三位一体・・・キリスト教

キリスト教の、三位一体というのが、よくわからなかったのですが、理解できたと思うので・・・・・

なんとなく、神=父、キリスト=子というのは、わかる気がしたのですが、聖霊というのがわからなかった。
神、聖霊、キリストというが、ひとつだというのが、三位一体の主張なんでしょうが・・・

これは、仏教でいうと、体、相、用の三つと似ています。

順番はどうでもいいのですが、まず、宇宙から始めます。

宇宙を神と呼んでもいいことにします。宇宙が、そのまま具現化したのがキリストです。山も川もわたしたちそれぞれも宇宙が具現化した姿ではありますが、山や川は意識をもたないし、われわれは自我=エゴで汚染されているため、素直に具現化されていません。歪曲があります。

その歪曲がなく具現化されたものがキリストです。キリストは宇宙がそのまま具現化されていますから、有限の命ではありません。宇宙の命と一緒です。宇宙=キリストです。仏教でいえば、久遠実成の仏、となります。大日如来でもいいです。

ここまでで、十分じゃないかな、と思っていたのですが・・・・つまり、聖霊がなぜ必要なのかわからなかったのですが・・・・精霊というのは、エネルギーのイメージです。日常的には、寝たり、起きたり、泣いたり、笑ったり、考えたり、この文章を書いたりしているエネルギーです。

このエネルギーは、ビッグバン以来、宇宙に充満しています。それが証拠に、そのエネルギーを使って、みなさんはこの文章を読んでいます。

聖霊がないと、動きがないわけです。

宇宙はキリストと接触します。キリストが宇宙と接触するといってもいいです。すると、キリストは神の部下となります。それは葉っぱが、木の一部となって、光合成をして、木を具現化するのと似ています。葉っぱは木から切り離せません。ですから、葉っぱ=木といってもいいし、葉っぱは木の部下だといってもいいわけです。

宇宙がキリストと接触した時に、宇宙の本質が現れます。それが愛です。仏教でいえば慈悲です。

この愛の働きは、聖霊のエネルギーによって、具現化されます。したがって、聖霊に愛があるといってもいいです。宇宙は愛で充満しているといってもいいです。

聖書とかほとんど読んでませんが、これでキリスト教は説明がつくんじゃないかなと思っています。

仏教の・・・・・禅でしか使わないのかもしれませんが・・・・体、相、用、というのは、例として、自分自身から始めます。

わたしの本質は宇宙です・・・・・というのは、例えば、わたしと私以外の物に厳密な境界は存在しえないからです。
この宇宙が体です。

一方、その宇宙はわたしという身体を通じて現れています。このわたしの身体が相です。

わたしは、行動します。これが用です。

公案でいうと、こんな感じになります。記憶で書いているので、間違っているかもしれません。

千尺井底(せいてい)のガマを、寸糸なしで、釣れ、という公案があります。

つまり、無茶苦茶深い井戸の底にガマガエルがいるので、それを、釣り糸なしで釣って来いというものです。

ここでガマの、体、相、用を見ます。

相は簡単です。ガマの姿そのものです。

用も簡単です。ガマが四つん這いで、ガーガー鳴いているところです。

体は、こんな問答があります。

禅師・・・・・・おい、お前・・・・
弟子・・・・・・はい、なんでしょうか?
禅師・・・・・・ガマは、井戸から出て、ここにいるではないか

ヨハネの福音書で、有名な

始めに言葉があった、言葉は神とともにあった、言葉は神であった・・・・等々なわけですが・・・

言葉というのは、仏教でいえば、仏性の感じですね。
仏とか、無字といってもいいかもしれませんが・・・・

それが宇宙を作って、わたしたちを生かしているわけですが、なかなかそのことに気が付かないということでしょう。

キリスト教神学とかなにも知らないのですが、真理に普遍性があるとすれば、おなじことにぶつかるはずです。

聖書から、その真理を読み込もうというのは結構大変じゃないかと思います。それは、ちょうど、法華経から真理を見出すというようなものです。まあ、日蓮宗とか創価学会とか、そういう流れなんでしょうが・・・・

キリスト教の枠組みのなかで、表現するのは結構たいへんだったんじゃないかと想像します。仏教は、背景にインド哲学があるんで、この点は洗練されているんじゃないかとは思いますが・・・・

アウグスティヌスも、「すべての聖典が無駄である」ことを体得した、と本には書いてありますが、結局、あらゆるものは無駄なんですが、その本質を明らかにするために、抽象化の限界のひとつが、三位一体だと思います。


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この記事へのコメント

2019年06月13日 01:22
ヒンズーのブラフマ ヴィシュヌ シヴァも同じですね。

私は、絶対意識 父 シヴァ   フリダヤ識
   宇宙意識 子 ヴィシュヌ アマラ識
   普遍的無意識 聖霊 ブラフマ 阿頼耶識

と解釈しています。

この三者は結局のところ、唯一なる神に溶解します。
蓮風
2019年06月13日 09:18
聖書には『はじめに言葉ありき』とあります。
原典に近い聖書(原典自体は存在しないです。アラム語の口承だった可能性があります。というより聖書というものは数百年の編集によって成立した歴史的文書です)はコイネー・ギリシア語で書かれているそうですが、「言葉」には「ロゴス(logos)」とルビが振ってある古い翻訳があります。Logos は logic つまり論理のことです。法則でも良いでしょう。つまり Dharma です。

体・相・用の一致を三位一体に比するのは、まあ、分かっている人はそのアナロジーで理解するでしょうね……。
地球人
2019年06月13日 14:13
神と仏の相違は神は万物の創造主であるが、仏は創造主ではありません。まあ、神も仏も人の想像の産物ですが・・
地球人
2019年06月13日 14:57
神、仏、神性、仏性、聖霊、霊魂・・は想像の観念であり実体が無い。
2019年06月13日 21:28
>「言葉」には「ロゴス(logos)」とルビが振ってある古い翻訳があります。Logos は logic つまり論理のことです。法則でも良いでしょう。つまり Dharma です。

そうだと思います。宇宙の法則、ダルマ、仏法、仏性、そういうイメージのものですね
イエスとブッダ
2019年06月14日 07:55
>聖霊に愛があるといってもいいです。宇宙は愛で充満しているといってもいいです。

三位一体における聖霊についていえば、父と子を一つにしている働きのことです。その働きとして宇宙があるので、宇宙は愛で充満している。ここまでは、禅その他、普遍宗教として古今東西同じようなことが言われている。ここまでで十分過ぎるともいえます。

ただ、キリスト教の特殊性があるとすれば、父と子を一つにする聖霊のエネルギーが、イエスにおいて神と人間が一つになることに同様に使用されたこと。父と子は元々一つなので、今さら改めて神であるイエスが父と一つになっても無意味。眼目は神と人間が一つになることにあります。イエスにおいて聖霊という一つにくっつけるエネルギーが働いたのは、すべての人間を神と一つにするためです。
水月
2019年06月14日 14:13
私は、三位一体の三つの位格について、こんな感じがしています。

『それ自体としてあるもの(存在)=事実』としてしか把握できないもの、表現することができないもの
・・・すなわち、超人間性的(=超人間力的)存在が、中心(真ん中の?)の第一。

知性面で把握され、知性で表現される側面が第二。
金剛界ってこれではないでしょうか。
智慧の世界。

感性で把握され、感性で表現される側面が第三。
胎蔵界ってこれではないでしょうか。
慈悲・神の愛の世界。
水月
2019年06月14日 14:27
追加。

第一は、有り様というか、存在そのもの、事実そのものとして、把握し、表現するということは、ギリギリできるといえばできるし、
もっとも、それは禅的な文化に過ぎず、こんなことを付け加えるべきではない、という感じもします。

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