瞑想、坐禅

>よこからレスごめんなさい。
瞑想をして眺めていると自己のイメージが空虚なもので一時的にに立ち上がり、その際のモジュールが意識の座に優先的に登って来たことに過ぎないとわかるときがあります。
瞑想、坐禅を繰り返すうちにいつかイメージはイメージ、いっときのショートムービーに過ぎないとわかってくるものなのでしょうか。

個人的なものなので、一般的にあてはめられるかどうか不明ですし、また、さまざまな表現のしかたがあると思いますが・・・・わたしの坐禅のプロセスについてはこんなイメージです。

坐禅をすれば、考え、思考があることに気づきます・・・・これが大事です、日常では、このことに気づきません。

只管打坐だと、その思考を手を加えずに見ていく、無字の公案だと、ムー!と思考を切っていくわけです。

このとき、見ている自分、切っていく自分、があるわけです。

ただ、いずれにせよ、その自分は、起きている思考に、無関係です。つまり、自分と思考が関係していません・・・これが次のポイントです。

そうすると、思考がだんだん静かになっていきます。収まっていきます。このとき、当然ながら、見ている自分、切っている自分も弱まっていきます。

また、思考自体が、勝手に因縁で生まれたり、消えて行ったりすることに気づいてくるので、つまり、ショートムービーに過ぎないとわかってくるので、思考に巻き込まれにくくなってきます。

そして、知らないうちに・・・・つまり、気づかないうちに・・・・・自分がない、という状態になっています。これが狭い意味でいう三昧です。サマーディです。沈黙でもいいです。

ここで、なにかの拍子で、意識が戻ります。そのとき、自己の不在に気づくわけです。このとき、一瞬にして、アイデンティティが拡大します。束縛から解放されるので、歓喜を伴ったりもしたりします。

その気づきのしかたや、程度については、ひとそれぞれなので、以上は、あくまでも参考です。

坐禅してるときは、そんなプロセスには気が付きませんし、それでいいんです。ですから、自分の状態に興味をもつのは好ましくありません。すべきことは、ただ、坐禅の力を信じることです。






ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

カムイ
2019年06月11日 00:38
ひと息、ひと息
カムイ
2019年06月11日 00:46
イマーーー!
2019年06月11日 01:54
悟りへの道は、全体vs自分、海vs水滴だと思います。

悟ってない状態では、自分だけが間違ってることに気づけないのです。
カムイ
2019年06月11日 02:29
悟りとは前後分断して「今」の自覚。
地球人
2019年06月11日 09:30
困りました。苦笑
坐禅依存症になってしまって、時間が有れば坐禅してます。他に遣りたいことが何一つありません。
地球人
2019年06月12日 20:30
忘れていた遠い過去の嫌な記憶が蘇る。
こんなこともあります。
坐禅・瞑想は寂静だけではありません。
宇宙
2019年06月15日 19:16
坐禅のチカラを信ずる。良い言葉ですね。
ありがとうございます。
最近ひまがあれば座ってます。前より思考は弱まってきました。

この記事へのトラックバック