afternoon 2020年02月19日 00:33 はじめまして。動画拝見致しました。自我はないというお話でしたが、自分の胸の辺りに感じる感覚、自分という者がいるような感覚は何でしょうか?思考やイメージをつかみ、胸の辺りで圧を加えているように感じられます。胸の辺りのその圧力を支点に、足場に、自分がいるような感覚が生じ、さらに思考が重なり、「自分が考えている」という錯覚が生まれるのでしょうか?思考やイメージをつかむ者、胸の辺りに圧力を加えている者は何なのか、よく分かりません。
愚 2020年02月19日 00:42 >afternoonさん>>はじめまして。>動画拝見致しました。>>自我はないというお話でしたが、自分の胸の辺りに感じる感覚、自分という者がいるような感覚は何でしょうか?>>思考やイメージをつかみ、胸の辺りで圧を加えているように感じられます。>>胸の辺りのその圧力を支点に、足場に、自分がいるような感覚が生じ、さらに思考が重なり、「自分が考えている」という錯覚が生まれるのでしょうか?>>思考やイメージをつかむ者、胸の辺りに圧力を加えている者は何なのか、よく分かりません。これはわたしの考えですが・・・・・というのは、ほかに読んだことがないんで・・・・・その感覚は葛藤からきているのだと思っています。これはYOUTUBEで、説明したほうがいいのかもしれませんが・・・・・その葛藤の源泉は、思考・意識の性質にあります。思考の特徴は、思考を読めるということです。早い話が、自分がなにを考えているかわかるということです。思考が先にあり、そこに思考者が生まれるのですが、それを錯覚します。思考者が先にあり、それから思考していると思い込みます。そして、この思考者の感覚は、思考者と思考の間の葛藤・・・それらは、積み重ねられて、無意識に入り込み、またその無意識は肉体に影響を及ぼしています。この肉体的な感覚が胸のあたりに感じるようなのです。こんど、YOUTUBEで、ご説明します
宮啓 2020年02月19日 19:50 知覚するときに、知覚体(観察者)を一つしか認知できない。 しかし、今、現在、地上に77億の知覚体が存在している。 もしも、知覚体を複数認知することができれば、知覚体との自己同一化は起こりにくいように思います。 それが脳の現界なのかもしれません。
散歩好き 2020年02月19日 21:04 愚さま わかり易く説明していただきありがとうございます。^_^ 忘れないように整理してみました。*_* 絶対的な主体である「私=本来の自己、本来の面目、仏性、宇宙全体、不二の意識・・」と身心に後づけして特定のものをコントロールしているかのように振る舞っている「私=自我」。二つの「私」が同じ文字で使われているので混乱してしまう。 普段の生活において、対象として気づかれ・知覚されるものはすべて「私=自我」ではない。 今見ている「パソコン」は知覚対象なので「私=自我」ではない。聞こえてくる音も知覚されるので「私=自我」ではない。「私=自我」は見えていることに気づいている、「私=自我」は聞こえている音に気づいている。 痛みは知覚されるので「私=自我」ではない。憤り・怒り・むかつき・苛立ち・・等も気づいている「私=自我」がいるので「私=自我」ではない。 五感での感受、感情・思考・身体にも気づくので気づかれる対象なので「私=自我」ではない。気づかれるあらゆるものは「私=自我」ではない。 普段活動している時に「私=自我」はどこにも見当たらない。ただ事象が起こっていて、ただ感受されている。 物自体、感覚自体、思考自体、身体自体は主体として自らが存在してはいない。刺激に対して反応しているだけのこと。気づくものがいなければ客体にもならない。 もし思考が「私=自我」ならその思考に気づいているのは誰?。思考そのものを「私=自我」であり気づいているのも「私=自我」とすれば、二人の「私」が同時に存在することになり本当の「私=自我」などわからないことになります。「私」としているのは二つがあるわけではないので思考は「私=自我」ではない。 この「気づいている本体」はどこを探しても見つけることはできない。 身体の動きに後づけで「私=自我」をくっつけているだけなのに、身体をコントロールしているかのように勘違いしている。心臓・肝臓・腎臓・・臓器も血管も神経も病気も老いもコントロールできるものではない。ただ働きとしてある。 痒いところを掻いたが、まったく同じ動作や力の入れ具合を再現することが出来るだろうか。自身の身体でコントロールしているのならできるはずなのだが・・。オリンピック選手も自分の身体であれば同じ動作で同じように身体をコントロールしているはずですが・・。野球選手もどんなところでも思い通りに投げたり打ったりできないのはコントロールできていない証拠かも。 身体の臓器が「私」の一部であるなら、その臓器に気づいているのも「私=自我」であれば二人の「私」が同時に存在することになりこれも矛盾する。毛も私であるとしても、抜ければ私ではなくなる?空気は私ではないのに、身体に入れば私になる? 水は私ではないのに飲めば私になる? 身体も思考も「私=自我」ではなく、「私=自我」がコントロールしているわけでもない。 何かの「塊=身体」が動いていて、社会という仕組みから言葉や文字が作られてきた。共通する概念に「身体」という名前がついている。思いが作用する概念に「心」という名前がついている。社会生活上で身心とされている共通概念に自動的に後づけされる「私=自我」として教え込まれてきた。その「私」を当たり前のように使ってきたので、何の違和感もなく「私」が存在しているかのように使っているだけのこと。 身体・心・思考・感覚・感情は「私」なしにただ働いているということ・・。食べたくなれば勝手に食べ物を探してモグモグ、のどが渇けば水をゴクゴク、風呂から上がれば勝手に身体を拭いて、排泄をもよおせばトイレで排泄・・勝手に身体が動いていてそこに誰もいない。⬅ 熟睡しているときには殆どの感覚が最小限に働いているだけ。しかし、目を醒ませばどこかに「私は在る=本来の面目・・」という感覚はなくならない。 私は私以外の全てに気づくことができるし知ることができる。私ではない存在であるので私に見られるし私に認識される。「私=気づき、本来の面目・・・」は「私=気づき、本来の面目・・」であることはできるが「私=気づき、本来の面目・・」自身を知ることができない。 全ての現れは気づくことができるので「本来の面目・・」ではないが、「本来の面目・・」は全ての現れとして現れているにちがいない。どれもこれも「本来の面目・・」だらけ。
愚 2020年02月19日 23:54 >散歩好きさん>>愚さま> わかり易く説明していただきありがとうございます。^_^> 忘れないように整理してみました。*_*> >> 絶対的な主体である「私=本来の自己、本来の面目、仏性、宇宙全体、不二の意識・・」と身心に後づけして特定のものをコントロールしているかのように振る舞っている「私=自我」。二つの「私」が同じ文字で使われているので混乱してしまう。> 普段の生活において、対象として気づかれ・知覚されるものはすべて「私=自我」ではない。>> 今見ている「パソコン」は知覚対象なので「私=自我」ではない。聞こえてくる音も知覚されるので「私=自我」ではない。「私=自我」は見えていることに気づいている、「私=自我」は聞こえている音に気づいている。> 痛みは知覚されるので「私=自我」ではない。憤り・怒り・むかつき・苛立ち・・等も気づいている「私=自我」がいるので「私=自我」ではない。> 五感での感受、感情・思考・身体にも気づくので気づかれる対象なので「私=自我」ではない。気づかれるあらゆるものは「私=自我」ではない。> 普段活動している時に「私=自我」はどこにも見当たらない。ただ事象が起こっていて、ただ感受されている。>> 物自体、感覚自体、思考自体、身体自体は主体として自らが存在してはいない。刺激に対して反応しているだけのこと。気づくものがいなければ客体にもならない。>> もし思考が「私=自我」ならその思考に気づいているのは誰?。思考そのものを「私=自我」であり気づいているのも「私=自我」とすれば、二人の「私」が同時に存在することになり本当の「私=自我」などわからないことになります。「私」としているのは二つがあるわけではないので思考は「私=自我」ではない。> この「気づいている本体」はどこを探しても見つけることはできない。>> 身体の動きに後づけで「私=自我」をくっつけているだけなのに、身体をコントロールしているかのように勘違いしている。心臓・肝臓・腎臓・・臓器も血管も神経も病気も老いもコントロールできるものではない。ただ働きとしてある。> 痒いところを掻いたが、まったく同じ動作や力の入れ具合を再現することが出来るだろうか。自身の身体でコントロールしているのならできるはずなのだが・・。オリンピック選手も自分の身体であれば同じ動作で同じように身体をコントロールしているはずですが・・。野球選手もどんなところでも思い通りに投げたり打ったりできないのはコントロールできていない証拠かも。> 身体の臓器が「私」の一部であるなら、その臓器に気づいているのも「私=自我」であれば二人の「私」が同時に存在することになりこれも矛盾する。毛も私であるとしても、抜ければ私ではなくなる?空気は私ではないのに、身体に入れば私になる? 水は私ではないのに飲めば私になる?>> 身体も思考も「私=自我」ではなく、「私=自我」がコントロールしているわけでもない。> 何かの「塊=身体」が動いていて、社会という仕組みから言葉や文字が作られてきた。共通する概念に「身体」という名前がついている。思いが作用する概念に「心」という名前がついている。社会生活上で身心とされている共通概念に自動的に後づけされる「私=自我」として教え込まれてきた。その「私」を当たり前のように使ってきたので、何の違和感もなく「私」が存在しているかのように使っているだけのこと。>> 身体・心・思考・感覚・感情は「私」なしにただ働いているということ・・。食べたくなれば勝手に食べ物を探してモグモグ、のどが渇けば水をゴクゴク、風呂から上がれば勝手に身体を拭いて、排泄をもよおせばトイレで排泄・・勝手に身体が動いていてそこに誰もいない。⬅> 熟睡しているときには殆どの感覚が最小限に働いているだけ。しかし、目を醒ませばどこかに「私は在る=本来の面目・・」という感覚はなくならない。>> 私は私以外の全てに気づくことができるし知ることができる。私ではない存在であるので私に見られるし私に認識される。「私=気づき、本来の面目・・・」は「私=気づき、本来の面目・・」であることはできるが「私=気づき、本来の面目・・」自身を知ることができない。>> 全ての現れは気づくことができるので「本来の面目・・」ではないが、「本来の面目・・」は全ての現れとして現れているにちがいない。どれもこれも「本来の面目・・」だらけ。ずいぶん丁寧に観ていただき、ありがとうございます。自分が自分について知っていることは、みなガラクタだったということは、すてきなことなんです。
散歩好き 2020年02月20日 09:29 愚さまコメントありがとうございます。^_^ 我々が「私の〜」「私は〜」の「〜」に入るものは全てガラクタ・嘘・偽り・マヤカシ・・・。「私=自我」の妄想に騙されていたと気づいているのも「私=自我」? 「私=自我」は幻で、社会生活で相互に存在確認するために便宜的に使い慣らされてきたということですか・・・。言わば親や社会からの洗脳と自己洗脳によって「私=自我」が存在しているだけで、単なる便利な表現でしかなかった。 誰もが素性の知れない何でもない塊(=身体)として何らかの姿をして何らかの働きをしているだけなのに。 世間一般で自己紹介するときの、「私は〜」〜は自己のアイデンティティとして他に開示して認めてもらいたいものです。 このアイデンティティは社会生活で相互に認識できるように付与したり自らの自己証明ということ。単に社会生活で使う便宜的で一時的な仮のもの。アイデンティティが「私=自我」を作り、「私=自我」がアイデンティティを利用しているという相互依存関係にどっぷりはまり込んでいる。 「私=自我」は「空っぽ」ということを認めたくないので、何かにすがりつきたいし拠り所が欲しい。自身の存在の意味づけを続けないと「空っぽ」が見抜かれてしまう。見抜かれないために「私の〜」や「私は〜」を主張しなければならない。「私=自我」は日々自己証明に奔走しているという愛しい努力家。「私=自我」が変容するには、「空っぽ」のままで平気で楽しく生きているという事実を積み重ねていかないと納得してくれないかも。*_*
T.S 2020年02月20日 09:57 バガヴァッド・ギーター 第7章3節聖バガヴァーン(クリシュナ)がアルジュナに語った。「幾千人の中のただ一人が、全き智識を求めて努力する。その秀でた求道者たちの中のただ一人が私(クリシュナ)に達する」計算上、真の悟りに達するのは数百万人に一人ということです。2000年ほど前の宗教の国インドですらこんな状態です。じっさいクリシュナムルティの話を聞いたり本を読んで悟った人なんか一人もいないでしょう。一般化はまず不可能かと。
散歩好き 2020年02月20日 11:47 全知であれば全てが知られていて知る必要はなく、知は無用の長物。究極の全知は知らずして知るので知ろうとする働きがない無知であるかもしれません。 「知らなきゃいけない」という脳の癖によって本能的に「知りたい」という情動が発動されて対象を掴み取ろうとしているのでしょうか。「脳と腹」 脳は自己保身のために、目の前の状況に対して瞬間的に反応するような仕組みが備わっているかもしれません。 直面する状況ごとに扁桃体の下す「逃避か闘争か」の二者択一を瞬時に判断する。その判断によって自動的に視床下部からホルモンが分泌されて身体が反応させられている。「私=自我」が入り込む隙間などなく本能で行われている反射的なもの。思考以前の組み込まれたプログラムが勝手に働いて処理されるプロセスがある。 下された決断で身体が動いてしまった後で、思考がどうのこうのとしても後の祭り・・・。どうして◯◯してしまったとか、どうして◯◯しなかったか・・・後悔することがありますが、そこに行為者なんていなかった。 レストランのメニューで思考が選んだことになっていますが、実際は体調や匂いで身体がすでに決めているものが脳に教えていて、思考が追随して「口」から言葉が出ている。さらに後づけの「私」が「私」が決めたとしている。 自分が決めたのに、後から食べなきゃ良かったとか、違うものにすればよかったと自分を責めるのはどうして・・・・。身体が主で思考は従ということ。食べ終われば身体はもう満たされているので静かになっている。胃は味を感じない。食後に感じる料金と味の違和感に思考が反応して、思考がケチをつけたい。そこで後悔や愚痴が起こっているだけといういつものパターンを繰り返しているだけ。 ギャンブル依存症も理性では分かっているのに、身体が優先されてついついはまり込んでいる。分かっちゃいるけど止められないのでつい自己正当化してしまういつものパターンの繰り返し。 突き詰めると身体が納得しないと脳の癖から脱することは不可能。薬物も身体が欲しているので脳でどうすることもできない・・・。https://www.weblio.jp/phrase/%E8%85%B9_3・腹が立つ・腹に据えかねる・腹を割って・腹癒せ・腹が黒い・腹に落ちる・腑に落ちる 三毒(貪・瞋・癡)は脳ではなく、腹から来ていて腹に落ちないと解消できないのでは。理性がどうして腹に勝てるのか? 生命の働きは何かを取り入れ(=入力)エネルギーに変換して活動(=出力)して不用なものを排泄しているだけの単純な機能。口と排泄口の一本の消化器(=腸・腹)から様々な臓器(=心臓・脳・・)が派生的に特有の機能を分担しているだけ。大元は腹が中心なので腹に従わざるを得ないかもしれません。 思考の理解から腹での理解へ、腹にあるものを発散するか断ち切るかの方が有効かもしれません。
cheaptrick 2020年02月20日 12:11 >T.Sさん>その秀でた求道者たちの中のただ一人が私(クリシュナ)に達するその秀でた求道者たち数千人の中のただ一人が私(クリシュナ)に達する、でしょう。そうでないと計算が会いません。
カルマ、業、輪廻転生 2020年02月20日 13:04 自我の不在と絶対的主体性はセットになるのじゃないですか?絶対的主体性とは、人間の脳や、内臓、身体にはないのです。自我による思考を否定するのは、まあよいとして、身体や腹にアイデンティティーを求めてはダメなんです。とりあえずはよいとしても、それは悟りでも何でもないのです。
散歩好き 2020年02月20日 13:35 カルマ、業、輪廻転生さん>絶対的主体性とは、人間の脳や、内臓、身体にはないのです。まったくそのとおりだと感じています。コントロールもできない行為者もいないただの塊という認識はあります。日々生きて働いているのは身体であることを否定することはできません。 呼吸は意識的にできることであり、身体に働きかけるできるできる手段の一つであると実感しています。 思考よりも丹田に集中することへシフトしている実験途上ということです。悟り云々はあまり関心はありません。 ストレスなく寛げてよく眠れればそれで十分です。*_*
愚 2020年02月20日 21:22 >散歩好きさん>>愚さま>>コメントありがとうございます。^_^>> 我々が「私の〜」「私は〜」の「〜」に入るものは全てガラクタ・嘘・偽り・マヤカシ・・・。「私=自我」の妄想に騙されていたと気づいているのも「私=自我」?> 「私=自我」は幻で、社会生活で相互に存在確認するために便宜的に使い慣らされてきたということですか・・・。言わば親や社会からの洗脳と自己洗脳によって「私=自我」が存在しているだけで、単なる便利な表現でしかなかった。>> 誰もが素性の知れない何でもない塊(=身体)として何らかの姿をして何らかの働きをしているだけなのに。> 世間一般で自己紹介するときの、「私は〜」〜は自己のアイデンティティとして他に開示して認めてもらいたいものです。> このアイデンティティは社会生活で相互に認識できるように付与したり自らの自己証明ということ。単に社会生活で使う便宜的で一時的な仮のもの。アイデンティティが「私=自我」を作り、「私=自我」がアイデンティティを利用しているという相互依存関係にどっぷりはまり込んでいる。>> 「私=自我」は「空っぽ」ということを認めたくないので、何かにすがりつきたいし拠り所が欲しい。自身の存在の意味づけを続けないと「空っぽ」が見抜かれてしまう。見抜かれないために「私の〜」や「私は〜」を主張しなければならない。「私=自我」は日々自己証明に奔走しているという愛しい努力家。「私=自我」が変容するには、「空っぽ」のままで平気で楽しく生きているという事実を積み重ねていかないと納得してくれないかも。*_*すぐ、いまから、実験してみればいいんです。テレビを見るとき、ただ、空っぽで聞いてみればいいわけです。頭を動かさないで、ただ見聞きすればいいわけです。そうするとどうなるか、自分で見ていくわけです。
愚 2020年02月20日 21:29 >T.Sさん>>バガヴァッド・ギーター 第7章3節>>聖バガヴァーン(クリシュナ)がアルジュナに語った。>>「幾千人の中のただ一人が、全き智識を求めて努力する。その秀でた求道者たちの中のただ一人が私(クリシュナ)に達する」>>計算上、真の悟りに達するのは数百万人に一人ということです。>>2000年ほど前の宗教の国インドですらこんな状態です。>>じっさいクリシュナムルティの話を聞いたり本を読んで悟った人なんか一人もいないでしょう。>>一般化はまず不可能かと。わたしはそうは思っていません・・・・間違っているかもしれませんが・・・・アインシュタインの一般相対論は、当初、世界に理解できる人は、ニ三人といわれていました。それがいまでは啓蒙書があり、テレビで解説し、GPSで実用化されています。要点はなにかといえば、理論と実験です。物理の場合は、実験は、専門家にまかせられています。この場合は、理論は自分で理解し、実験を自分でやる、という個人になるだけのことです。ひとりが理解し、実験すれば、なんにんかに伝えられます。それはいちど始まれば、想像以上のスピードで普及していくと想像します・・・・・コロナウィルスと一緒です
カルマ、業、輪廻転生 2020年02月21日 12:43 >愚さん>ひとりが理解し、実験すれば、なんにんかに伝えられます。それは一度始まれば、想像以上のスピードで普及していくと想像しますそうだと思います。誰の悟りがすごかった、すごくない、などと過去の覚者、開祖、高僧たちの序列、番付、品定め、崇拝や反発、こういったことは無意味になりつつあるのが現代でしょう。普通の人間が普通に悟れる道が探究されていい。スマホが爆発的に普及するのと同じになればいいです。
マイヤーマイヤ 2020年02月21日 17:19 第一回結集の時の条件は悟りを得物アーナンダは未だ悟ってないので彼拔きでは結集は出来ないので緊急に悟ったことにされちゃった。次の仏陀は弥勒まで待たないとならないが。市井には悟った人は幾らでもいるが仏陀がいないいて認定者不在、まあ悟りなんてどうでもいいが。発狂の悟りを得れば古今の聖賢と知らずに握手出来ちゃうよ。
愚 2020年02月22日 07:58 >カルマ、業、輪廻転生さん>>>愚さん>>>ひとりが理解し、実験すれば、なんにんかに伝えられます。それは一度始まれば、想像以上のスピードで普及していくと想像します>>そうだと思います。>>誰の悟りがすごかった、すごくない、などと過去の覚者、開祖、高僧たちの序列、番付、品定め、崇拝や反発、こういったことは無意味になりつつあるのが現代でしょう。>>普通の人間が普通に悟れる道が探究されていい。>>スマホが爆発的に普及するのと同じになればいいです。>そうだと思います。だから、まずは仏教やおしゃかさんから捨てるわけですね・・・・
カルマ、業、輪廻転生 2020年02月22日 08:34 スマホの普及のように覚醒をといっても、覚醒のレベルを思いっきり落としたのじゃしょうがない。少なくとも臨済宗の大悟徹底を上回るレベルじゃないと無意味だと思う。
この記事へのコメント
動画拝見致しました。
自我はないというお話でしたが、自分の胸の辺りに感じる感覚、自分という者がいるような感覚は何でしょうか?
思考やイメージをつかみ、胸の辺りで圧を加えているように感じられます。
胸の辺りのその圧力を支点に、足場に、自分がいるような感覚が生じ、さらに思考が重なり、「自分が考えている」という錯覚が生まれるのでしょうか?
思考やイメージをつかむ者、胸の辺りに圧力を加えている者は何なのか、よく分かりません。
>afternoonさん
>
>はじめまして。
>動画拝見致しました。
>
>自我はないというお話でしたが、自分の胸の辺りに感じる感覚、自分という者がいるような感覚は何でしょうか?
>
>思考やイメージをつかみ、胸の辺りで圧を加えているように感じられます。
>
>胸の辺りのその圧力を支点に、足場に、自分がいるような感覚が生じ、さらに思考が重なり、「自分が考えている」という錯覚が生まれるのでしょうか?
>
>思考やイメージをつかむ者、胸の辺りに圧力を加えている者は何なのか、よく分かりません。
これはわたしの考えですが・・・・・というのは、ほかに読んだことがないんで・・・・・その感覚は葛藤からきているのだと思っています。
これはYOUTUBEで、説明したほうがいいのかもしれませんが・・・・・その葛藤の源泉は、思考・意識の性質にあります。
思考の特徴は、思考を読めるということです。早い話が、自分がなにを考えているかわかるということです。
思考が先にあり、そこに思考者が生まれるのですが、それを錯覚します。思考者が先にあり、それから思考していると思い込みます。
そして、この思考者の感覚は、思考者と思考の間の葛藤・・・それらは、積み重ねられて、無意識に入り込み、
またその無意識は肉体に影響を及ぼしています。
この肉体的な感覚が胸のあたりに感じるようなのです。
こんど、YOUTUBEで、ご説明します
よろしくお願い致します。
しかし、今、現在、地上に77億の知覚体が存在している。
もしも、知覚体を複数認知することができれば、知覚体との自己同一化は起こりにくいように思います。
それが脳の現界なのかもしれません。
わかり易く説明していただきありがとうございます。^_^
忘れないように整理してみました。*_*
絶対的な主体である「私=本来の自己、本来の面目、仏性、宇宙全体、不二の意識・・」と身心に後づけして特定のものをコントロールしているかのように振る舞っている「私=自我」。二つの「私」が同じ文字で使われているので混乱してしまう。
普段の生活において、対象として気づかれ・知覚されるものはすべて「私=自我」ではない。
今見ている「パソコン」は知覚対象なので「私=自我」ではない。聞こえてくる音も知覚されるので「私=自我」ではない。「私=自我」は見えていることに気づいている、「私=自我」は聞こえている音に気づいている。
痛みは知覚されるので「私=自我」ではない。憤り・怒り・むかつき・苛立ち・・等も気づいている「私=自我」がいるので「私=自我」ではない。
五感での感受、感情・思考・身体にも気づくので気づかれる対象なので「私=自我」ではない。気づかれるあらゆるものは「私=自我」ではない。
普段活動している時に「私=自我」はどこにも見当たらない。ただ事象が起こっていて、ただ感受されている。
物自体、感覚自体、思考自体、身体自体は主体として自らが存在してはいない。刺激に対して反応しているだけのこと。気づくものがいなければ客体にもならない。
もし思考が「私=自我」ならその思考に気づいているのは誰?。思考そのものを「私=自我」であり気づいているのも「私=自我」とすれば、二人の「私」が同時に存在することになり本当の「私=自我」などわからないことになります。「私」としているのは二つがあるわけではないので思考は「私=自我」ではない。
この「気づいている本体」はどこを探しても見つけることはできない。
身体の動きに後づけで「私=自我」をくっつけているだけなのに、身体をコントロールしているかのように勘違いしている。心臓・肝臓・腎臓・・臓器も血管も神経も病気も老いもコントロールできるものではない。ただ働きとしてある。
痒いところを掻いたが、まったく同じ動作や力の入れ具合を再現することが出来るだろうか。自身の身体でコントロールしているのならできるはずなのだが・・。オリンピック選手も自分の身体であれば同じ動作で同じように身体をコントロールしているはずですが・・。野球選手もどんなところでも思い通りに投げたり打ったりできないのはコントロールできていない証拠かも。
身体の臓器が「私」の一部であるなら、その臓器に気づいているのも「私=自我」であれば二人の「私」が同時に存在することになりこれも矛盾する。毛も私であるとしても、抜ければ私ではなくなる?空気は私ではないのに、身体に入れば私になる? 水は私ではないのに飲めば私になる?
身体も思考も「私=自我」ではなく、「私=自我」がコントロールしているわけでもない。
何かの「塊=身体」が動いていて、社会という仕組みから言葉や文字が作られてきた。共通する概念に「身体」という名前がついている。思いが作用する概念に「心」という名前がついている。社会生活上で身心とされている共通概念に自動的に後づけされる「私=自我」として教え込まれてきた。その「私」を当たり前のように使ってきたので、何の違和感もなく「私」が存在しているかのように使っているだけのこと。
身体・心・思考・感覚・感情は「私」なしにただ働いているということ・・。食べたくなれば勝手に食べ物を探してモグモグ、のどが渇けば水をゴクゴク、風呂から上がれば勝手に身体を拭いて、排泄をもよおせばトイレで排泄・・勝手に身体が動いていてそこに誰もいない。⬅
熟睡しているときには殆どの感覚が最小限に働いているだけ。しかし、目を醒ませばどこかに「私は在る=本来の面目・・」という感覚はなくならない。
私は私以外の全てに気づくことができるし知ることができる。私ではない存在であるので私に見られるし私に認識される。「私=気づき、本来の面目・・・」は「私=気づき、本来の面目・・」であることはできるが「私=気づき、本来の面目・・」自身を知ることができない。
全ての現れは気づくことができるので「本来の面目・・」ではないが、「本来の面目・・」は全ての現れとして現れているにちがいない。どれもこれも「本来の面目・・」だらけ。
>散歩好きさん
>
>愚さま
> わかり易く説明していただきありがとうございます。^_^
> 忘れないように整理してみました。*_*
>
>
> 絶対的な主体である「私=本来の自己、本来の面目、仏性、宇宙全体、不二の意識・・」と身心に後づけして特定のものをコントロールしているかのように振る舞っている「私=自我」。二つの「私」が同じ文字で使われているので混乱してしまう。
> 普段の生活において、対象として気づかれ・知覚されるものはすべて「私=自我」ではない。
>
> 今見ている「パソコン」は知覚対象なので「私=自我」ではない。聞こえてくる音も知覚されるので「私=自我」ではない。「私=自我」は見えていることに気づいている、「私=自我」は聞こえている音に気づいている。
> 痛みは知覚されるので「私=自我」ではない。憤り・怒り・むかつき・苛立ち・・等も気づいている「私=自我」がいるので「私=自我」ではない。
> 五感での感受、感情・思考・身体にも気づくので気づかれる対象なので「私=自我」ではない。気づかれるあらゆるものは「私=自我」ではない。
> 普段活動している時に「私=自我」はどこにも見当たらない。ただ事象が起こっていて、ただ感受されている。
>
> 物自体、感覚自体、思考自体、身体自体は主体として自らが存在してはいない。刺激に対して反応しているだけのこと。気づくものがいなければ客体にもならない。
>
> もし思考が「私=自我」ならその思考に気づいているのは誰?。思考そのものを「私=自我」であり気づいているのも「私=自我」とすれば、二人の「私」が同時に存在することになり本当の「私=自我」などわからないことになります。「私」としているのは二つがあるわけではないので思考は「私=自我」ではない。
> この「気づいている本体」はどこを探しても見つけることはできない。
>
> 身体の動きに後づけで「私=自我」をくっつけているだけなのに、身体をコントロールしているかのように勘違いしている。心臓・肝臓・腎臓・・臓器も血管も神経も病気も老いもコントロールできるものではない。ただ働きとしてある。
> 痒いところを掻いたが、まったく同じ動作や力の入れ具合を再現することが出来るだろうか。自身の身体でコントロールしているのならできるはずなのだが・・。オリンピック選手も自分の身体であれば同じ動作で同じように身体をコントロールしているはずですが・・。野球選手もどんなところでも思い通りに投げたり打ったりできないのはコントロールできていない証拠かも。
> 身体の臓器が「私」の一部であるなら、その臓器に気づいているのも「私=自我」であれば二人の「私」が同時に存在することになりこれも矛盾する。毛も私であるとしても、抜ければ私ではなくなる?空気は私ではないのに、身体に入れば私になる? 水は私ではないのに飲めば私になる?
>
> 身体も思考も「私=自我」ではなく、「私=自我」がコントロールしているわけでもない。
> 何かの「塊=身体」が動いていて、社会という仕組みから言葉や文字が作られてきた。共通する概念に「身体」という名前がついている。思いが作用する概念に「心」という名前がついている。社会生活上で身心とされている共通概念に自動的に後づけされる「私=自我」として教え込まれてきた。その「私」を当たり前のように使ってきたので、何の違和感もなく「私」が存在しているかのように使っているだけのこと。
>
> 身体・心・思考・感覚・感情は「私」なしにただ働いているということ・・。食べたくなれば勝手に食べ物を探してモグモグ、のどが渇けば水をゴクゴク、風呂から上がれば勝手に身体を拭いて、排泄をもよおせばトイレで排泄・・勝手に身体が動いていてそこに誰もいない。⬅
> 熟睡しているときには殆どの感覚が最小限に働いているだけ。しかし、目を醒ませばどこかに「私は在る=本来の面目・・」という感覚はなくならない。
>
> 私は私以外の全てに気づくことができるし知ることができる。私ではない存在であるので私に見られるし私に認識される。「私=気づき、本来の面目・・・」は「私=気づき、本来の面目・・」であることはできるが「私=気づき、本来の面目・・」自身を知ることができない。
>
> 全ての現れは気づくことができるので「本来の面目・・」ではないが、「本来の面目・・」は全ての現れとして現れているにちがいない。どれもこれも「本来の面目・・」だらけ。
ずいぶん丁寧に観ていただき、ありがとうございます。
自分が自分について知っていることは、みなガラクタだったということは、すてきなことなんです。
コメントありがとうございます。^_^
我々が「私の〜」「私は〜」の「〜」に入るものは全てガラクタ・嘘・偽り・マヤカシ・・・。「私=自我」の妄想に騙されていたと気づいているのも「私=自我」?
「私=自我」は幻で、社会生活で相互に存在確認するために便宜的に使い慣らされてきたということですか・・・。言わば親や社会からの洗脳と自己洗脳によって「私=自我」が存在しているだけで、単なる便利な表現でしかなかった。
誰もが素性の知れない何でもない塊(=身体)として何らかの姿をして何らかの働きをしているだけなのに。
世間一般で自己紹介するときの、「私は〜」〜は自己のアイデンティティとして他に開示して認めてもらいたいものです。
このアイデンティティは社会生活で相互に認識できるように付与したり自らの自己証明ということ。単に社会生活で使う便宜的で一時的な仮のもの。アイデンティティが「私=自我」を作り、「私=自我」がアイデンティティを利用しているという相互依存関係にどっぷりはまり込んでいる。
「私=自我」は「空っぽ」ということを認めたくないので、何かにすがりつきたいし拠り所が欲しい。自身の存在の意味づけを続けないと「空っぽ」が見抜かれてしまう。見抜かれないために「私の〜」や「私は〜」を主張しなければならない。「私=自我」は日々自己証明に奔走しているという愛しい努力家。「私=自我」が変容するには、「空っぽ」のままで平気で楽しく生きているという事実を積み重ねていかないと納得してくれないかも。*_*
聖バガヴァーン(クリシュナ)がアルジュナに語った。
「幾千人の中のただ一人が、全き智識を求めて努力する。その秀でた求道者たちの中のただ一人が私(クリシュナ)に達する」
計算上、真の悟りに達するのは数百万人に一人ということです。
2000年ほど前の宗教の国インドですらこんな状態です。
じっさいクリシュナムルティの話を聞いたり本を読んで悟った人なんか一人もいないでしょう。
一般化はまず不可能かと。
「知らなきゃいけない」という脳の癖によって本能的に「知りたい」という情動が発動されて対象を掴み取ろうとしているのでしょうか。
「脳と腹」
脳は自己保身のために、目の前の状況に対して瞬間的に反応するような仕組みが備わっているかもしれません。
直面する状況ごとに扁桃体の下す「逃避か闘争か」の二者択一を瞬時に判断する。その判断によって自動的に視床下部からホルモンが分泌されて身体が反応させられている。「私=自我」が入り込む隙間などなく本能で行われている反射的なもの。思考以前の組み込まれたプログラムが勝手に働いて処理されるプロセスがある。
下された決断で身体が動いてしまった後で、思考がどうのこうのとしても後の祭り・・・。どうして◯◯してしまったとか、どうして◯◯しなかったか・・・後悔することがありますが、そこに行為者なんていなかった。
レストランのメニューで思考が選んだことになっていますが、実際は体調や匂いで身体がすでに決めているものが脳に教えていて、思考が追随して「口」から言葉が出ている。さらに後づけの「私」が「私」が決めたとしている。
自分が決めたのに、後から食べなきゃ良かったとか、違うものにすればよかったと自分を責めるのはどうして・・・・。身体が主で思考は従ということ。食べ終われば身体はもう満たされているので静かになっている。胃は味を感じない。食後に感じる料金と味の違和感に思考が反応して、思考がケチをつけたい。そこで後悔や愚痴が起こっているだけといういつものパターンを繰り返しているだけ。
ギャンブル依存症も理性では分かっているのに、身体が優先されてついついはまり込んでいる。分かっちゃいるけど止められないのでつい自己正当化してしまういつものパターンの繰り返し。
突き詰めると身体が納得しないと脳の癖から脱することは不可能。薬物も身体が欲しているので脳でどうすることもできない・・・。
https://www.weblio.jp/phrase/%E8%85%B9_3
・腹が立つ
・腹に据えかねる
・腹を割って
・腹癒せ
・腹が黒い
・腹に落ちる
・腑に落ちる
三毒(貪・瞋・癡)は脳ではなく、腹から来ていて腹に落ちないと解消できないのでは。理性がどうして腹に勝てるのか?
生命の働きは何かを取り入れ(=入力)エネルギーに変換して活動(=出力)して不用なものを排泄しているだけの単純な機能。口と排泄口の一本の消化器(=腸・腹)から様々な臓器(=心臓・脳・・)が派生的に特有の機能を分担しているだけ。大元は腹が中心なので腹に従わざるを得ないかもしれません。
思考の理解から腹での理解へ、腹にあるものを発散するか断ち切るかの方が有効かもしれません。
>その秀でた求道者たちの中のただ一人が私(クリシュナ)に達する
その秀でた求道者たち数千人の中のただ一人が私(クリシュナ)に達する、でしょう。そうでないと計算が会いません。
絶対的主体性とは、人間の脳や、内臓、身体にはないのです。
自我による思考を否定するのは、まあよいとして、身体や腹にアイデンティティーを求めてはダメなんです。とりあえずはよいとしても、それは悟りでも何でもないのです。
https://www.taiyokagaku.com/lab/column/11/
「脳腸相関」
幸せホルモンのセロトニンのこと?
>絶対的主体性とは、人間の脳や、内臓、身体にはないのです。
まったくそのとおりだと感じています。
コントロールもできない行為者もいないただの塊という認識はあります。
日々生きて働いているのは身体であることを否定することはできません。
呼吸は意識的にできることであり、身体に働きかけるできるできる手段の一つであると実感しています。
思考よりも丹田に集中することへシフトしている実験途上ということです。悟り云々はあまり関心はありません。
ストレスなく寛げてよく眠れればそれで十分です。*_*
>散歩好きさん
>
>愚さま
>
>コメントありがとうございます。^_^
>
> 我々が「私の〜」「私は〜」の「〜」に入るものは全てガラクタ・嘘・偽り・マヤカシ・・・。「私=自我」の妄想に騙されていたと気づいているのも「私=自我」?
> 「私=自我」は幻で、社会生活で相互に存在確認するために便宜的に使い慣らされてきたということですか・・・。言わば親や社会からの洗脳と自己洗脳によって「私=自我」が存在しているだけで、単なる便利な表現でしかなかった。
>
> 誰もが素性の知れない何でもない塊(=身体)として何らかの姿をして何らかの働きをしているだけなのに。
> 世間一般で自己紹介するときの、「私は〜」〜は自己のアイデンティティとして他に開示して認めてもらいたいものです。
> このアイデンティティは社会生活で相互に認識できるように付与したり自らの自己証明ということ。単に社会生活で使う便宜的で一時的な仮のもの。アイデンティティが「私=自我」を作り、「私=自我」がアイデンティティを利用しているという相互依存関係にどっぷりはまり込んでいる。
>
> 「私=自我」は「空っぽ」ということを認めたくないので、何かにすがりつきたいし拠り所が欲しい。自身の存在の意味づけを続けないと「空っぽ」が見抜かれてしまう。見抜かれないために「私の〜」や「私は〜」を主張しなければならない。「私=自我」は日々自己証明に奔走しているという愛しい努力家。「私=自我」が変容するには、「空っぽ」のままで平気で楽しく生きているという事実を積み重ねていかないと納得してくれないかも。*_*
すぐ、いまから、実験してみればいいんです。テレビを見るとき、ただ、空っぽで聞いてみればいいわけです。頭を動かさないで、ただ見聞きすればいいわけです。
そうするとどうなるか、自分で見ていくわけです。
>T.Sさん
>
>バガヴァッド・ギーター 第7章3節
>
>聖バガヴァーン(クリシュナ)がアルジュナに語った。
>
>「幾千人の中のただ一人が、全き智識を求めて努力する。その秀でた求道者たちの中のただ一人が私(クリシュナ)に達する」
>
>計算上、真の悟りに達するのは数百万人に一人ということです。
>
>2000年ほど前の宗教の国インドですらこんな状態です。
>
>じっさいクリシュナムルティの話を聞いたり本を読んで悟った人なんか一人もいないでしょう。
>
>一般化はまず不可能かと。
わたしはそうは思っていません・・・・間違っているかもしれませんが・・・・
アインシュタインの一般相対論は、当初、世界に理解できる人は、ニ三人といわれていました。
それがいまでは啓蒙書があり、テレビで解説し、GPSで実用化されています。
要点はなにかといえば、理論と実験です。物理の場合は、実験は、専門家にまかせられています。
この場合は、理論は自分で理解し、実験を自分でやる、という個人になるだけのことです。
ひとりが理解し、実験すれば、なんにんかに伝えられます。それはいちど始まれば、想像以上のスピードで普及していくと想像します・・・・・コロナウィルスと一緒です
>ひとりが理解し、実験すれば、なんにんかに伝えられます。それは一度始まれば、想像以上のスピードで普及していくと想像します
そうだと思います。
誰の悟りがすごかった、すごくない、などと過去の覚者、開祖、高僧たちの序列、番付、品定め、崇拝や反発、こういったことは無意味になりつつあるのが現代でしょう。
普通の人間が普通に悟れる道が探究されていい。
スマホが爆発的に普及するのと同じになればいいです。
彼拔きでは結集は出来ないので緊急に悟ったことにされちゃった。
次の仏陀は弥勒まで待たないとならないが。
市井には悟った人は幾らでもいるが仏陀がいないいて認定者不在、まあ悟りなんてどうでもいいが。
発狂の悟りを得れば古今の聖賢と知らずに握手出来ちゃうよ。
重度の認知症になると自我意識は消滅して自我不在となります。
AIはさておき、西洋と東洋の自我の解釈に差異があることを知ることが先決です。
因果なのか?^^
言葉に対して、私の意思を示したのだ。
>カルマ、業、輪廻転生さん
>
>>愚さん
>
>>ひとりが理解し、実験すれば、なんにんかに伝えられます。それは一度始まれば、想像以上のスピードで普及していくと想像します
>
>そうだと思います。
>
>誰の悟りがすごかった、すごくない、などと過去の覚者、開祖、高僧たちの序列、番付、品定め、崇拝や反発、こういったことは無意味になりつつあるのが現代でしょう。
>
>普通の人間が普通に悟れる道が探究されていい。
>
>スマホが爆発的に普及するのと同じになればいいです。
>
そうだと思います。だから、まずは仏教やおしゃかさんから捨てるわけですね・・・・
皆さんも日々精進してください。
https://www.youtube.com/watch?v=2tMnrOsBc18