自己イメージ

>暗黙裏に前提になっているものが間違ってると思うんですよね。

・自己イメージを解消することができる
・自己イメージを持った人々は苦痛に直面していない

なんで、上記 2 点を言明することができるのですか?
わたしは先ず、自己イメージを解消・払拭できる、と思い込む方が欺瞞だと思ってます。

それと、自己イメージを持っている人々でも、苦しみに直面して、どのようにしようか悩み苦しみ、暗中模索しているのだと思います。
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自己イメージは解消できるからです。というより、日常は自己イメージをもっていないんです。この文章を読んでいるとき、自己イメージがありますか?そんなもの、頭が作り上げた架空のものだからです。

ただ、自己イメージがないとハッキリわかるには、悟りがいります。悟らなくても、頭で、自己イメージは架空だとわかれば、それなりに対処できます。

自己イメージが働けば、苦しみは避けられません。そこで、自己イメージをもったままで、解決しようとするのですが、それはたまたまうまくいくこともありますが、苦しみのやむことはないです。これを洞察して、自己イメージなしに、苦しみに直面して、すぐに苦しみを終わらせるべきだといっています。それは、苦しみそのものになることを意味しています。それが直面することです。

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>愚さんの『あなたはわたしです(わたしはあなたです)』言説の背後にあるのは、「一者的世界観」で、「自分側からの」認識は重要視するものの、「他者側からの」認識の受容がおろそかになっているのでは、という危惧が(個人的に)増しています。

あなたはわたしです、ということがわかれば、世界はわたしひとりのものです。どうように、太郎も太郎ひとりの世界に、花子は花子だけの世界に生きていることがわかります。ですから、わたしは、太郎や花子の一部になります。

なんの矛盾も不平等もありません。
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>それでは「社会を構成できないのではないか?」、つまり、実際には社会は存在するのに、認識が歪んでいるので、社会的問題を引き起こすのではないか、と考えるようになりました。如何?

上記のことに気が付けば、他者もすべて、世界一杯の存在とわかります。この時、初めて、人々の尊厳が生まれます。押し付けられた、人権だ、平等でなければならない、ああだこうだなどという、バカバカしいものではありません。宇宙そのものの性質としての、絶対的な平等です。ひとがひとを支配し利用する社会の終焉です。助け合う社会です。早い話が、天国、極楽です。

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この記事へのコメント

蓮風
2019年06月10日 07:34
> ただ、自己イメージがないとハッキリわかるには、悟りがいります。

では、この文章を書いているときに「気付いている」主体は誰ですか? それこそを通常、『自己イメージ』と呼ぶのではないですか?

> なんの矛盾も不平等もありません。

「相互支配」と仰ってますか?
そうでなければ、見事な矛盾になっていると思います。通常、支配/被支配の関係は一方的なものであり、双方向的ではない、と理解されるからです。

> 宇宙そのものの性質としての、絶対的な平等です。

宇宙の本質として『絶対平等(かつ絶対差別(しゃべつ))』であるならば、なぜ、此の世は相争うような苦しみに満ちているのでしょうか?
宇宙
2019年06月10日 16:42
よこからレスごめんなさい。
瞑想をして眺めていると自己のイメージが空虚なもので一時的にに立ち上がり、その際のモジュールが意識の座に優先的に登って来たことに過ぎないとわかるときがあります。
瞑想、坐禅を繰り返すうちにいつかイメージはイメージ、いっときのショートムービーに過ぎないとわかってくるものなのでしょうか。
蓮風
2019年06月10日 17:02
宇宙さん、どうも。

「自己イメージ」の定義によるんでしょうが、個人的には、「なにかと照らし合わせるときの比較基準」のように捉えています。

たしかに坐禅などをしていて三昧に入ったとき、「自己イメージ」は消えます。わたしでもそうです。ですが、日常生活では、ほぼ消えることなく、外界との比較に顔を出してくる感じです。

それで「消えている時間」「自覚していない時間」があるから、空性で、本来存在しない、というのが愚さんの主張な訳です。ですが、それは短絡的議論ではないか、と私は此処で疑義を呈してます。

現象として機能していて、それがどうやら『人類そのものの存続と進化』に寄与してきたものである、と思われるのならば、それを一概に「空だから」と否定できないであろうと。

そういったことを前提にして、このあいだの「事件」のようなことを極力、未然に防ぎながら社会を運営していくには、K や愚さんと違う手法が必要なのでは?と考え始めています。

愚さんの主張は、ある観点から見れば根本的でしょう。
でも、万人を説得して、多くの人の人生を改善させるには難易度が高すぎる。そのように見えるように変化しました。

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