悩みを只管打坐する

只管打坐(しかんたざ)というのは、曹洞宗のキャッチフレーズです。ただひたすらに坐禅しろ、ということです。実践的には、思うまま、考えるまま自由にしておき、そこに手を加えるな、ということです。ただ、こころの動きを観察しろ、ということです。

このシステムが、どうして日常の悩みと関係するかが問題です。バラバラのものであれば意味がありません。

そこで、悩みを只管打坐します。欲しい、憎い、かわいい、うらやましい、等々です。

悩みをまず考えます。そうすると、次々と思考が生まれてくるでしょう。感情とともに思考が生まれてきます。

それを、なんでもあり、で、観察していきます。

そうすると、どういうことが起こるか、自分で試してみます。

感情も思考も収まっていくことがわかります。

この原理は単純です。悩みと(悩みを解決しようとする)「わたし」の間の葛藤がなくなるとき、悩みは消えていくということを意味します。

つまり、悩みが「わたし」を作って、その「わたし」が悩みと戦っていることを止める、ということです。そのとき、苦痛は止みます。また、悩み自体も消えていきます。そこで、「わたし」も消えていきます。

というのは、悩みを作り上げたのは「わたし」そのものであり、「わたし」が消えれば悩みもなくなるからです。

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この記事へのコメント

地球人
2020年01月15日 21:31
自我の心の動きを客観視する。

坐禅をしなくてもできますね。
2020年01月15日 21:42
>坐禅をしなくてもできますね。

坐禅は必要ありません。ただ、日常でやってみればわかりますが、通常は難しいですね。
地球人
2020年01月15日 21:48
もちろん、その場ではできませんが、一日を振り返ってです。
2020年01月15日 22:01
>もちろん、その場ではできませんが、一日を振り返ってです。

それじゃダメです。刻々のこころの動きを観察するしかないです。というのは、振り返ってみる場合は、必ず、分別が入っていて、刻々のこころの動きそのものではないからです。
2020年01月15日 22:06
>>もちろん、その場ではできませんが、一日を振り返ってです。

>それじゃダメです。刻々のこころの動きを観察するしかないです。というのは、振り返ってみる場合は、必ず、分別が入っていて、刻々のこころの動きそのものではないからです。

もし、そうするのであれば、その状況を思い出し、その思いとともにある、「いま」の思考・感情を観察することです。ターゲットは過去ではなく、いまのわたしです。
地球人
2020年01月15日 22:39
>もし、そうするのであれば、その状況を思い出し、その思いとともにある、「いま」の思考・感情を観察することです。ターゲットは過去ではなく、いまのわたしです。

一日を振り返ってでは、「いま」の思考・感情がリアルではないってことですか? 時間の経過で感情が変化してることはあるでしょうね。
2020年01月15日 22:50
>一日を振り返ってでは、「いま」の思考・感情がリアルではないってことですか? 時間の経過で感情が変化してることはあるでしょうね。

振り返ったときの、そのときの感情が「いま」の感情です。
地球人
2020年01月15日 22:56
「いま」とは客観してる「いま」です?
地球人
2020年01月15日 23:00
客観してるわけですから、感情は多少はあるにしても収まってますね。
地球人
2020年01月16日 00:11
坐禅にしても、観察してるということは客観の視点があるということです。

客観がないのであれば、坐禅どころではなく、その場で床を叩いてるでしょう。
2020年01月16日 00:38
>客観がないのであれば、坐禅どころではなく、その場で床を叩いてるでしょう。

床をたたけ、といっているのです
地球人
2020年01月16日 00:44
とすると、坐禅の観察は客観ではなく主観ですか?