新たな禅のイメージ

みなさん、ネーミングありがとうございます。
また、わたしが考えたのは、
禅イレーザー、禅サンシャイン、禅サンシェア・・・・・

名前は未定ですが、とりあえずの方針をこう考えました。

目的:日常から一切の悩む苦しみを払しょくする。毎日遊びながらいきることを目標とする。

戦略:自我を滅却する

戦術

まず、全体の構造を明らかにする・・・理論

1、個別の戦い・・・・自我の枝葉を刈る
日常性の自分に切迫した問題についてひとつひとつ解決していく。
自我を弱める。

2、本体との戦い・・・・自我の幹を倒す
禅の方便を現代的に改良して使う・・・・他の伝統的宗教でもよい
悟る。見性する。

骨子はこれでいいと思うんですが・・・・・

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この記事へのコメント

タキ衛門
2020年02月11日 11:42
>目的:日常から一切の悩む苦しみを払しょくする。

 なんとかなるかもしれないのは心理的な苦しみだけで、肉体的な苦しみがなくなるわけではないので、「一切・・」というのは、言い過ぎかなと思います。

>毎日遊びながらいきることを目標とする。
 この目標に対してだったら、禅の修行よりも、「経済的自由」でも達成して、働かなくても良い状態を作ればいいように思います。
 

 あと私だったら以下。
 大目的:楽に生きる
 中目的:自我の滅却
 小目的:悟る。
※「楽に生きる」大目的を達成するために、「自我の滅却」以外に手段があれば、それでもよい。もしくは同時並行するとか。

 あと、目的-手段の関係性は、できれば図で描いたほうがいいかと思います。これが事業や活動の背骨をなし、それが適当だと全体としてバラバラになってくるのではないかと思います。
年寄りの初心者
2020年02月11日 16:34
自我は条件付けとすると 幹として残る自我はどのようなものでしょうか?
(残った幹を倒す事でどのようなメリットがありますでしょうか?)
Village beside a mountain stream
2020年02月11日 17:33
YouTubeの動画『精神、こころの構造、補足』から来ましたVillage beside a mountain streamです。よろしくお願いします。
Village beside a mountain stream
2020年02月11日 17:52
質問もここに書き込めばよい、ということでしょうか?
2020年02月11日 18:49


>Village beside a mountain streamさん
>
>質問もここに書き込めばよい、ということでしょうか?

質問コーナーというタイトルを作りましたので、どうぞ、お書込みください
2020年02月11日 18:54


>年寄りの初心者さん
>
>自我は条件付けとすると 幹として残る自我はどのようなものでしょうか?
>(残った幹を倒す事でどのようなメリットがありますでしょうか?)
>
日常の問題を解決していっても、おそらく・・・・このアプローチでやったことがないので、おそらく、なのですが・・・・・・残る無明があると推測されます。

それは、根本羅泊の無明というものと、その周辺のもので、微妙な分別意識です。どうしても、なんとなく物が実体としてあるように見えるわけです。

それを壊すわけです。

また、こちらを壊しておけば、枝葉の日常の問題も解決しやすくなります。
2020年02月11日 19:09


>タキ衛門さん
>
>>目的:日常から一切の悩む苦しみを払しょくする。
>
> なんとかなるかもしれないのは心理的な苦しみだけで、肉体的な苦しみがなくなるわけではないので、「一切・・」というのは、言い過ぎかなと思います。
>
>>毎日遊びながらいきることを目標とする。
> この目標に対してだったら、禅の修行よりも、「経済的自由」でも達成して、働かなくても良い状態を作ればいいように思います。
> 
>
> あと私だったら以下。
> 大目的:楽に生きる
> 中目的:自我の滅却
> 小目的:悟る。
>※「楽に生きる」大目的を達成するために、「自我の滅却」以外に手段があれば、それでもよい。もしくは同時並行するとか。
>
> あと、目的-手段の関係性は、できれば図で描いたほうがいいかと思います。これが事業や活動の背骨をなし、それが適当だと全体としてバラバラになってくるのではないかと思います。

ありがとうございます
一切の悩み苦しみ(肉体的な苦しみを除く)を滅却する、にしましょう

遊ぶというのは文字通り遊ぶということではないので・・・・どう表現しますかね・・・・ただ、遊ぶという表現がぴったりでもあるのですが・・・

大目的:楽に生きる=自我の滅却

小目的:悟、見性

自我の滅却以外に方法はないと思います

図にするのができればいいです。PPTとかで、作ってもらえるとありがたいです。
地球人
2020年02月12日 23:37
どうやら、人とお付き合いを止めて、唯我独我の世界を生きるのが楽ちんのようだ。
地球人
2020年02月13日 01:50
先ず、悟るには日常の生活から自由になるのが条件である。
地球人
2020年02月13日 02:37
肉体に拘束されているほとんどの社会的一般人では悟れない。

そんな真理に意味はあるのか?

みゅう
2020年02月13日 07:54
大昔、オオカミはヒトと競合しヒトに危害を与えるしかない存在と思われていましたが、一部のヒトがそれを観察し研究し、その過程で手なづけ改良してイヌというものを作りました。イヌが私たちの日常から一切の悩む苦しみを払しょくすることはありませんが、オオカミを絶滅させていたら私たちの毎日の遊びはずっとみすぼらしいもいのになっていたと思います。

>自我の滅却以外に方法はないと思います

、、、




レゾンデートル
2020年02月13日 11:53
>>自我の滅却以外に方法はないと思います

自我が滅却するとどう変わるのですか?

世界を観た人間界の事象の印象は?





レゾンデートル
2020年02月13日 13:19
わたしは人間界から解脱したのだ。

そんな事は関係ない。 と言えるのかな?
お節介な見物人
2020年02月13日 13:58
探求:ある物事をあくまで捜して得ようと努める。
探究:物事の本質や意義を探って見きわめようとする、明らかにしようとする。
諦:つまびらか。明らかにする。仏:まこと、真理。また、それをさとること。

 何らかの縁で「道」に入ってこられた人が、勘違いするのは探求によって「その何か」を掴めるとか得れると何かになるという感覚があるということかもしれません。
 超人になるわけでもなく高潔な人格者に変容するわけでもなく身体が金色に光輝くわけでもなく後光がさすわけでもなく・・。何かを得るのではなくすっからかんにだったということに気づくのですから・・・。

 道の人が「その何か」を予め知っているか見ているかがないのにどうして「その何か」を見つけ出すことが出来るでしょうか。「金」が何かをしらないで闇雲に土を掘り返すようなものかもしれません。「金」を知らずして「金」を見つけることなど不可能かもしれません。
 「その何か」を知らなければ掴むことも得ることもできないことすらよく分かっていないようです。「その何か」を知るために、仏典とか覚者の書いた「文字」から推測するしかありません。しかし「文字」自体に「その何か」は現れていないので「不立文字」・「教外別伝」・「見性成仏」・「直指人心」と言われる所以のようです。

 「その何か」は実体がなく掴むことや得ることができないからこそ、感得した人の感覚でどんな表現でも可能ということのようです。特定の姿形があればいいのですがそんなものは無いのでうまく提示はできないようです。「水」を表現してくださいといってもできないし、「海」を見たことのない人に「海」を文字で表現することはできないのと同じことのようです。

 覚者は自らの独特の言い回しで表現しているのですが・・・。「沈黙」へといざなわれるように多くを語ってくれているようです。「沈黙」は得るのではなくそうなるしかありません。

 大事なことは「探求」ではなく「探究」だということにあるのではないでしょうか。「沈黙」へ至る障害となっているのは「自我さん」の理想の世界でのお遊びにつきあってしまうことのようです。「自我さん」の理想の世界は「安心・安全な安楽」でいたい。「自我さん」は大変な努力家であり勉強家ですから主役として活動しています。「自我さん」の理想の世界での物語に飽きてくれないと「自我さん」はおとなしくしてくれません。

ガム(=苦い経験・楽しい経験・悲しみ・・・)を噛むと次第に味がしなくなり、とうとう捨ててしまいます。どんな経験も味わい尽くすと味気ないものとなり捨ててしまいますこだわりがなくなるようです。「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」「活人剣」「守破離」「目付け、切りつけ、納刀、残心」
「触れずして投げる」「水に文字を書く」「一輪車」「筆を使わずに絵を描く」・・・。物事に精通しやり尽くすようになると、無駄や無理な力は必要なくなりついには道具にもこだわらず、道具もいらなくなってしまうようです。

 よく眠ると「私=自我さん」から解放されてスッキリすることに気づいたり、「スポーツ観戦」で我を忘れて応援して身体は疲れたのに、サッパリして充実感だけが残っている。犬と戯れてはしゃいで遊ぶ、友達と遊ぶ・・。遊んでいる時に「私」は遊びそのものになっていて「私」が遊んでいるという感覚はなかった。遊びの中では日頃の問題なんかすっかり忘れさられていた。遊び終わって、残っているのは爽快感だけ。「私=自我さん」がいないって素晴らしいという体験でチョット気づく。
 「スポーツ観戦」も「遊び」も何かを掴んでもないし得てもいないただの体験なのに爽快であったり満たされていた・・。何かになったわけでもない。
 何かと一体となっていた時には「私=自我さん」が不在であったとチラッと見抜かれた瞬間かもしれません。「私=自我さん」がいなくても生きていた、いやかえって活き活きしていた・・。そんな日常のちょっとした経験を見逃さないのがいいかもしれません。

よけいなお節介ですサラッと流してください。
 
レゾンデートル
2020年02月13日 14:09
悟った者は今まで避けていた事に対して、果敢に積極的にコミットする精神にならなければ虚偽です。
散歩好き
2020年02月13日 14:28
悟ったと勘違いした人から聞いたのかなぁ
何かの本に書いてあるのかなぁ
悟ったからそのような固定観念なのかなぁ

こうあるべきだといういうのは「自我」のような気がするけど。*_*
それできめつければそれでいいかもね。誰も困らないし。
何でもゆるされているからなぁ

レゾンデートル
2020年02月13日 15:06
自我の数だけ悟りがあるとのかな? 笑
レゾンデートル
2020年02月13日 15:32
煩悩苦から滅することを悟りとするから、自我の数だけ悟りがあるとも言えないこともないが・・・自我を滅却することにおいて同じです。
散歩好き
2020年02月13日 16:59
自我をどうこうする人・・・それは誰?
もしかして隠れ自我?

自我に作戦がバレバレ、次の一手を教える将棋は勝てないかも。

ミイラ取りがミイラになる *_*

2020年02月13日 20:01


>地球人さん
>
>肉体に拘束されているほとんどの社会的一般人では悟れない。
>
>そんな真理に意味はあるのか?
>
一般のひとは放っておけばいいです。自分がどうするかが問題だと思いません?
2020年02月13日 20:15


>レゾンデートルさん
>
>悟った人は自他不二、こんな精神にならなければ虚偽です。
>
>
>雨ニモマケズ
>https://www.youtube.com/watch?v=WZ0vSyS_AI4
>
その虚偽であるという根拠はなんですか?
2020年02月13日 20:16


>レゾンデートルさん
>
>自我の数だけ悟りがあるとのかな? 笑

さまざまな悟りはありますよ
散歩好き
2020年02月13日 20:18
宇宙そのものが真理であれば

あらゆる存在そのものも真理

宇宙の一部である地球 地球の一部である人間は

真理でないものはどこに存在できるのか?*_*

宇宙のどこかが真理から抜けものにされている?*_*

宇宙が真理でなかったら真理なんか探しようがないかも~_~

一切衆生悉有仏性は嘘ということ?
2020年02月13日 21:26


>散歩好きさん
>
>宇宙そのものが真理であれば
>
>あらゆる存在そのものも真理
>
>宇宙の一部である地球 地球の一部である人間は
>
>真理でないものはどこに存在できるのか?*_*
>
>宇宙のどこかが真理から抜けものにされている?*_*
>
>宇宙が真理でなかったら真理なんか探しようがないかも~_~
>
>一切衆生悉有仏性は嘘ということ?

まあ、理屈はいろいろあるでしょうが、結局、そういったことの虚偽を実証するのは自分しかいないということでしょうね
散歩好き
2020年02月13日 22:06
ラマナ・マハリシの言葉
<抜粋>
弟子 どうやって自己に到達できましょうか?
マハリシ: 自己に到るということはない。
自己がもし到られるべきものならば、それは今ここにはなく、やがて得られる何かを意味するだろう。
新しく得られるものはまた、失われるものでもある。それは永遠のものではない。
永遠でないものに努力する価値はない。
それゆえに、自己は到るものではないと言うのである。⬅
あなたは、自己である。あなたは、すでにそれである。⬅
事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態について無知だということだ。
無知は次から次へと続き、至福である自己にヴェールをかける。
努力はただ、この悪い知識である無知のヴェールをはぐことに向けられればよい。
悪い知識とは、自己と身体や心などを誤って同一視することである。
<ここまで>

なるほどマハリシは理屈の虚偽を実証できたということか。*_*
2020年02月14日 12:01


>散歩好きさん
>
>ラマナ・マハリシの言葉
><抜粋>
>弟子 どうやって自己に到達できましょうか?
>マハリシ: 自己に到るということはない。
>自己がもし到られるべきものならば、それは今ここにはなく、やがて得られる何かを意味するだろう。
>新しく得られるものはまた、失われるものでもある。それは永遠のものではない。
>永遠でないものに努力する価値はない。
>それゆえに、自己は到るものではないと言うのである。⬅
>あなたは、自己である。あなたは、すでにそれである。⬅
>事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態について無知だということだ。
>無知は次から次へと続き、至福である自己にヴェールをかける。
>努力はただ、この悪い知識である無知のヴェールをはぐことに向けられればよい。
>悪い知識とは、自己と身体や心などを誤って同一視することである。
><ここまで>
>
>なるほどマハリシは理屈の虚偽を実証できたということか。*_*

かれの言う通りですね・・・・
レゾンデートル
2020年02月14日 21:35
>>悟った人は自他不二、こんな精神にならなければ虚偽です。
>
>
>>雨ニモマケズ
>https://www.youtube.com/watch?v=WZ0vSyS_AI4
>

>その虚偽であるという根拠はなんですか?


悟りとは真理であり本質です。

唯一無ニではなく自他不二の誰にでも有るものです。

本来仏なり、衆生一切悉有仏性です。

ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。

2020年02月14日 23:35


>レゾンデートルさん
>
>>>悟った人は自他不二、こんな精神にならなければ虚偽です。
>>
>>
>>>雨ニモマケズ
>>https://www.youtube.com/watch?v=WZ0vSyS_AI4
>>
>
>>その虚偽であるという根拠はなんですか?
>
>
>悟りとは真理であり本質です。
>
>唯一無ニではなく自他不二の誰にでも有るものです。
>
>本来仏なり、衆生一切悉有仏性です。
>
>ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。
>
それはあなたの体験ですか?それとも、本で読んで、想像しているのですか?
レゾンデートル
2020年02月15日 00:38
愚さん

>>>悟った人は自他不二、こんな精神にならなければ虚偽です。
>>
>>
>>>雨ニモマケズ
>>https://www.youtube.com/watch?v=WZ0vSyS_AI4
>>
>
>>その虚偽であるという根拠はなんですか?
>
>
>悟りとは真理であり本質です。
>
>唯一無ニではなく自他不二の誰にでも有るものです。
>
>本来仏なり、衆生一切悉有仏性です。
>
>ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。
>

それはあなたの体験ですか?それとも、本で読んで、想像しているのですか?

解釈です。
レゾンデートル
2020年02月15日 01:06
>愚さん

>>自我の数だけ悟りがあるとのかな? 笑

>さまざまな悟りはありますよ

真理では無いのですね。
レゾンデートル
2020年02月15日 01:15
>愚さん

>>自我の数だけ悟りがあるとのかな? 笑
>さまざまな悟りはありますよ

悟りとは仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。
とあります。
レゾンデートル
2020年02月15日 01:32
>愚さん

>>自我の数だけ悟りがあるとのかな? 笑
>さまざまな悟りはありますよ

人其々の個人の悟りがあるとするなら、あなたは因果しかないと言ってるようだが、個人の存在を認めることになります。
レゾンデートル
2020年02月15日 01:58
>愚さん

批判するわけでなくロムしていて、あなたは因果に囚われることなくレゾンデートル、個人の存在価値を見出す実存主義者であると認識した次第です。
2020年02月15日 07:47


>レゾンデートルさん
>
>愚さん
>
>>>>悟った人は自他不二、こんな精神にならなければ虚偽です。
>>>
>>>
>>>>雨ニモマケズ
>>>https://www.youtube.com/watch?v=WZ0vSyS_AI4
>>>
>>
>>>その虚偽であるという根拠はなんですか?
>>
>>
>>悟りとは真理であり本質です。
>>
>>唯一無ニではなく自他不二の誰にでも有るものです。
>>
>>本来仏なり、衆生一切悉有仏性です。
>>
>>ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。
>>
>
>それはあなたの体験ですか?それとも、本で読んで、想像しているのですか?
>
>解釈です。

そうですか・・・・そうすると、誰かほかの人の話の解釈ですね。それはいいとして、その真偽を確かめたいと思いませんか?
2020年02月15日 07:50


>レゾンデートルさん
>
>>愚さん
>
>>>自我の数だけ悟りがあるとのかな? 笑
>
>>さまざまな悟りはありますよ
>
>真理では無いのですね。

議論してもしょうがないのですが、たとえば、自分が山になることもあれば、川になることもあるし、死んだ人がいまここにいることもあるし、時間がないということがわかるときもあるし、それは様々な形態をとります。

時間と空間にからみますから、それがおぼろげに見えることもあれば、クッキリと見えるときもあります。
2020年02月15日 07:53


>レゾンデートルさん
>
>>愚さん
>
>批判するわけでなくロムしていて、あなたは因果に囚われることなくレゾンデートル、個人の存在価値を見出す実存主義者であると認識した次第です。

あなたは個人の存在価値というものが、あると思いますか?もし、あるとすれば、それはどのようなものでしょうか?
レゾンデートル
2020年02月15日 11:48
>愚さん

>>批判するわけでなくロムしていて、あなたは因果に囚われることなくレゾンデートル、個人の存在価値を見出す実存主義者であると認識した次第です。

>あなたは個人の存在価値というものが、あると思いますか?もし、あるとすれば、それはどのようなものでしょうか?

人は誰もが因果の制約された環境の中で生きていかざる得ませんが、その制約から逃げることなく積極的にかかわっていくことに存在価値が生じることです。
たとえば、あなたのこのブログです。
レゾンデートル
2020年02月15日 12:07
>愚さん

>>悟りとは真理であり本質です。
>>
>>唯一無ニではなく自他不二の誰にでも有るものです。
>>
>>本来仏なり、衆生一切悉有仏性です。
>>
>>ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。
>>
>
>>>それはあなたの体験ですか?それとも、本で読んで、想像しているのですか?
>
>>解釈です。

>そうですか・・・・そうすると、誰かほかの人の話の解釈ですね。それはいいとして、その真偽を確かめたいと思いませんか?

世界において本質である真理は一つとの学説に同意したわけです。

愚さんは、「あなたはわたしです」と述べてますね。


レゾンデートル
2020年02月15日 12:24
>愚さん

>>ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。

何故、二人の悟りである真理が理想になってしまったのか?は探求に値しますが、原因は個体は我欲を絶つことはできないからだと考えます。
2020年02月15日 15:14


>レゾンデートルさん
>
>>愚さん
>
>>>批判するわけでなくロムしていて、あなたは因果に囚われることなくレゾンデートル、個人の存在価値を見出す実存主義者であると認識した次第です。
>
>>あなたは個人の存在価値というものが、あると思いますか?もし、あるとすれば、それはどのようなものでしょうか?
>
>人は誰もが因果の制約された環境の中で生きていかざる得ませんが、その制約から逃げることなく積極的にかかわっていくことに存在価値が生じることです。
>たとえば、あなたのこのブログです。

アンガージュマンみたいですね・・・・・それはそういう側面もあるんだと思います
2020年02月15日 15:25


>レゾンデートルさん
>
>>愚さん
>
>>>ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。
>
>何故、二人の悟りである真理が理想になってしまったのか?は探求に値しますが、原因は個体は我欲を絶つことはできないからだと考えます。

わたしはこのように考えています。ひとは、楽を求めるものだ、と。これ以外の原理は存在しないと。

そして、その楽を追求していくと、自由とかそういったものになる。倫理もここから生まれる。

そして、真理がそれらを与えてくれるという人たちがいるので、つい、その言葉に誘われて、真理に向かう。

そして、ああだこうだ真理について、説教される。真理は遠くにあると思う。

理論、理屈、議論、教義、ああだこうだになる。

バカバカしさのパレードが続く・・・・・

ちょっと考えればわかるけど、自分を離れた真理なんかなんの意味もない。だから、自分しかいない。

自分をどうやって知るか?それは、日常の他との関係であらわれる。だから、そこから始めるのが、普通の自然な発想と思われます・・・・・
レゾンデートル
2020年02月15日 15:49
>アンガージュマンみたいですね・・・・・それはそういう側面もあるんだと思います

同じフランスの実存主義です。
レゾンデートル
2020年02月15日 16:45
>レゾンデートルさん
>
>>愚さん
>
>>>ところが、仏陀は仏になってイエスキリストは神に理想の存在なってしまった。
>
>>何故、二人の悟りである真理が理想になってしまったのか?は探求に値しますが、原因は個体は我欲を絶つことはできないからだと考えます。

>わたしはこのように考えています。ひとは、楽を求めるものだ、と。これ以外の原理は存在しないと。

確かにそうです。

>そして、その楽を追求していくと、自由とかそういったものになる。倫理もここから生まれる。

自己が自由になる為に自我を統制する倫理が必要となります。

>そして、真理がそれらを与えてくれるという人たちがいるので、つい、その言葉に誘われて、真理に向かう。
>そして、ああだこうだ真理について、説教される。真理は遠くにあると思う。
>理論、理屈、議論、教義、ああだこうだになる。
>バカバカしさのパレードが続く・・・・・

倫理・道徳です。

社会の秩序が整って平和にならないと個人の自由は獲得できないからでしょう。

>ちょっと考えればわかるけど、自分を離れた真理なんかなんの意味もない。だから、自分しかいない。

それはそうです。

>自分をどうやって知るか?それは、日常の他との関係であらわれる。だから、そこから始めるのが、普通の自然な発想と思われます・・・・・

人が係る因果・因縁の社会を変える為に、仏陀やイエス・キリストは自己規制を求めたのでしょう。
レゾンデートル
2020年02月15日 17:53
つまり、因果即自我ですから。
2020年02月16日 16:16


>レゾンデートルさん
>
>つまり、因果即自我ですから。

流れはわかりませんが、因果即無我です。

自我は因果の結果ですが、因果に逆らうようになってしまったわけです。ですから、因果のままに動いていけばいいのです。

こういうと、ひどく消極的に聞こえますが、実際は逆で、因果にのって、因果を利用していくというイメージです。

それまで、因果との戦いに使われていたエネルギーの消費が止み、別種のエネルギーが生まれます。これは創造的なエネルギーです。
レゾンデートル
2020年02月17日 12:51
>愚さん
>
>>つまり、因果即自我ですから。

>流れはわかりませんが、因果即無我です。

>自我は因果の結果ですが、因果に逆らうようになってしまったわけです。ですから、因果のままに動いていけばいいのです。

>こういうと、ひどく消極的に聞こえますが、実際は逆で、因果にのって、因果を利用していくというイメージです。

>それまで、因果との戦いに使われていたエネルギーの消費が止み、別種のエネルギーが生まれます。これは創造的なエネルギーです。

例えばですが・・・昨日、酒を飲み過ぎて今日、仕事にならない。酒は程々にしなければいけない。今日は酒を飲むのを控えよう。

以上は、因果即自我ですか? それとも、因果即無我ですか?

2020年02月17日 14:14


>レゾンデートルさん
>
>>愚さん
>>
>>>つまり、因果即自我ですから。
>
>>流れはわかりませんが、因果即無我です。
>
>>自我は因果の結果ですが、因果に逆らうようになってしまったわけです。ですから、因果のままに動いていけばいいのです。
>
>>こういうと、ひどく消極的に聞こえますが、実際は逆で、因果にのって、因果を利用していくというイメージです。
>
>>それまで、因果との戦いに使われていたエネルギーの消費が止み、別種のエネルギーが生まれます。これは創造的なエネルギーです。
>
>例えばですが・・・昨日、酒を飲み過ぎて今日、仕事にならない。酒は程々にしなければいけない。今日は酒を飲むのを控えよう。
>
>以上は、因果即自我ですか? それとも、因果即無我ですか?
>
無我です
レゾンデートル
2020年02月17日 14:38
>愚さん

>>例えばですが・・・昨日、酒を飲み過ぎて今日、仕事にならない。酒は程々にしなければいけない。今日は酒を飲むのを控えよう。
>
>>以上は、因果即自我ですか? それとも、因果即無我ですか?
>

>無我です


以上の例で、因果即自我はどうなりますか?

2020年02月17日 15:17


>レゾンデートルさん
>
>>愚さん
>
>>>例えばですが・・・昨日、酒を飲み過ぎて今日、仕事にならない。酒は程々にしなければいけない。今日は酒を飲むのを控えよう。
>>
>>>以上は、因果即自我ですか? それとも、因果即無我ですか?
>>
>
>>無我です
>
>
>以上の例で、因果即自我はどうなりますか?
>
実際は無我なのですが、つまり、因果に基づいた思考過程があるだけなのですが、そこに、主体=自己=自我を立てて、わたしは酒を飲むのを控えようとか、自分が決めたんだと思い込むのが迷いです。自我の誕生です。
2020年02月17日 16:13
>愚さん

>>レゾンデートルさん
>
>>>愚さん
>
>>>>例えばですが・・・昨日、酒を飲み過ぎて今日、仕事にならない。酒は程々にしなければいけない。今日は酒を飲むのを控えよう。
>>
>>>>以上は、因果即自我ですか? それとも、因果即無我ですか?
>>
>
>>>無我です
>
>
>>以上の例で、因果即自我はどうなりますか?
>
>実際は無我なのですが、つまり、因果に基づいた思考過程があるだけなのですが、そこに、主体=自己=自我を立てて、わたしは酒を飲むのを控えようとか、自分が決めたんだと思い込むのが迷いです。自我の誕生です。

迷いですか? 主体の意思が無い?
深酒は自己の行為だし、体調が悪いのは自己の身体です。
それに対して、飲酒を控えるのは自己、自我の意思決定です。

昨日はちょっと飲み過ぎとか、体調が悪かったとか・・今日もまた飲もうとか、各個体、人其々の自我の意思でしょう。

主体の意思が無いとすると、自分の意思、行為が分からないとすると重度の認知症になります。















2020年02月17日 17:08


>さん
>
>>愚さん
>
>>>レゾンデートルさん
>>
>>>>愚さん
>>
>>>>>例えばですが・・・昨日、酒を飲み過ぎて今日、仕事にならない。酒は程々にしなければいけない。今日は酒を飲むのを控えよう。
>>>
>>>>>以上は、因果即自我ですか? それとも、因果即無我ですか?
>>>
>>
>>>>無我です
>>
>>
>>>以上の例で、因果即自我はどうなりますか?
>>
>>実際は無我なのですが、つまり、因果に基づいた思考過程があるだけなのですが、そこに、主体=自己=自我を立てて、わたしは酒を飲むのを控えようとか、自分が決めたんだと思い込むのが迷いです。自我の誕生です。
>
>迷いですか? 主体の意思が無い?
>深酒は自己の行為だし、体調が悪いのは自己の身体です。
>それに対して、飲酒を控えるのは自己、自我の意思決定です。
>
>昨日はちょっと飲み過ぎとか、体調が悪かったとか・・今日もまた飲もうとか、各個体、人其々の自我の意思でしょう。
>
>主体の意思が無いとすると、自分の意思、行為が分からないとすると重度の認知症になります。
>
>
それが一般的な感じ方です。実際は、意思と行為を知覚しているのは、主体ではなく、思考です。ものすごく簡単ですが、そうは思えないというのが実情です。

思考している主体=自分は、思考の産物です。つまり、わたしが考えているのではなく・・・・わたしというものが先にあり、そのあとに思考しているのではなく・・・・思考が先にあり、そこから、思考がわたしを作っているわけです。
2020年02月17日 22:12
>>主体の意思が無いとすると、自分の意思、行為が分からないとすると重度の認知症になります。
>
>
>それが一般的な感じ方です。実際は、意思と行為を知覚しているのは、主体ではなく、思考です。ものすごく簡単ですが、そうは思えないというのが実情です。

>思考している主体=自分は、思考の産物です。つまり、わたしが考えているのではなく・・・・わたしというものが先にあり、そのあとに思考しているのではなく・・・・思考が先にあり、そこから、思考がわたしを作っているわけです。

例えば、それはどんな思考ですか?

自我思考は五蘊です。感覚から生じる思考は身体が先です。
レゾンデートル
2020年02月17日 22:29
感覚から生じる思考は身体が主体です。

2020年02月17日 22:32


>レゾンデートルさん
>
>感覚から生じる思考は身体が主体です。
>
>

感覚がなくても思考は生まれるでしょう。思考は、実際は、言語化された感覚です。
2020年02月17日 22:35


>さん
>
>>>主体の意思が無いとすると、自分の意思、行為が分からないとすると重度の認知症になります。
>>
>>
>>それが一般的な感じ方です。実際は、意思と行為を知覚しているのは、主体ではなく、思考です。ものすごく簡単ですが、そうは思えないというのが実情です。
>
>>思考している主体=自分は、思考の産物です。つまり、わたしが考えているのではなく・・・・わたしというものが先にあり、そのあとに思考しているのではなく・・・・思考が先にあり、そこから、思考がわたしを作っているわけです。
>
>例えば、それはどんな思考ですか?
>
>自我思考は五蘊です。感覚から生じる思考は身体が先です。
>
思考が状況を解釈し、思考が行為を決めます。そして、思考は、その思考を見て、思考者=わたしが思考していると思考するのです。
レゾンデートル
2020年02月17日 23:48
>>自我思考は五蘊です。感覚から生じる思考は身体が先です。
>
>思考が状況を解釈し、思考が行為を決めます。そして、思考は、その思考を見て、思考者=わたしが思考していると思考するのです。

思考が行為を決めるのは、それはそうでしょう。

昨夜、飲み過ぎて頭が痛いから、午後から出社することにした。

でも、思考の主体は私、自分自身です。
2020年02月18日 00:17


>レゾンデートルさん
>
>>>自我思考は五蘊です。感覚から生じる思考は身体が先です。
>>
>>思考が状況を解釈し、思考が行為を決めます。そして、思考は、その思考を見て、思考者=わたしが思考していると思考するのです。
>
>思考が行為を決めるのは、それはそうでしょう。
>
>昨夜、飲み過ぎて頭が痛いから、午後から出社することにした。
>
>でも、思考の主体は私、自分自身です。

議論してもしょうがないですが、そんなものないんです。仏教の主張は、ただ、それだけのことです。

ですから、ひとつの方法論として、その自分自身を探してごらんなさい、ということになるわけです。

見つかれば、あなたが正しくて、わたしも仏教も間違っていることになります。よろしかったら、探して、見つけてきて、それがどんなものなのか、教えてください。
レゾンデートル
2020年02月18日 01:06
>>>思考が状況を解釈し、思考が行為を決めます。そして、思考は、その思考を見て、思考者=わたしが思考していると思考するのです。
>
>>思考が行為を決めるのは、それはそうでしょう。
>
>>昨夜、飲み過ぎて頭が痛いから、午後から出社することにした。
>
>>でも、思考の主体は私、自分自身です。

>議論してもしょうがないですが、そんなものないんです。仏教の主張は、ただ、それだけのことです。

>ですから、ひとつの方法論として、その自分自身を探してごらんなさい、ということになるわけです。

>見つかれば、あなたが正しくて、わたしも仏教も間違っていることになります。よろしかったら、探して、見つけてきて、それがどんなものなのか、教えてください。

思考=私と言ってもいいですが・・・

西洋ではレゾンデートルの思考・・愚さんの思考・・Aさんの思考・・Bさんの思考と区別されます。

仏教は諸法無我ですが、西洋思想は実存主義で個人の存在が容認されてますからね。
レゾンデートル
2020年02月18日 01:39
今、他人が何を考えてるか? わからない。
snow
2020年02月18日 07:32
思考=私 でしょうか?  思考は移り変わるし、ない時もありますよ。
記憶喪失になれば、私が誰かわからなくなります。

私という個人が存在するという社会生活上の普通の考え方と、私という個人は実は存在しないという考え方の両立は可能だと思います。
私はそうしていますよ。
例えはおかしいかもしれませんが、表から観たのと裏側から観たのの違い、みたいに考えています。

今この瞬間、これって、「こうなるしかないからこうなってる」んですよ。
悲観的な話ではなく、これはほんとの話だと思います。
全体性の中で無数の網の目のように絡み合いながら今この瞬間になっている、個人というのはそこから掬いあげたものだと思います。
掬いあげずにおけば、全体があるだけです。
掬いあげには思考が必要です。 という仕組みになっていますね。
レゾンデートル
2020年02月18日 15:05
個人の思考は個体の感覚器官等、脳器官の体験に基づくものですから、直接、他人と共有できない。

クオリア(英: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと[2]、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう[3]。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。この現象は主観内にのみ現れ、客観的な言語化や計測によるデータ化は行えない。従って、クオリアの説明に科学的方法が通用するかどうかも不明である。

言語化不可能[16]体験される質感そのものを言語化して伝えることは困難であるとされる。例えば生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることには困難をともなう。質感そのものを言語として概念化しがたいことは、質感が言語という情報と直接的な因果関係がない[17]ものだからとも言われる。

誤り不可能[18]クオリアの性質として、それは誤り得ない(訂正を受けない)もの、ともしばしば言われる。人は様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない様々な感覚を持つ。しかしそうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験である、といったことが言われる。
私秘的[19]他者から観測できない個人的なものである、とされる。本人が特権的にアクセスできるという意味で特権的アクセス[20]とも言われる。

――― wikipedia より
レゾンデートル
2020年02月18日 15:27
あなたもわたしも唯一無にの存在なのです。
レゾンデートル
2020年02月18日 15:40
つまり、輪廻転生はありません。

現在の私の意識は唯一無二であり、生死は一度切りで二度は有りません。
レゾンデートル
2020年02月18日 15:48
もちろん、一般化された言語による思考の共有はできます。
2020年02月18日 16:59


>レゾンデートルさん
>
>>>>思考が状況を解釈し、思考が行為を決めます。そして、思考は、その思考を見て、思考者=わたしが思考していると思考するのです。
>>
>>>思考が行為を決めるのは、それはそうでしょう。
>>
>>>昨夜、飲み過ぎて頭が痛いから、午後から出社することにした。
>>
>>>でも、思考の主体は私、自分自身です。
>
>>議論してもしょうがないですが、そんなものないんです。仏教の主張は、ただ、それだけのことです。
>
>>ですから、ひとつの方法論として、その自分自身を探してごらんなさい、ということになるわけです。
>
>>見つかれば、あなたが正しくて、わたしも仏教も間違っていることになります。よろしかったら、探して、見つけてきて、それがどんなものなのか、教えてください。
>
>思考=私と言ってもいいですが・・・
>
>西洋ではレゾンデートルの思考・・愚さんの思考・・Aさんの思考・・Bさんの思考と区別されます。
>
>仏教は諸法無我ですが、西洋思想は実存主義で個人の存在が容認されてますからね。
>
さまざまな思考があります。思考A、思考Bはあります・・・それはそうです。ただ、「わたし」が思考しているのではありません。思考する主体はないんです。

仏教も、西洋思想も、捨ててしまったらどうですか?
わたしたちは、仏教や西洋思想に基づいて生きているわけではないんでしょうから
2020年02月18日 17:14


>レゾンデートルさん
>
>つまり、輪廻転生はありません。
>
>現在の私の意識は唯一無二であり、生死は一度切りで二度は有りません。

「私」の意識はありません。即今の意識があるだけです。だから、そのまま生死を超えています。もしくは、即今の生死そのものです。

ですから、ネアンデルタール人?の意識と、いまの意識は同じと言ってもいいんです。ですから、輪廻転生があるといっても、ないといってもいいんです。

早い話が、輪廻転生に頭を悩ます必要はないんです。
2020年02月18日 18:48
愚さん

>レゾンデートルさん
>
>つまり、輪廻転生はありません。
>
>現在の私の意識は唯一無二であり、生死は一度切りで二度は有りません。

>「私」の意識はありません。即今の意識があるだけです。だから、そのまま生死を超えています。もしくは、即今の生死そのものです。

>ですから、ネアンデルタール人?の意識と、いまの意識は同じと言ってもいいんです。ですから、輪廻転生があるといっても、ないといってもいいんです。

>早い話が、輪廻転生に頭を悩ます必要はないんです。

その通りです。

脳の構造が同じなら、ネアンデルタール人とあなたとわたしの唯の意識は同じかもしれません。

2020年02月18日 19:10


>さん
>
>愚さん
>
>>レゾンデートルさん
>>
>>つまり、輪廻転生はありません。
>>
>>現在の私の意識は唯一無二であり、生死は一度切りで二度は有りません。
>
>>「私」の意識はありません。即今の意識があるだけです。だから、そのまま生死を超えています。もしくは、即今の生死そのものです。
>
>>ですから、ネアンデルタール人?の意識と、いまの意識は同じと言ってもいいんです。ですから、輪廻転生があるといっても、ないといってもいいんです。
>
>>早い話が、輪廻転生に頭を悩ます必要はないんです。
>
>その通りです。
>
>脳の構造が同じなら、ネアンデルタール人とあなたとわたしの唯の意識は同じかもしれません。
>
だから、意識はひとつしかなくて、それが、さまざまな形で、意識A、意識Bと現れているだけなんです。
レゾンデートル
2020年02月19日 14:17
>>脳の構造が同じなら、ネアンデルタール人とあなたとわたしの唯の意識は同じかもしれません。
>
>だから、意識はひとつしかなくて、それが、さまざまな形で、意識A、意識Bと現れているだけなんです。

意識下しない無意識で、その意識を一切衆生悉有仏性と言ったりするのでしょう。

レゾンデートル
2020年02月19日 14:32
生命の意識だから、生きてる意識だから無意識ではない。