輪廻転生5
>要するに、この世界が実体として存在し、そこに私たちが出たり入ったりするという観念が正しいかどうかです。具体的には、私が死んだあと、今見ているこの「私の世界」がそのまま続いていくのか?ということです。輪廻転生はこの観念の上に成り立っています。しかしこの世界が意識が作り出す非実在の幻なら、この観念は成立しません。意識しか存在しないのだから、それに並び立つ世界という実体は存在しないからです。したがって輪廻転生もありえないことになります。マハルシは輪廻転生を幻想として否定していますが、輪廻転生を否定すれば、仏教もヒンドゥー教も根拠を失うことになります。このあたりが訳のわからないところです。
世界は、わたしたちの想像している意味では、存在していません。ただ運動があるだけです。時のない運動です。その運動から、個人を抽象します。そうすると輪廻転生という観念が生まれます。ですから、個人がいなければ、輪廻転生はありません。
ですから、輪廻転生があるといっても、ないといっても、どちらも正しいんです。
一般的には、個人を前提とするので、輪廻転生があるという前提から始めます。
世界は、わたしたちの想像している意味では、存在していません。ただ運動があるだけです。時のない運動です。その運動から、個人を抽象します。そうすると輪廻転生という観念が生まれます。ですから、個人がいなければ、輪廻転生はありません。
ですから、輪廻転生があるといっても、ないといっても、どちらも正しいんです。
一般的には、個人を前提とするので、輪廻転生があるという前提から始めます。
この記事へのコメント
一般に言う輪廻転生は経験してないんでわからない。
先の輪廻転生を知り、安心するより、今、今、今を安心して行くのが大切な気がしてます。
この死を解決しないと、輪廻転生があろうがなかろうが本当に安心出来ない。
皆さんそう思われませんか?
犬には仏性は無いけれども、ワンワンには仏性が有るって事?
知らんけど^_^
偶然に出来るとは思えん^_^
何らかの何かがあるに違いない^_^
人も宇宙が創造したものだからな^_^
全てを宇宙に委ねるのが筋やな^_^
結局は無為自然に行き着くな^_^
うん^_^
老子ちゃん^_^
真似しやがった^_^
即今とは、時間の経過を感覚で認識できない。
考えることもできん^_^
宇宙とか、地球とか、動物界とか、人間界とか、アメリカとか、中国とか、日本とか、オリンピックとか・・・
個体の活動はコロニーに還元される。
さて、人間を大ざっぱに霊的中枢と対応して分類すると、次の6種類に整理される。
・・・・・・・・・
1/
下層部の3つのチャクラ、すなわち腹までで生きている者は、いわば動物だ。
ただ動いて、生殖し、単純な力を拡張するだけだ。あるいは、せいぜい何かになるとし
たら、良くても格闘家か兵士かスポーツ選手だろう。なぜならば、腹のチャクラは力の
維持とその発散にだけかかわっているからだ。
・・・・・・・・・
2/
次の第二のタイプは胸に重心がある者たちだ。力の入れ込み具合は最初のタイプよりは、
若干ゆるやかであるが、彼らは、やたらと感動を求めて世界をうろつく事になる。よく
て、せいぜい冒険家になるか、芸術鑑賞の趣味か、旅行の趣味か、恋愛中毒にでも入れ
込む程度だ。
彼らが欲しいのは、とにかく感動であってその「質」の問題ではない。
彼らは経験を分析もしなければ、それについての思慮もしない。彼らは文字通りただ、
胸をときめかせるためにだけ生きている。
・・・・・・・・・
3/
次の第三のタイプは行動範囲に一つの制限が加わる。彼らは、やたらと動くのではない。
彼らには目的とするものがありそれのみの為に動くのである。
彼らの主眼は蓄積だ。彼らが旅行するとしても、二番目のように感動を求めてではなく
データを求めてだ。
つまり、この三番目の人種は情報マニアあるいは何かのコレクターだということだ。
彼らが旅行をするとしても、きっと常にビデオカメラでも持ってゆくに違いない。
彼らの主眼は記録とその蓄積にある。そしてそれは特定の情報に限られる。
こうした特性は、彼らが喉の中枢に重心があるためだ。そこは記録・記憶の中枢だ。
しかし、このタイプの人種は、技術的・事務的にデータを組み合わせる事はできるが、
新しいものを作り出すことはできない。何か全く新しいものを作り出せるのは、
次の中枢の者であるからだ。
・・・・・・・・・
4/
第四の人種は、重心が額にある。彼らは科学者か発明家タイプだ。彼らは何か新しいも
のを作り出すためには、「ひとつを除いては」、どんな思考でもする。
彼らは発想に必要な情報を求めてという目的でもないかぎりは、旅行などしない。
行動範囲がむやみに広いのは第三の人種までだ。第四の人種、たとえば科学者は実験室
にこもる。このように次第に上の中枢に重心が移るにしたがって、その行動範囲と思考
範囲が扱う領域が狭くなるのが特徴である。彼らは論理の地図と数式の道の上を旅する。
・・・・・・・・・
5/
さて次の第五の人種ともなると、なんと実験室さえも持たない。彼らは実験すらもしな
い。彼らの運動範囲は机の上の、しかも手と目の運動だけだ。しかも、彼らは数式も使
わず、ただ頭の論理の中を散歩するだけだ。彼らは何かを作り出すために思考するので
はない。彼らは第四の人種が「ただ一つ思考から除外する事」をそのテーマとしている
のだ。それは「なぜ人は思考するか」だ。これだけは第四の人種は決して持たないテー
マである。
というのも、第四の人種にとっては、この疑問は致命的だからだ。
この思考テーマには商業的価値も娯楽としての価値もないからだ。
ところが、第五の人種は、この「なぜ思考するか、なんのために思考するか、思考とは
そもそも何か」を考えるのである。
そして、「自分の思考を見ているのは誰か」という問題がこの人種の根本疑問だ。
第五の人種とはすなわち、哲学者だ。彼らは机の上からも動かない。
彼らが仮に「世界とは何か」と問うとしても、彼らは学者のように法則の解明には乗り
出さないし、世界を旅して調査するのでもない。
彼らは世界がどうなっているかではなく「世界とは何か」「どうして世界があるのか」
という定義と意味に主眼があるからだ。
そして、彼らの重心となる中枢は、前頭部である。彼らは多くの思考には同化しないが、
人はなぜ思考し、なぜ万物は存在し、自分の主体とは何か、意識とは何かという思考に
だけは完全に同化している。
こうして次第に中枢が上にゆくにしたがって、行動範囲が狭くなるのは奇妙なものだ。
・・・・・・・・・
6/
そして、ついに第六の人種に至ると自らの思考への疑問さえもやめて、
彼は完全に停止する。もはや、頭の中でさえも何も動かない。文字通り彼が『わが家』
にいるのか、さもなければ、単に廃人となったかは分からないが、第六に至っては、
内的な行動というものすらも全くない。
・・・・・・・・・
かくして、人のこの『進化』は、肉体活動から感情活動、そして最後には思考活動へと
移行し、ついには、思考活動そのものへの自問を経て、思考を停止する。
動きから停止への道・・・要約すれば、これが悟りへと向かう方向の旅だ
「輪廻とは単に死後の生があるということではなく、ひとつの行為はそれで完結せずそれによって次の行為が引き起こされていくという行為の連鎖のことである。そのため、私たちの生もゼロからいきなり始まったわけではなく、また、死んで突然ゼロになってしまうこともないと考える。欲しいもの手に入れよう、嫌いなものをなくそうとすることは、いつまでたっても終わりが来ないのであり、そのような行為から抜け出すべきことが説かれたのである。」
吉村均「神と仏の倫理思想」
あ、永遠の今だ
とか直感で感じる時があるね。
物質に意識が生じたのか? それとも意識は存在するのか?
生物の脳に意識が生じた。
「夢が終わったとき、夢を見ていた人が目覚めの経験者として起き上がって、「長いあいだ私は見知らぬ場所をさまよう夢を見ていた。しかし私は寝床の中で横たわっていただけだった」と言うように、あるいは狂人が狂気から回復して元の自分に戻ったことを喜ぶように、あるいは病人が癒やされて過去の苦しみを訝しむように、あるいは哀れな男が王となって過去の貧しい境遇を笑うように、あるいは人が天人となって新たな喜びを楽しむように、あるいは帰依者が信仰する神と一つになって至福に満たされるように、ブラフマンとして現れたジーヴァ(個我)もまた、初めからずっと、ただブラフマンとして存在しながら、世界や神や人々を思い描きながら哀れな存在として動き回っていたことに驚き、“それらすべての幻影はどうなったのか?”と自問する。そしてまた、今やただ独りで、内も外も一切の区別がないサット・チット・アーナンダとして存在することに驚きながら、ブラフマンの至福を明瞭に体験するのだ」
現代科学ではイエスキリストは人だった。