絶対的主体性

>>私は無いという言い方は間違いです。
私は○○では無いという言い方ならOKですが、絶対的な主体性は有るのです。
白隠禅師の大悟18回小悟数知れずの境地では絶対的な主体性があるのです。
主体がない、主体はあるが認識出来ないというのは全て途中図です。
因果だけあって自由意志がないという言い方は間違いであり、人間にとって一番大切な主体性=やる気を失わせてしまう言い方です。これが今の既成仏教の最大の問題点だと思います。

だれがどういったか、とか、やる気があるとかないとか、絶対的主体性とか、どうでもいいことです。ただ、わたしは、日常のあらゆる悩みを一掃したい、それだけのことです。だから、悩みを観察します。

そうすると、悩みに働きかけても悩みは解決しないとわかります。だから、悩むんです。効率よく、一所懸命悩みます。その時、どうなるか?というのが問いです。白隠禅師だ、因果だ、自由意志だなんか、どこにも居場所がないんです。

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この記事へのコメント

Bananafish
2020年01月19日 05:53
どうしても悩みに思考過程が侵入してきて、
悩みから離れようとするのが一つ困難だと感じています。

逆に思考過程を利用して、「悩んでいるのは誰か?」
と問う、あるいはそれがいるかどうか観察することは、
良い方法であるような気がします(少し間接的になりますが)。

禅にも通じるアプローチですが、宗教色があるものに抵抗を感じる人に
オススメしたい方便かな、と ...
宮啓
2020年01月19日 09:03
 クリシュナムルティは、悟りを求めることはもちろん、苦痛を取り除くことを求めることも、ビカミングとして、無意識の領域で思考が継続していくことを示唆しています。

 悟りを忘れ、苦痛を忘れ、ただ、アマチュア科学者として「事実は何なのか・・?」と観察する。
カルマ、業、輪廻転生
2020年01月19日 13:10
>だれがどういったか、とか、やる気があるとかないとか、絶対的主体性とか、どうでもいいことです。ただ、わたしは、日常のあらゆる悩みを一掃したい、それだけのことです。だから、悩みを観察します。

>そうすると、悩みに働きかけても悩みは解決しないとわかります。だから、悩むんです。

いまここの日常にある悩みというのは、過去の業が消えていくプロセスでしかないのではないですか。だから働きかけて悩みを消しにいっちゃいけないんです。ただじっと我慢するしかない。悩むなら悩むしかない。

自業自得ですね。

いまここの悩みは、過去に悩みに反応してグチャグチャ弄ったカルマが結実しているだけです。
お節介な見物人
2020年01月19日 14:17
自由に書き込みさせていただきありがとうございます。
サラッと流していただけたら幸いです。
>ただ、わたしは、日常のあらゆる悩みを一掃したい、それだけのことです。だから、悩みを観察します。
 そうすると、悩みに働きかけても悩みは解決しないとわかります。だから、悩むんです。効率よく、一所懸命悩みます。その時、どうなるか?というのが問いです。白隠禅師だ、因果だ、自由意志だなんか、どこにも居場所がないんです。
---- 
 問いかけありがとうございます。

 肉体的な悩みや精神的な悩みは誰にでもあると思います。筋骨隆々のボディビルダーであってももっともっと上を目指している人は、自身の肉体を改造しようと悩んでいるようです。われわれからすれば贅沢な悩みかもしれません。アスリートももっともっと上手くなりたい速くなりたい強くなりたいスキルを身につけたいと悩みは尽きないようです。お付き合いやお遊びやサークル活動や汗がかける程度でいいという人。それでも少しは目立ちたいとか褒められたいと悩むことがあるかもしれません。
 プロであれば生活がかかっているので悩みは想像を絶するものがあるかもしれません。悩みを積極的に受け容れて成長の糧に変容させれば最高なのではないでしょうか。
 肉体的差別とされている、◯ビ、◯ブ、◯ゲ、◯スだと言われ悩んでいたとしても個性的な現れの姿形でありどうしょうもありません。他人の見解であっていちいち気にしなければいいだけかもしれません。
 精神的な悩みでも、色々な人がいて色々な見識がある。皆が「自分かわいい」から自己保身のためにしていることなんだ。人間は面白い生き物だ程度の感覚です。ブラジルのサントスさんが骨折したとか、おもしろ動画をみて喜んでいるとか・・・。「議論するだけでオーストラリアの火災を鎮火させられるのか、とか」「芸能人の趣味を知ってどうするのか、とか」「イギリスの皇族と同関係性をつくるの、とか」あらゆるNEWSを知ってどうする?お気楽なTVを見ている人が何をどう悩んでいるんだろうと悩んでしまいます。

 不愉快の感情を伴った悩みであっても、起こっているんだから起こるままに受け入れるしかないと開き直るしかないようです。自身の経験則から「何もかも過ぎ去り消えてしまっている」ようです。幼児の時の悩み思春期の悩み職業生活での悩み夫婦間の悩み生活費の悩み・・・、あるのですからしかたがない下手に突っ込まないほうがいい。
 丸裸になれといわれればそうするしかありません。土下座しろという状況になればそうするしかありません。世界がどう変わるか誰にもわかりません。過去に戻れないし未来を思い通りに変えることもできないのですから良し悪しを言ってもしょうがありません。大海の一滴のような自分自身が大きな波を起こすことなどできるでしょうか。
 この得体の知れない何かとして出現したのですから日々観察して、どのような最後を迎えるのか見届けたいと想っています。
たーぼー
2020年01月19日 15:40
私が言いたかったのは、お釈迦様の自灯明法灯明だという事です。
自己に頼れ、法に頼れって事です。
自己に頼るのに、私は無いと言ってしまったら頼るものが無くなってしまうという事です。
まぁどうぞご自由に。
タキ衛門
2020年01月19日 15:48
>因果だけあって自由意志がないという言い方は間違いであり、人間にとって一番大切な主体性=やる気を失わせてしまう言い方です。これが今の既成仏教の最大の問題点だと思います。

 上記は、事実と価値の混同だと思います。
 自由意志があるかないかは、物理学と同じように、事実のメカニズムに関する命題。一方、自由意志なしにするとやる気が失わせてしまう(≒「あり」にすべきだ)は、価値に関する価値命題。
 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
道徳的判断を導いたり(例えば「~するのがあたりまえである」から「だから~すべきだ」のように)、善を定義づけることは不可能。
タキ衛門
2020年01月19日 16:08
>自己に頼るのに、私は無いと言ってしまったら頼るものが無くなってしまうという事です。

 これは、単に階層で分けて理解すればいいだけだと思います。

 原理的なレベル:自己はない。自他の区別は概念でしかない。
 日常的なレベル:自己だと思いこんでいるその体をメインに使って、修行をがんばれ。つまり他に頼るな。
お節介な見物人
2020年01月19日 17:11
太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン
地球人
2020年01月19日 17:12
学者の中村元さんによれば、翻訳が間違っていて、諸法無我ではなく諸法非我だそうです。我無しではく我に非ず。
地球人
2020年01月19日 17:38
諸法無我でもいいけれども、諸法は我では無いと訳すのが妥当なのだろう。
たーぼー
2020年01月19日 21:25
>上記は、事実と価値の混同だと思います。
 自由意志があるかないかは、物理学と同じように、事実のメカニズムに関する命題。一方、自由意志なしにするとやる気が失わせてしまう(≒「あり」にすべきだ)は、価値に関する価値命題。
 

ちょっとピントがズレていると思いますが、私が聞きたいのは貴方は日々生活していく中で、自分で考えて行動してませんか?
本当に因果に操られて自分の自由意志はないと思ってますか?
貴方の本音を聞きたいです。
たーぼー
2020年01月19日 22:32
<学者の中村元さんによれば、翻訳が間違っていて、諸法無我ではなく諸法非我だそうです。我無しではく我に非ず。

地球人さん、こんばんは。
私は仏陀は諸法非我にするしかなかったんだと思います。仏陀は出家してから二人の宗教者を訪ねて、あっという間に最高境地に辿り着いているんです。そしてその二人の宗教者から是非後継者にと声がかかったのに、それを固辞して、これは涅槃に至る道ではないと一人真理を探究する道に戻っているんです。つまりは独覚です。日本は大乗仏教の国ですから、小乗仏教を蔑視するというか見下している人が多いんですが、仏教の始祖である仏陀は間違いなく独覚なんですよ。小乗仏教を蔑視するなら仏陀ではなく、龍樹を始祖とすべきだと思うんですが、不思議な事に仏陀の事は誰も悪く言わないんです(笑
何故に諸法非我にせざるを得なかったかと言えば、独覚だからです。他人や他の宗教団体に頼ることが出来ないから、自分を頼るしかないんですよ。自分を頼るなら私は無いとはいかないです。頼る自己がなくなってしまいますから。諸法非我というのは、自分は真理とは何か分からないから、答えを留保する構えなんです。だから自分では無いと確実に言えるものだけを排除していく構えなんです。例えていうと仏像彫りの仏師が素材の大木から仏性を取り出すと言いますけど、まさにあの構えなんです。無駄な部分だけを少しずつ慎重に削っていって仏性を取り出すという感じなんです。自己は無いというのは、もう答えを出してます。だから私は諸法無我というのは、日本の仏教が方便を使って安易な方向に流れた帰路だと思ってます。
地球人
2020年01月19日 23:09
こんばんわ。

諸法無我だったら、修行して悟った仏陀(我)も、八正道の自灯明の仏陀(我)も無しとなりますね。
タキ衛門
2020年01月19日 23:12
>本当に因果に操られて自分の自由意志はないと思ってますか?

 はい。ないと思っています。「ない」場合、なにか論理的な矛盾
か何かが発生するのでしょうか?
地球人
2020年01月19日 23:34
自由意志とは、一般に行為者が思いどりに選択し、決断することのできる能力をいいます。これに対して哲学では、「決定論」に対置される概念としてとらえることができます。決定論とは、人間の行動は運命などの何らかの外的な要因によって決定づけられていると考えられる立場です。
したがって、反対に自由意志論者は、人間はこうした外的な要因によって決定づけられる存在ではないと主張します。いわば自由意志とは、自分で運命を決定することのできる能力であるといえます。 哲学用語辞典より

2020年01月19日 23:50
>逆に思考過程を利用して、「悩んでいるのは誰か?」
と問う、あるいはそれがいるかどうか観察することは、
良い方法であるような気がします(少し間接的になりますが)。

それはそれでいいんですが、悩んでいるのはだれか?という問いは、死活問題になりにくいと思います。
2020年01月19日 23:53
>クリシュナムルティは、悟りを求めることはもちろん、苦痛を取り除くことを求めることも、ビカミングとして、無意識の領域で思考が継続していくことを示唆しています。

クリシュナムルティもどうでもいいです。誰が何と言おうと、わたしは苦痛をなんとしても取り除きたいんです。悩みから解放されたいんです。ものすごく単純です。ここから始めます。
2020年01月19日 23:57
>いまここの日常にある悩みというのは、過去の業が消えていくプロセスでしかないのではないですか。だから働きかけて悩みを消しにいっちゃいけないんです。ただじっと我慢するしかない。悩むなら悩むしかない。

>自業自得ですね。

>いまここの悩みは、過去に悩みに反応してグチャグチャ弄ったカルマが結実しているだけです

だから、悩むしかないんだ、と、見抜いてしまい、腹をすえるしかありません。悩みにお任せです。
2020年01月20日 00:00
>この得体の知れない何かとして出現したのですから日々観察して、どのような最後を迎えるのか見届けたいと想っています

悩みは、生き方を変えるチャンスだとも思えます。であれば、悩みは歓迎すべきものです
2020年01月20日 00:05
>私が言いたかったのは、お釈迦様の自灯明法灯明だという事です。
自己に頼れ、法に頼れって事です。
自己に頼るのに、私は無いと言ってしまったら頼るものが無くなってしまうという事です。
まぁどうぞご自由に。

頼るものがないとき、ひとは切羽詰まります。打つ手がありません。このとき、無意識・身体は、別種の働きをします。そこに賭けるわけです。
2020年01月20日 00:05
彼女に勉強して働けといわれた。
たーぼー
2020年01月20日 00:08
>本当に因果に操られて自分の自由意志はないと思ってますか?

 はい。ないと思っています。「ない」場合、なにか論理的な矛盾
か何かが発生するのでしょうか?


本当ですか?
本当に日々の生活で自分で考えて生活していませんか?
例えばスーパーで何を買おうかと自分の頭で考えて買いませんか?


大平
2020年01月20日 00:09
いろんなバイトしてきたが続いたためしがない。
地球人
2020年01月20日 00:13
ヒントとしては、他人の悩みは明確に回答できます。
地球人
2020年01月20日 00:15
>いろんなバイトしてきたが続いたためしがない。

根気がない。
地球人
2020年01月20日 00:23
又は、いついつまでと期間を設定する。
大平
2020年01月20日 00:26
筋金入り社会不適応者なので。
大平
2020年01月20日 00:27
最長2年、ピアニストのバイト。
たーぼー
2020年01月20日 00:40
諸法無我だったら、修行して悟った仏陀(我)も、八正道の自灯明の仏陀(我)も無しとなりますね。


そうなんです。我々が自我だと思っているものも実は真我の表れなわけです。
だから諸法無我というのは矛盾しているんです。
最終的には全ては無だという結論になってしまうんです(笑
地球人
2020年01月20日 00:44
バイトはお金が目的ですが・・・

社会不適格とは別問題でバイトと関係ないですね。
地球人
2020年01月20日 01:03
>そうなんです。我々が自我だと思っているものも実は真我の表れなわけです。
だから諸法無我というのは矛盾しているんです。
最終的には全ては無だという結論になってしまうんです(笑

実際にブッダの言葉を引用します。

「一切の事物は我ならざるものである。」と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかなになる道である。 「ダンマパダ」273-279
地球人
2020年01月20日 04:14
たーぼーさんへ

「五種の構成要素(五蘊)をアートマンとは異なった他のものであると見て、アートマンであると見ない人々は、微妙な真理に通達する。――毛の尖端を矢で射るように。」 テーラガーター

と、仏陀は言ってます。否定的にしか答えていないのです。アートマン(自己)とは何ものか?具体的に答えていません。

「中村元さんの解説」

非我あるいは無我が、いまひとつはっきりしないのは、あれはアートマンではない、これもアートマンではないと否定的に説かれていて、これがアートマンであると肯定的、断定的に説きあかされないところに、わかりにくいめ面がありましょう。しかし、ここで、否定的にしか説き得ないことなのであるということを理解しなければなりません。もしこれがアートマン(自己)であると断定したなら、ブッダの教説と違ってしまうでしょう。ブッダは、これといって具体的に、また対照的に客体化して明示するどんなものもアートマンではないいってます。ブッダはアートマンは存在しないとはいってません。人間の五種の構成要素(五蘊)をとりあげ、「アートマンはこれでもない、あれでもない」といってるだけです。・・・・

地球人
2020年01月20日 04:48
梵我一如とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。

宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものである。すなわち個人の肉体が死を迎えても、アートマンは永遠に存続するということであり、またアートマンが死後に新しい肉体を得る輪廻の根拠でもある。

仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場するが、本来のインド思想にあっては、自然そのもの、あるいは遍在する原理、または真理を指していた。我(アートマン)とは、身体の中にあって、他人と区別しうる不変の実体(魂のようなもの)として考えられ、「真我」と漢訳される。

ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。

以上、wikipediaより

みゅう
2020年01月20日 07:05
>ただ、わたしは、日常のあらゆる悩みを一掃したい、それだけのことです。だから、悩みを観察します。

 おお。一掃ですか。なかにはかわいい悩みも、、、ダメ、、?
タキ衛門
2020年01月20日 18:17
>本当ですか?
>本当に日々の生活で自分で考えて生活していませんか?
>例えばスーパーで何を買おうかと自分の頭で考えて買いませんか?

 考えてますけど、その考えが100%因果律で動いているだけです。
自分の頭で考えている=自由意志がある ってわけじゃないと思います。
情報処理の中心が脳だったからといって、自由意志があるって根拠には
ならないでしょ。
 AIを動かしているCPUが、演算の中心だったからって、因果律に反して自由意志があるって事にはならないので。
地球人
2020年01月21日 03:21
>おお。一掃ですか。なかにはかわいい悩みも、、、ダメ、、?

かわいいと客観してる時点で悩みはほぼ消滅してるでしょう。
地球人
2020年01月21日 03:42
>ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。

そういえば、愚さんが言っていた「宇宙のわたし」とはこれでは?
地球人
2020年01月21日 03:51
>梵我一如とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。

愚さんの悟りは梵我一如でしょう。