登戸事件

登戸事件

議論になったようですが・・・・・
もちろん無茶苦茶な事件なんですが、犯人の背景を聞くと、かなり精神的に過酷な状態に置かれていたようです。

思い出すのは、永山則夫です。連続ピストル殺人事件を起こして、死刑になりました。遠藤誠さんが弁護人をやっていたので、その関係で、かれの本も読みました。

覚えているのは、遠藤さんが、「かれは子供の時、捨てられて、まわりが敵ばっかりなんでオオカミのようになっちゃった」といった感じのことを言っていたことです。

子どもにとって、セキュリティは絶対的に重要です。というのは、セキュリティがないと、脳が正しく機能できないからです。人間はそもそもから、安心を必要としています。

今回の事件も、犯人は幼少期に傷つけられていたであろうことが推測できます。傷つけれたものは、発散されねばなりません。それが、外的に向かえば、他者や社会への攻撃性に、内的に向かえば、自虐性になります。

彼を傷つけたであろう回りの人たちもいると思いますが、彼らがどうしてそうしたかといえば、やはり彼らも傷ついてきたからだと推測されます。つまり、傷はあらたな傷を作るんです。傷が残酷さを引き起こします。

この連鎖を断たねばなりません。脳が正しく機能し、人にも自分にも攻撃しないようにしなければなりません。

答えは簡単です。自分が傷つかなければいいんです。無垢(イノセント)とは、もともと傷つかない、という意味だそうです。バカといわれても、社会的ないじめにあっても、なにが起きても、あ、そうか、と流せればいいわけです。

バカといわれれば、あ、そうか、いじめにあえば、いじめられたな、そのまま流してしまう。

つまり、自己イメージを持っている限り、それは傷つき、そして、発散されていきます。ですから、自己イメージを持たずに生きることができるか、ということになります。

それはいったん、自己の過去、それを全部捨てちゃうことを意味します。経験、生い立ち、学歴、職歴、家族、そういったものを心理的に捨ててしまう。自分のよって立つものを捨ててしまうわけです。

これをいったん,やってみるわけです。実験的にやってみるわけです。そうするとNOBODYです。

傷つきようがありません。だって、傷つくものがないんですから・・・・そして、再び、過去の経験やその他を、改めて、必要に応じてまとえばいいわけです。

過去の経験とか、わたしたちを支えてくれているように見えるので、大事に感じます。過去を非難されると、腹を立てたりします。しかし、そうじゃないんで、それらはただの衣服にすぎません。過去なんかどうでもいいんです、大事なのは本体ですから。

そして、本体はNOBODYです。

脳は傷つきません。問題はまいにち押し寄せてきます。それに対処していくだけのことです。過去の経験とか知識とか、ここで生かせばいいわけです。傷ついて思い悩むことはありません。

一方、通常は、傷ついてしまったところからわたしたちは始まるわけですが、それは癒されなければなりません。

自らにも、他にも、発散しないのです。自分で癒します。丁寧に傷を見ます。そして、あたかも子供を抱くかのように、あたたかくその傷をいたわります。苦痛があるかもしれませんが、かまいません。

身体には、癒す力がそなわっています。だから、大丈夫なんです。とにかく、バタバタしなければいいわけです。お祈りでも坐禅でもいいです。

ですから、この事件で、こう思います。ひとがひとを傷つけない社会をつくること、そのためには、自分が傷つかなること。その為には、自分の傷をいやすこと。

これは正気で理にかなっていると思うのですが・・・・・




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この記事へのコメント

カムイ
2019年06月08日 05:20
おはようございます。
これ、各自が理屈だけでも理解するだけでもすんごい大変ですね。
カムイ
2019年06月08日 05:26
この傷の連鎖が悪因縁ですかね。
2019年06月08日 16:22
真の自己というのは絶対に傷つかないですね。
蓮風
2019年06月08日 16:47
傷の連鎖について。
ここでの愚さんの言説を要約してみます。
・傷は治せる
・自己イメージを持っているから傷つく
・自己イメージを捨てれば傷つかない
・傷を自覚すると、身体が自ずと治してくれる


ですが、これらを裏付けているものは愚さんの個人的な体験のみです。これは一般性に乏しいのではないでしょうか? また、上記の主旨で説得しても、万人には通用しないのではないでしょうか?

被害者はさらなる被害者を再生産する、は私の持論です。今回の、登戸事件に限りませんが、このようなことが起こるのは必然だから抑止策を、といった観点で、以前から、社会的な事象に対する禅の姿勢を問うてきました。

ですが、愚さんは云いました。
> ですから、この事件で、こう思います。ひとがひとを傷つけない社会をつくること、そのためには、自分が傷つかなること。その為には、自分の傷をいやすこと。

これでは極論であって、実践性に乏しいのでは?
宇宙
2019年06月08日 18:36
愚さんの通りだと思います。
結局のところわたしはわたしに何を成し得るか。評論家になっても社会は変わりません。
わたしがわたしにしか責任はもてないわけですから。わたしと他者との関わりの中でしか、わたしにできることはないわけです。
わたしが傷つかず、慈悲心を育てていくこと
日々の身近な人に優しく接していくこと
わたしはそれを大事にしたいとおもいます。
東 行
2019年06月08日 22:19
偏屈じじぃがまた書き込みます。広義の意味では私も理不尽な形で肉親を亡くした遺族です。ですから、必ず私は被害者・遺族側に立ちます。(もう書いたっけ?)理屈じゃないのです。

「ひとがひとを傷つけない社会をつくること、そのためには、自分が傷つかなること。その為には、自分の傷をいやすこと。」・・頭では何となくわかりますよ。でも、どうしようもない犯人への怒り、憎しみそして悲しみ、が心からく湧き上がってくる。自分の体験が蘇っちゃうんですよ。

そんなー時代もあーたねと♫とはいかないのです。

今回は蓮風氏の「実践性に乏しい」に一票。

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