自己イメージ2

>> ただ、自己イメージがないとハッキリわかるには、悟りがいります。

>では、この文章を書いているときに「気付いている」主体は誰ですか? 

そのようなものがあるのか、ないのか、が、問いです。わたしの主張は・・・・わたしだけではありませんが・・・・そのような主体はない、ということです。つまり、気づきだけがあって、気づく主体はないよ、ということです。

そうはいっても、なんとなく、「自分が」気づいてる感じがするわけですが、そこを調べると、ある感覚だということがわかります。自分が在る、という感覚です。そこで、その感覚を感じている主体を探すと、そこにはなにもありません。

探求はこれで終わりです。たった、これだけです。一分かかりません。いますぐできます。

これが仏教のすべてです。禅、ヒンドゥー、キリスト教、まともな宗教のすべてです。

ただ、一般的には、実感が伴いません。そこで、特殊な状態を作り、そこで実感させるわけです。それを、仮に悟りとか呼んでいるだけです。

>それこそを通常、『自己イメージ』と呼ぶのではないですか?

わたしが自己イメージというので、使っているのは、わたしは、これこれのものである、というときのこれこれです。
わたしは、何年何月にどこどこで生まれ、なになに小学校に行き、親はだれだれで、性格的には内向的もしくは外交的で、正直で、ああだこうだ・・・・・つまり、過去の経験から作り上げたものを自己イメージと呼んでいます。一般的に妥当かどうかはわかりませんが・・・・

>> なんの矛盾も不平等もありません。

>「相互支配」と仰ってますか?
そうでなければ、見事な矛盾になっていると思います。通常、支配/被支配の関係は一方的なものであり、双方向的ではない、と理解されるからです。

他者が存在しないということをいっています。つまり、支配するもの、されるものが、存在できないといっています。すべてが自己であるとき、支配すべき他者は存在しません。

>> 宇宙そのものの性質としての、絶対的な平等です。

>宇宙の本質として『絶対平等(かつ絶対差別(しゃべつ))』であるならば、なぜ、此の世は相争うような苦しみに満ちているのでしょうか?

簡単です。この文章を読んでいる主体があると思い込んでいるからです。その主体があれば、つまり、読んでいる、気づいている主体があれば、わたしという主体があれば、他者が存在します。他者があれば、かならず、争いが生まれます。

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この記事へのコメント

2019年06月11日 02:01
悟った人は、共同社会感情、共感力を持ち合わせてるでしょうね。

他者と自己がつながってるとわかるのですから。
2019年06月11日 02:03
非暴力とは全てがつながってるという認識の結果ですね。

2019年06月11日 02:20
孔子がなぜあんなに親孝行を説いたかというと、自己イメージは親によって形成されるからだと思います。

悪人と善人は、環境、親などの賞罰によって決まっていくものであると思います。

孔子は、親を敬うということを通じて、自我が消え、阿頼耶識を知ることになると知ってたのだと思います。


自分の親兄弟の問題を自分のことのように感じられる人は、その共感力をほかの他者にももてるでしょう。

このようにして人は、阿頼耶識の、共同社会感情に達するでしょう。
蓮風
2019年06月11日 07:00
> その感覚を感じている主体を探すと、そこにはなにもありません。

見つからないようでいて、「気づき」はあるのだから、「気づき」自体と不可分な主体が居て、探索に失敗しているだけでは?


> つまり、過去の経験から作り上げたものを自己イメージと呼んでいます。

その「過去の経験」という条件付けの集合を、自己イメージと呼ぶとして、それは人間的な属性だけでなく、物や事象についての知識も(やはり条件付けとして)含まれるので、わたしは、日常生活のいろんな場面で、「自己イメージが(比較の基礎として)呼び出される」と申しております。
これは私の、いささか特殊な境遇がそうさせているのかも知れません。


> すべてが自己であるとき、支配すべき他者は存在しません。

此処に愚さんの主張の欠陥があるかと。
愚さんの側からは、そのような主観を持つのは、べつに仕方がありません。でも、他者の側からは「そんなのイヤだ」と拒絶されるでしょう。「あなたはわたしではない」と。

このとき、面白い現象が起きていませんか?
誤解しているのは、どちらでしょう?


> 簡単です。この文章を読んでいる主体があると思い込んでいるからです。その主体があれば、つまり、読んでいる、気づいている主体があれば、わたしという主体があれば、他者が存在します。他者があれば、かならず、争いが生まれます。

上のコメントの答えが実質的にこれだと仰りたいんでしょう。
でも、こちらのコメントの方が通例であり、本質です。

そして、個々に主体があって、そのあいだで利害を調整しながら、相互相生的な社会をなんとかして作り出そうと、漸進的な努力をしてきたのが人類です。

愚さんの主張は、それを壊すのでは?
蓮風
2019年06月11日 07:04
> vaamana 氏

貴殿の主張を観察していると、「覚者には共感能力がある」から「なんでも【無法】を認める」と論理の飛躍がある訳ですが、それは自覚なさってますか?

「共感能力がある」ことと「法や摂理に対しての姿勢」は別次元のことですが。

その「【無法】へのルーズさ」が、さらなる被害者を産みかねないのは、もちろん承知なさっていますよね?

以前の質問ですが、貴殿のいうところの「覚者」は、どんな悪事を働いてきたのですか? わたしには、それが「無思慮」に見えますが。
2019年06月11日 09:29
仏弟子の中でもっとも速やかに悟ったのは、アングリマーラでした。

またマグダラのマリアは、イエスの優れた弟子でした。

犯罪気質の人はエネルギッシュで、いったん、そのエネルギーが、悟りのほうに向くとすさまじい進歩を遂げることがあります。
蓮風
2019年06月11日 09:36
アングリマーラは、ニセの師匠に騙されて大量殺人をしました。しかも、釈迦に出会ってからは改心してますよね。

でも、マグダラのマリアが娼婦というのは過去の伝説で、近年の説では、実は富豪の娘であった、となっているとか。

それらはともかく、なぜ vaamana さんは犯罪へ惹かれる部分が大きいのか、そこが疑問です。もしかして、自己正当化のために過去の「犯罪者」を利用しているのでは?


taka ちゃんという人が過去に居ましたが、彼とそっくりのロジックです。過大であることを好む性向が。taka ちゃんは此の世の摂理というものを軽視しすぎな、自己中心的な人でした。オウムから脱却できたのかな?
2019年06月11日 09:36
自由とは調和のことなのです。

自由に達した人は調和がとれており、何をやってもいいというのを知っているがゆえに、適した調和したことしかしないのです。

ところが、悟りの手前で、思考が少し残ってると、文字通り何をやってもいいという風に自由を解釈してしまう。

竜樹が、悟る前は、性犯罪者だったことや、仏陀が、快楽と苦行の極端を実行したことが具体例として挙げられます。
2019年06月11日 09:40
悟りへのスケベ根性がある人は最も悟れないタイプだ。

何らかの境地や能力を達成したいというのは不純な願望だからだ。

人生で徹底的に苦しんできたような人はスケベ根性が少ない。
そういう人が道に入れば進歩する。
蓮風
2019年06月11日 09:42
> 自由とは調和のことなのです。
> 自由に達した人は調和がとれており、何をやってもいいというのを知っているがゆえに、適した調和したことしかしないのです。

それを、私は「摂理を理解している」と読んでいる訳です。
また、その理解には、実際の極端な行為(e.g. 犯罪)は必要ありません。知識として理解できれば十分なのです。

そういえば、taka ちゃんの別ハンドルかブログのアカウント名が vaamana だった気がしてきましたが、誤解でしょうか?

貴殿は、自説を強硬に主張しないと気が済まない訳で、悟りとはほど遠い地点にいらっしゃるようですね?
蓮風
2019年06月11日 09:44
> 悟りへのスケベ根性がある人は最も悟れないタイプだ。
> 何らかの境地や能力を達成したいというのは不純な願望だからだ。
> 人生で徹底的に苦しんできたような人はスケベ根性が少ない。
そういう人が道に入れば進歩する。

自己告白ですか………。


ちなみに、私は悟りを求めていません。
蓮風
2019年06月11日 09:46
過去の悟道者のなかに一部、犯罪歴があるからといって、悟りに犯罪歴は必須ではありません。むしろ不要です。

そういう曲解を推し進めなければならないところに、vaamana 氏の症状を見ます。
蓮風
2019年06月11日 09:48
taka ちゃんの過去の主張に、「極端を体験しなければ中庸に達せない」というものがありました。

バカかなあ?
極端は極端、知識として知れば充分。
中庸は中庸、実践しなければ意味がない。

vaamana 氏の主張は、taka ちゃんにそっくりですね?
2019年06月11日 10:23
闇を体験してない人に救済の手助けなどできないよ。
2019年06月11日 10:40
性について知識があっても体験がなければ、童貞といわれ蔑まれる。

闇とカオスについて知識があっても、闇とカオスを体験してないと、悟ってない、自分で自分を生むという二度生まれを体験してないとみなされる。
蓮風
2019年06月11日 11:08
まず、救済とはなんたるか、という問題。
そして、救済をする必要があるのか、という問題。
救済をしようとして傷つけていないか、という問題。

そして、わたしが闇を体験していない、という貴殿の誤読。

結局、貴殿が taka ちゃんだとしたら、20年も経って未だに進歩が見られないのか、つまり、闇を体験してようが、していまいが、貴殿は他人を「救おうとするから救えない」、気の毒な今生なのね、という慨嘆。

オウム的自家撞着を辞められてない訳ね?
蓮風
2019年06月11日 11:10
> taka ちゃん(もし、そうだとしたら)

弟さん、大丈夫?
貴方のエゴの発露のために、弟さんの人生がある訳ではないよ?
あと、わたしはいまでは弟さんと同じ病気のレッテルを貼られている。君なんかにはとても想像できない体験をともなう半生を送ってきた。
2019年06月11日 12:26
別人です。
蓮風
2019年06月11日 13:14
> vaamana 氏

そうですか、それは失礼しました。
ただし、主張は瓜二つですね。
蓮風
2019年06月11日 13:15
> 愚さん

『わたしはあなたである』と貴方は主張します。
では、わたし(蓮風)の行動を言い当ててください。
わたしの身体を構成する原子のうちのひとつの、電子軌道を把握するよりは簡単では? もし、『わたしはあなたである』のならば。
2019年06月11日 15:26
>主張は瓜二つですね。

多分詳しく見ると違う。
2019年06月11日 15:35
悟りの前に起こる享楽的な状態は、一瞬、利己的に見えるが、価値観の模索の結果生じてるもので、あり、利己的で反抗的な自由の追求ではない。

人間の人生の目的は5つある

知識 肉欲
自由 安全
幸福 愛情
義務 責任
安らぎ 自由

利己的で反抗的な自由は第二段階で追求される。
それは、個人の安心や安全に帰結する。

安心や安全と、安らぎは違う。
反抗的な自由と、調和した自由は違う。

調和した自由は、二元性がない。

何をやってもいいとわかるからこそ適したことをやる。

しかし、4段階と5段階の間で、一見、二段階の利己的自由に堕したように見えることがあるが別物である。
蓮風
2019年06月11日 16:15
> vaamana 氏

どこで仕入れてきた知識でらっしゃいますか?
御自分で体得された様子には見えませんが。
2019年06月11日 18:19

ヒンズー教や心理学や、秘教哲学を学びました。

実体験も交えて語ってます。
2019年06月11日 18:30
知識の達成 霊的年齢14歳
自由の達成 霊的年齢21歳
幸福の達成 霊的年齢28歳
義務の達成 霊的年齢35歳
安らぎの達成 霊的年齢42歳

宇宙意識  49歳
絶対意識  63歳


象徴的に、人間の年齢と進化段階は関係している。

心理学者によると平均人類の精神年齢は、10歳くらい。

多くの人は肉欲の段階にあることを意味している。
蓮風
2019年06月11日 19:20
ちなみに心理学は、どの分野を?
あと、秘教哲学とは一体なんですか?
どの秘教の哲学ですか?

実体験が部分的に混ざっているのは、程度問題でしょうね……。
蓮風
2019年06月11日 19:24
気になって taka ちゃんの消息を十年ぶりくらいに検索して見たら……あ~~あ。
蓮風
2019年06月11日 19:42
taka ちゃんの大昔のサイト、御本山か別院か忘れたけど “vaamana” っていうアカウント名だった気がするんだけどなあ~~~?
2019年06月11日 20:37
秘教哲学とは、ブラヴァツキー アリスベイリー、ベンジャミンクレームなどを通じて紹介された不朽の知恵の教えのことです。

心理学は、特にニーチェ、フロイト、ラカンを。
ユング、コールバーグ、マズローなども。
蓮風
2019年06月12日 06:54
「オカルト哲学」という、存在するかどうかアヤシいものを古い謂い方で「秘教哲学」と仰っていたのですね。
そして、シェア・インターナショナル。
さらにはしつこく、自 HP への誘導リンク。

勧誘のおつもりだったんでしょうか?
ムリだと思いますけど……。

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