あなたが悩んでいるのではない、悩みがあなたなのだ・・・・一切の悩みにグッドバイ

人生で、悩み事ほどいやなものはない。すべての悩み事は敵である。
この敵は撲滅できる・・・・・それはわたしが保証する。

正確にいえば、悩み事も困ったことも解消はしない。それはそのまま残るが、その苦痛が消える。そして、その苦痛が消えたとき、悩み事も困ったこともどうでもよくなる。つまり、悩み事の撲滅である。

原理は、ただこれだけ、
「わたしが悩んでいるのではなく、悩みがわたしなのだ」、
ということを、見抜き、身に着ければいいだけのことだ。
これはなんか、ややっこしい、哲学的なものではなく、きわめて実践的で、原理は小学生でもわかる。

思う通りいかないことで悩む、お金がない、彼女にふられた、出世できない、悪口をいわれた、ガンになって死にそうだ、子供が死んじゃった、一人ぼっちで孤独だ・・・・・

職場ではイヤな上司がいて、勝手なことを押し付ける。部下は、いうことを聞いてくれないで、陰口をたたく。給料はあがらない。家では邪魔者扱い・・・・うーん

悩み事のオンパレードだ・・・・

個別にいろいろ工夫して対応するのだか、もぐらたたきのようである。次から次へと悩み事はやってくる。

そこで、個別に対応するのはあきらめる。かわりに、悩み事の全体を根こそぎ引っこ抜いてしまうことを決意する。
そこに勝負をかける。どうせ、負けたって、ダメ元だから・・・・・

そこで、「わたしが悩んでいるのではなく、悩みがわたしなのだ」ということがでてくる。

「わたしが悩む」ということは、まず「わたし」があり、そこに「悩み事」があとからやってきて、「悩む」。そして、「わたし」はその「悩み事」を解決しようとする。といった雰囲気だ。

ここで問いを出す。これは事実だろうか?

明らかにノーである。順番は、まず、「悩み事」があり、それに気づき、それを悩む「わたし」が生まれ、「わたし」が解決しようとする。
つまり、「わたし」は「悩み事」の子供なのだ。「わたし」は「悩み事」とつながっています。「わたし」は「悩み事」の一部です。

これは途方もなく重要だ。

これが、「悩みはわたし」という意味だ。

つまり、どうやっても、わたしは悩みを解決できない。わたしと悩みは別のものではないから、無理なわけ。「悩み事」が「わたし」を作って、その「わたし」が「悩み事」を解決しようとしている。なんか変でしょ?

お金がない、それを認知する。そして、(解決しようとする)「わたし」が生まれる。「わたし」は悩み、それを解決しようとする・・・もちろん、物理的に解決できれば、それはそれでいいのですが・・・・。

「わたし」はこの悩みを解決できません。

では、どうするか?簡単です。解決しようとしないんです。それは悩みのままとどまる、ということを意味します。早い話が、悩むんです。解決しようとしないで、困ったな、困ったな、と悩むんです。

困り果てるまで悩みます。このとき、「悩み事」は「わたし」ですから、「悩み事」を忌み嫌うのではなく、やさしく、赤ん坊を抱くように悩みます。

そうしているうちに、「わたし」は「悩み」に吸収され、「悩み事」だけがあるようになります。

このとき、意外な展開となります。「悩み事」が消えてしまいます。ただ、お金がないという事実だけが残り、「悩み事」はなくなってしまっているんです。

そうしているうちに、世界はそのとげとげしさをなくし、あたたかく、やわらかく、わたしを包んでくれるようになります。
















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この記事へのコメント

2020年01月13日 12:20
「解決しようとしないんです。」

悩むか手をつけないでほおって置くか・・・^^

二者択一ですね^^
宮啓
2020年01月13日 12:42
 快楽を求めて苦痛を避ける反応をクリシュナムルティは「快楽原理」と呼びました。

 そして、快楽について説きます。快楽と恐怖の関係。恐怖と時間の関係。時間と思考の関係等々・・。

 そして、快楽は「愛」を拒絶すること・・等々。。


 快楽原理のもとでは、非難・正当化を免れることはできず、善悪の裁きの上を生き、マイナスイメージからプラスイメージへ向かうビカミングを避け得ないのでしょう。逆立ちしてもビカミングを避け得ない。
2020年01月13日 13:09
20世紀の偉大な思想家、クリシュナムルティは「努力によっては幸福に至れない」としばしば口にした。
彼は「葛藤をともなう喜び」を幸福であるとはみなさなかった。心の中に対立や争いのある喜びは快楽にすぎず、快楽は必ず悲嘆へと行き着く。
われわれが努力するときは、まさに葛藤の連続である。「うまくいくだろうか」「失敗するのではないか」といった葛藤がつきまとう。
努力とは、「あるがまま」の自分から「あるべき」自分への逃避なのである。努力は葛藤を終焉させず、むしろ助長してしまう。ここに真の幸福はない。

しかし、クリシュナムルティは怠惰を勧めているわけではない。怠惰もまた、葛藤をもたらす原因となるのだ。
われわれの行動は、単に「反応」にすぎないとクリシュナムルティはいう。われわれは「思考」によって行為している。思考は過去に蓄積された記憶や反応なのである。
無意識的に生きている毎日の生活は、外部の刺激に機械的に体が反応しているだけなのである。
反応でも努力でもない行為、これこそが真の行為であるといえる。これこそが幸福への道であり、さまざまな危機的状態を解決する唯一の鍵なのだ。

真の行為をするには、「愛」がなくてはならないと、クリシュナムルティはいう。
「愛」は、思考の領域にはない。葛藤もない。それはあらゆる条件を超えている。
したがって、「私はあなたを愛している」という人は、実は愛してなどいないのだ。思考は決して愛しているという自覚をもつことはできないからだ。ただその人は、自己の快楽のために、愛という体裁のいい言葉を使って相手を利用しているだけなのである。
嫉妬や憎しみ、失う不安があれば、それも愛ではない。愛は葛藤や分裂を超えているからである。
ありのままの現実をみれば、この世に「愛」など、ほとんど存在していないことを悟るだろう。

クリシュナムルティがわれわれに提示することはただひとつ、「あるがままの自分を理解せよ」である。
「いかなる働きかけもせず、判断も、評価も、非難あるいは正当化もせず、解答も結果も報酬も求めることなく、ただ自己の内面の動きを観察せよ」
これがわれわれのなすべきすべてである。
心に浮かぶ「思考」を受動的に、鋭敏に観察するのだ。ただ他人事のように、自己の動きを傍観するのである。
そうすると、不思議なことが起こる。ありのままの自分を理解したときに、あらゆる葛藤から解放されるのだ。そして、そのときに、真理、幸福が向こうからやってくるわけである。
これは招こうとしても、やってはこない。思考の動きが理解されたときに、努力が止んだときに、初めてやってくるのだ。
2020年01月13日 13:14
「解決しようとしないんです。」

クリシュナムルティ的には・・^^

「あるがままの自分を理解せよ」である。
「いかなる働きかけもせず、判断も、評価も、非難あるいは正当化もせず、解答も結果も報酬も求めることなく、ただ自己の内面の動きを観察せよ」
これがわれわれのなすべきすべてである。
心に浮かぶ「思考」を受動的に、鋭敏に観察するのだ。ただ他人事のように、自己の動きを傍観するのである。
そうすると、不思議なことが起こる。ありのままの自分を理解したときに、あらゆる葛藤から解放されるのだ。そして、そのときに、真理、幸福が向こうからやってくるわけである。

こうなる^^
2020年01月13日 13:18
こんな高度なことができるはずもなく・・^^

毎日座禅をしてる人なら出来ると思うが・・・^^
2020年01月13日 13:23
反応でも努力でもない行為、これこそが真の行為であるといえる。これこそが幸福への道であり、さまざまな危機的状態を解決する唯一の鍵なのだ。

無為の為の境地やな・・^^
地球人
2020年01月13日 14:52
>つまり、どうやっても、わたしは悩みを解決できない。わたしと悩みは別のものではないから、無理なわけ。「悩み事」が「わたし」を作って、その「わたし」が「悩み事」を解決しようとしている。なんか変でしょ?

諸法無我であるにもかかわらず、私が悩み事を解決することは矛盾している。





地球人
2020年01月13日 15:01
一切皆苦。
2020年01月13日 15:26
「思考」は自我を形成する^^

我ぁあああああああがでてくるんだよな^^

2020年01月13日 15:31
「思考」しなければ自我も形成されない^^

問うて曰く、
憶想と分別により、貪恚癡を生じ、
浄不浄の顛倒は、皆衆縁より生ず。

中論

貪欲(むさぼり)と,瞋恚(憎しみ怒り)と,愚痴(愚かな迷い)とは,思考作用から生ずる,と說かれている。なぜならば,〔それらは〕,淨と不淨とのもろもろの顛倒(妄想)に縁って起こるからである。

これやな・・^^
地球人
2020年01月13日 15:57
愚さんが言った「わたし」とは諸法であって「無我」のことであり、矛盾はしない。
地球人
2020年01月13日 16:05
仏教では自我・個人の存在を否定してます。
2020年01月13日 17:49
無為の為

10数年前ある時、大阪の下町を歩いていたら、突然何だか自分が自分の意志で歩いているという感覚が薄れ、”大本から自分を生かしているものによって動かされている…何て幸福なんだ…”という実感が込み上げてきました。その時ふと浮かんだのが、小池先生が高弟のO先生に言った「自分を手放してごらん。ラク~になれるんだよ!」という言葉でした。
私がずーっと書き続けているのがまさにこういう事でして、老子の言葉”為さずして為す…無為の為”に通じる事かと思います。

ほほう^^
2020年01月13日 18:05
如実知見

あるがままにものごとを見、洞察する智慧のことです。

なにごとにもとらわれず、あるがまま、そのままにものごとを見ると、
世界をそのままに受け取ることができるようになります。

起きていることを、そのままに受け取れば、苦しみは生まれてきません。

しかし、事実をそのままに見ないで、自分の価値観や解釈で、ものごとを見ていると価値観や感情に左右されるようになります。

ほほう^^

2020年01月13日 18:11


2020年01月06日 19:11
非思量とは、辞書を引くと
「すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地。坐禅の要とされる。」
とあります。

つまりやな・・^^

現実は0思考・・いいも悪いもない・・あるがまま・・^^

いい悪いを決めてるのは観念なんだな・・^^

自分の都合でいい悪いを決めてる^^

しかし現実は0思考なんだな・・^^

すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地^^

おわかりいただけたであろうか^^


これか^^
地球人
2020年01月13日 20:32
後30年経ったら、ブログも投稿者も消えているでしょう。

諸行無常、諸法無我、色即是空と言えば、それまでだが・・・
地球人
2020年01月13日 21:42
ブログ主の愚さんが消えると投稿者の我々も消える。KB会も消滅する。

おもしろい現象です。