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この記事へのコメント

年寄りの初心者
2020年02月06日 18:31
貴重なお話ありがとうございます

禅寺での修行(理由)が理解できる気がしました
ぶったたいて強制的に緊張させ、恐怖になりきらせる様子など座禅以外でも
無我を作り出しているんだなあと。
特に曹洞宗のお坊さんは体験第一で理屈を極端に否定するので参禅に通っている人もどうしてもそのような人が多くなり
理屈で納得しないと動けない私などは肩身の狭いです
そのようなお寺ばかりでは無いのですが一番間口が広く(いつでも座れて 皆さんよく座っている)利用させてもらっている次第です。

多くの人は功徳があると思って座ってらっしゃるように見受けられ(間違いでもないでしょうが、道徳的に正しいと思われているようにも見受けられます)私なんかより長年通ってる年配の人でも膝が悪くなったりして自然に来なくなるように見受けますこれなくなった人は果たしてどこまで落ち着けたのか、、、
なんだかなぁと思っていた次第です。

禅寺の前テーラーワーダーにも行ったのですがコテコテの輪廻の話をされ (あちらの坊さんには六道輪廻は明確な事実)こちらはそのような事に執着を持ってないのにいったん信じてさらにそこから離れるといった面倒な事をやるのか全く理解できないのですが 
実際信者の方は問題なく受け入れて 瞑想以外は論理的ではない憶える仏教で余りにバカバカしく 
指導された瞑想もビバッサナーと言いながら実際はサマタ瞑想じゃないかと突っ込みをいれつつ、、、

バカヤロー禅ですが実際やってみると体があまりに反応してピクピク動き、静寂の僧堂では周りに迷惑かけそうでこれはこれでどうしたものかと思っています
どうでしょう慣れると体の反応は減ってくるでしょうか?

また渡辺様が再現するためのご苦労とそこに至る理由はわかりましたが
最初に(偶然?)覚醒した原因(理由)は何だとお考えになっているでしょうか?
2020年02月06日 19:46


>年寄りの初心者さん
>
>貴重なお話ありがとうございます
>
>禅寺での修行(理由)が理解できる気がしました
>ぶったたいて強制的に緊張させ、恐怖になりきらせる様子など座禅以外でも
>無我を作り出しているんだなあと。
>特に曹洞宗のお坊さんは体験第一で理屈を極端に否定するので参禅に通っている人もどうしてもそのような人が多くなり
>理屈で納得しないと動けない私などは肩身の狭いです
>そのようなお寺ばかりでは無いのですが一番間口が広く(いつでも座れて 皆さんよく座っている)利用させてもらっている次第です。
>
>多くの人は功徳があると思って座ってらっしゃるように見受けられ(間違いでもないでしょうが、道徳的に正しいと思われているようにも見受けられます)私なんかより長年通ってる年配の人でも膝が悪くなったりして自然に来なくなるように見受けますこれなくなった人は果たしてどこまで落ち着けたのか、、、
>なんだかなぁと思っていた次第です。
>
>禅寺の前テーラーワーダーにも行ったのですがコテコテの輪廻の話をされ (あちらの坊さんには六道輪廻は明確な事実)こちらはそのような事に執着を持ってないのにいったん信じてさらにそこから離れるといった面倒な事をやるのか全く理解できないのですが 
>実際信者の方は問題なく受け入れて 瞑想以外は論理的ではない憶える仏教で余りにバカバカしく 
>指導された瞑想もビバッサナーと言いながら実際はサマタ瞑想じゃないかと突っ込みをいれつつ、、、
>
>バカヤロー禅ですが実際やってみると体があまりに反応してピクピク動き、静寂の僧堂では周りに迷惑かけそうでこれはこれでどうしたものかと思っています
>どうでしょう慣れると体の反応は減ってくるでしょうか?
>
>また渡辺様が再現するためのご苦労とそこに至る理由はわかりましたが
>最初に(偶然?)覚醒した原因(理由)は何だとお考えになっているでしょうか?

日曜にレスします
宮啓
2020年02月06日 20:20
 愚さんのお話を聴きながら思ったこと。


 クリシュナムルティの述べる「思考」の意味としては、「感情」「感覚」も含まれているように思います。

 「因縁」をxとすると、因縁は時間(変化する時刻t)の関数としてY(t)=x と表記できると思います。

 次に、「思考」を因縁xの関数として、思考をF(x)として表すことができるのではないでしょうか。

 もちろん、このときに「思考」とは、クリシュナムルティが述べるところの、「感情」「感覚」を含むものとします。

 ここで「思考」に注意を向けると、「思考」「感情」「感覚」に注意を向けると、自ずと「因縁」に注意することになるのではないでしょうか。

 「因縁」を見る!! 「因縁」が見える。

 その時に、思考:F(x)=x

 、すなわち「思考」即「因縁」となる。

 そのときには、関数Fが消え去っている。

 関数Fとは、自我(思考)を特徴づける条件付けに他ならなかった。。

 この条件付けFが消え去っている。

 この場合において、これはすべてのt(時刻)において、思考:F(x)=x これが成り立つ。

 すなわち、時間(時刻)に依存しない現象となる。

 時間の終焉。


 以上のようなことを思いつきました。
お節介な見物人
2020年02月07日 14:23
 「頭の体操」という本のなかで「答案でまったく同じ答案があったのですがそれはどういう答案でしょうか?」という問題がありその回答になるほどと感心したことが記憶にあります。
 100点満点の人と白紙の答案だそうです。名前が違うと突っ込まないでください。
 3歳頃から自我が芽生え時間と他人と自分の物という概念ができあがっていくそうです。「私」という何かが繋がっていて過去の「私」が所有していたということを記憶していなければ所有という概念はなりたたないようです。過去に所有していて今も自分の物だということを主張できます。「自我」は自身の外から持ってきたものではなく、大人とのやりとりや「自分かわいい」という感覚によって徐々に構築されていくようです。
------興味の無い方は飛ばしてください。 
 日常で自己を守ってくれるのは親ですが常にそばに寄り添っているわけではありません。なんとか自分自身を守るために仮想の「私=自我さん」が頼りになるなるようです。「言葉」を憶え感情に巻き込まれ対処できなくなったときにかわいそうな「私=自己憐憫」を癒やしてくれるのは「自我さん」だったかもしれません。「自我さん」との会話が始まり、困らないようにするにはどうしたらいいか「自我さん」が答えるようになっていったかもしれません。
 いつもそばに寄り添いたよりがいのある「自我さん」を「私」というリーダーの座に置くようになったかもしれません。頼られる「自我さん」はどんどん「知識」をため込んでイメージ力によって仮想の世界を構築していきます。「言葉と文字」を使って思考すれば何でもできるように教わり、実際考えれてできるようになると自信がついてきます。「夢・希望」というワクワクする言葉で「自我さん」の力を発揮しようと試みるようになっているようです。
 「何かを掴んだり何かを得て」満足しようという飽くなき衝動に突き動かされ、常にエネルギーを補給して働き続けます。実体がないのに動き続けることで実体があるように感じてしまいます。
-------
 対極を持ったままの個人としての「自我さん」は自身の仮想の世界で100点を目指します。太極を見性すべく全体として働きたい「自我さん」は空っぽで無である0点を目指します。最高の口伝は沈黙(=無)であり最高の仏典は白紙(=無)なのかもしれません。
 物知りの方で「花」の名前がポンポン出てくる人がいますが、現実の花をチラッとみて花の名前を教えてくれます。その方は現実の花より「花図鑑の写真の花」の方を見ているようです。私たちは「花」の名前を知らなくても見た瞬間にどんな色でどんな様子であるかを既に知っています。「花」の名前を知る必要などまったくありません。花の名前テストで100点を取るために花を見ているのではないということです。
 仏典の専門用語の解釈や解説の試験のために生きているわけではありません。苦しみの本体である個人的・二元的世界で働いている「自我さん」の働きが幻想であるというこをと見抜くことにあります。また「自我さん」の見ていた世界も無常であり実体のない世界であることを見抜かなければならないようでうす。
「一切空不可得」
お節介な見物人
2020年02月07日 14:33
 話は変わりますが、コップがコップとして働くにはコップは空でなくてはなりません。飲み終わったら空にしておく。手が手として働くには何も持っていないというのがニュートラル(=中立・中道)。道元禅師の「空手還郷」は当然のことかもしれません。
 この世で使わせてもらう物は仮りの物(=借り物)であって死んでしまえば何もありません。その場でその時にしっかり味わって終わり。個人的な「自我さん」が過度な執着を起こすと悩み苦しみとなった自身を苛むことになるようです。全てを諦め全てを放棄すると、全ては満たされていたというパラドックスに気づくかも知れません。
 何かがあって何かを得られる世界から、何でも無い何の意味も価値もないという世界であるというパラダイムシフトが起こるとどうなるでしょう。
 全てが何でも無いから、全てが何にでもあるということにならないでしょうか。ミカンを金として見てもいい。目の前のコップを佐藤さんと呼んでもいい。お釈迦様を「乾屎橛」と言ってもかまいません。
 赤ちゃんは空っぽであるから、どんな国に生まれてもその言葉を話せるようになる。どんな観念でも自身のものとすることができるようです。他の国で生まれればその国の環境や文化が身につくようです。身につけれるということは捨て去ることもできるということかもしれません。今の思い込みの世界が偽りであると気づくこともできる。
 そもそも身につけているアイデンティは名刺に書かれた文字でしかありません。電車に乗っている人やすれ違う人や旅先で逢う人のどこにアイデンティがあるかさっぱり分かりません。何でもない人が何かであるかのように振る舞って生活しているのが「社会」であり個人的な「自我さん」の活躍の場ということになります。太極を見性して「自我さん」が必要な時に「自我さん」に活躍してもらえばそれでいいのではないでしょうか。
 「思考さん」も必要な時に働いてもらえばそれでいいのであって毛嫌いすることはないかもしれません。

 雑駁な話で申し訳ありません。
2020年02月09日 00:18


>年寄りの初心者さん
>
>貴重なお話ありがとうございます
>
>禅寺での修行(理由)が理解できる気がしました
>ぶったたいて強制的に緊張させ、恐怖になりきらせる様子など座禅以外でも
>無我を作り出しているんだなあと。
>特に曹洞宗のお坊さんは体験第一で理屈を極端に否定するので参禅に通っている人もどうしてもそのような人が多くなり
>理屈で納得しないと動けない私などは肩身の狭いです
>そのようなお寺ばかりでは無いのですが一番間口が広く(いつでも座れて 皆さんよく座っている)利用させてもらっている次第です。
>
>多くの人は功徳があると思って座ってらっしゃるように見受けられ(間違いでもないでしょうが、道徳的に正しいと思われているようにも見受けられます)私なんかより長年通ってる年配の人でも膝が悪くなったりして自然に来なくなるように見受けますこれなくなった人は果たしてどこまで落ち着けたのか、、、
>なんだかなぁと思っていた次第です。
>
>禅寺の前テーラーワーダーにも行ったのですがコテコテの輪廻の話をされ (あちらの坊さんには六道輪廻は明確な事実)こちらはそのような事に執着を持ってないのにいったん信じてさらにそこから離れるといった面倒な事をやるのか全く理解できないのですが 
>実際信者の方は問題なく受け入れて 瞑想以外は論理的ではない憶える仏教で余りにバカバカしく 
>指導された瞑想もビバッサナーと言いながら実際はサマタ瞑想じゃないかと突っ込みをいれつつ、、、
>
>バカヤロー禅ですが実際やってみると体があまりに反応してピクピク動き、静寂の僧堂では周りに迷惑かけそうでこれはこれでどうしたものかと思っています
>どうでしょう慣れると体の反応は減ってくるでしょうか?
>
>また渡辺様が再現するためのご苦労とそこに至る理由はわかりましたが
>最初に(偶然?)覚醒した原因(理由)は何だとお考えになっているでしょうか?

あまりの苦悩に脳のネットワークが焼き切れて、ついでに、自他の分別が取れちゃったみたいなんですが・・・とても、お勧めできるしろものではありません。

バカヤロー禅を実践していただきありがとうございます。身体の反応は、わたしの経験からですが、あるひとつの問題に対しては減っていくかもしれませんが、それが片付くと、もっと深い問題が現れてきます。これは、身体に反応が来ますね・・・・

僧堂でやるときは、歯を食いしばる感じで、身体を硬直させてみたりします。自分の家でなら自由にできますが・・・

それは一つの問題に対しては、反応は薄くなっていきます。コツは、苦痛を意識的に強めることです。どうなっちゃうんだろうと不安になってもつっこんでいくと、なんとかなっちゃうものです。

わたしの経験では、どんな問題・・・・こころにひっかかること・・・・でも、溶けてしまいました。

とにかく、どんなに大きなこころの問題も、かならず、解決するんだ、そして、それはできると、決意してしまうことです。あきらめないんです。

仏教的な理屈でいえば、どのような問題も空性ですから、消えていく性質のものです。

骨の折れる作業ですが、解放されていく作業です。
2020年02月09日 01:09


>宮啓さん
>
> 愚さんのお話を聴きながら思ったこと。
>
>
> クリシュナムルティの述べる「思考」の意味としては、「感情」「感覚」も含まれているように思います。
>
> 「因縁」をxとすると、因縁は時間(変化する時刻t)の関数としてY(t)=x と表記できると思います。
>
> 次に、「思考」を因縁xの関数として、思考をF(x)として表すことができるのではないでしょうか。
>
> もちろん、このときに「思考」とは、クリシュナムルティが述べるところの、「感情」「感覚」を含むものとします。
>
> ここで「思考」に注意を向けると、「思考」「感情」「感覚」に注意を向けると、自ずと「因縁」に注意することになるのではないでしょうか。
>
> 「因縁」を見る!! 「因縁」が見える。
>
> その時に、思考:F(x)=x
>
> 、すなわち「思考」即「因縁」となる。
>
> そのときには、関数Fが消え去っている。
>
> 関数Fとは、自我(思考)を特徴づける条件付けに他ならなかった。。
>
> この条件付けFが消え去っている。
>
> この場合において、これはすべてのt(時刻)において、思考:F(x)=x これが成り立つ。
>
> すなわち、時間(時刻)に依存しない現象となる。
>
> 時間の終焉。
>
>
> 以上のようなことを思いつきました。

難しいですね・・・・・思考が思考に注意をするとき、自らを観察するとき、それは因果から自由だということでしょうか?

なにか因果が消えちゃう感じですね・・・・たしかに、そんな感じします
マイヤーマイヤ
2020年02月09日 02:45
深夜配信のつべがチャット無効に成ってますが設定ですか?
2020年02月09日 02:57


>マイヤーマイヤさん
>
>深夜配信のつべがチャット無効に成ってますが設定ですか?

OKにしてあるんですが・・・・おかしいな
宮啓
2020年02月09日 08:40
 愚さん

>> 以上のようなことを思いつきました。

>難しいですね・・・・・思考が思考に注意をするとき、自らを観察するとき、それは因果から自由だということでしょうか?

なにか因果が消えちゃう感じですね・・・・たしかに、そんな感じします
---


 「実は、因果は神であった。。」というような感じ。。
地球人
2020年02月09日 16:48
動画を拝聴しました。

解りやすくて素晴らしい。

地球人
2020年02月09日 17:08
そうそう・・

「思考が思考に気づく・・」 がよく解らなかった。

今一度、動画を観て確認しようと思いました。
地球人
2020年02月09日 18:20
「思考が思考に気づく」どの箇所だったかな?

最初から、また聞くのも長いし・・・苦笑
地球人
2020年02月09日 19:02
何方か、「思考が思考に気づく」が時間の箇所を教えて頂ければ幸いです。
地球人
2020年02月09日 19:11
思考が思考を観ている・・19分40秒~でした。
地球人
2020年02月09日 19:19
思考が思考を観ている者が有ると考えてしまう・・・
地球人
2020年02月09日 21:41
思考が思考を観ていると思い込んでる・・??
地球人
2020年02月09日 22:07
思考が不在の時、思考が観る??
地球人
2020年02月09日 22:30
要するに、思考者が不在(自我が不在)であればいいわけでしょう。
お節介な見物人
2020年02月09日 22:34
 頭の中で思考が起こっていることが分かっている自分がいるという気づきがあるようです。気づいている自分というのは後づけであって、実在しない幻想の自分である。幻想の自分(=自我さん)によって問題が作り出され続けているということのようです。

 痛いのは痛いという感覚があるだけ。痒いは痒いという感覚があるだけ。見ているのではなく見えているだけ。聞いているのではなく聞こえているだけ。味わっているのではなく味があるだけ。・・・
 ただの感覚で終わっているだけなのに、自分が痛いとして処理してしまう癖があるようです。痛い感覚がすでに終わっていても、痛いを感じている主体がいることにしている癖があるので、私が痛がっているというふうに主体を立ててしまうようです。
 例:子供に、どこが痛いの?◯◯ちゃんが痛いのね。◯◯ちゃんの手が痛いとお母さんに言うようになっている。大人になっても必ず主語に「私」をつけて説明するとか、「私」はこう思いますとかならず主語をつけて話す癖があります。英語ではI(=主語)+述語+目的語・・・という構文。

 意味もなく事象が起こっている(=天気・気温・・)だけなのですが・・・。ただ寒気に触れて寒さを感じているだけ。しかし事象を対象として認識する癖があり、事象を解釈する主体(=私)が存在している。私は寒い(=寒がっている私がいる)というふうに解釈する癖から抜け出せないようです。

 世界には意味や価値がある決めつけ、私は意味や価値を知る主体であるとの思い込み。ただ見聞覚知しているだけの「真我」には判断や評価や感覚などない意識であるとの見抜きが必要かも知れません。見聞覚知によって感受された感覚に反応して分別が起こり良いとか悪いとかの二元対立によって迷いが起こっているようです。
 参考になればと思います。
お昼寝
2020年02月09日 23:12
地球人さん 

どうされました ^_^
2020年02月09日 23:17
>お節介な見物人さん

愚さんの言ってる見性は理解できましたか?
地球人
2020年02月09日 23:19
>あさん

動画見ましたか?
地球人
2020年02月10日 00:28
悟りの構造は見性体験だから学識では理解できない。
2020年02月10日 07:45
見たよ^_^
なにがあってもこころが平安にたもたれていれば悟りの境地に達しているということやな^_^
お節介な見物人
2020年02月10日 08:20
 透明人間さんへ

 ここでの投稿は妄想ごっこからチョットづつでも目が覚めていくことが目的だと勝手に思っています。妄想を増やするこであるのであれば申し訳ありません。
 
 他人という対象を立てて評価するのが「自我さん」のお決まりのパターンのようです。「知りたい」という欲求はどんないのちでも本能的に備わっている大切な欲求のようです。「知りたい」は「自我さん」の単なる癖ですから良いも悪いもありません。私たちは自身の頭の中で作られている3D映像からわざわざ特定の他人という対象を抜き出して他人としているのも脳の癖のようです。
 掲示板の文字を見て背後に人格を持った何者かが隠れていると想像するのは人間の持っている特殊な能力の一つであることは確かです。
 目に見えないし捉えることができない対象を「知りたい」というのは誰もが抱く「不安」の表れかも知れません。顔が見えないというのは恐怖かも知れません。
 掲示板で登場する誰もがただの透明人間でいいのではないでしょうか。「お節介な見物人」としている透明人間であって相手にする価値も意味もない何かだと思っていただけるとありがたいのですが。
 「理解できている」とすれば納得するのでしょうか。
 「理解できていない」とすればやっぱり口だけかと納得するのでしょうか。
 どちらにしてもただ「知りたい」という探究心のために心が動かされたということが重要なことなのではないでしょうか。日々「知りたい」「知りたい」と心が彷徨っている、なんだか落ち着かない・・・・。

 「知っても」気分がはれるでもなし、お腹が一杯になるでもなし。「知った」ことで自身が解答を掴むのか、自身の問題から解放されるのか。大事なターニングポイントかもしれません。

 愚さんのおしゃっていることと体験とを照合して日々での問題解決(=解消)のヒントを得られればそれでいいのではないでしょうか。
 透明人間(=お節介な見物人)など相手にする時間がもったいない。
 「他は是れ吾にあらず」
2020年02月10日 10:06
自我さんは免疫^_^

大切に扱わんとならん^_^
地球人
2020年02月10日 11:36
「思考が思考を観ている・・・」

これは分かり難いです。

意識が思考を観ているでは駄目なのかな?

2020年02月10日 12:03
右脳と左脳やろ^_^
左脳はうるさいらしいで^_^

知らんけど^_^
2020年02月10日 12:08
体についてるのほとんど2つやな^_^
なんでやろ^_^

うん?
理解した^_^
でも何故脳は2つに分かれているんだろうな^_^
地球人
2020年02月10日 12:41
>右脳と左脳やろ^_^
左脳はうるさいらしいで^_^

では、思考が思考を観ている動画は19分~なのだが、右脳と左脳で解説してくれないか?

右脳       左脳

ひらめき     理論的
直感       分析
空間認識     科学的
創造       推理
芸術       言語認識(聞く・話す)
音楽を聴く   
図形を認識する
2020年02月10日 12:47
聞く人間違えておる^_^
理研に聞いた方がいいかも知れん^_^
2020年02月10日 12:51
思考が過去の思考を見てるんやろ^_^
2020年02月10日 12:52
ほんま器用やで^_^
地球人
2020年02月10日 12:54
>思考が過去の思考を見てるんやろ^_^

なるほど。^^
2020年02月10日 12:55
思考がどうやって見るのかわからん^_^
愚さんに聞くか^_^
地球人
2020年02月10日 13:02
思考の連鎖を止めるとは因果の連鎖を止めることです。
地球人
2020年02月10日 13:04
>思考がどうやって見るのかわからん^_^
愚さんに聞くか^_^

そうなのよ。

だから、思考ではなくて意識では?言ったのです。
地球人
2020年02月10日 13:10
知能なら、思考が思考を観ることが可能です。

知能が思考の連鎖を観ている。
2020年02月10日 16:38


>地球人さん
>
>「思考が思考を観ている・・・」
>
>これは分かり難いです。
>
>意識が思考を観ているでは駄目なのかな?

それでもいいです。ただ、思考を見ると、そこから、またあたまの中で、おしゃべり=思考が始まったりします。

というわけで、思考が思考を観るという表現をしたのですが・・・・

この思考がおしゃべりを止めて、ただ観ていくことが、道元の只管打坐です。クリシュナムルティのいう、観察者のいない観察です。このとき、思考はどうなっていくか?というのがクエスチョンです
>
>
地球人
2020年02月10日 16:57
>地球人さん
>
>>「思考が思考を観ている・・・」
>
>>これは分かり難いです。
>
>>意識が思考を観ているでは駄目なのかな?

>それでもいいです。ただ、思考を見ると、そこから、またあたまの中で、おしゃべり=思考が始まったりします。
>というわけで、思考が思考を観るという表現をしたのですが・・・・

なるほど、了解です。

>この思考がおしゃべりを止めて、ただ観ていくことが、道元の只管打坐です。クリシュナムルティのいう、観察者のいない観察です。このとき、思考はどうなっていくか?というのがクエスチョンです

体験として思考が止んで消えて、即今になります。

2020年02月10日 17:32
思考も物質と同じで時間があるのか・・^^
2020年02月10日 17:44
ものすごい速さで刹那生滅してるんだろうな^^

知らんけど^^
地球人
2020年02月10日 20:03
思考の終焉は時間の終焉
2020年02月10日 23:38


>地球人さん
>
>思考の終焉は時間の終焉

それはそうです
地球人
2020年02月11日 01:28
思考が落ちて思考者の不在となって、あるがままの世界が顕現するのでしょう。

通行人
2020年02月11日 10:22
あるがままの世界とは、戦争があったりコロナウィルス感染騒動があったり、地球人が煩悩のレスしたり・・・でしょ。^^
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月11日 19:01
観察者のいない観察というのは、名色分離智の段階にあたるはずです。
名色とは、ナーマとルーパ。ナーマは心、ルーパは物質です。

物質と心がクリアーに分離できたとき、私という観察主体の不在がはっきりとわかる。あるのは心と物質の流れだけで、私は存在しない!

ここから真の主体性が始まるのですよ。
2020年02月11日 19:10


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>観察者のいない観察というのは、名色分離智の段階にあたるはずです。
>名色とは、ナーマとルーパ。ナーマは心、ルーパは物質です。
>
>物質と心がクリアーに分離できたとき、私という観察主体の不在がはっきりとわかる。あるのは心と物質の流れだけで、私は存在しない!
>
>ここから真の主体性が始まるのですよ。

それを実践すればいいわけですね
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月12日 12:46
物質としてのルーパ、心としてのナーマ。科学はルーパの因果法則を探求する営み。仏教というのは、ナーマが服する因果法則を示したものでしょう。
その因果法則の中で、意志が要の中の要といえる役割を果たしている。
たーぼー
2020年02月12日 18:59
物質としてのルーパ、心としてのナーマ。科学はルーパの因果法則を探求する営み。仏教というのは、ナーマが服する因果法則を示したものでしょう。
その因果法則の中で、意志が要の中の要といえる役割を果たしている。


自由意志肯定派とは、おそらく前世が影響しているんだと思う。
どうしても、こうゆう風にしか出来ないとか、どうしてもこうゆう考え方が好きだとかってありますよね?
私は自分の前世は武士だったと思っているんです。
何者にも揺るがない絶対的主体性を確立するんだという思いが湧くと自然と元気が出て来るんです。気が漲ってくる。
そう考えると、今生での色々な条件ずけからは自由になる事は、まぁそんなに難しくないと思うんだけど、前世からの条件ずけから自由になる事は結構難しいと思う。
だからそう考えると完全な自由意志ではないけど、でも私はこういう風にしか出来ないです。
たーぼー
2020年02月12日 19:09
仏陀も独覚だから、仏陀の理法は前世が武士だった人には合うと思います。
ですからこのブログでも最近は仏陀の理法を書く人が増えたけど、自分のfeelgoodかどうかで判断すべきで、愚さんの理法の方がfeelgoodなら愚さんとその方の前世は似てるんだと思います。
地球人
2020年02月12日 22:10
真の主体性とは・・・俗世では八正道となるでしょう。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月13日 12:33
>たーぼーさん
>前世からの条件ずけから自由になることは結構難しいと思う

難しいというより不可能ではないでしょうか。その困難の中でどれだけ、意志を働かせるかだと思います。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月13日 12:35
主体性や自由なる意志を否定したら、八正道なんて意味をなさなくなる。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月13日 12:42
仏教で意志というとき、それは掴む意志ではなくて、手放す意志でしょう。

何を掴んでしまうか、掴むことに執着するか、掴んで苦悩や葛藤を深めてしまうか、同じものばかり性懲りもなく掴んでしまうか。こういう傾向性はそれこそカルマや因果に完璧に支配されているので、自由になるものではない。

なので、掴むことを自由の名の下に正当化しちゃいけない。

そうではなく、手放すことです。このときは意志を使わなければならない。
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月13日 12:48
只管打坐で思いの手放しが要諦中の要諦といわれるのも同じことです。坐っていれば自然に手放せるとはいっても、心が自発的に手放すことは同じでしょう。
2020年02月13日 20:13


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>主体性や自由なる意志を否定したら、八正道なんて意味をなさなくなる。

八正道の、一般的な解釈は、まあ、当面はイイにせよ、結局は意味をなさないと思います。それは、努力する自我を意味しているからです。

カルマ、業、輪廻転生
2020年02月13日 20:42
正念は自我の努力ではないです。

正念も無意味なら、仏教否定と同じです。
2020年02月13日 21:28


>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>正念は自我の努力ではないです。
>
>正念も無意味なら、仏教否定と同じです。

否定したらマズいですか?

否定しないとすれば、八正道は、どういうことになりますか?「正」ということは、どういうことだと思いますか?
カルマ、業、輪廻転生
2020年02月14日 12:41
念とはサティです。マインドフルネスや気づきはその翻訳的なことば。

正しいサティが正念ですが、同義反復のきらいがないともいえない。

自我が努力して気づくのではなく、悟りの光に照らされて心が明るみ出されるという感じでしょう。

仏教のアルファにしてオメガが、この正念に含まれていると思います。

初心で悟りを掠る段階から、ブッダの最終段階の悟りまでということです。

八正道はこの正念を中心にそこから展開される。
地球人
2020年02月14日 14:27
正念とは、一瞬一刻に常に注意を払い、油断せず心を保つ。との行ですが・・

仏教の「念」とは、思い想いではないです。
2020年02月14日 19:54


>カルマ、業、輪廻転生さん
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>念とはサティです。マインドフルネスや気づきはその翻訳的なことば。
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>正しいサティが正念ですが、同義反復のきらいがないともいえない。
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>自我が努力して気づくのではなく、悟りの光に照らされて心が明るみ出されるという感じでしょう。
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>仏教のアルファにしてオメガが、この正念に含まれていると思います。
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>初心で悟りを掠る段階から、ブッダの最終段階の悟りまでということです。
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>八正道はこの正念を中心にそこから展開される。

なるほど・・・・あなたの日常ではどのように展開されているのでしょうか?