わたしの主張したいこと

個人的に、さまざまな本を読んだり、経験をしたりしてきました。

そこで、最終的に自分はなにを求めているのか?という問いになりました。

答は簡単でした。悩みのない人生、心配事、不安、そういったことのない日常です。たった、これだけのことでした。

ここを離れて、仏教も、キリスト教も、ああだこうだも、まったく意味のないように思えました。
悟り、天国、永遠の命、聖なるもの、だれそれがこういった、こうすればいい、ああすればいい・・・・・

もちろん、その道を歩もうとするひとに対して、それはダメだというつもりもないし、それらは原理的には悩みの解決になるのも事実です。
しかし、それらは、いかにも歯がゆいわけです。

今抱えている問題が、もっともバイタルなものです。バイタルなものでなければ、ひとは真剣になりません。

そこで、いま抱えている問題に徹底直面すべきだと思ったのです。あまりに深刻すぎて手を出せない問題があるなら、軽い問題からでもいいです。ひとつひとつやっていきます。必ず突破できます。

その手段として、既存の宗教を使えばいいわけです。さまざまな方法論があります。理論も洗練されています。ただ、忘れてはいけないのは、「自分が求めているものは、一体なになのか?」という問いだと思います。

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この記事へのコメント

宮啓
2020年01月16日 19:49
 更に補足するならば。。

 それは科学的に求められる事柄であり、すなわち、実際の事実、真実でなければならない。。ということかもしれません。

 「私が無い」とは、概念、空想として「私が無い」のか?

 それとも、本当は、実際は「無い」にもかかわらず、生後の教育環境によって、「私」があると盲信しているのか・・?

 真実はそのどちらであるか・・!!と言うことで、一般ピープルは見解が分かれるというか、一般ピープルは、「私が無い」とは、心理的安定のためのおまじない(イメージ・空想)としか思えない。。「私」が絶対的に存在しているとしか思えない。。これが一般ピープルには拭えない烙印としてあるように思えます。
 たとえ、頭では理解しても、根っこではその烙印を拭えないでいる。


 クリシュナムルティは、心理学を認めていなかった。

 そこで、科学的な心理研究はできないものか・・。

 「私」がいるということは、条件付けなのか?本当に私がいるのか?

 クリシュナムルティは、実際はいないと述べる。いると思うのは錯覚であると・・。条件付けによって、どうしてもいるとしか思えないと。


 そこで、私たちが求めているのは、心理的安定のための空想ではなく、心理的安定のための真実であるということであり。科学的な心理研究によって、宇宙ごと理解しようとする科学的精神があるということかもしれません。 
地球人
2020年01月16日 21:15
突破できるか否かは主体性があるか否かです。受動的な人は難しい。