自由意志

これ、結構、重要だと思います・・・・・みなさま、コメントをどうぞ・・・・

A>ちょっとピントがズレていると思いますが、私が聞きたいのは貴方は日々生活していく中で、自分で考えて行動してませんか?
本当に因果に操られて自分の自由意志はないと思ってますか?
貴方の本音を聞きたいです。

B>はい。ないと思っています。「ない」場合、なにか論理的な矛盾
か何かが発生するのでしょうか?

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この記事へのコメント

地球人
2020年01月20日 01:50
双方の自由意志の解釈を明確にすることが先決です。

参考まで提示します。

「自由意志とは、一般に行為者が思いどりに選択し、決断することのできる能力をいいます。これに対して哲学では、「決定論」に対置される概念としてとらえることができます。決定論とは、人間の行動は運命などの何らかの外的な要因によって決定づけられていると考えられる立場です。
したがって、反対に自由意志論者は、人間はこうした外的な要因によって決定づけられる存在ではないと主張します。いわば自由意志とは、自分で運命を決定することのできる能力であるといえます。 哲学用語辞典より」
名無しさん
2020年01月20日 08:49
サカナに生まれたらミミズが美味しそうに見えるようなもので、ニンゲンに生まれたら、その時点ですでにもうニンゲンとしての制約が入ってしまっているのでは?
サカナも自分で考えて行動してるけど、すでに制約された範囲で、という前提があると思います
その前提なく、自由に、ということは無いと思います
こういった流れで、つまり自由ではないと思います
大平
2020年01月20日 11:34
覚醒した人は選択がない。

画家が、すごい鍛錬と試行錯誤のすえに、直観的に、正しい色、完全にフィットした色をぬれるようになるのと同じ。

思考と選択を極めれば、無思考と、無選択にいたる。

地球人
2020年01月20日 13:31
A>ちょっとピントがズレていると思いますが、私が聞きたいのは貴方は日々生活していく中で、自分で考えて行動してませんか?
本当に因果に操られて自分の自由意志はないと思ってますか?

上記を因果思考の観点から反論すれば、自分の考えとは経験値を基にしているのではありませんか?経験とは因果でしょう。
地球人
2020年01月20日 13:43
芸術家の色の選択は感覚ですから因果ではないですが、個人の内面の表現は経験値であるから因果です。また、題材の世界観の世界は因果で構築されてます。
地球人
2020年01月20日 13:47
自由意志とは選択意志です。
地球人
2020年01月20日 13:57
人間の存在自体が宇宙誕生から因果です。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月20日 13:58
>本当に因果に操られて自分の自由意志はないと思ってますか?

>はい。ないと思っています。「ない」場合、なにか論理的な矛盾
か何かが発生するのでしょうか?

意志によってダルマ(法)に反する思い・ことば・行動を選択したその因果で、いまここの苦しみ・悩みがあるのではないですか。その苦しみ・悩みを他に逸らしたり逃げるのか、それとも苦しみ・悩みを受け止めてひたすらこらえるのか。これもまた自由な意志による選択です。

悩みは悩むだけ。自由意志を否定したらこの選択も意味を失うでしょう。

因果と自由意志は密接不可分だと考えます。
地球人
2020年01月20日 14:41
因果の業苦から解脱する意志が自由意志・・・

仏陀の自灯明、八正道は自由意志と言えましょう。

ウパシーヴァがたずねた、「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることができません。わたくしがたよってこの激流をわたり得る、よりどころをお説きください。あまねく見る方よ。」
師、ブッダは言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。 (スッタニパーダ)
通行人
2020年01月20日 15:37
ブッダの悟りが自由意志?なら、地球人の妄想と同じだろう。^^v
通行人
2020年01月20日 16:03
法灯明・自灯明
宮啓
2020年01月20日 16:09
 条件づけとはプログラムに喩えることができます。

 若い男子が、若い女子を見ると欲求が高まるように脳内にプログラムされています。繁殖本能です。

 これは、一見自由意志に見えるのですが、じつは「反応」です。

 このように行動から反応行為を取り除いてゆくと、ほとんどの行動が「反応」であることが分かります。

 もしも、「反応」でない行為があるとすれば、それは条件づけられていない行為ということになります。

 条件づけられていない行為は、知識・経験・記憶から自由である必要があります。知識・経験・記憶は行為にとって大きな権威を有しているからです。知識・経験・記憶が大きな条件付けとなって自由意志にとっての足かせとなっているのではないでしょうか。
大平
2020年01月20日 16:42
反応は悪くないし条件付けでもないでしょう。
タキ衛門
2020年01月20日 21:43
>それとも苦しみ・悩みを受け止めてひたすらこらえるのか。これもまた自由な意志による選択です。

 なぜ自由なんですか?宇宙はすべて因果律で動いているのに、人間の
脳みそだけ、例外的に特別にその因果律が機能しない領域があるって
事ですか?

>自由意志を否定したらこの選択も意味を失うでしょう。

 意味(≒価値)の話ですが、意味のあるなしが、事実命題に影響を
与えるのは、誤謬の一種でしょう。
 例:進化論を受け入れると、聖書に書いてある事が間違っている事になる
   ↓
   キリスト教は、地域の道徳規範の根底をなしている
   ↓
   聖書が間違っているという事になると、道徳が崩れ大変な事になる
   ↓
   だから、進化論は間違っている。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月20日 22:43
>なぜ自由なんですか?

脳科学や哲学的な自由意志論を取り上げても抽象的な議論になるだけです。

要点は、苦しみや悩みだけにとどまらるか、それを回避・隠蔽するかという選択が与えられて、どちらかを選べるということです。

それを自由じゃない、必然だと決めつけたところで、どうなるものでもないと思います。
たーぼー
2020年01月20日 22:44

<上記を因果思考の観点から反論すれば、自分の考えとは経験値を基にしているのではありませんか?経験とは因果でしょう。

地球人さん、こんばんは。
私もその通りだと思います。
例えば、スーパーに行って何を買おうかなぁと思った時にシュークリーム買おうと思いついた時は過去にシュークリーム食べて美味しかったという経験(因)があると思います。
その意味ではほぼ全ての行動は条件ずけされているとも言えますが、一方でそこで隣のケーキを買う自由もあるわけです。
毎瞬毎瞬、自分で選択できるのですから、これは自由意思ではないでしょうか?
そう考えると自由意思と因果とは分けられないと思います。
例えば人生とは素晴らしいと思う事も出来るし、人生とはつまらないと思う事も出来ます。過去に大変なトラウマがあったり辛い思いをした人(経験.記憶)は、人生とは素晴らしいと思うのは大変でしょうけど、でも自分の自由に思えるわけです。
因果だけあって自由意思がないという意見の決定的にマズイのは、人間にとって一番大切な主体性(やる気)を削いでしまうと思うんです。
どうして因果だけあって自由意思が無いという様な意見が仏教界で多くなるかと言えば見性があると思います。見性とは絶対者(法)を外に見るから見性なんです。道元禅師は見性という言葉をほとんど使ってないそうなんですが、見性という言葉には客観の意味が入るからだと思います。絶対者を外に見てしまうから、共に自分であるはずの因果と自由意思を分けて、絶対者(因果)に操られて自由意志はないと錯覚するのだと思います。
タキ衛門
2020年01月20日 23:05
>回避・隠蔽するかという選択が与えられて、どちらかを選べるということです。

 そう思う根拠は何ですか?仮に、あまり根拠がないという事であれば、大して
根拠がないもの(自由意志あり)を信じているわけです。
 昔の人が、地球は平らだと思っていたのと同じだと思います。単に、主観的な印象からそう思っていただけで。
たーぼー
2020年01月20日 23:10
なぜ自由なんですか?宇宙はすべて因果律で動いているのに、人間の
脳みそだけ、例外的に特別にその因果律が機能しない領域があるって
事ですか?

因果律っていうのは、自己から離れたものではないですよ。こんな自分とは神様に操られている操り人形みたいな考えでは、後ろ向きな人生になってしまいます。
タキ衛門
2020年01月20日 23:37
>後ろ向きな人生になってしまいます。

 つまり、「役に立たない理論は間違いだ」という事ですか?
たーぼー
2020年01月21日 00:17
 つまり、「役に立たない理論は間違いだ」という事ですか?


この現象世界とは貴方が思っている様な強固な固定した世界ではないです。
私達の心の在り方で色々な景色に変わっていく世界です。
個としての自分がなければ、この現象世界は存在しないんです。
でも自分が存在しないということも無いんです。
だから全ては自分として存在するんです。
自分とは個であると同時に全体であるという絶対的に矛盾した存在です。
だから宇宙の法則である因果律も個の自由意志も自己の問題なんです。
地球人
2020年01月21日 03:00
>毎瞬毎瞬、自分で選択できるのですから、これは自由意思ではないでしょうか?

はい、そう思います。
後で、私も自由意志とは選択意志と書きましたが、主体の意思決定です。

>そう考えると自由意思と因果とは分けられないと思います。

そうです。都度都度、因果に対して意思決定を求められる。

>因果だけあって自由意思がないという意見の決定的にマズイのは、人間にとって一番大切な主体性(やる気)を削いでしまうと思うんです。

その通りです。その結果、自己喪失して坐禅に救済を求めたりするのです。

>見性とは絶対者(法)を外に見るから見性なんです。道元禅師は見性という言葉をほとんど使ってないそうなんですが、見性という言葉には客観の意味が入るからだと思います。絶対者を外に見てしまうから、共に自分であるはずの因果と自由意思を分けて、絶対者(因果)に操られて自由意志はないと錯覚するのだと思います。

諸法無我は勘違いするのです。
自我の解釈が問題なのです。西洋と東洋では自我に対する認識に相違があるわけです。西洋では自我は因果に対して主体的な能動的であるの対して、東洋の自我は因果に対して主体性がない受動的なのです。先にレスしましたが、インドの仏教の時代はカースト制度があって個人の自我は認められていなかった。日本も昔は士農工商の身分制度があって同様でした。ですから、個人の人権が認められている民主主義の現代と身分制度があった仏教の時代と自我は区別した方が判りやすい。かつての我は個人ではなくて衆生です。



2020年01月21日 03:34
因縁果^_^

シュークリームは縁やな^_^

どうでもいいけど^_^
2020年01月21日 07:33
しかしなんで因果の連鎖にシュークリームが出てくるんだ^_^
シュークリームで因果の連鎖が断ち切れるのか^_^

そうなるとちょっと考えんとならん^_^
2020年01月21日 07:37
世の中に偶然などない^_^

精密に計算すると必然になる^_^

サイコロ転がして1が出たとしても
全知全能の神なら必然^_^

神はサイコロ振らんけど^_^
2020年01月21日 07:41
風が吹いて変わるのは縁やな^_^

神はそれも分かっておらっしやる^_^
たーぼー
2020年01月21日 10:25
しかしなんで因果の連鎖にシュークリームが出てくるんだ^_^
シュークリームで因果の連鎖が断ち切れるのか^_^

そうなるとちょっと考えんとならん^_^


過去に食べたシュークリームが美味しかったという記憶を消去していけば、因果の鎖は切れます。聖者は食べ物の好き嫌いもないそうです。つまりどこまで神に近づけるかというのは、私達の癖をどこまで落とすかによるわけです。自分の外に神の存在を設定してそれに操られていると考えるのは決定的な間違いだと思います。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月21日 11:39
>根拠がないもの(自由意志あり)を信じているわけです

自由意志があることを信じているから、選択・決断をするわけではありません。目の前に選択肢があり、どちらかを現実化させる自由の感覚があるので、その方向に意志を使うだけです。

逆に、自由意志がないことにこだわる方が、信じているだけに見えます。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月21日 11:44
接心会に申し込みの意思表示をする。身体を使って寺に行く。
これって単なる因果の流れなのだろうか?

自由意志を否定する仮説が真理だと信じてもいいが、自由意志を肯定する立場に何か問題でもあるのだろうか。
2020年01月21日 12:13
普通の人は寺に行がないからな^_^

それなりの因があったんだろう^_^

その因は因果の連鎖の途中かも知れん^_^

その因を辿っていくと行き着いた先は^_^

うわぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ^_^
カルマ、業、無常
2020年01月21日 12:53
仏教における自由意志は、一般世間のそれとはだいぶ違うとはいえる。

ダルマから離れないための自由意志だからね。

ダルマの基本にあるのが、無常・苦・無我。

無常・苦・無我を受け入れるための自由意志。
たーぼー
2020年01月21日 18:01
仏教における自由意志は、一般世間のそれとはだいぶ違うとはいえる。

ダルマから離れないための自由意志だからね


その通りなんだけど、一般の人に言う時に因果だけあって自由意思がないと言ってしまうと、神様に操られてるというように受け止めて主体性を持ったやる気が出ないです。
ダルマから離れない様にしようとする意思があるうちはまだ操られている感覚があるでしょう?
そのままダルマから離れないようにしていると因果の鎖が切れてきて、糸の切れた凧みたいな感覚になります。
そうなるともう操られているという感覚はなくなります。
名無しさん
2020年01月21日 21:54
「自由意志」というより「自由意志を持った何か」「自由意志の持ち主」がいないことが、より恐怖なのかもしれないですね
タキ衛門
2020年01月21日 22:45
>> つまり、「役に立たない理論は間違いだ」という事ですか?
>この現象世界とは貴方が思っている様な強固な固定した世界ではないです。

 どうも、私の質問にはご回答いただけないようですね。。。
「○Xですか?」が質問ですから、基本的には回答はYes or Noです。

>自由意志を否定する仮説が真理だと信じてもいいが、自由意志を肯定する立場に何か問題でもあるのだろうか。

 単に「自由意志あり」は、矛盾をはらんでいます。
例えば、宇宙は100%因果律に基づいて運動しているとする物理学的な世界観と、自由意志は矛盾します。
 また、それが「役に立つかどうか」は価値の問題として、事実の問題とは区分けして考える必要があると思います。
■参考:https://nbsakurai.exblog.jp/3824659/
>事実認識は、基本的に価値判断とは独立させるよう、少なくとも努力すべきだ・・・・
地球人
2020年01月21日 22:48
仏陀が悪い! 笑

「我有り」とする不当な思惟の根本を制止し、内に存するすべての妄執を制するために、常に心して学べ。 スッタニパーダ
たーぼー
2020年01月22日 00:12
>> つまり、「役に立たない理論は間違いだ」という事ですか?

 どうも、私の質問にはご回答いただけないようですね。。。
「○Xですか?」が質問ですから、基本的には回答はYes or Noです。

役に立たない理論が間違いとは言わないけど、意味ないと思います。
神に操られてると考えるのは、人間の精神を縛ってしまう自己を不自由にさせる方向に働くと考えだと思います。
本来衆生仏なりなんですから。
そう考えるともっと気が楽になるように思います。
地球人
2020年01月22日 00:28
実存主義・・・自分で人生を切り開く生き方

実存主義のはしりは、「主体性が真理である」として、他でもない「この私が」人生を作り上げていくと主張したキルケゴールの思想だと思います。ほかにも実存主義は色々な人が唱えていますが、共通していえることは、自分で人生を切り開く生き方を唱えている点です。ここではその典型ともいえるサルトルの思想を用いて説明したいと思います。
サルトルによると、人間とはすでにある何らかの本質に支配された存在では決してなく、自分自身で切り開いていくべき実存的存在にほからないということになります。彼はこれを「実存は本質に先立つ」と表現しました。実存というのは存在のことで、本質というのはあらかじめ決められた運命みたいなものです。サルトルはそれをペーパー・ナイフを例に説明しています。ペーパー・ナイフは、ある仕方でつくられる物体であると同時に、一方では一定の用途を持ってます。だからこの場合、ペーパー・ナイフの本質は実存に先だっているのです。存在が限定されているといってもいいでしょう。 ですから、ペーパーナイフのような作り方や用途のあらかじめ決まった存在は、本質が実存に先だっているのです。人間は最初は何でもない存在ですが、後になってはじめて人間になります。しかも自ら作ったところのものになるというのです。 サルトルはこの状態を「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。これは常に自由に何かを選択することなしには、一歩も前に進むことのできない人間の生を表現したものです。たしかに「何をしてもいい」と言われると、人は戸惑うものです。同時にこの言葉は、私たちが無数の選択肢の中から、その都度自由に選択して人生を歩んでいるという、誇らしい事実を認識させてくれるものでもあります。 哲学用語辞典より

東洋と西洋の思想の違いかな。
地球人
2020年01月22日 01:06
>サルトルはこの状態を「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。これは常に自由に何かを選択することなしには、一歩も前に進むことのできない人間の生を表現したものです。たしかに「何をしてもいい」と言われると、人は戸惑うものです。同時にこの言葉は、私たちが無数の選択肢の中から、その都度自由に選択して人生を歩んでいるという、誇らしい事実を認識させてくれるものでもあります。

仏教すれば、上記も諸法無我、縁起の選択意志だとするのだろう。笑
地球人
2020年01月22日 01:35
例えば、会社員ではなく俳優になった。
理由は決められた仕事をするのは嫌で表現者に成りたかった。

仏教は因縁の選択意志と判断するだろう。



たーぼー
2020年01月22日 13:57
実存主義・・・自分で人生を切り開く生き方

実存主義のはしりは、「主体性が真理である」として、他でもない「この私が」人生を作り上げていくと主張したキルケゴールの思想だと思います。ほかにも実存主義は色々な人が唱えていますが、共通していえることは、自分で人生を切り開く生き方を唱えている点です。


地球人さんこんにちは。
やっぱりこうじゃないとね。
自分の人生ですから、誰かに操られてるとか、誰かの言う通りにするとかではなくて、自分で主体的に人生を創造していく事が大事だと思います。
この世は夢みたいなものですから、どうせ見るならいい夢にしたいと思っています。
2020年01月22日 14:14
>私たちが無数の選択肢の中から、その都度自由に選択して人生を歩んでいるという、誇らしい事実を認識させてくれるものでもあります。

自由というのは、あらゆる影響を受けないということでしょう。つまり、判断するときに、あらゆる影響を受けていない。つまり、経験と環境から影響を受けていない。

ところが、わたしは、あきらかに過去や知識から影響を受けています。つまり、別の環境で育てば、違う判断をするでしょう。

わたしがする判断はことごとく過去からの影響を受けているわけです。
そこで、自由な選択ができるとは考えにくいです。

それとも、この自由は、過去の影響を受けているのでしょうか?もしそうであれば、自由という名の因果の結果ということになります。

地球人
2020年01月22日 16:41
>わたしがする判断はことごとく過去からの影響を受けているわけです。
そこで、自由な選択ができるとは考えにくいです。
>それとも、この自由は、過去の影響を受けているのでしょうか?もしそうであれば、自由という名の因果の結果ということになります。

自由な選択は可能か? 自由な選択が可能であれば、それをするのは何者か?

聖書によれば、「わたしはある。あるというものだ。」
地球人
2020年01月22日 16:42
たーぼーさん、こんにちわ。

>実存主義のはしりは、「主体性が真理である」として、他でもない「この私が」人生を作り上げていくと主張したキルケゴールの思想だと思います。ほかにも実存主義は色々な人が唱えていますが、共通していえることは、自分で人生を切り開く生き方を唱えている点です。

主体性は何から生じるのですか?
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月22日 18:42
>そのままダルマから離れないようにしているといると因果の鎖が切れてきて

ダルマを理解することと、それから離れないという意志はやはり必要ではないかと。
たーぼー
2020年01月22日 18:49
主体性は何から生じるのですか?

智慧です。
智慧は知識とは違います。
頭を空っぽにした時に間髪入れず出てくるものです。
昨日書いたシュークリームの因果の鎖を切るという話にも通じますが、一番沢山条件ずけされているのは、私は知識だと思います。生きていく上で必要な記憶はもちろんあります。支払いはいつでいくらとか。そういった必要な知識、記憶以外は全て条件ずけ(癖)として切っていくんです。私は別に人前で仏教講義するつもりもないから仏教の知識もいらないから最低限の必要な知識以外は全部切っていくんです。講義するような立場の人はそうはいかないと思うから、必要な知識は人によるわけです。日常の中での職場などでの人間関係での落とさないといけない癖も沢山ありますが、頭の中の余計な知識(癖)は膨大にあります。特に高学歴のインテリほどあります。ここに書いている人には様々なタイプがいますが、難解な文章を書く人に限ってピントがズレていると思ったことはないですか?それは色々な知識を詰め込み過ぎて、頭がスッキリしてないからです。日常でも同じで色々な知識を持っていると、それに縛られてピントがズレた判断になるんだろうと思います。このピントがズレるというのが正に癖(条件ずけ)なんです。結構難しいんですけど、うまく出来ると頭にスペースが出来てスッキリしてくるのを感じ取れます。最終的には頭が空っぽになります。その時が八正道の正見になるわけです。正見というのは、智慧を使った生活ですね。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月22日 18:58
自由意志による行動とは、過去や環境の影響を全然受けずに、100パーセント自由な状態で意志決定するという意味では考えていません。

その意志決定によって現実世界に新たな介入が生じたといえれば十分でしょう。

例として、「あいつ嫌なヤツだ」と思ったとします。こういう思いが心に浮かんだことは過去や環境の因果です。しかし、その思いから、具体的にある人を殴って怪我を負わせたのであれば、その行為のカルマを身に受けなければいけない。これも因果律です。意志決定は自由意志に基づいたと評価すべきでしょう。
たーぼー
2020年01月22日 19:12
それとも、この自由は、過去の影響を受けているのでしょうか?もしそうであれば、自由という名の因果の結果ということになります。



過去世からの記憶までが判断に作用している可能性は高いと思います。
今生での色々な思い込み(癖)を全て排除したとしても過去世の記憶が影響していると考えると確かに自由という名の因果です。
そうすると、一体何処まで遡れば真に自由な意思決定が出来るかと考えると、途方もないですね。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月22日 19:22
悩みだけに純粋に向かいあって、悩みそれ自体を中央突破できるのであれば、それは悪いカルマを作ったことにはならないわけでしょう。
自由意志を良い方向に使った。ダルマから離れないという意味での自由意志ですが。

他方、「嫌なヤツ」という印象から出発して、現実への介入結果となる、相手を殴る行為をした場合は、自由意志を悪い方向に使ったということです。ダルマに逆行する自由意志の使用。
地球人
2020年01月22日 19:45
>>主体性は何から生じるのですか?

>智慧です。
智慧は知識とは違います。
頭を空っぽにした時に間髪入れず出てくるものです。
一番沢山条件ずけされているのは、私は知識だと思います。生きていく上で必要な記憶はもちろんあります。支払いはいつでいくらとか。そういった必要な知識、記憶以外は全て条件ずけ(癖)として切っていくんです。私は別に人前で仏教講義するつもりもないから仏教の知識もいらないから最低限の必要な知識以外は全部切っていきます。・・・・・・最終的には頭が空っぽになります。その時が八正道の正見になるわけです。正見というのは、智慧を使った生活ですね。


正見とは、真理に対してありのままに見る。ですが、真理とは何ですか?




たーぼー
2020年01月22日 19:50
正見とは、真理に対してありのままに見る。ですが、真理とは何ですか?

真理とは何かの解答は人によって色々あると思いますが、私は仏陀の言った中道だと思っています。
地球人
2020年01月22日 21:01
>真理とは何かの解答は人によって色々あると思いますが、私は仏陀の言った中道だと思っています。

仏陀が悟った真理とは、諸行無常、一切皆苦、諸法無我(非我)ですが、他者の真理に対しては以下に語ってます。他者の真理を否定はしてない。

< ある人々が「真理である、真実である」というところのその「見解」をば、他の人々が虚偽であるという。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争をする。なにゆえにもろもろの<道の人>は同一のことを語らないのであろうか?真理はひとつでであって、第二のものは存在しない。その<真理>を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたいている。それゆえにもろもろの<道の人>は同一のことを語らないのである。> スッタニパーダ
たーぼー
2020年01月22日 21:20
仏陀が悟った真理とは、諸行無常、一切皆苦、諸法無我(非我)ですが、


これが中道なんです。
簡単に説明すると空の世界っていうのは、この現象世界が全て抜け落ちるんです。無くなるんです。
そして私達が現実だと思っているこの物質現象世界がありますよね。
この空の世界と現象世界の真ん中の世界があるんです。
泡のような世界です。儚くて美しい世界です。
仏教学者に言わせると、もっと色々な難しい定義をするんでしょうけど、ざっくり言うとそういう事なんです。
これは私が言っているだけで、本当なのか嘘なのかは分かりません。私が嘘をついているかもしれません。だから地球人さんが自分で確かめてみるしかありません。
たーぼー
2020年01月22日 21:50
これは禅の世界観とは違うんです。
禅では「柳は緑、花は紅」といいます。
目は横、鼻は縦というような、ハッキリクッキリとした世界ではないんです。
よく禅の人は、コップ見たらコップだけ床みたら床だけ、机叩いたらその音だけそれっきしがあるだけと言いますね。
そういうハッキリクッキリとした世界観ではないんです。この世界丸ごとを生滅するもの変滅するものと見る無常の世界観です。
地球人
2020年01月22日 21:54
中道とは、仏陀の真理・三宝印に対する見解です。

たーぼーさんの言ってることは、個人的、感覚的な体験ですか?
ちょっとわかりません。

取りあえず、中道を載せておきます。

仏教の実践についての基本的な考えで、対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くこと。仏陀は苦行と快楽を離れた中正な方法(苦楽中道)によって悟りに到達し、それを具体化するために八正道を説いた。大乗仏教ではこの考えがさらに深められ、有・無、生・滅などに代表されるような日常的な観念やことばを超えたところに究極的な真理があり、それに達するために「すべてのものは空である」とみることが中道であるとされる。[江島惠教]

たーぼー
2020年01月22日 22:46
仏教の実践についての基本的な考えで、対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くこと。仏陀は苦行と快楽を離れた中正な方法(苦楽中道)によって悟りに到達し、それを具体化するために八正道を説いた。大乗仏教ではこの考えがさらに深められ、有・無、生・滅などに代表されるような日常的な観念やことばを超えたところに究極的な真理があり、それに達するために「すべてのものは空である」とみることが中道であるとされる。[江島惠教]


難しいね。
この説明よりもクリッシュナムルティ の説明の方が分かりやすいです。
ちょっとスレの最新のにコメントします。
地球人
2020年01月22日 23:27
まあ、中道の八正道は修行して悟らないと実行できませんからね。大乗では悟る人もなく釈迦如来に神格化しましたからね。笑
snow
2020年01月24日 16:01
全体があるだけ = 自由意志はない = 因果があるだけ
というのを実感しています。

個別のものというのは、見かけ上です。

こうしたことに気づいても、無気力になったりはしないですよ。
むしろ、ある意味、今ある現実を肯定し、そこでがんばっていこうみたいな気持ちになります。

なぜかというと。今ある現実というのは、そうなるしかこうなるしかないからそうなっている、ということがわかるからです。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月24日 21:35
厳密な意味での自由意志なのかどうかは置くとして、意志を否定する仏教はありえないでしょう。

人間の意志否定ですべては因果?仏教を否定する人なら何ら問題はないけど。

カルマ、業、輪廻転生
2020年01月24日 21:38
反応パターンや条件づけの鎧で何重にも固められているのが凡夫ではあるが、そこから脱出せんとするする意志だよね。
snow
2020年01月25日 12:01
昨日書いたものを。
全体があるだけ = 自由意志はない = 因縁があるだけ
 
 に、訂正させてください。 因果ではなく、因縁に訂正します。


自由意志はない、という表現に、操り人形みたいで納得いかない、と思われる方も多いのかな、と思います。
全体があるだけ、というのを言い換えると、「海と波」の喩えがわかりやすいかもしれません。
 私たちは、波であり(個人)、海である(全体)。
個人の意志だと見かけ上では見える、感じられるものも、全体から起きているものだということです。

何かを(自分の意志で)決めた、決定した、と感じた時。
AにするかBにするか、というような時です。
「どちらにしようかな」、と迷う思考も、「Aにしよう」という決定も、実はどこからともなく「湧いてくる」ものですよ。
自分が考えているように感じられるかもしれませんが、湧いてくるものです。
これは、観察を常時していれば気づくと思います。


カルマ、業、輪廻転生
2020年01月25日 17:11
人間が怒るのは、自分でその思いを自由に作り出したのではなく、因と縁によって怒りが湧いてくるものでしょう。悟る前の凡夫が生きる地平です。

問題は、その怒りを人間相手に具現化するか、抑制するか。

日本でもあまりに膨大な子供のイジメ、社会人になってからのパラハラ、セクハラなど、意志が弱すぎるからです。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月25日 17:22
怒りというのはドーサのこちね。

あいつがイヤだ、不快だ、キモいといった隠微な思い。集団がこれを共有してターゲットをみつけたときにイジめが生まれる。

禅の全体論思考や因果・因縁論は、この問題にはちょっと弱すぎると思う。
たーぼー
2020年01月26日 01:33
人間が怒るのは、自分でその思いを自由に作り出したのではなく、因と縁によって怒りが湧いてくるものでしょう。悟る前の凡夫が生きる地平です。

問題は、その怒りを人間相手に具現化するか、抑制するか。

カルマさんこんばんは。私はそれを言いたかったんですよ。
確かに怒りの感情は因と縁に寄って湧いてくるでしょう。
しかし、大変ではあるけれど、人間はその感情を自分の意思で抑えることも出来るし、違う方向に自分の意思で感情を持って行くことも出来るじゃないですか。
じゃ心に浮かんでくるままに実生活で感情を露わにする人はどれだけいるでしょうか?
思うという事は自分で大変だけど自分でセリフコントロール出来ますよ。
因果だけがあって自由意思がないというような事をシタリ顔で言う禅者を見ると私は怒りが湧きます(笑


カルマさんこんばんは。
私はそれを言いたかったんですよ。
たーぼー
2020年01月26日 02:28
自由意志はない、という表現に、操り人形みたいで納得いかない、と思われる方も多いのかな、と思います。
全体があるだけ、というのを言い換えると、「海と波」の喩えがわかりやすいかもしれません。
 私たちは、波であり(個人)、海である(全体)。
個人の意志だと見かけ上では見える、感じられるものも、全体から起きているものだということです。

何かを(自分の意志で)決めた、決定した、と感じた時。
AにするかBにするか、というような時です。
「どちらにしようかな」、と迷う思考も、「Aにしよう」という決定も、実はどこからともなく「湧いてくる」ものですよ。
自分が考えているように感じられるかもしれませんが、湧いてくるものです。
これは、観察を常時していれば気づくと思います。



随分このコメント欄は覚者が多いみたいですが、カルマさんが言うダルマを体で分かっていないとこの因果論の本当のところは分からないですよ。
私が思うのは一般の人、ごく普通の一般の人が禅仏教の後ろ向きの因果論で自分の人生を自分で切り開いていくという主体性がなくなってしまうんではないかと危惧してます。
2020年01月26日 04:49
その自分というものが怪しいね~~^^
snow
2020年01月26日 08:25
>私が思うのは一般の人、ごく普通の一般の人が禅仏教の後ろ向きの因果論で自分の人生を自分で切り開いていくという主体性がなくなってしまうんではないかと危惧してます。


たーぼーさん。 私が書いたのを引用いただいたので、ここでもそうさせていただきますね。

自由意志はない、という表現に、虚無感や無力感、不気味さを感じてしまう人もいるようですが、表層での理解だとそのように感じてしまうものなのかもしれません。

自由意志がない、すべては因縁で動いている、ということをきちんと理解できれば、それは大きな救いになりますよ。
例えばですが。 どうしようもなくアル中な人がいたとします。
また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。
その人たちは、なぜそうなのでしょう?
脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。
自分を責めてもしかたないんです。(責める、ということさえ、そうなるしかないからそうなってるんで、それはそれでいいんですけど。)
自分を責めてもしかなない、というのは大きな救いですよ。
責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。

また逆に、とても才能があり優秀な人というのも、脳、身体の特性、環境、遺伝などからそうであるということで、その人個人の持ち物でもないのです。

 申し遅れましたが、snowは赤い実です。もういい年なので、赤い実という名前が可愛すぎるのでこちらではsnowにしました。
ヤフーでも、自分のトピで、snow=赤い実というのは書いてはおいたのですが。
2020年01月26日 08:32
自分てイメージだけでそもそもないかも知れない^^
あるのは・・因縁だけ^^
2020年01月26日 08:43
>思うという事は自分で大変だけど自分でセリフコントロール出来ますよ。


こちらについても。

セルフコントロールということについても。
そうしようという意欲、そうできる能力というのは、脳、身体的な特徴、環境などによって成り立っています。
簡単にできる人とそうでな人がいます。
そのあたりを自分で理解できれば、それは救いになるでしょう。
自分を責めずに感情を整えていこうという気持ちに繋がると思います。
2020年01月26日 09:00
ちなみに0.3秒だけ拒否できる自由意志がある説があるけどどうなんだろうね^_^
2020年01月26日 09:26
「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果

すまん^_^

0.2秒だった^_^
snow
2020年01月26日 10:19
8:43のコメントは、snowが書いたものです。
名前を入れるのを忘れていました。 すみません。
2020年01月26日 10:52
自分で実験してみた^_^

まず想念が湧いて来る^_^

思考「自分」がそれを行動に移すか決断する^_^

だだこれだけ^_^

自分は観察者なんだな^_^

あとはやるかやらないか決めるだけ^_^
2020年01月26日 12:13
想念が自由意志とはこれいかに^^
2020年01月26日 12:30
あなたは身体ではない、それ故、あなたはカルタ(行為者)ではない。


全ての行為は自動的に起こるのだ。

あなた自身を行為者と見なしてはならない。


真我は行為に関心を持っていない。

真我は行為に関わらないことは明らかである。




あなたが自分を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。

だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。


真我を実現した人は、世界を彼自身と異なったものとしてみていないのである。


交わるべき他の人など存在しない。ただ真我だけが存在しているのである。


http://kuboakoru.web.fc2.com/lamananokotobaitilann.html


わけわかめ^^?
たーぼー
2020年01月26日 22:48
自由意志がない、すべては因縁で動いている、ということをきちんと理解できれば、それは大きな救いになりますよ。
例えばですが。 どうしようもなくアル中な人がいたとします。
また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。
その人たちは、なぜそうなのでしょう?
脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。
自分を責めてもしかたないんです。(責める、ということさえ、そうなるしかないからそうなってるんで、それはそれでいいんですけど。)
自分を責めてもしかなない、というのは大きな救いですよ。
責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。

また逆に、とても才能があり優秀な人というのも、脳、身体の特性、環境、遺伝などからそうであるということで、その人個人の持ち物でもないのです。

 申し遅れましたが、snowは赤い実です。もういい年なので、赤い実という名前が可愛すぎるのでこちらではsnowにしました。
ヤフーでも、自分のトピで、snow=赤い実というのは書いてはおいたのですが。



赤い実さん、こんばんは。
うん、うん、そういう風にプラスに考えるならいいと思います。
Good
みゅう
2020年01月27日 08:01
あ さん

>「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)


 ”自由”という言葉はもともとは”責任”とか”義務”とかいう言葉と相性が良いみたいです。「自己を修める」ために向いている道具ではなさそうなので、「自由と独立ほど尊いものはない」などと大いに盛り上がることもあるわたしですが、ここで、しかも、まともな哲学の世界でも混乱しているらしいことがらについてこのわたしのサル知恵ではお役に立てそうもありません。

 とはいえ、ご指摘のリベットの実験には非常に興味を覚えて、以前、飛ばし読みしただけの「マインド タイム」を精読してます。3日目でまだ序文!!ですが大いに考えさせられ、勉強になります。有難うございました。

 ”意志”という概念は自然科学とあまり相性が良くないようです。
手首を曲げるか曲げないか、どちらかの選択と、たとえば、じゃんけんをするときの3択の場合でも、状況が大きく変わってくる可能性があるように思うのですが、、本文をきちんと読んでから、またご報告します。

 
カルマ、業、
2020年01月27日 11:41
>因果だけがあって自由意思がないというような事をシタリ顔で言う禅者を見ると私は怒りが湧きます(笑

そう言う禅者が現実生活で自由意志を否定して行動しているかというと、けっしてそうではないと思います。自分が現実世界で起こす出来事を追認、容認するという形で、かなりの程度、意志を働かせているのではないでしょうか。意味づけのレベルで自由意志はないと解釈しているだけとも言える。
地球人
2020年02月01日 18:17
>たーぼーさん

>自由意志がない、すべては因縁で動いている、ということをきちんと理解できれば、それは大きな救いになりますよ。

とすると、宇宙の本質が無明ということになります。