ箱に捨てて、健康な社会人になりましょう。
地球人
2020年03月22日 15:46
 認知症。
snow
2020年03月22日 15:47
>宮啓さん


>>例えばなんですが。 道ですれちがった若者たちに、「あのおじさん、だっさ~。」とか言われて指をさされて大笑いされたとします。
そしたら、いらっと一瞬はしませんか? それとも一瞬たりともいらっとしませんか?

> 上記の苦痛を肌で感じることは難しくありません。

普通そうですよね。

> しかし、この「苦痛」を「自我」にくっつけることは「思考」の働きなのです。頭での世界なのです。

> だから、頭ではなく、直感で直接、これを見ることが難しい。


う~ん。。ちょっとおっしゃられていることがわかりません。


> これを愚さんは以下のように述べているのです。


> 愚 2020年03月20日 23:17のコメントから引用

>他人から悪口や陰口をいわれるとき、嫉妬するとき、腹立ち、不運を嘆くとき、未来への不安、心配、過去の悔恨、生きるのがつらくなるとき、死への恐怖・・・・そういったことですか・・・

>問題は、それらの根源が自我にあると直感できないわけですね・・・・これは困りましたね・・・・確かに、直感しずらいですね・・・・・考えてみます
(引用終わり)


 >これを直感するための方法は、さらに難しい。。


先ほど。若者たちに笑われる例で書いたものについて、「苦痛を肌で感じることは難しくありません。」と書かれていたのですし、直感するのは難しくないのではないですか。
なにか逆に、とても難しく考えすぎていらっしゃるようにお見受けするのですが。
勘太郎
2020年03月22日 15:55
地球人さんへ
自我と真我(覚醒)と分けるとは誤解で、これまた厚さ0の紙の表裏で一つのモノ。愚さんが自分は体の外に出ると言います。これは言葉の上での表現で実際はどうなんでしょう。人は自分の身体がどこまでだか認識することはできません(試してみればすぐわかります)お尻の皮膚と椅子の表張りの境目は目で確かめないと解りません)
                            敬具
地球人
2020年03月22日 15:55
東洋において民主主義はまだ確立していない。
すなわち、個体の自我が自立していない。

安部政権はいつまで続くのか? 笑
カルマ、業、輪廻転生
2020年03月22日 15:56
自我は悪者だとして、それでは自我に対比される覚醒や解放、救われの状態との関係は?

この関係は、地肌に貼り付けたテープのようなものだね。

テープは自我だとして、地肌はなんと呼ぼうか。とりあえず、意識や気づきとしておこう。

テープそのものが苦しみを感じているのではないんです。テープにそのような能力はない。テープを通して、地肌が痛み・苦しみを感じている。
テープを剥がせば痛みは消える。

意識そのものである地肌はテープがなくなってもずっとあり続ける。
宮啓
2020年03月22日 15:57
snowさん

 ここはとても大切なポイントです。

 だからsnowさんには、ゆっくりとすすんで欲しいと願うところです。。

 これは「観念」と「直接の知覚」の違いという大切なポイントです。

 「自我があるから苦しい」という「観念」と、「自我があるから苦しい」と直接知覚することは、天と地の開きがあるのです。


 このような心理的に深いところのものごとは、「観念」ではどうにもならないのです。「直接の知覚」しか頼りにならないのです。

 これを理解するには、真剣な探求心を必要とします。

 もしも、真剣に探求したいという心があれば、以下の私のホームページへいらしてみてはどうでしょうか。。

 https://tankyuunin.wixsite.com/kris
地球人
2020年03月22日 15:58
勘太郎さん。

覚醒する、悟るのは自我と、私は言ってるのです。笑
地球人
2020年03月22日 16:00
悟った自我を真我としてもいいです。
カルマ、業、輪廻転生
2020年03月22日 16:01
意識そのものには、痛みや苦しみ、恐怖、嫉妬、葛藤はまったくないんです。それらネガティブを生み出すのは自我ですね。

その自我も実質は、制限や分離、条件付けのテープを貼って窮屈になった地肌のことだから、まったく同一です。
地球人
2020年03月22日 16:06
自我をエゴイズム(略エゴ)と解釈するのは誤りです。ともwikiprdiaを引用して言ったのです。
snow
2020年03月22日 16:10
>宮啓さん


>「自我があるから苦しい」という「観念」と、「自我があるから苦しい」と直接知覚することは、天と地の開きがあるのです。


> このような心理的に深いところのものごとは、「観念」ではどうにもならないのです。「直接の知覚」しか頼りにならないのです。


例えばですが、「プライドをずたずたに傷つけられた、悔しい~」、と思うのは観念ではなく直接的な知覚でしょう。
そういう時、心拍数が増えたり、首のあたりが硬くなるのを感じたりもしますし。
とても具体的な体験ですよ。
プライドというのは自我の産物ですしね。
地球人
2020年03月22日 16:26
自我とは「鏡に映ってるのは私自身である」。相対する認識に過ぎません。
宮啓
2020年03月22日 16:34
 snowさん

 その苦しみは直接の知覚です。

 しかし、この苦しみに思考が入り込んでいるのです。

 次に、このような体験が起こったときに、それを直接調べることができるでしょう。

 そのような苦しみに遭遇している、まさにその時に、あなたご自身の思考に注意をはらってみるのです。

 それ以外には、「直接の知覚」か、あるいは「思考の産物」か?、これを見抜くことは難しいでしょう。

 まずは、実践アルのみです。。

地球人
2020年03月22日 16:35
宇宙と一体なら自我意識は発生しません。

宮啓
2020年03月22日 16:36
 snwoさん

 追伸。

 ここで、そのような苦しみがやって来るのを待つ合間に、とりあえず、先に進んで、ホームページをのぞいてみてはいかがでしょうか。。
宮啓
2020年03月22日 17:00
 snwoさん

 話を整理してみます。

 自我が苦しむ。→ 直接の知覚

 その「苦しみ」が「自我」の存在を原因とする → 観念

 私が、これまで述べてきた「観念」は、具体的に示すと上記の事柄になります。


 これを愚さんは以下のように述べています。


> 愚 2020年03月20日 23:17のコメントから引用

>他人から悪口や陰口をいわれるとき、嫉妬するとき、腹立ち、不運を嘆くとき、未来への不安、心配、過去の悔恨、生きるのがつらくなるとき、死への恐怖・・・・そういったことですか・・・

>問題は、それらの根源が自我にあると直感できないわけですね・・・・これは困りましたね・・・・確かに、直感しずらいですね・・・・・考えてみます
(引用終わり)


 すなわち、「自我の存在が原因で(根源で)苦痛がある」という観念を、直接知覚する(直感)ために、どうすればよいか(その方法を)「考えてみます」という意味です。


 なお、この「観念」や「直接の知覚」等々、これらはクリシュナムルティによって明確に述べられていますので、よりよく理解したい方は、どうぞ以下のホームページをのぞいてみてはいかがでしょうか。。
カルマ、業、輪廻転生
2020年03月22日 17:09
クリシュナムルティを聖典にして訓詁解釈学やっているうちに人生は終わってしまいます。

それに、いまの時代、クリシュナムルティ一人を崇拝していてはダメです。
2020年03月22日 17:23
自我=私という幻覚^^
2020年03月22日 17:27
本体=未知なるもの・・知りえないと愚さんは言っている^^

うむ~~^^
2020年03月22日 17:34
私という幻覚に執着すれば苦が生じるのはあたりめ^^
2020年03月22日 17:37
たぶん愚さんなら・・^^

「私というものをかなぐり捨てろ~~^^」

と言うだろうな・・^^
2020年03月22日 17:41
うん?

「私というものを死というブラッホールにかなぐり捨てろ~~^^」

これやな・・・^^

「死というブラッホール」

どう考えても上手い表現やな・・^^

感動した^^
2020年03月22日 17:45
「死というブラックホール」・・やな・・^^

採用してる^^

即身成仏・・南無南無^^
地球人
2020年03月22日 17:49
あ、現れた。笑

自我を認知しない者は悪を成す。
2020年03月22日 18:04
かくのごとく、世尊は〔答えた〕

「マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、
伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず
、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。

〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、
戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、
〔清浄を言わ〕ないのです。

しかして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、
〔何ものにも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」
〔と〕。

これの最後を私なるものに変えると・・^^


しかして、私なるものを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、
〔何ものにも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」
〔と〕。


こうなる^^

う~~ん^^

すんばらしいとなる^^
2020年03月22日 18:06
寝る^^
地球人
2020年03月22日 19:07
西洋では自我はエゴイズムの意味ではない。

遡って読んでくれ。

ブッダは自立した自我に目覚めたのだ。

東洋、日本人は基本的人権、国民主権を与えられたものだから、自我が自立してない。
地球人
2020年03月22日 19:20
仏陀の時代のインド社会はカーストの身分があって個人(自我)は認められていなかった。 自我に目覚めたのが仏陀であった。笑
2020年03月22日 20:18
自我には3つの段階がある。

自我への目覚め

自我の完成

自我の脱落


仏陀は、生まれつき自我に目覚めており、35歳のとき自我を完成させ、80歳のとき、自我を脱落させた。
2020年03月22日 20:26
自我の目覚めは尊厳欲求の充足と呼ばれ、自我の完成は自己実現欲求の充足といわれ、自我の脱落は自己超越欲求の充足と呼ばれる。
cheaptrick
2020年03月22日 20:51
アドヴァイタの公案です。趣向が変わって面白いですよ。

(1) 大海の表面の泡のように湧き出る、これら無数の宇宙の創造、維持、破壊の原因とは何か?
(2) 「空間」でありながら空間ではないものとは何か?
(3) 無限でありながら制限を持つものとは何か?
(4) 動いていながら不動であるものとは何か?
(5) 存在しながら存在しないものとは何か?
(6) 石のように不活性でありながら、それ自身には「意識」として現れるものとは何か?
(7) エーテル(空間)の中に映像を描き出すものとは何か?
(8) 種の中の木のように、すべての小宇宙が潜在する基底とは何か?
(9) 水から立ち昇る水蒸気のように、原因とは異なるものではない万物がどこから生じるのか?
(10) 何の内で、これら二つ(水と水蒸気)が融け合うのか?
Bananafish
2020年03月22日 21:07
cheaptrickさん、

初めまして、Bananafishと申します。
いきなりなのですが、その「アドヴァイタの公案」の
出典はどこでしょうか。非二元の界隈にも、そういったものを体系
立てて問う伝統のようなものがあるのでしょうか。興味を
惹かれました。
cheaptrick
2020年03月22日 22:45
>Bananafishさん

はじめまして。

『ヨーガ・ヴァーシシュタ(Yoga Vasistha)』の中の『カルカティの物語(Story of Karkati)』からのものです。

残念ながら邦訳はありませんが、英訳ならネットからダウンロードできます。

夜の森の深い闇の中で、王とその従者の二人が、一人の女の魔物と問答するという、何ともインド的というか、芝居がかったというか、面白い趣向のものです。

そのときカルカティという魔物が、相手の力量を確かめるために発したのがこの十個の質問です。質問に答えられなければ食い殺すと言うのです。

二人の武人はこの質問に見事に返答します。お互いの境涯を認めあって、カルカティは客人として王の館に招かれます。そのあたりは長くなるので・・・。

要するに、この十個の質問そのものが真我(ブラフマン)の説明になっているということです。

cheaptrick
2020年03月22日 22:57
>追伸

相手の境涯を確かめるために問答をしかけるというのは、他のアドヴァイタの文献にはあまり出てきません。

たいていは、弟子が質問して師匠が答える、あるいは師匠が一方的に説教するというものです。

師の導きによって弟子が真我を実現(悟る)して「おめでとう!」となるわけです。
2020年03月23日 00:15
>自我への目覚め
>自我の完成
>自我の脱落

>仏陀は、生まれつき自我に目覚めており、35歳のとき自我を完成させ、80歳のとき、自我を脱落させた。

生まれつきとは思わないけれども、自我に目覚め、四諦八正道を確立して、涅槃寂静の生涯を終えた。

自我は我欲ではないのです。いい加減、東洋人は諸法無我の自縛から解放されたら?と言いたい。笑



Bananafish
2020年03月23日 04:39
cheaptickさん、

ありがとうございます。
インド人気質というか、この芝居がかった感じが
面白く新鮮ですね。

問答の内容的には、「色即是空」に
香辛料をかけて公案にしたような趣がありますね。
料理法を参考にさせていただきます。

ありがとうございました。

Bananafish
cheaptrick
2020年03月23日 08:25
>Bananafishさん

こちらこそありがとうございました m(_ _)m

ネオ・ゼンとでも言うんでしょうか・・・

ネオ・アドヴァイタというのもありますからね。
みゅう
2020年03月24日 06:50
あ さん

マインドタイム 読みました。

意識、認識、心、自由、因果関係、世界、事実、真実、真理、私、、、、
たくさんのことを考えさせられました。

「人が何かをしようと思いつく0.3秒前に、脳はその何かを始めている」ということをリベットは実験で証明したことになっています。

 ブラックボックスへの入力と出力から内部の構造を類推するのが自然科学の王道だけれど、リベットの実験は押されたスイッチと脳のある場所の電位という二つの出力から意識の働きを説明しようとしているのですっきりしないんだろうと思います。

 太陽の動きと星々の動きという二つの出力の観察から天動説と地動説が生まれそのもやもやのせいで何人も火あぶりにまでなりました。


>かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、
伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず
、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。
〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、
戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、
〔清浄を言わ〕ないのです。
しかして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、
〔何ものにも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」
〔と〕。


😵 


 季節は春になり人間界のコロナ騒ぎに関係なくサクラが咲き始めました。

 でも、近所の公園のサクラの花のほうが春の到来より前だったような、、、


 病気!
 
2020年03月24日 07:45
仕事の動きは起きるが、労働者はいない。
歩行の動きは起きるが、歩行者はいない。
運転の動きは起きるが、運転手はいない。
考えは起きるが、考える人はいない。

まじ?^_^
勘太郎
2020年03月24日 07:51
地球人さんへ

自我と覚醒の関係は、素っ裸と着物に例えると。
自我は服で、素っ裸は覚醒。みんなは服を着て生活しています。覚者は素っ裸です。この2者にはなんの関係も存在しません。関係することができません。
自我が覚醒することはありません。服が皮膚になる事はないのと同じです。

 覚者は必要な時に服を着ます。愚さんも普段は素っ裸で、人前に出る時だけ服を着て、素っ裸の説明をするのだと思います。
愚さんには、何一つ問題はないのだけれど、問題を想い出して、説明解説しているのだと想像しています。

覚者は結構多数いるのだけれども、覚者でありながら衆生を救いの行動を起こす人はすくないのではないか?と思います。
有難い事です。
2020年03月24日 12:48
歩行の動きは起きるが、歩行者はいない。

これはまじやな^_^
地球人
2020年03月24日 12:53
勘太郎さん

辞書を調べて前に書きましたが、自我はエゴイズムでは無いのです。

哲学では自我の意味は他のものに相対して存在する自己です。

>自我と覚醒の関係は、素っ裸と着物に例えると。
自我は服で、素っ裸は覚醒。みんなは服を着て生活しています。覚者は素っ裸です。この2者にはなんの関係も存在しません。関係することができません。
>自我が覚醒することはありません。服が皮膚になる事はないのと同じです。

上記のあなたの解釈が自我なのです。


地球人
2020年03月24日 12:59
坐禅で我を観ているのが自我なのです。

前にレスしましたが、東洋では身分制度があって自我は無かったのです。

仏陀は自我に目覚めたのです。
地球人
2020年03月24日 13:11
日本でも戸籍上、正式に住所・氏名・生年月日の個人が認められたのは明治になってからです。
地球人
2020年03月24日 13:24
全てに対して相対して存在しているから唯一無二の自我意識が生じます。
地球人
2020年03月24日 14:26
「自我意識も脳がなければ発生しない。空だ。」

それをいっちゃ~お終いだ。 生きもの止めなさい。笑
通行人
2020年03月24日 14:47
自我の本性からすれば、人生で大事なことは宇宙全体を悟ることではなくて、個人的に何か楽しいことや価値あるものを見つけることです。^^
勘太郎
2020年03月24日 15:37
地球人さんへ

 私も暇な者ですから、暇つぶしに書きます、何も判っていない腐れ爺です。

自我】①(哲)他のものに相対して存在する自己。
    ②(心)自己に関する意識・概念
同じモノの説明です。他と対立するモノ、自己意識(他と分離している)

他と相対とか対立しないモノ、絶対なるモノが真我です。哲学も心理学の辞書の説明は、他が無いと説明できないのが自我です。

例えて言うと、「私の心臓」という説明で、心臓という言葉を使わないで私を説明してください。その私が真我です。
2020年03月24日 15:46


>Bananafishさん
>
>https://mondozen.org/?fbclid=IwAR388aEHxhfyNU0nW2wnNlXIXtsODJJQD0_SmNbOyyu7_4v8-XvQa7GPsME
>
>こちらの指導者の方は、自分で公案を作って指導をされている
>ようですね。スカイプセッションみたいなものもやっているのかな?
>禅のフレームワークでこういうのをやっている人は初めて見ました。
>面白いです。

面白いですね・・・・いろいろ工夫してるんですね
2020年03月24日 16:31
>>自我】①(哲)他のものに相対して存在する自己。
    ②(心)自己に関する意識・概念

>同じモノの説明です。他と対立するモノ、自己意識(他と分離している)
>他と相対とか対立しないモノ、絶対なるモノが真我です。哲学も心理学の辞書の説明は、他が無いと説明できないのが自我です。

>例えて言うと、「私の心臓」という説明で、心臓という言葉を使わないで私を説明してください。その私が真我です。


私も暇だからこんなことを考えています。

哲学では、自我とは相対する存在と言ってるだけで対立する存在とは言ってません。
鏡に映ってる人体は私自身である。自我とは相対する存在です。

おそらく、あなたも同意して頂けると思います。

同意に至ったあなたとわたしは、その認識では同一であると考えられます。
真我とか大げさなものではなく、人間に備わった認識知能です。


心とは身体の感覚によって発生するわけです。AIロボットは痛みの感覚が無いので心は有りません。

地球人
2020年03月24日 16:52
>例えて言うと、「私の心臓」という説明で、心臓という言葉を使わないで私を説明してください。その私が真我です。

真我とはアートマンでしたね。アートマンとは呼吸との意味があるそうです。真我とは生命となります。 

でも、争点は自我の問題ではなかったですか? 笑




勘太郎
2020年03月24日 16:55
勘太郎は真我と自我は別だと想像しているので、地球人さんの「私とか心」がどちらを指すのか?解らないので、文章を理解することが出来ません。

人は質問をしたり、返答を期待して文章を書く場合には、答えを想定して書きます。書き手が想像した事から外れた文章が返ってきたら、相手は返答していないとか感じてしまいます。(悲しいですが勘太郎もそうです、返答の文を理解できないのです。何回読んでも文意を採ることができないのです。)

なんでここで心が出てくるのか?心の定義がないので、勘太郎の足りない脳は思考停止になってしまうのです。

 小説とか哲学の考える対象が明確である場合は、話のキャッチボールができるのですけれども。ここでの話は対象が無いモノの話をしていますので、なかなかキャッチボールができません。空気の玉を投げ合っているようなものです。それでも、なんとかやっているうちにすこしずつ回るかもしれません。
                         敬具
勘太郎
2020年03月24日 16:58
では命ってなんですか? 
ちきゅう人
2020年03月24日 17:07
生命は生き物、動物です。

地球人
2020年03月24日 17:28
>勘太郎は真我と自我は別だと想像しているので、地球人さんの「私とか心」がどちらを指すのか?解らないので、文章を理解することが出来ません。

わたしは自我に言及したのであって、私、真我について言及してません。

>>自我】①(哲)他のものに相対して存在する自己。
    ②(心)自己に関する意識・概念

辞書の解釈です。(心)は心理学です。

私についてですか? 生物と認識すれば個別の身体ですね。

生物には生死が有ります。万人、全生物、皆同じです。

何か?問題あるのですか?






2020年03月24日 18:07
生死は観念やな・・^^
勘太郎
2020年03月24日 19:04
問題があるから、皆さんそれを解決したいと此処にきているのです。
地球人さんも気晴らしをしに此処に書き込んでいます。つまり問題から目をそらしたいのです。生きていて問題が無い人間はいません。

 あるいは、問題があります?とは、 勘太郎とはキャッチボールしたくない。地球人さんは「自分の好きな事を書きたいから、勘太郎さん黙っていてくださいというのでしょうか」
いずれにしても、終わりにしましょうよという言葉です。お話をききたかったですけれども残念です。
地球人
2020年03月24日 19:05
頭脳の生死の事実を認めればいいだけです。

頭脳が生死に因って私の自我が消滅するのであれば、私の自我は実体が無い(無我)が証明されます。
地球人
2020年03月24日 19:30
肉体は個別ですが、自我意識は相対することで発生するだけで、勘太郎さんの自我意識と地球人(私)の自我意識は同じだと言ってるのです。


地球人
2020年03月24日 19:47
自我意識は赤子が誕生すれば無尽蔵に増えることが可能です。

前にレスしましたが、個人の自我が認められたのは日本では戸籍上、明治時代ですから、生類人類の歴史からすれば最近です。
地球人
2020年03月24日 19:56
それも、国家社会の統治運営上の都合です。
地球人
2020年03月24日 20:26
先日貼った動画、「前世の記憶を持った子供」TV番組のyoutubeの元動画が削除されてしまった。 虚実があったのか? 笑
地球人
2020年03月24日 20:46
自我の有無に拘るのが煩悩、無明です。